侘助の女 【吾妻橋の文吉留書】四
「降り終いの雪」から呼んでいただくと主人公のキャラクターがよくわかると思います。
雁の群れが半分雲に覆われた月の光を遮るようにして飛んで行った。
「鳥目だってェのに、夜中でも飛べるのかい?」
須崎村にある長命寺横の土手で、釣り糸を垂らした浅吉は冴え冴えとする夜空を見上げた。向島と呼ばれるこの辺りは、春になれば桜の名所「墨堤の桜」を抱えており花見で賑うが、今はまだ風を切る木立の音しか聞こえない。
大欠伸をする浅吉の肩に顎をのせた夜鷹が艶っぽく彼の袖を引く。
どこから流れて来たのか、この辺りでは初めて見る女だった。
「夜しか出てこない鳥だっているじゃないか」
「おめぇのことかい? 本当だ、昼に夜鷹は出てこねぇ」
煮え切らない客に焦れた女は、傍らに置かれた魚籠を覗いた。
「釣れるまで待てって、いい加減にしなよ。小鮒一匹釣れちゃいないじゃないか。餌、ついてないんじゃないのかい?」
口を尖らせて魚籠をぞんざいに扱う夜鷹の横顔が粋に見える。小股の切れあがったとはこの女のことかもしれないと浅吉は思った。こんな所で客を引くことがそぐわない器量にあれこれ身元を詮索したい欲求に駆られたが、浅吉にはそれを口に出すことができない気の弱さがあった。
「馬鹿野郎、己いらが釣りてぇのは鯉だ。鮒なんぞもう何匹川に帰してやったかわかりゃしねぇ。待ちなって、ここで釣れなきゃ、朝飯のおかずがなくなっちまう。大川に 通って 馴染みの 鯉ができ ってね。」
「なんだろね、いつも餌だけ取られけり、じゃないのかい。寒いよ、とっととやっちまおうよ。ねぇ、旦那」
鼻から抜けるような甘い声を出して夜鷹が大袈裟に身震いして見せた。
「もう少し待ちな。待てねぇんだったら他をあたりな」
「この寒空で旦那以外に釣りなんかしてる物好きはいないよ」
焦らすつもりはないが、浅吉は外ですることがあまり好きではないのだ。暗いとはいえ誰に見られるか判らない所で尻を晒す恥ずかしさに耐えられない。加えて密事は四隅天井がしっかり塞がれた所でなければ、のめり込めないのだ。三十を少し超えたばかりで独り身の浅吉がことに及ぶのは、深川の岡場所がもっぱらであった。
だから毅然と断っても良さそうなものだが、隣で肌を寄せる女の怪しい色香が浅吉の後ろ足を踏ませている。
奥の手だと笑って、その若い夜鷹が浅吉の股間に慣れない手を伸ばしてきた。
「おや、嘘吐きだねぇ。こんなに元気じゃないか。あんた、いい男だから花代二十文でいいよ。安いだろ? 贔屓にしとくれ、ね」
「四文負けてくれたのかい。その分手を抜いちゃ承知しねぇぞ」
観念した浅吉が淫らな笑いを夜鷹に返して竿を上げた時だった。
声の限りを張り上げた女の悲鳴が浅吉の両耳に飛び込んだ。
浅吉の男の部分が委縮するほど身の毛のよだつ絶叫であった。だいぶ年配のようだ。
「……お稲荷さんの方からだね」
昼間だったら聞こえなかったかもしれない遠くの叫びを夜の静寂がすぐ隣まで呼び寄せたに違いない。
浅吉は思わず夜鷹の口を手で塞いで、三圍稲荷の方向を窺った。
人を殴るこもった音や怒鳴っている男の声も聞こえたが、聞き取れない。男は何人かいるらしい。
思わず身を隠した浅吉は女と顔を見合わせた。浅吉の両袖を掴んだ夜鷹の手が震えている。
「旦那、膝が震えてるよ。あちきの足に当たって痛いんだよっ」
「シッ、大きな声、出すんじゃねぇ」
夜鷹がはっとして口を押さえた。そして足元に転げている提灯を拾い上げてすぐに火を吹き消した。
「しっかりおしよ、あんた男だろ!」
そう小声で口早に言うと女は浅吉の胸に隠れるように顔を押し付けてきた。
「何にも聞こえねぇ、何にも見えねぇ! 真っ暗だ」
浅吉は、念仏のように何度も呟きながら細身の夜鷹の体を力まかせに抱き締めた。
だが、老女の方も激しく抵抗している様子が川風に乗り浅吉の耳まで届いた。それが火に油を注ぐ結果を招いているのがわかる。
闇の中で、怒声に負けない叫びが何かを必死に訴えているようで、いつとは知らず浅吉と夜鷹は逃げ出したい気持とは裏腹に、その声のする方へ吸い寄せられて行った。老女の振り絞った声に惹きつける力があったのか、怖いもの見たさなのかはわからない。
三圍稲荷の境内で四・五人の黒い影が月明かりに動いているのが見えたが顔が見える所まで近寄る勇気はなかった。社の陰に身を潜めて女の持っていた茣蓙を被り、植込みの枝の隙間から成り行きを見守った。
浅吉は助けに行けない自分の臆病さが歯がゆかった。まして暗くてよく見えないが屈強そうな男達だ。物腰がまるで堅気には見えない。
夜鷹がきつく浅吉の腕を掴んで離さないでいる。その手のおかげで助けに出ることができない罪悪感が薄らいだ。
初対面の夜鷹であったが恐怖を共有したせいで、昔からの知り合いでいたような錯覚を覚えた。
「途中で息を吹き返すようなドジは踏むんじゃねぇぞ」
しゃがれた低い男の声がした。浅吉の背中を粟立たせ、腰から力を抜きとってしまう冷たい響きであった。
「抜かりはありやせんって」
吊り下げるように首を絞めていた大男が手を外すと崩れるように人が地面に転がった。
「もうすっかり息の根は停まったみてぇですぜ」
「いいだろう、川に放り込んじまいな。いいか、溺れたように見せかけるんだぜ。仰向けに流せよ。男の土左衛門はうつ伏せだが、女は仰向けが相場と決まってる」
「男は股に錘がぶら下がっているからですかい?」
「そうよ。女は乳が浮きになる」
「婆ァでもですかい?」
男達の淫らな笑い声がおぞましく、浅吉は思わず両手に力を込めて耳を塞いだ。
しばらくして人が川に投げ込まれる音だけを聞いた。
「水に流すったぁこのことだな」
虚勢を張った空笑いが耳元に届く。浅吉の身が縮むほど冷たく落ち着いた笑い声だった。
「足がつくようなもん落としてねぇかよっく見ろ! 今大事な時だ。十手持ちにうろうろされたくねぇ」
「合点でさぁ、提灯両手に持ってッと……」
親方と呼ばれている男の指図に年若の男が即興の唄で答えて、境内を方々歩き回っている。ぼんやりした灯が浅吉等の被っている茣蓙の端をスーッと通り過ぎた。
「何にも落ちゃいやせん。それにお稲荷さんの他は誰にも見られちゃいねぇようだ。心配ねぇですぜ。万一この暗がりで殺しを見ている奴がいたら、きちんと捜し出して、始末しちまいますよ、親方」
月が雲に隠れた闇に浅吉は助けられたようだ。
――捜し出して、始末しちまいますよ
調子者らしい若い男の言った無責任な台詞がいつまでも浅吉の耳から離れない。
浅吉は夜鷹の女ときつく抱き合ったまま、彼等が戻ってくるかもしれないという不安に苛まれて、夜が明けてもしばらくその場で息を殺し続けた。
ついに浅吉が覚悟を決めて立ちあがろうとすると、強い力で女がしがみついてきた。
「あちきを置いて行かないでくれよ。独りになりたくないんだ」
女の体の震えが浅吉に同調して共振した。
浅吉は短くため息を吐くと、汗で湿った夜鷹の肩に手を掛けて体を離した。
「己いら、隅田村に住む指物師の浅吉っていうんだ。うまい具合かどうかわからねぇが独り者だ。己いらン家に来るかい?」
「お咲っていうんだよ。女中でも何でもする。何でも言うこと聞くからさ。後生だからしばらく置いとくれ、ね」
言葉には出さなかったが、浅吉自身もひとりで帰りたくない。
茣蓙さえ抱えなければお咲は夜鷹に見えなかった。それは浅吉を多少安堵させた。
異変が起きたのは、浅吉とお咲が隅田村で一緒に暮らし始める半月ほど前の頃からであった。
冬の川風に乗って嘴と足の赤い鳥が白い翼をいっぱいに広げ群れ飛んでいく。
それはこの土地の者にとって別に珍しい風景でも何でもなかった。ただそれを眺めている奇妙な装いの男女が好奇の目を集めていた。
娘の髪は両鬢を大きく膨らませ、髻を背後に長く下げた「大垂髪」(おすべらかし)という宮廷女子の垂髪であったが誰もその結い方と所以を知るものはいない。誰かが訳知り顔に、あれはお公家さんだと言ったのが見る者の耳目を驚かせて拡がっていった。
家来の初老の男も立派な身なりで娘のことを姫と呼んでいるようだ。そして、少し離れて二人を守護するように、平礼烏帽子を被り薄い紅染めの狩衣と黒袴姿で数名の男達が扈従していた。
娘はしばらく都鳥の群れを悲しそうに見つめて何度も力のないため息を吐き、やおら短冊を取り出すと、何かしたため優美な立居振舞でそれを大川にそっと浮かべた。
その後、渡し船に乗って靄る川面を渡ってしまった。
待乳山聖天と三圍稲荷を結ぶ「竹屋の渡し」である。見送るのは子供たちがほとんどであったが三圍稲荷大明神の狐ではないかと誰ともなく囁き合っていた。近所の餓鬼大将が竹竿を巧みに操って、女が流した短冊を拾ってきた。
「どれどれ…… これは達筆な」
腰の曲がった乾物屋の隠居が川水に滲んだその文字を読んで聞かせた。
「名にしおはば、いざ言問わむ 宮古鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
「ありやなしやってなんだい、そりゃ?」
袖で鼻水を拭いながらその中で一番体の大きな子供が首を傾げた。
「昔、京の都からここまで下って来たという在原業平の歌じゃな。別れてきた人はどうしておるかなというほどの意味じゃ。おまえさん方にはこの程度の話でよかろう。もっと大人になってからわかる話じゃ。……最後に書いてあるこの正二位というのはあのおなごの名前じゃろうか。はてさて本当ならばとんでもない高貴なお公家さんじゃが、のう……」
そして、高貴な公家といった無責任な隠居の言葉がその日の内に独り歩きして広がった。
時を経ずして次にその男女が現れたのは竹屋の渡しから少し北に行った木母寺であった。木母寺には梅若塚がある。この寺は梅若伝説発祥の地にほかならない。
平安の昔、京都の北白川に住んでいた吉田少将惟房卿の一子梅若丸は七歳の時父に死別し、比叡山の稚児となった。十二歳になった時、宗門争いに巻き込まれ身の危険を察知し、下山したところ、その時に人買いの藤太にだまされて東国へ下った。
しかし、梅若は隅田川の畔で重い病にかかり藤太の足手まといとなったため、川に投げ込まれた。幸運にも柳の枝に衣が絡み里人に助けられたが、看病の甲斐もなく十二年の生涯を閉じてしまう。
一年後の三月十五日、里人が柳の植えられた梅若丸の塚で供養していると、我が子の行方を尋ねてこの地に辿り着いた梅若丸の母「花子の前」が現れた。
我が子の死を知り、出家。名を妙亀と改め、庵をかまえて梅若丸の霊を慰めていたが、ついに世を儚んで近くの浅芽が原の池に身投げしてしまったという。
見慣れぬ風体の二人はしばらく梅若の塚の前で手を合わせていたがおもむろに短冊を取り出すとさらさらと何かを書きつけて姿を消した。
遠巻きに眺めていた子供たちと幾人かの野次馬がすぐに駆け寄り短冊を拾い上げると、手習い所帰りの提灯屋の娘が文字を拾い読みした。
「尋ね来て 問わば答えよ 都鳥 隅田川原の 露と消えぬと…… 有名な歌だわ」
提灯屋の娘は周りの子供だけでなく大人たちからも羨望の眼差しで注目された。満面に誇らしげな笑みを浮かべ小鼻をうごめかす娘が最後の文字に首を捻った。
「……右・衛・門? あの人の名前なのかしら」
「この前は正二位って書いてあったっていうじゃねぇか」
「しかしよう、一体何者なんだい?」
「ばぁか、お公家さんって言ってるじゃねぇか!」
「でもなんで京のお公家さんがこんな所にいるんだ。え?」
「知るかよ、そんなこと!」
しかし、その公家衆、それも姫と呼ばれる得体の知れない妖艶な娘の噂が読売屋の勝手な憶測で書かれた記事とともに浅草、深川界隈に広がるのには時間がかからなかった。
江戸中に喧伝されるのも時間の問題であった。
文吉は、吾妻橋近くの達磨横丁に住む北町奉行所同心島岡慶吾の若いお手先であった。通称吾妻橋の文吉である。
文吉の隣は空き家になっているが、昼間は同じ長屋の浪人藤堂数馬が手習指南所として使っている。ちょうど昼になり子供たちを帰した数馬が文吉の棟に顔を出した。
数馬の父親はさる西国の藩の剣術指南役であったが、上意打ちの旅に出た後、事情があって今は文吉と同じ並びの一番奥の棟で病に伏せっている。幼少より剣を鍛えられた数馬の腕は既に父親を凌駕しているといわれるが、身嗜みで差している腰の刀は、いつの間にか父親の薬代に代わった竹光である。
「文さん、最近おかしな公家の主従の話は知ってるかい?」
「へい、それがどうかしたんですかい?」
「まったく、子供たちが源森橋でそいつらを見たとか見ねぇとか煩くって、ちっとも身がはいらねぇ」
十手を磨いていた文吉は手を休めて框に数馬を座らせた。女房のお澄美が茶を出してきて数馬と文吉の間に座る。
「若先生が話す梅若丸の物語、こっちまで聞こえてきましたよ」
「お内儀殿、煩くさせてすまぬ。こっちも開き直って子供たちを黙らせるのにつまらぬ話を聞かせてしもうた」
「どうしてどうして、子を思う母の愛。ほんとに話がうまいんだから。わたしもついもらい泣きしちまった」
藤堂数馬は、手習い所の子供たちが集中力を失くしたりすると、時々三国志などの英雄譚を話して聞かせている。これが頗る子供たちに評判がいい。
「いよいよ、吾妻橋にも出張ってくるのかしら。おまえさん、えらい別嬪さんっていうじゃないの。騒ぎでも起きたら吾妻橋の文吉親分は、どうすんのさ?」
十七歳の好奇心旺盛な新妻お澄美が、騒ぎを期待している口振りで話に興味のない亭主の背中を強か打った。
「だがよ、別に悪いことをしてる訳じゃなし、せいぜい子供とお澄美の心を惑わすってくらいだから俺達も動けねぇよ。それによ、島岡の旦那に聞いたんだが……」
文吉が頬を膨らませたお澄美に二の腕を抓られながら、番屋での茶飲み話を披露した。
奉行所が二人を呼びだしたらしい。
女は直答を許さぬ素振りでもっぱら耳打ちされたお付きの初老の男が「姫が仰いますには……」と間に入っていたそうだ。手こずらしてお白州に座らせたが、「大炊御門の息女にて、正二位右衛門式部内侍局である」と若狭と名乗る従者がいきり立った。大炊御門家は筆道を家業とする名門である。女は袖に染め抜いた酢漿草の紋所をこれ見よがしに広げ、取り調べの役人を冷やかに笑った。何をしに江戸に来たのか、何のために大川のあたりに出没するのかなど何を尋ねても無礼者というだけで答えなかった。
あまりにも毅然とした態度に奉行所では内々に京都所司代へ連絡し身元を調べることにして二人を帰したという。
「お奉行所もだらしないのねぇ。偽物に決まってるでしょうよ。こんなところにそんなやんごとなきお方がいるわけないじゃない。それに式部内侍局ってすっごく嘘くさいたらありゃしない」
お澄美が数馬のお茶を換えながら呆れた顔をしてみせた。
「あれ? お澄美はお公家さんの味方じゃなかったのかい」
「何、言ってんの! お奉行所が舐められたのよ。十手持ちの女房が黙ってられるわけないでしょ!」
本気で怒るお澄美に文吉は、触らぬ神に祟りなしと座布団を抱いて後退さった。
「お内儀殿の感は正しいのかもしれぬな」
「ま、お上にはそうもいってられない事情でもあるんだろ? もしかしたらって思ったんじゃねぇのかい。お公家さんってぇのは、思いの外、結構貧しい暮らしをしてるっていうから、……おっと、こいつも島岡の旦那の受け売りだがな」
数馬が二杯目のお茶に口をつけた。いつもいい茶葉を使ってるねとお澄美の機嫌を取るように笑った。
「佐平の話じゃ、最近商家を廻って歌を書いた短冊を売りまわっているらしいぜ。買う方も訳も判らずありがたがってるって寸法さ」
佐平は文吉の親の代からの下っ引きで塩売りをしながら必要な情報を集めてくる。
「絶対、まやかしだわ、そりゃ」
「おめぇんチも買ったって話だぜ。それも五両も出して」
お澄美の実家は小間物問屋「相生屋」である。文吉も父親が外道働きの押込みに殺されて家業の岡っ引きを継ぐまでは「相生屋」の優秀な若い手代であった。そして「相生屋」の一人娘お澄美は何故か円満な押し掛け女房である。
「とっとと所払にしなさいよ。お父っつぁんもお父っつぁんだわ。今度会ったらとっちめとかなきゃ」
お澄美が怒りにまかせて相生やと染め抜いた前掛けをくしゃくしゃに丸めた時だった。
「てぇへんだ! 兄貴、土左衛門でさぁ」
いつも賑やかな下っ引きの佐平が飛び込んできた。佐平は話を十倍位に膨らませて人を煽るのが得意だ。佐平の「てぇへんだ」は九割方割り引いて掛からねばならない。
「どこだ?」
文吉は既に十手を腰に差し立ち上がっていた。
「御米蔵五番堀、首尾の松の近くに引き上げておりやす。吉原へ向かう猪木舟が流されているのを見つけて」
「身投げか?」
「それは行く道で、……」
口ごもった佐平に普段とは違うただならぬ様子を感じた文吉は佐平と競うように駆けた。なぜかお澄美に指南所の看板を預けた数馬も後を追いかけて走ってくる。
野次馬をかき分けて文吉は仏の前に進んだ。五十がらみの女だった。白目を剥いて口を悔しそうに真一文字に結んでいる。
十手で掛けてあった筵を外すと文吉は検死を始めた。途中で何かに引っ掛かったのか、着物が腰のあたりまで肌蹴て上半身が裸だった。痩せて張りのない肌の所々が紫色に変わっている。特に腰のあたりに紫斑が集中していた。
水に濡れたままの着衣は継ぎの当たった貧しいものであった。
下へ目を移すと足の長さが左右目立つほどの違いがあった。右足の方が歪に捩じれてひと拳ほど短い。腰も左が上がって傾いている。普段の歩行に困難さが感じられたが、これは死因と結びつきそうもない。
「佐平の言うとおりだ。先に首を絞められて川に投げ込まれたに違ぇねぇ」
文吉は、首に残った索条痕を丹念に調べた後、腰に掛かった着物を肩まで引き上げてやった。
「袂に財布が入っている。中は入ったままだ。物取りの線じゃねぇな」
「新米岡っ引きさんよ」
後ろから声をかけてきたのは同心の島岡慶吾だった。偶然対岸の大門通にある辻番に立ち寄っていたらしく両国の伊佐治親分と一緒に首尾の松まで舟で乗り付けてきたのだった。
「水に落ちて死んだ者は、口を開いて、目は閉じてるもんだ。口、耳の中から泡が出る。腹は膨れて、両足の裏は白くなっているが腫れてはいない。両方の手足とも前に屈んでいる。男はうつ伏せ、女は仰向けになって流れるなんて訳知り顔に言う奴がいるが、そんなことを言う奴は信用するな。嘘っぱちだ。関係ねぇ。よっく覚えとけっ」
素直に「へいっ」と頭を下げる文吉の横で、数馬が感心したように慶吾を見上げた。
「さすがでござるな。感服つかまつった」
「藤堂先生よぅ、伊達に朱房の十手振り回して飯食ってんじゃねぇぜ」
慶吾が鼻を鳴らして皮肉な笑いを浮かべた。
すぐに文吉を押し除けるように両国の伊佐治が仏の前に出てきた。佐平があからさまに舌打ちをして一歩退いた。
両国の伊佐治は死んだ文吉の父親と仲が良かった。文吉を自分の子供のように思っていて、頼みもしないのにお手先の心得を厳しく仕込んでくれる。
「ついでに教えといてやるぜ。泳ぎそこなって死んだ奴は顔色が赤く、他に傷も痕もない。水の中に入って長くもがいて死んだ者は口や鼻のなかにも泥水の泡がある。腹にも水が入って少し膨れているってもんだ。だがよ、この仏にはそんな様子は全くねぇ。それに吾妻橋のお見立て通り首を絞められた跡がしっかり残っている。こりゃあ、殺しだ」
ざわつき始めた野次馬に向かって、伊佐治が大声を出した。
「誰かこの婆さんを知ってる奴はいねぇか! 傍に来てよっく見やがれ」
しばらくみんな喧しく騒いでいたが、誰も首を傾げるばかりだった。殺された女は、この近所の住人ではなさそうである。
「文吉、仏を近くの番屋に運んでから、川上をずっと聞き込みだ。誰か戸板を持ってきちゃくれねぇかぁ」
野次馬が縮み上がるほどの大声で慶吾がゆっくり周りを見渡した。
番屋へ女の死体を運んだ後、文吉は佐平と急ぎ足で大川沿いに上へ向かった。数馬はとっくに達磨横丁の長屋へ帰っている。
「婆さんの財布を覗いたら六十と二文、きっとそれで全部じゃねぇですか? それに銭と一緒に入っていた天竜寺の御札…… 天竜寺って聞いたことのある寺ですね」
「下谷でそんな名の寺がなかったけ?」
「谷中でも見たような、見なかったような」
佐平が首を傾げて頼りなげに文吉を見た。
腕組みをしながら歩いていた文吉は、ふっと足をとめた。諏訪町河岸から駒形河岸へ丁度入ったところだった。ユリカモメの群れが猫のような鳴き声をあげて一斉に飛び立っていった。冷たい冬の風が熱くなりかけていた文吉の頭を冷やしてくれた。
「物取りじゃねぇ……、佐平よぅ、するってぇと恨みか、……それとも殺されなきゃならねぇほどの訳があったってことか」
「貧乏くせぇ足の悪い婆さんか…… 誰かに強請りでもかけようとして反対に殺されたんですかね」
「思い込みで探索すると見誤るぜ」
文吉は、先走りの癖がある佐平をやんわり戒めた。佐平が頭を掻いてペロッと舌を出した。先走りはするが、勘のいい佐平である。
「どっちにしてもあの殺された婆さんがどこの誰だかわからねぇことには先にすすめませんや。あっしの塩売りの仲間にも声をかけてみやす」
「そうしてくれや、手掛かりが少なくて申し訳ねぇが、天竜寺さんの御札が頼りだ。とにかく考えていても始まらねぇ。片っ端から聞きこんでいくぜ」
天竜寺は、南品川宿の曹洞宗瑞雲山天竜寺、下谷新坂本町の曹洞宗功徳山天竜寺、谷中三崎は臨済宗海雲山天竜寺、内藤新宿追分禅宗曹洞派護本山天竜寺と江戸に四つある。
文吉は大川沿いの聞き込みと合わせて一番近い下谷の付近を当たった。足の不自由な老女の行動範囲ということで下谷に目を付けたのだが、念には念を入れてと、それ以外の天竜寺は佐平の塩売り仲間に頼んだ。
しかし、大川沿いでその老女の目撃情報は見つからず下谷の方も捗々しくなかった。最近行方不明の老婆などどこにもいなかったし、誰に聞いても首を捻った。
ただ、例の公家の御姫様が浅草山谷の玉姫神社に現れた時、警護の侍を押し切って薄汚い老婆が叫びながら御姫様に近寄ろうとした騒ぎがあったが、お付きの下男達にすぐに摘み出されたらしい。
それは瞬時のことで野次馬の関心は全員公家の御姫様に向いていたために、殺された老女と同一人物かどうか今ひとつ判然としなかった。
ところが、身元は意外なところから判明した。佐平の仲間の知り合いで流しの豆腐売りからだった。天竜寺は内藤新宿追分の寺だったのだ。
「やっぱ、見込みで探索しちゃあいけねぇな」
絶対下谷だと言い張っていたくせに他人事のように嘘ぶいて笑う佐平の後ろ頭を文吉は平手で殴った。
豆腐屋の吉次を番屋へ呼び、実際に検分させたところ間違いないという。内藤新宿の長屋に住んでいる蔦というひとり者だった。毎日律儀に半丁の豆腐を買ってくれるという。すぐに長屋の差配にも来てもらったがあらためて間違いないことが確実になった。もう少し遅ければ番屋の近くの浄念寺に無縁仏として埋葬する手はずになっていたので、面通しができたことは幸いであった。
「内藤新宿から何の用でこんなところまで出てきたか知ってるかい?」
文吉の問いに差配の仁兵衛は首を傾げるばかりだった。ただ、今は一人暮らしだが何年か前までは息子に娘と三人で暮らしていたそうだ。大工の亭主は早くに亡くなっていたが縫物をしたり土方に出たりで何とかかつかつの生計をしていた。
「子供二人とも本当の子じゃなかったっていうのかい?」
お蔦は若い時分に亭主との間に子ができたが流行り病で二つになる前に失くしてしまったそうだ。
「ご存知の通り内藤新宿は江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいでございます。飯盛り女の数も半端じゃございません。ですが時々不心得者の遊女がそっと客との間にできた子を捨てていくのでございます。お蔦の所にいた息子と娘もそんな事情で不憫に思ったお蔦さんが拾って育てたのでございます。
えっ、下心があったのではと仰せですか? いえ、心底自分の子のようにして育てておりました。
しかし、子も大きくなるにつれて事情も察してきたのか、お定まりのように上の子、松乃助と申しますが十七になったばっかりの時にグレて家を飛び出してしまいました。ま、線が細くて小さい頃から捨て子だとよく虐められていました……
蜜柑箱に入れられて捨てられていたもんですから、蜜柑箱の松乃助、蜜柑箱の兄妹って、よくからかわれていたんですよ。その度にお蔦さんが松乃助はうちの子だと庇っておりましたが、ついに堪え切れなくなったのでしょうな。
行方は存じません。風の便りでは上方の方に行ったとか行かないとか、あくまでも噂でございますので」
そう言えば、豆腐屋の吉次も身寄りのない独り者だった。松乃助と吉次の歳が近かった。お蔦は、そんな吉次が健気に毎日天秤棒を担いでやって来るのを不憫に思ったのかもしれない。特に目を掛けていてくれたと、吉次はまだ姿の見えない下手人に対して憤っていた。
「下の娘はどうしたかって?
お鈴ちゃんは、それはほんに優しい娘で松乃助とは五つ違い。きっと今年十八になるはずでございます。息子が出て行ってしばらくしてからそれまで無理を重ねていたお蔦さんが長患いになり、……ええっ、右足がちょっと不自由になったのでございます。最近は歩けるまでなったようですが、あの頃はしばらく寝たきりでして、そりゃあ見ていて辛ろうございましたよ。
お鈴ちゃんが献身的に看病してたんでございますが、治療代が嵩み借金をこさえたお蔦さんを救うため、お蔦さんが歩けるようになったのを見届けて、前からずっと女衒に目をつけられていたのでございますが、その伝手で自ら岡場所に身を売ったのでございますよ。
ただ、自分の育った土地は厭だと深川の方に出ましたが、それを止められなかったお蔦さんの嘆きようといったら、そりゃあ見ているのが気の毒なくらいでして、……
お蔦さんが誰かに恨まれていたかって言うんですかい? 滅相もございません。決してそのようなことのあるはずがございません。
不自由な足で、こんな遠くまで、歩いて来たなんて…… きっと娘に会いたい一心だったんでしょうねぇ。
お役人様、お蔦さんの一生は、何だったんでしょうか? 亭主にも子供にも先立たれ、手塩にかけて育てた養い子とは離ればなれ。最期は隅田川に首しめられて浮いちまった。いいことなんか何ひとつなかったでしょうに……。不憫でしょうがねぇや」
鼻水を啜る長屋の差配に記憶を手繰らせ、お蔦の娘お鈴が売られて行った女郎屋をつきとめた。
すぐにお鈴を楼主ともども番屋へ呼びだした。
お鈴は、慶吾と文吉が同時に息を呑むほど苦界に染まった様子も見せない、まさに掃き溜めに鶴のようなひっそりと清楚な娘であった。美しい顔の中でも際立つ気丈な目をしていた。
しかし、お蔦の変わりようを見た途端、お鈴は亡骸に縋りついたまま激しく泣きじゃくるばかりで何時まで経っても埒が明かない。お鈴のお蔦を慕う深い悲しみの嗚咽が、文吉と慶吾に話を切り出すことを躊躇させた。番屋の番太郎も貰い泣きしていた。
だが、それを無視するように楼主は無理やりお鈴を引き離すと、「いつまで泣いてるんだ。お前さんの本当のおっ母さんじゃないんだろ。とっとと行くよ。客の来る刻限だからね」と引き摺るように連れて帰ってしまった。帰り際に奥に座っている慶吾に対して金の入った包みを差し出して、楼主は愛想笑いを投げた。切り餅ひとつ二十五両の金はもう一切かかわらないでくれという意味の賂であろう。
お鈴の慟哭に気圧され気味であった文吉と慶吾は隙を突かれたように茫然としたままついそれを見送ってしまった。俄かに失態に気付くと慶吾の顔が見る見るうちに怒りで真っ赤に変わった。
「文吉、野郎の店はどこだ? 警動かけて店潰してやる」
警動とは、非合法な売春婦を見つけた場合、公許吉原遊郭から奉行所へ陳情され、同心衆を先導して現場に乗り込み、その女達を捕えるというものである。奉行所が積極的に動くことはなく、あくまでも吉原側の主導であった。捕まった女郎等は吉原内の妓楼主人による入札で競売された。そして、女たちは吉原において最長三年に亘る無償の廊勤めを強いられるのである。
「吉原大門にいる影同心は同じ真陰流の弟弟子だ。俺の言うことは何でも聞く。話をつけて襲わせてやるぜ。文吉、行くぞ」
怒り狂った慶吾が文吉の制するのも聞かずまさに番屋を出て行かんと立ち上がった時、けたたましい下駄の音を響かせ番屋に駆け込んで来た娘がいた。
お鈴が楼主を振り切って戻って来たのだった。
息を整えながらお鈴は、慶吾の前で土間に跪くと両手をついた。
「おっ母さんは? おっ母さんはどこに葬られるのでしょう?」
涙ぐんで瞬きもせずじっと見据えるお鈴と目を合わせているうちに慶吾も少しずつ気が静まってきたのだろう。差した刀をまた外して座り直した。
「身元もわかったことだ。まさかおめぇさんに引き取ってくれとも言えねぇだろうしな。安心しな。ちゃんと経をあげて供養してやるぜ。寺が決まったら連絡してやる。おめぇさんのおっ母さんだ。決して粗末にしねぇ、約束するよ。年季が明けたら花でも手向けてくんな」
顎髭の剃り跡が青々と濃く目の大きい慶吾は、端午の節句に飾る鍾馗様に似ている。小悪党は慶吾の前に出てきただけでみんな震えあがり恐れ入ってしまうが、心に疚しいところがない者にとっては頼りがいのある男に思えるのだろう。そんな慶吾にお鈴もふっと気を許して口が滑らかになったのかもしれない。問わず語りに語り始めた。無口なくせに得な性分だと文吉はいつも感心することが多い。
「兄さんがいてくれたら、おっ母さんもこんなにならずに済んだのに……、ほんとにどこに行っちまったんだろう」
「育ててくれた恩も忘れ、薄情にも家を出て行った野郎なんか頼りにするんじゃねぇよ」
「お役人さん、違うんです。みんな兄さんのこと、誤解してる。みんな兄さんのこと悪く言うけど、ほんとは違うんだ。あたい等血は繋がっていないけど、本当の家族以上、兄さんは……」
お鈴は慶吾の傍までにじり寄って端近に手を添えた。細い溜息を吐くお鈴の眼は遠くを見ていた。
浅草寺の節分会が終わって十日程経った昼下がりであった。
冬日和の雷門前広小路にある茶屋で小さな事件が起きた。
緋毛氈をかけた縁台に例の公家の娘が腰掛け、赤い実をつけた鉢植えの千両を愛でながらゆったりと茶を啜っていた。
若狭と呼ばれる厳めしい従者は片膝を地面について恭しく姫にかしずいている。それを取り巻くように少し離れて五人の警護の侍が傍へ人が寄らぬように陣取っていた。
読売で既に有名な公家主従である。その姫を見たいがために野次馬が客となってその店はまるで時期外れの初詣のような賑わいを見せていた。立ち見も多いようだ。
「変わった髪型だねぇ。あれがお公家風なのかい?」
「化粧もえらく厚塗りだねぇ」
「着てる物も金糸銀糸が入って派手だけど、あまりいい生地じゃないみたいだよ」
「知ってるぜ。都の公家っていっても旗本の一番下っ端より禄を貰っちゃいねぇ奴らもいるらしいぜ」
「それでも己いら達よりゃ稼ぎがいい!」
「違げぇねぇや」
茶店の主も上機嫌で姫と呼ばれる女に粗相のないよう気を配り、公家の主従にあまり人を近づけさせないような配慮を見せて若狭から褒められていた。変に高ぶった主の態度は、高貴な姫に取り入ろうとする魂胆が丸見えで一部の客から顰蹙を買っていたが、色紙の一枚でも貰って店の宣伝にでも使おうというのだろう。
茶店の看板娘が恐る恐るぎこちない手つきで小皿に乗った自慢の饅頭を縁台の端に置いた。
「こ……これは、当店が、きょ……去年の桜を、ひ、秘伝の製法にて塩漬けにし、蒸し饅頭の上にのせたもので、ござりまする。餡は味噌餡。どうかご賞味、く、くださりませぇ」
主から口上を俄かに諳んじさせられた娘は声を裏返して必死で復唱した。遠くで主が茶も取り換えねぇかと気をもんでいる。
その場に居合わせた藤堂数馬が許嫁の楓と物珍しそうにその光景を眺めていた。
「こいつぁ、結構いい宣伝になりそうだな」
「茶屋の主人が後ろで糸を引いているのでしょうか?」
「あの舞い上がった様子じゃ、それもなさそうだ。仮装行列じゃないのかい? 俺は、ただの目立ちたがりのような気もするがな。乗せられた奴らが慌てふためいたり、醜態を見せるのを陰から見て楽しんでる輩だろう。江戸っ子は飽きるのも早いがとにかく何でも珍しい物に飛び付くからな」
「それならばよいのですが……」
「楓殿は、結構心配性のように見える」
「あら、ご存じだと思っておりました」
そうこうしているうちに勿体をつけた公家女は表情も変えずその饅頭に一瞥をおくと、菓子楊枝を優美な仕草で使いひと口大ほどに切り取るや、扇で隠して口に入れた。すぐに若狭へ何か耳打ちしたが、緊張して傍に立っている茶屋娘には聞き取れなかった。
大きく頷いた若狭は、茶屋娘に振り返り、
「姫は、美味である、と仰せである」と、離れて見守る野次馬達にもよく通る声で賛辞した。
「美味であるだってさ」
「美味ってなんだよ」
「親爺、俺にもあれと同じ物食わせえてくれよ、え? 一個十二文だって! たった今、値上げしやがったな。コンチクショウ! 夜鳴蕎麦みたいな値段じゃねえか。ま、縁起物だ。一個くれや」
「何が縁起かわからないけど、こっちにも五・六個お願いね。お土産にするから」
俺にもあたしにもという声があちこちから聞こえてきて、店の主はこれ以上ないというほど顔を綻ばせて蒸し饅頭の注文を捌きはじめた。
こりゃあ、後で絶対にあのお公家さんから色紙でも短冊でも貰わなければと、顔も自然にほくそ笑んでくる。「公卿も美味なりと、姫も舌巻く桜蒸しまん」という宣伝文句も考え付いた。いっそのこと桜蒸しまんを「都鳥」って名に替えてみるかね。「業平まんじゅう」でもいいやね。
「おい、どんどん蒸してきなさいよ! たいへんだ、たいへんだ。もうじき売り切れちまうよ」
心付けを弾んでくれる客もいつもより多く、茶屋娘等も赤い襷を締め直して客を捌き始めた。店側としては、降って湧いたような幸運に笑いが止まらない様子である。主も自分の機転のよさに内心自画自賛したい気分に浸っていた。
二回目の蒸し饅頭が店の奥から運ばれてきた。
「痛てぇ、て、て……」
急に様々な方向から何人かの客が腹を押さえて悶え苦しみ始めた。
「く、腐った饅頭喰わせやがったな」
「桜の花の味が酸っぱいぜ」
「ばか言ってんじゃねぇ! うちの店は腐ったモンなんぞ今日の今日まで一度も出したことはねぇ。言いがかりで金をせびろうっていう寸法かい!」
店の主が血相を変えて怒った。
だが、腹を押さえて激しくのたうち回る数人の客に他の客も騒ぎ始め、事の重大さに気付いた主の顔もついに蒼褪めてきた。
野次馬が店の主を取り囲んで険悪な空気が流れ始めた時、人波をぬって数馬が前に出た。
「つまらぬ言い争いをしている場合ではない! 早く医者を呼べ。苦しがっている者達を一か所に集めよ」
数馬が大声で一括すると、何人かが我に返って数馬に協力して場を収拾しようと動きまわった。
「己いらが、医者呼んでくるよ」
魚屋の若い衆が駆けだそうとした時だった。
「それには及びませんぞ」
好々爺然とした声が魚屋の動きを止めた。
供を従え十徳羽織を羽織った剃髪の男が出てきた。徒歩医者のようだが身なりも立派で、そこはかとない威厳があった。「どれどれ」と、患者を安心させるに足るにこやかな笑顔で、まず、すぐ近くで苦しむ植木職人の脈を鷹揚と取った。
皆、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
俄かに医者の顔色が変わった。顔から笑いがすっと消えたのを見て周りがざわつき始めた。
「これは臓腑に酖毒が廻っておる。大変なことじゃ!」
蒼褪めた医者が悲鳴を上げ、後退りするのを見た群衆が騒ぎ始めた。
「助からねぇのかい、えっ! 先生よう」
「どうしたい? 腰が抜けてるじゃねぇか。しっかりしろィッ!」
「鳥の羽根に含まれておる猛毒よ、桜花に残っておったのかもしれぬ。河豚の毒よりも怖い。もうわしの手には負えぬ。手の施しようがない。御殿医様でもどうしようもない!」
若い娘の悲鳴が聞こえた。卒倒して廻りに支えられている。医者が慌てふためいてその場から逃げだした。乱雑に捨てて行った医療器具を弟子が素早く拾い集め後を追った。
「逃げるんじゃねぇよ。医者なら何とかしろよ!」
「人殺しっ! 見捨てる気か?」
「藪にもなれねぇ、筍医者! とっとと失せろ!」
不安が伝染して急速に広がる。苦しんでいる五人の傍から皆遠ざかろうとじわじわ後退さっていった。
「うろたえ召さるな!」
よく響く若狭の太い声にざわめきが一瞬止まった。
「さ、ご主人殿、この丸薬をすぐに温い湯とともに飲ませてやりなさい。早くっ!」
ばね仕掛けのからくりのように反応した茶店の主人が湯呑みと白湯の入った湯沸かしを取って戻った。正常な判断が出来そうもない主人は心を失ったように茫然と立ち尽くしている。
それを見て若狭は、一か所に集められた病人に一人ずつ自らの手で袋から取り出した黒い丸薬を飲ませていった。
まるで仰々しいその振る舞いに気付かぬうちに野次馬は目を奪われている。息を呑みずっと成り行きを見つめ続けた。
ひとしきり苦しそうにのた打ち回っていた男達は次第に動きが落ち着き始めた。汗も引いてきた。
最初に浪人風の男がゆらゆらと腹を押さえて力なく立ち上がった。
「死ぬかと思ったが、今は嘘のようにすっきりしておる」
その浪人者が胃の辺りを撫ぜながら、気の抜けた笑みを浮かべると、周りから歓声が上がった。職人風の男をはじめ他の四人もゆっくりではあったが、次々と立ち上がった。
「これぞ大炊御門家に伝わりし、秘伝の妙薬胡沙君子青竜丸である。百毒を体外へ排する薬なのじゃ。酖毒は汗となって既に流れ出た。本来なら宮中でしか使用できぬ門外不出の薬。それを恐れ多くも姫様のお情けにより下々の者にも下しおかれた。努々感謝の気持ちを忘れる出ないぞ」
よく通る厳かな声であった。取り囲んだ見物人名中から感嘆の息が漏れた。
「勿体なくも忝いことでござる。礼を申す。この通りじゃ」
浪人者が深く腰を折ると一緒に腹痛が治った四人が慌てて若狭に対して頭を深く下げた。
若狭は姫に何事か囁くと姫を促して満足そうにその場を離れようとした。
「お待ちくだされ」
引き留めようとしたのは症状が治ったばかりの浪人だった。姫が訝しげに振り返った。
「まだ、なにか?」
足を止めて振り向いた若狭に浪人は躊躇いがちに頭をかいた。
「いや、下されたお薬は本当によく効き申した。しかし、我らはすぐに症状が出たが、ひょっとして後ほど遅れて酖毒により腹痛を起こすものが出ぬとも限らぬ」
一瞬にして不安が周りに広がった。また、茶店の主人を罪人でも見るような視線が集まり、主人は物陰に小さくなった。
「浪人さん、あんたは偉ぇ、よく気が付きなさった。俺も饅頭喰っちまったんだ」
俺も、私もと声が飛び交う中で浪人が一歩前に出た。
「その薬をもう少し分けて貰えぬだろうか? いかがであろう? 人助けと思ってくださらぬか」
必死に哀願する浪人を後押しするように皆が公家の主従を取り囲んだ。姫と呼ばれる女が恐怖に震えて見せ、それを若狭が庇う。
「先ほども申した通り、門外不出の霊薬。さりとて人助けのため、どうしたものか……」
若狭が姫の判断を仰ぐように振り向くと姫は目を逸らして扇で顔を隠した。二人を取り巻く輪がもう一つ縮まろうとした時、身なりの良い商家の主人が前に出てきた。
「私は、浅草駒形町で薬屋を営む旭一心堂の主人忠兵衛と申します。いかがでしょう、その秘薬手前どもの店に預けていただけませんでしょうか。餅は餅屋と申します。薬草も数多整っておりまする。手前どもの店でその秘薬を調合くださいませ。ここにいらっしゃる皆様方がいつ発病いたしましても手前どもの店に来ていただければ何とでも対応いたします。夜中に叩き起して下さって結構でございます。失礼とは存じますが、お公家様にも些少のお礼はできるかとも思いますが」
「胡沙君子青竜丸を売れと申すのか? 何とおぞましきこと……しかし、我らも民草が苦しむのは放っておけぬ。病に貴賎はなし。姫も何か下々の役に立ちたいと日頃から考えておられた。けっして調合の場を見ぬと約束するのなら」
若狭が強い口調で念を押した。
「もちろんでございます」
忠兵衛が慇懃に腰を曲げて、若狭の顔を下から窺った。
「それがいいぜ。お公家さん達も何時までもここにいるわけにはいかねぇ。それに旭一心堂さんならこの近所じゃちょっとした薬屋さんだ。信用できる。金出したって構うもんか。命がかかってるんだ。惜しくはねえってもんよ。でも安くしといてくれよ。人助けなんだから」
そうだそうだという声に押されて、「御尤もでございます。そうさせていただきます」と忠兵衛は商人らしく如才ない約束をした。
「さ、御足労を煩わせてしまいますが、手前どもの店はすぐ近くでございます」
忠兵衛の声に、心得た店の若い衆が露払いに立ち、しずしずと公家の主従を先導して行った。
彼らが辻を曲がって姿が見えなくなると、いつの間にか大きくなっていたざわめきも次第に消え、それぞれの目指す方へ散り始めた。しかし、旭一心堂へ向かう人の流れも相当なものであった。酖毒を恐れてというよりも、『門外不出の秘薬』という言葉の珍しさに惹かれたのかもしれない。
数馬の横を先ほど腹痛で転げ回っていた大工姿の男が飄々と通り過ぎて行く。
「何しやがんでぇ!」
いきなり数馬に腕を掴まれ捻り上げられた男は慌てて手を引き抜いて駆けて行った。しっかり数馬に見られた掌を懐に隠すのが見えた。
「乱暴な……」
楓が数馬の行為に眉を顰めた。
「大工のくせに綺麗な手をしていた。鉋も握ったことがない手だな。うちの手習い所に通って来る惣太の方が大工の親父からしっかり鍛えられてるぜ」
「……」
「手の込んだ茶番を見せて貰ったようだ」
ふと気がつくと茶店の主が岡っ引きに甚振られている。それを遠巻きに眉を顰めて茶屋娘達がひそひそと店を移る耳相談をしていた。
客の心を蔑にする主人のあからさまな商売っ気に幾分辟易としていた数馬であったが、遅かれ早かれこの茶店は潰れるかもしれないと思うと些かな同情を禁じ得なかった。
「私どもは大丈夫でしょうか?」
数馬も楓もあの騒ぎの元となった蒸し饅頭を食べていた。文吉とお澄美に土産として買ってあった。楓はそれを持ち上げて腐っているのか嗅いで確かめている。
「拙者、貧乏暮らしが長いせいか少々腐ったものを食しても大事ござらん」
「わたくしもそうですが……」
「しかし、楓殿が心配なら旭一心堂に行って、あの門外不出という秘薬を買って帰りましょうか? うん、旭一心堂に行こう。それなら文吉親分とお澄美さんが蒸し饅頭を食って腹痛を起こしても安心というものだ」
心配そうな楓の顔を見て数馬は思わず大声で笑ってしまった。
その頃、文吉は内藤新宿にあるお蔦の長屋にいた。
差配が荷物を処分してよいか文吉に恐る恐る聞いてきた。いつまでも空き家にしておくことができないのだろう。
「心配するねぇ。調べが済んだら差配さんの方で処分してくれ」
そうは言ったもののお蔦の家財道具などはほとんどない。ここで血の繋がらない三人が少なくとも十五年以上身を寄せ合って生きていたのだ。お蔦はどんな思いで二人を育てたのだろう。見るからに裕福とはいえない暮らしの中で血の繋がらない子供たちを投げ出したくはなかったのだろうか。お蔦の一生は幸せだったのだろうか。
文吉は自問して首を横に振った。
お鈴がお蔦に取り縋って前後も知らず嘆き悲しんだ番屋の光景を思い出すと、決して不幸ではなかったかもしれない。
季節のせいでなくひんやりとした部屋の中をざっと見渡したかぎり文吉には、これといったものは目に入らなかった。小物はあとでお鈴に届けてやれば形見にもなるだろう。
「こんな所に読売が落ちてますぜ」
佐平が隠し屏風の裏に落ちていた数枚の読売を拾ってきた。全部今有名な公家主従の読売であった。似顔絵が描いてあるものが何枚かあったがそれが特に手垢で汚れていた。
「大川の話がこんな所まで広がって来てたんでやすね」
特に汚れが目立つのは姫の顔の大写しであった。憂いに満ちてほっそりした綺麗な女の顔である。公家の娘というよりも役者絵のような趣がある。
「佐平、おめぇあの公家の御姫さんの顔見たことがあるかい?」
「へえ、二度ばかり。どれどれ、しかしよく似てる。そっくりだ。うまく描けるもんですねぇ、読売屋も。まさにこんな寂しそうな切れ上がった眼をしてやしたよ」
佐平が読売を手にとって上から見たり斜めから眺めたりして感心してみせた。読売の版元も一応頭に入れているようだ。版元が判れば、絵師の検討もつく。
「なんでこの読売だけ大切にとっておいたのだろう」
「でもなんとなくですが、場所が繋がってきやしたね。差配の爺さん、お蔦さんは物見高い方だったのかい? 役者のおっかけをやるとか」
差配も珍しそうにお蔦の残した読売を覗いていたが、滅相もねぇと首を振った。
「字も満足に読めないお蔦さんが、読売を買うこと自体考えられねぇことだ。まして役者なんぞ追いかけるような歳じゃない」
「違ぇねえ、……」文吉は読売を折りたたんで懐に入れた。「佐の字、他の連中を当たってみようぜ。それとお鈴の兄貴のこともな。居場所を突きとめてお蔦が死んだことを知らせてやらなきゃならねぇ」
番屋でお蔦の亡骸に涙しながらお鈴が島岡慶吾に訴えていたことを文吉は思い出した。
兄さんはそんな人じゃありません。内藤新宿じゃ皆に捨て子だとか女郎の子と蔑まれてまともな職にも就けやしない。だからどっか遠くに行って一杯金儲けておっ母さんとおめぇを迎えに来てやるからなって、おっ母さんがまだ起きないうちにそっと家を出て行ったんです。ちょうど目の覚めた私におっ母さんを起こさないように小さな声で言ったんです。
わたし兄さんの気持ちがよっくわかったから止めなかった。兄さんとずっと一緒にいたかったんだけれど止められなかった。
兄さんのことずっと好きだったから止められなかった。
おっ母さんも兄さんが出て行ったのを後で知って、いつも兄さんの気持ちがわかっていたから、「わたしが甲斐性なしだから、仕方がないねぇ、ごめんね、ごめんね……」といつまでも泣いていたんです。
お役人さん、なんでおっ母さんが殺されなきゃいけないんですか?
それもどうして大川なんぞに浮かばなきゃならないんですか?
きっと私に会いに来たんだ。深川女郎の私に会うために内藤新宿から出てきたんだ。
それなのに……それなのに……
慶吾にポンポンと軽く肩を叩かれてお鈴は番屋を出て行った。慶吾が投げ返した切り餅を懐にしっかり仕舞い込んだ仏頂面の楼主に引かれて行くお鈴の切ない背中を、文吉は忘れられない。
お鈴が捨て鉢にならねばよいがと思うと同時に、そのためにはお鈴が慕っている兄の松乃助を捜し出さなければならないとも考えた。
「お鈴は、深川にいる自分にお蔦が会いに来たんだと言ったが、お蔦が殺されたのはもっと上の方だ。別な理由がきっとあるはずだ」
文吉は、佐平に語るようにして自問した。
内藤新宿での聞き込みを終えて、八丁堀の島岡慶吾に報告を済ませた後、吾妻橋の達磨横丁に返ってきたのは夜の五つを過ぎていた。食事は島岡の旦那に御馳走になったとお澄美に茶を入れてもらっている時に数馬が楓と訪ねてきた。
「遅くまでごくろうさんだったね。それで何かわかったかい?」
「ああ、少し糸が解れてきやがった」
文吉はお蔦の家で見つけた読売を見せた。
「実はこいつらのことで、今日面白いことがあった」
数馬は、昼間の茶屋の出来事を文吉に話した。
「これがその蒸し饅頭と何とか青竜丸かい? よく手に入れたね」
文吉は薬袋を開き、丸薬を手にとって眺めた。
「そりゃ、たいへんだった。楓殿と並んだ、並んだ。ずいぶん待たされたぞ。旭一心堂の店先は黒山の人だかりさ」
「数馬さんも酔狂だね」
上目づかいに文吉から軽口を言われた数馬を見て、楓が赤面した。
「楓さん、数馬さんと一緒になること、考え直したら? まだ、間に合うんじゃないかしら」
お澄美が、お茶を差し換えながら蒸し饅頭に手を伸ばし鼻のあたりに持ち上げて臭いを嗅いだ。
「お内儀殿、それはない。お手先の旦那のために一肌脱いでおるのだ」
「一肌ついでにこいつを持って源庵先生の所に行ってみようじゃねぇか。この薬が何かわかるかもしれねぇ。善は急げだ」
榊原源庵は長崎で修業した後、上方で開業し、歳を取ったということで生まれ故郷の江戸に戻ってきた。酒が好きで文吉の死んだ父親とよく飲んでいた。検死の協力も何度かしてもらったことがあるが、謝礼は全て酒で購われた。多少偏屈だが地元に帰って来たということで貧乏人から金を取らず近隣の長屋の住人からは評判が良かった。本所松倉町に居を構え文吉の達磨横丁から近い。
行く道すがら文吉は数馬に内藤新宿で拾った情報を明かした。もちろん慶吾には報告済みである。
「殺されたお蔦の血のつながらねぇ息子が、あの公卿娘にそっくりなんだ」
「馬鹿なことを。息子って? 御姫様は、女ではないか。どう見ても高貴な品があるが」
「数馬さん、今日の騒ぎで御姫さんの声を聞いたかい? その若狭っていう爺さんが全部ひとりで喋っていただろ」
「女形か…… 確かにそう言われて見ると、化粧も役者のように濃かったな。しかし、身体つきは見るからに華奢だぜ」
「お蔦の近所に住んでるやつらにもあの読売を見せて聞いてみた。みんな松乃助って息子にそっくりだと言うじゃねぇか。仮にそうじゃねぇ、他人の空似だとしても、息子かどうか確かめにここまで出てきたとは考えられるぜ。殺されなきゃならなかったってことは、お蔦の考えが当たらずとも遠からずってことだった……いや、松乃助だったに違ぇえねえよ」
「息子が母親を殺したってことか」
数馬が刀の柄頭に手を当てて歩みを止めた。
文吉も考え付いた自分の想像を否定したい気持だった。
「てめぇが公家の御姫様じゃねぇっていう本当の素性を暴かれたくなかったのかも知れねぇ。薬屋と事を起こしたばかりじゃねぇか。なんか臭いやがる。話だと、今日どんだけ稼いだかわかりゃしねぇ。やっと尻尾を出しやがった」
「本当の素性を知られたくなかっただと! そんな理由で母親を殺すか?」
「義理の母親だったそうだ」
「それでもだよ。文さんの考え通りなら、畜生にも劣る所業だ」
数馬が激しい憤りを見せた。平生の飄々として洒脱な数馬ではなかった。
「そこんとこは、本人に聞いてみねぇことにはわからねぇ。今佐平に奴らの塒を探らせちゃいるが……。だがどんな立派な理屈があったとしても、俺は絶対許さねぇ」
「今日の茶屋の狂言でも仲間がかなりいるぜ。腹痛を起こした奴等は確実にグルだ。野次馬の中にもきっと何人かいる。旭一心堂は……」
「ぐるぐるっと奴等が輪になって連んでいるのは察しがつくが、何もかもこれからだ」
源庵の家はまだ灯りが付いていた。中に入ると弟子が薬草を吟味している横で、白髪頭を束髪にした老人が茶碗酒を飲んでいた。榊原源庵である。
「こんな夜更けに十手持ちが何の用かの?」
「先生、実は調べて欲しいもんがありやして、こうして伺った次第で……」
「見料は?」
「明日、うちのかかぁに灘の下り酒を持って来させやす」
「それは上々、して……」
文吉は経緯を話した。旭一心堂の名を聞いた途端、源庵は眉間に皺を寄せて不愉快な顔をした。あからさまに医を商売としている店だと源庵は侮蔑しているらしい。
「彦志郎、その聞いたこともない胡沙何たら丸とやらを薬研で磨り潰し、半分を水に溶かしてみなさい」
薬研は薬草を細かく砕く鉄製の道具である。深く窪んだ舟形の中に薬草を入れ、握り棒のついた重い車輪をきしらせて押し砕く。いわゆる「くすりおろし」である。
源庵は弟子に命じると、文吉が一緒に持ってきた蒸し饅頭にパクリと食らいついた。
「先生、そいつぁ!」
「大丈夫だ、ちょうど酒の肴がなかったのよ。ん? 饅頭も冷えたものは美味しくないのう。じゃが、桜の塩漬けがいい塩梅に漬かっておるわい」
源庵が哄笑して、湯呑み茶碗の酒を口に運んだ。
数馬にとって源庵は初めてだったが、彼のぞんざいな態度に不安を覚えた。文吉をそっと見たが、文吉の顔は源庵を信頼しきっている様子である。
「先生、調べるまでもございません。ウコギの臭いがします。初春芽が出る前に掘り出して、水洗いし、根の皮を剥がして天日で乾燥させ、刻んだものです。後、芍薬と甘草が少々、……」
胡沙君子青竜丸をすり潰した粉に鼻を寄せ、臭いを嗅いだ後、舌の上で溶かして味わった彦志郎がこともなげに言い捨てた。
源庵も少し小指の先に取って舐めた。
「うん、どの医学書にもその名の見えぬ薬名じゃが、全くの偽薬ではないようじゃの。胡沙とは、蝦夷人の口から吹く病魔を退散させるという霧のような息のことじゃ。それに君子、青竜と続くか。良識のない誇大に傾いた薬名じゃな」
源庵が嗽をするように酒を飲みほした。
「ま、しかし、腹痛には効くかもしれぬわい。芍薬には痛みを抑える効果もあるからのう」
「宮中、秘伝の薬という触れ込みですが?」
「それは何とも言えぬ。宮中には仕えたことがないでな」
源庵がからからと大きな口を開けて笑った。前歯が一本欠けているのが見えた。
「それじゃ、偽薬ってことでしょっ引くのは?」
「御縄をかけることはできぬことはあるまい。しかし、秘伝の薬は眉唾じゃが、……偽薬ではない。まこと奴等の言うように大炊御門家の秘薬じゃと居直られたら、やっかいかもしれんな」
「やっかい?」
怪訝な顔をする文吉を前に、源庵が皮肉を込めて諭すように口を開いた。
「名門大炊御門の名をぶんぶんと振り回されて、奉行所がきちんと裁けるかのう。偽公卿だとわかっておるのか?」
「へい、まだご老中様を通じて京都所司代に問い合わせている最中でして」
「それがはっきりしてからの方がよいのではないか? 徒労に終わる。下手をすると十手を返上するだけではすまぬかもしれぬぞ」
偽薬で彼等を拘引することを文吉は思い留まった。十手返上に恐れをなしたのではない。文吉はお蔦殺しの下手人を挙げたいのだ。余計なことで時間を取られたくない。
「新手の蝦蟇の油売りだったのかい」
数馬が残念そうにがっくりして溜息を吐いた。
「いや、数馬さん。誑かしたのは間違いねぇ。例の腹痛を起こした野郎共もとっ捕まえて全員ひっ括ってやる。それにお蔦殺しの下手人かもしれねぇんだ。このままじゃ許さねぇ」
源庵がさらに貧乏徳利から茶碗に酒を満たして、旨そうに啜った。
「しかし、薬の調合は簡単なものではないぞ。素人が簡単に作れるものではない」
「そうです。この胡沙君子青竜丸のそれぞれの薬草の配分は確かなものです。甘草が多いと体にむくみができたりしますが、これは確かに上手く調合しています」
彦志郎が源庵の言葉を継いだ。
「本物の薬だということですね」
思案が尽きたように数馬が天井を見上げて腕を組んだ。
「裏で旭一心堂が絵を描いたとすりゃ、同じ薬を大量に準備できる。あるいは、……」
文吉はお蔦殺しの糸口が欲しかった。何とかこのイカサマ芝居からそれを見つけられないか考えた。
「何かの切っ掛けで大量に薬を手に入れ、それを売り捌くのに旭一心堂を使った」
数馬が文吉の考えを別の方向から推し量った。
「何人か旭一心堂に張り付かせることにするか」
「もう一人、薬問屋の元締、上総屋伍兵衛にも探りを入れるとよいかもしれぬな。裏で御公儀とも繋がりかなり悪どいことをしているとの評判……」
源庵が喋りながら酔って寝てしまった。弟子の彦志郎が寝床を作り、師を寝かせつけながら文吉等に源庵の話を継いだ。
「実は旭一心堂は、かなり商いが左前になっているそうなんです。病人以上には薬など売れないのに奇を衒った策を打ち、悉く当てが外れ、上総屋からかなり資金援助を受けているらしい。噂ですがね。薬屋の株も手放さなければならないところまで追い詰められているようなのです。わが師は地道なやり方を好みますので彼らを嫌っております。まぁ、割り引いて聞いてください」
彦志郎も師に似て、欲得から一切離れた性質のようだ。変に肩に力が入っていない所など数馬と気が合いそうな気がした。
数馬とは初対面の彦志郎もそう思ったのかもしれない。台所に隠してあった貧乏徳利と茶碗を三つ持ってきて文吉と数馬の前に置いた。
「さて、師も寝たことですし、ここは若い者だけで。源庵先生には秘密の酒です」
「なんだい、師匠も師匠なら、弟子もうわばみかい」
文吉が頭をかいて十手を腰から後ろの結び目に差し替えた。胡坐を組んで座るのにその方が楽なのだ。
同時に膝を崩した数馬が莞爾して彦志郎に茶碗を突きだした。
長い夜になりそうだった。
文吉の手足となって働くのは幼馴染の佐平と、先代からの下っ引きである飾り職人寅蔵の二人である。寅蔵は四十を越え、腕には島がえりを示す二本の刺青があって、昔の仲間からの情報が取れる強面の男であった。
その寅蔵が虱潰しに聞き込みをしながら向島から下っている時、見知った女が小さな一軒家に入って行くのを見た。隅田村の辺りだった。
「お京じゃねぇか。なんでこんな所に居やがる……」
何カ月か前、下谷の呉服屋で女中奉公していた女である。入り婿の若主人と抜き差しならぬ関係になり、店を追い出されてしまった。最初は手籠同然に若旦那に犯されたのだが、そのうち情が通ってしまったのかもしれない。歳は二十九の大年増だが男好きのする女だった。
家の釣り合いだけで婿養子に来た若旦那にはまるで商才がなかった。店で厄介者扱いされ与えられる仕事も少なくなり、小僧達からさえも陰で馬鹿にされる有様だった。抑えきれない不満が手近で従順な女に気を向かせたのかも知れない。
しばらく若主人は店に内緒で家を借り、お京を囲っていたが、それも見つかってしまった。
ついに嫁の悋気に耐えられなくなった若旦那の選んだ先は相対死の道行だった。お京はその生き残りである。心中を為した者は大罪で、例え生き残っても死罪という厳しい法があった。店は世間体を考え、誰にも見られなかったことを幸いに若旦那を病死として処理することにした。
お京は口止め料を渡され、橋の向こうに追いやられた。
寅蔵は、その一件を処理してやったのだ。当然、少なからず店から謝礼も受け取った。半分強請りのようなものであったが、無論文吉の知るところではない。
だが、久しぶりにお京を見た寅蔵は女の明るさを訝しく思った。
「あんなに眩しい女じゃなかったはずだ。浮世の風に吹き流されて擦れっ枯らしみてぇな人を小馬鹿にしやがった目をしていた。人違いか?」
お京の入って行った家に指物師の看板がぶら下がっていた。「あさきち」と丁寧だがこぢんまりとした文字で書いてある。主は看板の文字通りなら真面目で気の弱い男のようだ。
「邪魔するぜ」
人相が悪く、とても堅気には見えない男のふいな訪問に、中にいた若い男と女はいちどきに慄いて腰を浮かせた。男は手にしていた鑿を胸のあたりに構え、女を庇った。
二人の慌て方が尋常ではなかった。
「おい、おい、御挨拶だな。まるで俺がおめぇらを殺しにでも来たみたいな顔をしてるぜ」
寅蔵が懐に手を突っこんだまま、框に腰を下ろしながら二人を睨みつけた。懐の中で十手を握っている。気の小さい奴は突然何をしでかすかわからない。寅蔵は決して隙を見せなかった。
「な、何、寝言、言ってやがる。てめぇ、あ、あん時の野郎だな。どうして己いら達のことがわかった。殺しに来やがったのか? おめぇたちのしたことは誰にも言わねぇから、とっとと帰ぇりやがれ。帰ぇらねえと怪我だけじゃすまないぜっ」
「おまえさん、相手は一人だよ、殺っちまいなよ!」
甲高い声を震わせながら女が亭主らしい男の後ろから発破をかけた。
「何か勘違いしてるみてぇだが、なんでそんなに脅えているのか、ゆっくり話を聞かせちゃあくれねぇかい? こちとらお上の御用だ」
寅蔵は、二人にぐっと十手を突き出した。
「お京、俺の顔を忘れたかい?」
女があっと小さい声をあげて、固まった。にやりと笑った寅蔵の顔を見て、二人とも腰が抜けたようにその場にへたり込んでしまった。
寅蔵に呼ばれた文吉は、浅吉とお咲に三圍稲荷へ案内させた。
浅吉とお咲にとってはあれ以来近づいたことのないお稲荷さんであった。知らず知らずに浅吉は文吉や寅蔵の陰に隠れるようにして動く。お咲は半ば諦めたように居直っていた。お咲にとって寅蔵は思い出したくない過去を思い起こさせた厭な男だ。寅蔵の何を考えているのか判らない不気味な視線を避けるようにお咲の目は川の流れを追いながら歩いた。
下谷の呉服屋を辞めてから、店から手を回されてどこも雇ってもらえなかった。身寄りのないお京が生きていくためには男達に身を売るより外なかったのだ。
――夜鷹の花代二十四文、二八そばが十六文、三杯食べる分で夜鷹が二人抱けるだって? 笑わせるんじゃないよ。
いや、もっと真剣に捜せば世間で真っ当と呼ばれる職につけたに違いない。
それをしなかったのは捨て鉢になったお京のせいだと、自分でも承知している。ずっと流れに逆らわずに生きてきた。逆らったって自分の思う通りには転ばない。逆らった自分と逆らわなかった自分とどっちが幸せだったか考えてみても夜鷹蕎麦の代金ほど変わらない気がしていた。
だから好きでもなんでもない男から一緒に死のうと言われても逆らわなかった。
――死ぬのだって生きているより楽なもんさ。
楽な方がいい。つい最近までそう信じていたはずだった。
――それなのに何で夢見ちまったんだろう。
最近ではお咲と名を変えて浅吉と一緒に暮らしているうちに、近所から指物師のおかみさんと呼ばれている。それは心地好い響きであった。いつの間にか自分はお咲なのだと思い込んで来た。殺し屋に狙われるのではないかという不安を共有した中で得られた小さな幸せなのであろう。浅吉と恐怖を忘れるように激しく肌を重ねた。お陰で情が移ったのかもしれない。
それが寅蔵の出現で忘れたはずのお京の頃に引き戻してくれた。
浅吉は、腕もよく優しい男だが、胆の小さな男であることを知っている。今まで誤魔化していたが右手首の消えない傷跡が、心中の名残だと浅吉に知れてしまった。
――本当だったら三尺高い獄門台に首が晒されても不思議じゃなかったんだ。
心中の生き残りと所帯を持ってくれる殊勝な男がどこの世界にいるってんだ。
やっぱ、わちきは流れに逆らう生き方は似合わない。このまま大川を下り続けて、海に出ちまうしかないんだろう。
岡っ引きのお喋り野郎!
十手を嵩にきた糞爺ぃ!
なんでわたしの邪魔ばっかりするんだい!
お咲は心の中で寅蔵を口汚く罵知り続けた。
文吉は、お稲荷さんの境内を隅から隅まで歩いて調べた。
「浅吉さん、この辺りで嬲られていたんだね」
「へい、ぐるっと取り囲んで背中殴ったり、腹を蹴ったりしておりました。その内一人が後ろから腕回して、こう、ぐぐっと締めあげたんでやす」
浅吉が、記憶を頼りに人影が動いた所を指さしながら文吉に説明した。
「見て見ぬふりをしたってわけだ」寅吉が恫喝するように言った。「人が殺されるのをそのままにしたってことは、てめぇが殺したのも同じだぜ」
太く野卑な声に浅吉が、ヒッと首を竦めた。
「寅蔵さんよ、そんなに言うもんじゃねぇぜ。浅吉さんには浅吉さんの事情があるんだ。少し黙ってな」
寅蔵が不貞腐れて頭を下げソッポを向いた。
浅吉が頼るように文吉に身を寄せてきた。
「心配するねぇ、誰もがみんな助けに出ていけるもんじゃねぇ。まして隣にお咲さんがいたんだ。お咲さんを守らなきゃならねぇ。浅吉さんは何の罪咎も受けねぇよ。己いらが請け合う、絶対にだ」
安心したように浅吉が文吉へ媚を売るように愛想笑いを浮かべた。
それを見た寅蔵が鼻で小さく笑った。
別に寅蔵と文吉の仲が悪いのではない。寅蔵は文吉の父親の心意気に心酔していた。その息子の文吉に早く一端の十手持ちになって欲しいと思っている。ただ自分の性格を考えた時、できることといえば人に恨まれて文吉の仕事をやりやすくすることだけなのだ。そのことは文吉に伝えてある。人前でどんどん叱ってくれと。俺はそんなこと気にしねぇから、と。
「全部で男が五人だったて言うんだな。他に何か覚えちゃいねぇかい? 何でもいいぜ、つまらねぇと思った事でも手掛かりになることがあるんだ」
浅吉は必死に思い出そうとしていた。その横で飛んでいくユリカモメをお咲はぼんやりと眺めている。
「会わせてくれって叫んでました」
「誰に合わせてくれって言ってた?」
「さぁ……、よく聞こえなかったんで」
浅吉が首を傾げた。本当に思い出さないようであった。
それとなく話を聞いていたお咲は、はっきりとあの闇の向こうに見えた凄惨な光景が目に浮かんできた。
――あのお婆さんも流れに逆らわずこんな所まで出て来なければ死なずに済んだものを……。誰に会いたかったかなんて知りたくもないが、殺されてまで会わなきゃならない人なんてこの世にいるもんか。
「実はな、殺された婆さんはお蔦さんといってな。貧しい暮らしの中で離ればなれになった息子に似ている者がいるらしいってんで内藤新宿から足の悪いのに無理して出てきたんだ」
「内藤新宿ったら遠い所ですね。あっしでも滅多に行ったことがねぇ」
浅吉が憐憫の情を言葉の端に滲ませた。
――やれやれ、そんなところから殺されるとも知らずにのこのこやって来たのかい? 堪らないねぇ、じっとしてりゃ良かったんだよ。それにきっと息子って奴も貧乏が嫌で愛想尽かして出て行ったんだろ? そんな薄情な息子なんてほっときゃいいんだ。
お咲の心の叫びとは裏腹な涙が頬に毀れ落ちそうになって風に飛ばされた。
「ところが、お蔦さんの子供は本当の子供じゃねぇ。蜜柑箱に入れられて捨てられていたそうだ。そいつを手塩にかけて育てた。息子が出て行ったのは他所で一旗あげて育ててくれたおっ母さんとかわいい妹を引き取りてぇっていう話からだそうだ。内藤新宿近辺じゃ、蜜柑箱の子と虐められて、まともな仕事にゃ就けなかったからだと妹さんが悔しそうに教えてくれた」
「妹さんが一緒に住んでいなさったのかい?」
「いや、そいつも育ての母親の薬代が払えず、今は深川の岡場所にいる。自分から身を売っておっ母さんを助けたのさ。その娘に言われた。なんでおっ母さんが殺されなきゃならないんだって、よ。こんな理不尽なことがあるかってな。必ず捕まえて下さいって頼まれたんだ」
――自分から身を売っただって? どいつもこいつもどうしてこうお目出度いんだろう。薬代? 死んじまったんだから無駄骨じゃないか。しなくてもいい苦労を背負い込んじゃったわけだ。世の中、そんなもんさ。妹ってお人もトットと家を出ちまえば良かったんだよ。馬鹿だよ、何で流れに棹差して生きやがるんだ。
――私はずっとひとりだったよ。早いうちにふた親は逝っちまうし、それからは親戚や知り合いを盥回しの厄介者さ。気に入られようと頑張るたんびに、そこの子から虐められ、少し大きくなると、今度はそこの親爺が手を出してきた。悋気したそいつのかみさん連中に何度追い出されたかわかりゃしない。
大きな声で言うけど、私の体は誰にも指一本触らせやしなかったよ。
それで、やっと独り立ちして呉服屋の奥を任されるようになったんだ。そりゃあ頑張ったさ。
そしたら、この様だよ。頑張ったら叩かれて、……。頑張ったら叩かれて、……。だったら、流れて行く方が楽に決まってる。
どこでこんなになっちまったんだろう?
その妹さんって、女郎なんだろ? 自分から沈んだんだろ? なのに何で岡っ引きなんかが同情するんだよ!
――あたしなんか……あたしなんか……あたしなんか……ずっと一人で生きてきたんだ。
あたしとどこが違うってんだ!
風も飛ばせないほどの涙の滴がお咲の目から止めどなく溢れてきた。判らないように袖で拭った。
「……まっちゃん、……松乃助、あのお婆さん、そう呼んでたっけね」
お咲が皆に背を向けたまま抑揚のない声を風に飛ばした。
「そうだよ、松乃助だ。よく覚えていたな、お咲。松乃助……だ。廻りの奴等もその名前を口にしていた。今は松の字に会わせるわけにゃいかねぇ。お前さんの息子は今や手の届かねぇ高貴なお方なんだ。いい息子を持ったなって、あの世で会いなって……」
「高貴なお方って言ったんだな。ありがとうよ、それが聞けりゃ十分だ。しかし、てぇことはその場に松乃助はいなかったってことになるな」
その場に松乃助がいなかったことで文吉は胸を撫で下ろした。
「寅蔵さん、奴等のねぐらはこの近くにありそうだ。明日から人数増やして虱潰しに当たろうぜ。人数も結構いるようだからおかしな奴等は目立つはずだが……」
文吉は植え込みの陰に潜んでいる男を意識して少し大きな声を出した。
浅吉は不安そうに文吉を見た。全て喋ってしまって急に目に見えない恐怖に襲われたに違いない。
「やっぱあいつ等この近所にいるんでしょうか。俺は……俺は……」
「心配するな。そいつらを捕まえるまでお前の家を見張っておくから。怪しい者は蟻一匹近寄らせやしねぇ。お咲さんも普段通りに暮らしてもらって大丈夫だぜ。今日は大事なことよく思い出してくれたな。礼を言うよ」
浅吉は大事な証人だ。殺させるわけにはいかない。
こちらを窺っていた影が冬の川風の起こす音に紛れて消えた。文吉と目の合った寅蔵が軽く会釈を返して、影の消えた方に目をやった。
お稲荷さんに手を合わせてから文吉は寅蔵を一人残して竹屋の渡しから舟に乗り込んだ。浅吉には伏せておいたが、慶吾に捕り方の手配りを依頼するためだ。そしてたった今判った事実を報せなければならない。いつ奴等が襲ってくるか分からないが、今のままでは多勢に無勢だ。人数を集めて戻って来るまで、ここは寅蔵を信頼する他なかった。
雷門前広小路の茶屋の騒ぎ以来、公家主従の姿をぷっつり見なくなっていた。
江戸に散らばる佐平の塩売り仲間からの情報も滞っている。
「一仕事済んで、公家の恰好で歩き回る必要がなくなったってことですかね」
文吉の長屋で佐平が首を長くして三圍稲荷から帰ってくる文吉を待っていた。七つになろうとしていた。
「必要がなくなったかどうかわからねぇが、さっき番屋に寄ったらうまい具合に島岡の旦那と会って、教えてもらった」
京都から問い合わせの返事がきたという。大炊御門家には姫はいないということであった。
「てっことは、正真正銘の偽物ってことで。ま、はなっから怪しかったわけだが」
「一応確かめとかねぇとな。上で心配なさるお方がいらっしゃるから。それに殺されたお蔦の息子がどうも化けてるらしいぜ。殺しの現場を見ていた夫婦がいた。はっきりと松乃助って名前を聞いてる」
「そりゃお手柄でした。しかし、なんでその夫婦はそんな場所へ……」
「あんまり言えねぇ事情もあるんだよ」
鯉釣りに来た浅吉と夜鷹の逢瀬の話を文吉は隠した。佐吉には話してもよかったが、傍にお澄美がいるのでなんとなく憚ったのかもしれない。
「それによ、繋がるかどうかわからねぇが、大阪東町奉行所からお手配が廻って来た…… 三月前に大阪の薬問屋がお仕込みに襲われた」
「おいおいおいっ、物凄く臭うじゃありやせんか」
千両箱ひとつといっしょに蔵に保存していた薬箱が大量に盗まれたそうだ。暗かったので金と間違えたのではないかというのが奉行所の見立てだった。その賊が東海道を東に向かったという情報まで掴んでいる。道中、薬を捨てた形跡がないのでおそらく江戸にそのまま持ち込んだのだろうとの話だ。船を使ったかもしれない。売り捌くつもりなのだろう。
賊の頭は、二寧坂の権蔵。
なぜ、二寧坂の異名がついたのかは定かではない。二寧坂は京都の高台寺から清水寺へと続く緩やかな石畳の坂で、そこで躓き転ぶと二年のうちに死ぬといわれている。権蔵は、おそらく京都の出身なのかもしれない。子分は百人とも二百人とも喧伝され大阪で五件の押込みが確認されているが、最後の薬問屋への押込みまで実態は不明であった。外道働きで生き残った者がいないためである。
薬問屋では、住込みの奉公人から店の主人にその家族までほとんど殺されたものの、とっさに押し入れの行李に隠れた年若い女中と雪隠の壺の中に身を隠した丁稚が幸いにも生き残った。特に女中が行李の中で聞いた声に、最近頻繁に来店するようになった客がいたことを覚えていた。何度か茶を出したので顔も覚えていた。下見に来ていたのであろう。
二人の話から手配書が作られ、二寧坂の権蔵は関西を追われることとなったのである。配下は二十人弱であることも判ったが、何れも一筋縄でいかない男達であった。
文吉が佐平にあらましを話して聞かせている最中、塩売りの権太が飛び込んできた。まだ十七歳の無鉄砲な若者である。
「旭一心堂が駕籠で出かけやした!」
「行先は?」
「日本橋の料亭「白菊」でィ。なんとどこから湧いたか、そこに例のお公家さんと、それから総元締の上総屋伍兵衛。三太郎と喜助を見張りに残してきました」
文吉の胸がざわついた。
「役者が揃ったな。行くぜ、佐の字」
すぐにでも佐平等を引き連れて浅吉の元へ戻る予定だったが、ここは外せない。
框から勢いよく飛び降りた文吉は、思い立って一番外れの数馬の棟を訪ねた。
浅吉の家では、寅蔵をまじえた静かな夕餉が始まっていた。
「何にもなくてすいません。買い物に行く暇がなかったもんですから、有り合わせでこんなものしかできなくて」
お咲が口を利いたのはそれが最後だった。浅吉も口が重かった。暗く重たい食事だった。しかし、寅蔵はそんなことお構いなしに、飯の上へ味噌汁をぶっかけてさっとかきこんだ。
「いつまでこんなことが続くんでしょうか?」
寅蔵が下から上目づかいに浅吉を見て笑った。そして、勿体をつけるように米のとぎ汁で柔らかくなるまで煮込んだ大根の輪切りを箸で割って口に頬張った。
「お京、旨いぜ。ちょうどいい煮加減だ。味噌もいいもの使ってるじゃねぇか。さすがは元賄頭だ」
黙って頭を下げたお咲は寅蔵から鼻で笑われた。
「知らなかった、それで料理が上手いのかい。大店じゃこんな旨ぇもんを毎日喰ってるんだな。そこじゃ上から下までみィんな同じもん喰っていたのかい?」
浅吉が上ずった声で褒めたが、お咲の昔のことを聞きたがる浅吉の問い掛けに答えずに、顔を背けて急須に湯を足した。
訝る浅吉に寅蔵が向き直った。
「お前ぇさん方は大事な生き証人だ。お蔦殺しの下手人が捕まった時、御裁きの前でしっかり見ていたことを喋って貰わなくっちゃいけねぇ」
浅吉が目を見開いて震えているのを見て、寅蔵が冷たく声を出さずに笑った。
「乗りかかった舟だよ。もうお前ぇ達は降りることはできねぇんだ」
乗りかかった舟という言葉に、お咲はふと顔をあげて箸を止めた。
――乗った舟ならいつか反対側の岸に着くんだ。そしたら……やっぱり降りなきゃならないんだろうね? そうだよ、あたしゃ心中者の生き残りじゃないか。そんな女が人並な夢を見ちゃあいけないんだ。やっぱり、あたしは流れて生きて行くのがお似合いなのさ……
お咲は感情を押し殺してもくもくと箸を動かし続けた。
「心配するねぇ、お前ぇ達のことは、しっかり守ってやるぜ。せっかくお京が新しい生き方を見つけたんだ。それを守ってやるのが俺の務めだ。お咲って名に変えたのか……、そいつぁ、しっかり咲かせなきゃあな、おいっ」
お咲は俯いたまま二人の男と目を合わせるのを避けた。
そんなお咲を、冷笑を浮かべて眺めていた寅蔵が十手を取り出してくるりと指の間で回した時だった。
家が突然地震のように激しく揺れた。
「しっかり守ってやれよ、爺さん」
遊び人風体の厳つい男達が数人、つっかい棒の掛かった引き戸を叩き壊してどっと中へ入って来た。
「十手持ちがうろうろ嗅ぎ回っているって言うから、来てみたらこんな爺さんかい。だが、お前ぇ等もよくあんな夜中にいたもんだ。いってぇ何してたんだい? 乳くりあってたのか」
卑猥な笑い声が侵入者の間から湧いた。
「兄貴、いい女じゃねぇか、殺す前に遊んでいいかい?」
「ああ、そのかわり俺が最初だ」
さらに甲高い笑い声がお咲を威嚇した。血の気が引いて蒼褪めたお咲が後ろの板壁に向かって少しずつ後退した。心配して出した浅吉の手をお咲は払った。
寅蔵が素早く前へ出ると、浅吉とお咲を庇うように十手を構えて男達を牽制した。
「そろそろ来る頃だとは思っちゃいたが、早かったじゃねぇか。どっちにしろ、お前ぇ達から挨拶に来てくれるとは、捜す手間が省けたぜ。神妙にしろぃ!」
含み笑いが男達から一斉に漏れた。皆、手に匕首か長ドスを構えている。
「元気のいい爺さんだ。せいぜい頑張って仕事に励んでくれよ。だがな、俺達ぁ人を殺すことなんざぁ少しも躊躇わねぇ。十手持ち殺すのもガキ殺すのも、顔色ひとつ変えねぇ奴ばっかりよ。すぐ楽にしてやるぜ。迷わねぇで成仏しな」
「よく廻る舌だな、油でも舐めたのかい。首絞めて婆ァしか殺せねぇくせによ」
寅蔵が先頭の男から視線を外さず、冷やかに笑った。
「舐めやがって!」
悪童面した若者が長ドスを振りかぶって寅蔵に斬りかかった。寅蔵は一歩踏み出しながら上体を僅かに捻って刃先を避けると十手を強かその若者の頭に振り落とした。男は悲鳴を上げて後ろに飛ばされそのまま悶絶した。目を瞬く暇もなかった。
寅蔵の袖が捲れて島帰りの刺青が晒されると、微かに侵入者の間で動揺が走った。
「ただの爺さんじゃねぇな」
「お前ぇ等とは年季が違うぜ」
寅蔵は十手を持つ手に滑り止めの唾を吐きかけると、お上に入れられた刺青が見えるように構えてぐっと睨め回した。一歩も引かぬ寅蔵の暗い目が取り囲んだ男達を怯ませた。
「なんでぇ! 島帰りが今じゃお上のご用かい。笑わせるんじゃねぇ。いいか、野郎ども! 俺が合図したら一度に掛かるぜ。まず爺ぃから血祭りだ」
兄貴分の男が匕首を持った腕の着物の袖を肩まで捲り上げた。ろくろ首の刺青が顔を出した。
寅蔵が足を踏ん張って構えを直した。
「掛かるぜ!」
残りの三人がオオッと気合を込めて手に持った獲物を振り上げた時だった。一番後ろで構えていた丸坊主の男が悲鳴を上げるや、前にもんどり打って転がった。そのまま気絶したようだ。
「遅れてすまぬ。明日の手習いの手本を書いている内に遅くなった」
「先生、待ちくたびれたぜ。俺は仏になる覚悟を決めた所だったよ」
藤堂数馬が「すまぬすまぬ」と笑いながら、木刀を片手にぬっと家の中に入って来た。
浅吉は何が起こったのか把握できずにいたが、寅蔵の顔がほっとしたように笑ったのが見えた。
「この先生は、さる藩の剣術師範代だ。百人力だぜ」
「おいおい、師範代だったのは俺の父上だよ」
そう言っている内に数馬のすぐ右にいる男を一刀の元に打ちのめした。骨が砕ける音がした。肩を強打された男は声を出すこともなくその場に崩れ落ちていった。
「やっちまえ」
兄貴分の甲高い声にも残った一人は腰が引けたまま長ドスを突き出して、じわじわと後退りしていた。今にも泣き出しそうな恨めしい目を兄貴分へ向けた。
「ええい!」
ろくろ首の腕がその男の襟を掴んで数馬の方に押し出すと、自分は寅蔵に向かって突進した。
ろくろ首の男は懐の中から眼潰しの粉を寅蔵に投げつけながら、寅蔵がよけて死角になった方向から匕首を突き出した。咄嗟に寅蔵は左腕でそれを受けると十手を男の眼に向かって突き出した。勝負は一瞬に決まった。ろくろ首の男は左目を失って絶叫しながら床を転げ回った。
「寅蔵さん、すまぬ。怪我をさせたな」
最後の若者を木刀で打ちのめした数馬が心配そうに寅蔵を気遣った。
寅蔵は目で笑うと器用に腰の手拭を抜いて口と右手を使って上手に止血した。我に返ったお咲が寅蔵の傍に駆け寄り、新しい手拭を包帯代わりにして腕に巻いた。
「浅吉さん、悪いが丈夫な縄か紐はねぇかい。こいつらを縛りあげねぇと」
寅蔵に声を掛けられて浅吉が腰を抜かしながらも裏から荒縄を持ってきた。
「十分だ、借りるぜ。返さねぇかもしれねぇが」
寅蔵の軽口に浅吉は無理に声を出して笑ってみせたが、泣いているようにしか見えなかった。
数馬に手伝ってもらいながら侵入者を全員数珠繋ぎに縛り上げた。
「藤堂の旦那、手伝いついでに申し訳ねぇが、あっしはひとっ走り捕り方を呼んでまいります。見張っていておくんなせぇ。ついでにこいつらの塒を吐かせておいてくれると嬉しいんですが」
「そりゃあ奉行所の仕事だろう。俺は文吉親分から寅蔵さんを守ってくれと頼まれただけだからな。ま、留守番くらいはしてやるぜ。早く戻って来いよ。明日の指南所休む訳にはいかないからな」
「こりゃ、あっしとしたことが、甘えすぎやした。それじゃ、少々お待ちを。先生のお帰りは御用の舟を用意しますんで」
数馬が快諾したのを見て寅蔵は浅吉の家を飛び出していった。
その頃、日本橋の「白菊」に勝手口から入った文吉は女将を呼び、信義を尽くして協力を頼み込んだ。十手も自らの身分を明かすためだけに控え、腰を折って礼を尽くしたつもりだった。
「仰々しいよ、客じゃないんなら帰っとくれ! うちの店で楽しんでいらっしゃるお客様をお上に差し出したとあっちゃあ白菊の名折れだよ!」
女将は何故か最初から喧嘩腰で取り付く島がなかった。
文吉のことをまだ若造だと見くびっているのか、十手持ちに反抗するのが日本橋で女将を張る者の矜持だと勘違いしているのか、斜に構えて居丈高に文吉を追い返そうとする。塩でも掴んで巻き散らかしそうな形相だった。熱くなって喰い下がろうとする佐平を宥め、文吉は外に出た。権太等が心配そうな顔で店から出てきた二人を見ている。
「嘗めやがって! お多福提灯の糞婆ぁ。兄貴ぃ、島岡の旦那をお呼びして懲らしめてやりましょうぜ」
「ありゃあ、慶吾の旦那だって一筋縄じゃいかねぇだろう。それに旦那を呼ぶ暇がねぇ」
「こんなときに寅蔵の爺さんがいたらなぁ、あの人の脅かしは半端じゃねぇから」
忌々しそうに白菊の白壁を蹴る佐平の言葉にふっと、隅田村に残してきた寅蔵への気がかりが頭をよぎった。
「心配ごとですかい? 隅田村? 大丈夫ですよ。寅蔵の爺さんの十手術はその辺の三一侍が束になったって敵いやしねぇ。それに助っ人が指南所の先生でしょうが。鬼に金棒ってこのことですよ」
軽薄な佐平の顔を見ていると、文吉の顔も緩んだ。
「そうだな、寅蔵さんばっかしに仕事させといて、己いら達がぶらぶらしているわけにはいかねぇや。さてどうするかだ、な」
幼馴染の佐平が子供の頃よく見せたやんちゃな顔で、含み笑いしながら鼻の下を指で何度も擦った。
「考えるまでもねぇ」
「その笑いを見た途端、背筋にさぁーっと冷てぇもんが流れたぜ。俺達はもうガキじゃねぇんだからな」
「やらねぇんですかい?」
「馬鹿野郎、佐平、馬になれ。塀を乗り越えるぜ。上から己いらが引っ張り上げてやる」
そうこなくっちゃ、――
佐平が嬉しそうに料亭の壁に手を突いて踏ん張った。
忍び込んだのは文吉と佐平だけで、一緒に行くとせがんだ権太達には表で待機させた。
庭木に身を隠しながら、二人は上総屋伍兵衛等の座敷を捜した。うまい具合に旭屋忠兵衛が厠に立った。仲居に案内されて上機嫌に渡り廊下を歩いている。目的の座敷は離れにあり茶室を一回り大きくしたような作りで、外界と遮断されるように木立で囲まれていた。翠香庵と額が掛かっている。静寂な空気の中を文吉と佐平は細心の注意を払って、離れ座敷に近づいた。鹿威しの音以外に物音はしなかった。中の声は外まで届かないようだ。芸者を侍らしている様子もない。
「壁に耳当てた所で中の様子は聞こえそうもねぇな。縁の下に潜るしかねぇか……」
「何の相談をしているのかそれだけでも聞きてぇもんですね」
そっと建物の裏に回ると肩幅よりやや広めの通気口があった。文吉が先に床下に潜り込み、佐平が続いた。
僅かに差しこんでくる淡い月明かりは辺りを真っ暗闇にはしていなかったがひどく頼りないもので、文吉は五感を研ぎ澄まして手探りで進むしかなかった。蜘蛛の巣を払いながら上の声が一番よく聞こえそうな所を捜した。三尺先にじっとした小さな黒光りする目と合った。子鼠が突然の侵入者に脅えながらも身構えている。佐平が声を出さずに猫の真似をして威嚇した。佐平の気迫が勝って子鼠は去って行った。
佐平が文吉と顔を合わせて得意げに笑った時、微かに上から人声が漏れてきた。二人は埃まみれになることも厭わず床板に耳をつけた。
「旭一心堂さん、……この度は上々の首尾でございましたね。これで一息つけましたでしょう」
上総屋が当人には悟られ難い嘲弄を含んで旭一心堂を労うのが聞こえた。額面通りに受け取ると、つい騙されてしまいそうな狡猾さが漂う柔らかい声色だった。佐平が嫌悪感に顔を歪めたのはおそらく自分と同じ気持ちなのだろうと文吉は思った。
「仰せの通りでございます。お陰さまで、譲っていただきました胡沙君子青竜丸は完売させていただきました。売上の七割、二百十二両二分、約定通り持参いたしましたのでお納めくださいませ」
上総屋が総元締めだからかそれとも旭一心堂が上総屋からの借金を負い目にしているのか忠兵衛は慇懃に答えていた。声の真摯さに平身低頭している様子が窺える。
「これも若狭さんと御局さんが一芝居、いや骨を折っていただいた賜ですよ。この薬代は私共が三割五分、お宅様が六割五分でよろしゅうございますね」
「上総屋、濡れ手に粟じゃな」
若狭の声であった。
「何を仰います。若狭さんは薬の捌き方に困って相談にいらっしゃいました。ちょっと物騒な訪ないではございましたけどね。私は薬問屋でございますよ。あなた様から仕入れさせていただいて旭一心堂さんへ卸す。真っ当な商いではございませんか。それに大奥のさるお方からのご紹介。私共にとっては破格な条件を付けさせていただきましたよ。そうそう、旭一心堂さんからも僅かではない謝礼が出ておりますでしょうが?」
若狭に遅れて上総屋の笑う声がした。
「江戸にもおぬしのような悪党がおるのじゃのう」
「お褒めの言葉と取らせて戴きましょう」
酒を注ぎ合っているのかしばらく会話が途切れた。次に話の口火を切ったのはやはり上総屋であった。
「ところで旭一心堂さん。今の勢いを借りてもうひと勝負するつもりはないかね」
「と、仰いますと?」
「今回旭一心堂さんに回したのは若狭さんから預かったもののほんの一部だ。上総屋の川越の蔵にはまだ売値にして二千両分ほどあるんだが、売る気があるなら全部あんたの所に卸して構わないんだよ。私への借金を一気に返すいい機会じゃないかねぇ」
「えっ、よろしいんでございますか? 願ってもないことですが、……それだけのものを仕入れる金が……」
「残念だねぇ、他に回してもいいんだよ。胡沙君子青竜丸はこちらのお二人が十分宣伝してくれたからねぇ。引く手数多だ。みんな旭一心堂さんですぐに売り切れたのを知っているからねぇ。あまりの評判の良さに世のため人のためと京におわします天朝さんからの格別の思し召しで急遽追加仕入れしたっていう触れ込みなら、まだ熱が冷めない胡沙君子青竜丸ではありませんか」
「しかし、……柳の下の泥鰌のたとえもございますし」
忠兵衛が煮え切らない様子が伝わって来た。
「ええい、焦れったいねぇ。あんたも今度のことでよく判っただろうに。世の中、それもこの江戸に住んで居る者は特に愚かなんだ。流行りに惑わされて自分ってものを失っていることに気付いていない。誰かが大きな声でこれがいいと叫ぶとそれが正しいと思い込んでしまう。ほとんどは、知らない間に他人に服従することに慣れ過ぎて、頭を使うことを忘れちまった人間だよ」
上総屋が苛々と忠兵衛の廻りを歩き回っているようだ。足袋が畳に擦れる癇に障る音が円状に動いた。
「若狭さんが江戸に出てくる途中で拾った旅役者一座。興行もままならない一座を買い上げての今度の三文芝居。特にお局役の女形さんは見事だったねぇ。若狭さんも安い買い物をしたと思っているだろう。忠兵衛さんも最前まで本物の女だと思っていたみたいだしね。怪しいと思っていてもそれ以上に惹かれる魅力があれば人はころりと騙される。いや、馬鹿な連中は叶わない夢を見て、騙されて見たいと思っているんだよ。まだ、御姫様も力になって下さるよ。無知な連中を騙すために、ね」
「……上総屋さん」
忠兵衛の今にも泣き出しそうな声がした。
「旭一心堂さん、あんたは愚か者の方に廻るのかい?」
上総屋はゆっくりと諭す柔らかい声音から一転語気を荒げた。
「それとも私と手を組んで世の中を操る方に身を置くのか? えっ、どっちなんだい!」
「わ、わっ、判りました。判りましたよ。上総屋さんのいうことは尤もでございます。でも、何度も申しますように、恥ずかしながら仕入れるための千五百両の資金が無いのでございますよ。上総屋さんとの取引は現金と決まっております」
旭屋忠兵衛が恐縮して声を震わせている。
「それはお前さんがうちから金を借りているからじゃないか。信用が大事だからね。最近ちょっと返済が滞りがちだったよ。今夜だいぶ返してくれたが、まだまだ足りない」
「ですから…………」
「それじゃあこうしよう。その千五百両、私が用立ててあげようじゃないか。若狭さんには私が立て替えて代金を払っておくよ」
「そんな……、大金……」
「今なら品切れだってんで愚かな連中が喉から手を出して欲しがっている代物だよ。この江戸にどれだけ人が暮らしていると思っているんだい。何ならこっそりそこいらの井戸に腹痛の毒を投げ込んでもいいんだよ。なぁに、すぐに返せるさ、おまけに仕入れを引いた売上差額の五百両は全部旭一心堂さんのものじゃないか」
しばらく沈黙が続いた後、とうとう忠兵衛が観念したようだ。
「お引き受けいたします」と腹をくくった声が文吉に届いた。
――のせられやがった。てめぇが一番無知蒙昧じゃねぇか
文吉は吐き出したくなった唾を飲み込んだ。大きく何度も肩で息をして怒りに高ぶった精神を落ち着かせた。佐平も眉間に深い皺を寄せて唇を噛みしめている。
「それじゃあ、旭一心堂さん。形だけだがこの証文に判を突いてくれ。前の五百両の証文は、ほれこの通り破って捨てるから、合わせて二千両だ。なぁに一応は取引だからね。いいね。そうそう、さっき少し返してくれたんだったねぇ。引いとくよ、千九百三十五両だ」
――旭一心堂さん、お前さんがさっき言った通り柳の下に泥鰌は二匹いねぇよ。江戸っ子は冷めやすいんだ。あの盗品薬が売れようが売れまいが上総屋は関係ねぇんだよ。狙いは旭一心堂の乗っ取りだ。上手く手に入れて右から左に売り捌きゃ、おそらく上総屋の儲けは二千両以上だろう。だが、冗談にしろ江戸中の井戸に毒を入れるなんざぁ、聞き捨てならねぇ。
文吉は佐平に目で合図してその場を離れた。
料亭白菊の玄関から一間ほど離れた黒塀に囲まれる仕舞屋の軒先で、文吉等は彼らが出てくるのを待つことにした。
外に権太等の姿がなかった。
「結構長ぇこと縁の下に潜り込んでいましたからねぇ。寒くて辛抱できずに帰っちまったんでしょう。最近の若けぇ者は我慢が足りねぇ」
佐平が悴んだ指に白い息を吹きかけながら嘯いた。若い権太等は佐平の仕事仲間で、どちらかと言えば彼の子分のようなものである。正義感だけは強い跳ねっ返りのチンピラを佐平が束ねていた。
文吉にしても下っ引きは佐平までなので、権太等にあまり強くは言えない。
「十手を預かっているのは俺達だけだ。後は二人でやるぜ」
俄かに白菊の玄関が賑やかになった。
旭一心堂の忠兵衛が先に一人で出てきた。見送りに姿を見せたのは女将など店の連中だけだった。忠兵衛は足取りも軽く駕籠に乗り込んだ。
「店が左前になるはずだぜ。塩売りの己いらに任せてもらっても、もっとうまく儲けさせてやるってんだ」
佐吉が忌々しそうに足元の石を蹴飛ばした。
「可哀そうだと思ったら、お前ぇが上総屋に代わって買い取ってやれよ」
「どこに二千両なんて金があるんでさぁ。最近一分金の顔も拝んだことがねぇっていうのに」
「すまねぇな。お手当が少なくて」
「そうか、権太達もただでこき使ってるからなぁ。帰りたくもなるはずだ」
佐平が合点のいった顔をして一人で頷いた。
「そいつはいけねぇな。今度飯でも喰わせてやるか」
寒さを軽口の応酬で凌ぎながら玄関を見つめ続けた。三つの駕籠が出てくる客を待っている。旭一心堂が帰ってから四半時が過ぎ、さらに小半時が経過した。それからしばらくして女将が出て来ると駕籠舁きに謝りながら心付けを渡していた。
「しまったっ!」
慌てた文吉を遠くに認めて女将が鼻で笑ったように顔を歪めた。
「裏口だ。謀られた」
茫然とする佐吉を急き立てて文吉は裏へ走った。
「ちくしょう、あの提灯婆ぁ!」
裏に身分の高い者が遊興のために白菊を利用する際、人目を避けるためのお忍び門があった。たった今、内側から錠を掛けられたばかりで、人の遠ざかる気配があった。
佐平が門を壊さんばかりに殴り続けたが誰も出てこなかった。
提灯で照らしだされた駕籠屋の足跡は両国方面を向いていた。
「とりあえず上総屋へ急ぎましょうや」
佐平が今度は文吉を急かせた。
寅蔵は予想以上に早く島岡慶吾を含む同心数名と大勢の捕り方を引き連れて戻って来た。藤堂数馬が「向島七福神の花屋敷」が彼らの根城でまだ十二人残っていると教えてやった。ここからそう遠くない距離である。
年長の島岡慶吾が浅吉宅を襲った咎人を護送する者と花屋敷に捕縛へ向かう者を分けてそれぞれに指示を出した。襷掛けの若い同心三人と慶吾よりやや年下の同心一人が花屋敷へ乗り込む者を指揮して駆けて行った。率いる者は、北町の猛者達である。さらに六十人近い捕り方による不意打ちでよもや取り逃がすことはあるまい。
「暇だから、こいつらと話し合いをしていたのさ。口の軽い奴らだったぜ」
寅蔵はあらためて数珠繋ぎにされた与太者の顔を見ると、彼がこの家を出て行った時よりも頬が腫れていたり傷が増えたりしていた。数馬が寅蔵に片目を瞑って笑った。
「お蔦さんを殺したのは寅蔵さんが片目を潰した男だ」
「どうしたらこんな傷を負わせられるんだい? 親爺さんよう」
目から血を流し続けて虫の息の男の顔を乱暴に調べた慶吾が半ば呆れた顔で寅蔵も見た。
「あっしもこの通り怪我させられやした。必死だったんで何が何だか覚えちゃいません」
悪びれもせず寅蔵はお咲が手拭をまいてくれた左腕を慶吾の前に突き出した。
咳払いして数馬は先を続けた。
「お蔦さん殺しを命じたのは二寧坂の権蔵。公家の従者をやっている爺さんだそうだ。ちなみにお姫様は松乃助と言って権蔵が旅の途中で雇った一座の女形だ」
「女形! お姫さんは男だったんですかい」
「その松乃助はお袋さんが殺されたことをまだ知らないらしい」
「知らねぇだって? 仲間じゃないのか…… そんな話は身内なんだからすぐにばれるだろう」
慶吾が腑に落ちない顔をした。
「知られちゃ困るってことじゃないのか。松乃助にお袋さんを殺したことを黙ってなきゃならない。そしてお蔦さんには松乃助がお姫さんだってことを知られちゃまずい。松乃助の役割が何なのか。きちんとつきとめてくださいよ、八丁堀の旦那」
お咲が慶吾へ茶を入れてきた。
「すまねぇな。怖い思いをさせちまったな。だが、もう安心だ。今夜から枕を高くして寝てくれ」
茶を半分ほど啜った慶吾が思い出したように浅吉に声をかけた。
「すまねぇが、浅吉さんよ。手間取らせねぇから明日の朝夫婦二人で奉行所の方に来ちゃくれねぇか。何てぇしたことじゃねぇ。お裁きに必要な書付を作るんでちょいと手伝ってもらいてぇだけなんだ。俺を訪ねて、必ず来るんだぜ」
最後はいつもの癖で半分恫喝するように命じた。
「それでおめぇたちゃ終いだ」
慶吾自身は気づいていないが、初めて慶吾を見た人間は必ず委縮してしまう。浅吉もお咲も恐れ入って平伏した。
「おかみさんよ、旨い茶だったぜ。それじゃ藤堂先生、帰るとするかい。舟の用意ができてるぜ」
慶吾に続いて数馬が気さくに浅吉夫婦へ声をかけて出て行こうとした。
「だ、旦那!」
「ん? 何か?」
「どうして旦那はそんなに強いんですかい? どうしたら俺も旦那みたいに強くなれるんですかい?」
浅吉が切羽詰まった様子で数馬に縋りつくような眼をした。ずっと数馬に聞きたくて今まで声をかけられずにいた態であった。
「強くなりたいのか?」
数馬がやさしく微笑み返した。指南所で子供達の疑問に答える際に見せる顔だった。
「へい、旦那みたいに強ければ、俺ぁ、あん時……、あのお婆さんが殺されねぇですんだ!」
「飛び出して助けたかったのか?」
数馬が浅吉の心を確認するように問いかけた。
「……、俺はずっと隠れて震えていた。このお咲がそばにいなけりゃ、堪え切れずに大声を出していたかもしれねぇ。見殺しにしちまったんだ」
なかなか出てこない数馬を連れに慶吾が戻って来た。
「お咎めはねぇから心配するな。みんな誰もが指南所の先生みてぇに強くはねぇ。それこそお前ぇまでが飛び出してみろぃ。そこにいる恋女房といっしょに大川で浮かんでいたぜ。おかげであいつ等を早い内にお縄にできたんだ。いつまでも気に病むんじゃねぇ」
鍾馗のような顔で慶吾がやさしく声をかけた。きっと浅吉は見殺しにしたという自分の行為を肯定して欲しかったのだろう。そして、安心が欲しかったのだ。
浅吉が一瞬ほっとしたように表情を和らげた。誰もが気付くほど体中の力が弛緩させた。
「足の悪いのをおして息子に会いに来たお蔦さんを、おぬしが殺したことには違いはない!」
数馬が厳しい声で浅吉を叱責した。浅吉が険しい表情に代わって後退ずさった。壁を背にして緊張した。慶吾が「おいおいっ」と渋い顔で頭を抱えた。証人に負い目なく奉行所へ出頭して欲しかったのだろう。慶吾の後ろに立っていた寅蔵は、冷淡な笑いを浮かべて口を噤んでいる。
「結果おぬしらがお蔦さんと一緒に大川に浮かび、事件の真相が判らなくなっても、下手人を捜すのは奉行所の務めだ。浅吉、おぬしの弱さをしっかりと知れ! これから先もお蔦さんを死なせたことを忘れてはならぬ。そして二度と二人目のお蔦さんを出さないように生きることが、おぬしの罪を償うということだ。一生償え!」
数馬は浅吉が納得して頷くまで決して浅吉の目から視線を外さなかった。浅吉が口を真一文字に結んで、自分に言い聞かせるように何度も点頭した。顔を上げて数馬と目を合わせた浅吉が何か言おうとして口ごもったのを数馬は制した。相談事があったら吾妻橋の手習い指南所を尋ねよと一転爽やかに翻り、浅吉の家を辞した。
慶吾がほっとした大きな息を吐き出し、それを見た寅蔵が肩を竦めてみせた。
数馬の飄々とした物腰が浅吉の緊張をぐっと解してくれたようだ。しかし、ほっとしたのもつかの間、捕り方の面々が姿を消すや成り行きを見守っていた近所の住人が好奇心や心配やらで、ぞろぞろと訪ねて来た。お咲は慶吾の「これで終いだ」と言った言葉を胸の中で噛みしめながら、応対に何度も茶の湯を沸かすことになった。中には酒と肴を持ってきた者もおり、俄かに宴会のようになった。浅吉は何度も乞われて賊に対した数馬と寅蔵の立ち回りを講釈師のように繰り返した。話すことで数馬の言った言葉を何度も胸に刻んでいた。話しながら自分にも勇気が湧いてくる気がした。
上総屋は両国薬研堀の一角に店を構えてある。すでに四つは過ぎた。しんしんと冷え込む冬の夜に人通りはない。文吉と佐平は日本橋から両国広小路へと向かって急いだ。若狭等も上総屋と行動を共にしているだろうか? もう別れたかもしれないとの考えが文吉の頭を過ったが、取りあえず上総屋へ向かうしかなかった。
「しかし、黒幕は若狭って爺ぃだとわかったが、松乃助の野郎は何のために一緒にくっついていたんだろう」
急ぐ道で文吉の疑問が深まった。
「確かに、さっきも他の三人の話声は聞こえたけれど、一言も喋ってやいませんね。きっと芸者代わりじゃねぇですか。その辺の女より綺麗だし、話を聞かれても心配ねぇ」
「芸者代わりかよ。俺だったらあんな危ねぇ話の中にそんな者連れていかねぇぜ」
「じゃぁ、意外とあの爺ィの右腕だったりして」
「その右腕のお袋さんを殺しちまうのかい?」
通油町から通塩町へと掛かる緑橋を丁度渡り切った時だった。白い息を弾ませて権太が走って来た。
「思った通りだ。白菊から上総屋までの、一本道をやって来ると思ってた」
「どうしたい? 血相を変えて」
佐平が勢い込んで倒れそうになる権太を支えた。
「か、上総屋はまっすぐ帰ぇりやしたが、お姫様達ぁ、湯島天神のちゃ、茶屋に入りました」
「何だ、お前ぇ等、後をつけていたのか!」
「本当に偶然なんで……、あんまり兄貴達が遅ぇもんだから裏に来た夜泣き蕎麦、喰ってたんで」
「そしたら、奴等が駕籠に乗り込むのを見たってのかい?」
佐平の腕に抱え込まれて、権太が得意満面の顔で頷いた。
「でかした! どこの茶屋だ」
「天神石坂下、通りに面した門前町の「吾亦紅」って、……店でさぁ。三太郎が表で、見張っていやす。先に行ってくだせぇ。己いら目いっぱい走ってきたんで、ちょっと休みてぇ」
息の上がった権太が飼い犬のような甘えた目を佐平に向けて、その場に座り込んだ。佐平が有無を言わさず権太の頭を殴った。
「しゃんとしなきゃ風邪引いちまうぞ。そうだ、権太。元気が出たら、もうひとっ走り島岡の旦那にも知らせてくれ。今度文吉兄ィが泥鰌鍋御馳走してくれるからよ」
泥鰌? マルは苦手だ。柳川のヌキヌキ鍋がいいという権太の頭を佐平がもう一度殴って湯島天神へ急いだ。
「文吉兄ィ、茶屋って……ひょっとしてあの爺ィが陰間のお姫さんを抱いてるのかい? あんまり見たくねぇ景色だぜ」
「まったくだ」
文吉等は神田川に沿って登り、昌平橋の辺りから神田明神の明神下を駆け抜けて行った。
学問所の方向から野犬の遠吠えが騒々しく聞こえた。
三太郎は、茶屋の表で山茶花の生垣を風よけにして見張っていた。
「まだ出てきた様子はござんせん。二階に上がって行くのを見やした。灯りの点いてる部屋はひとつしかありやせん。他に客もいねぇ様子……誰もが気軽に入れる茶屋じゃねぇみてぇだ」
権太から借りた綿入れを頭から被って目だけを出した三太郎が人懐っこい顔を文吉に向けた。
「ご苦労だったな。さぁ、行くぜ。何が何でもとっ捕まえて番屋で吐かせてやる。気ィ入れていけよ。外道働きの権蔵かもしれねぇんだ」
文吉は十手を握り直すと、「吾亦紅」に乗り込んだ。
慌てた茶屋の下足番が制止するのを振り切って、二階への階段を一気に駆け上った。寝込みを襲いたかった。暴漢と勘違いして慌ただしく騒ぎ始めた店の者を三太郎が階段の下で「御用の筋だ!」と大声で喚きながらくい止めている。
十手を構えた文吉と佐平は左右から力一杯襖を押し開いて中に踏み込んだ。
二人の男が同衾している姿を想像していた文吉は一瞬戸惑った。
薄暗い八畳の部屋の真ん中で若狭がたった一人、火鉢に手をかざして暖を取っていた。若狭の後ろと横にそれぞれ襖があり、中で人の動く気配がする。
「無礼者! 手先風情が何のようじゃ」
文吉等のことを江戸では、岡っ引き、関八州では目明しというが、関西では手先、または口問いと呼んでいる。
泰然と構えた若狭は鋭い目で文吉を見据えた。しかし、その程度で怯む二人ではない。
「西から来なすったかい。聞きてぇことがあるんだ。番屋まで来てもらおう」
若狭は表情も変えず微動だにしない。二人に囲まれて動揺もみせない。胆が太いのか、何か裏付けでもあるのか判らなかった。
「何の咎じゃ、奥には大炊御門の姫が休まれておられる。おぬし等の狼藉、首を刎ねられるだけではすまぬぞ。覚悟の上であろうな。下賤な者はそのようなこともわからぬのか。おぬし等だけではない。主の不浄役人もただではすまぬ。お家捕り潰しは必定……」
若狭が座ったままで高圧的に言い放った。
「言いてぇことはそれだけかい? お前ぇ等の素性はしっかり割れてんでぃ。この偽者野郎が!」
神妙に観念しやがれと佐平が一歩前に進んだ時に、若狭が合図を出した。横の襖が開き黒装束で僧形の侍二人が抜刀して飛び出してくるや若狭を庇うように文吉等と対峙した。
「護衛の方々、御切り捨てくだされ。このままでは奥の御聖人様にご迷惑が及びますぞ」
無言の侍が文吉と佐平に切っ先を向けて正眼に構えた。寡黙な体から湯気のような殺気が立ち上っている。
「なにもんだ、てめぇら! この爺ィの仲間か?」
佐平が精一杯の訛声で怒鳴った。自分に気合を入れる行為だった。
「佐平、抜かるんじゃねぇぜ。こいつらかなりできそうだ」
文吉は右前の半身に構え、佐平は十手を逆手に持ち防御の姿勢を取った。体の大きな方の侍が一歩前に踏み込みながら真横に素早く刀を払って威喝した。文吉も佐平も冷静に間合いを見切って僅かに下がっただけだった。刀を振り回す侍がいたのは計算外だったが、文吉も佐平も下腹に力を込めて隙を窺った。
「刀まで向けられたんじゃ、このまま引っ込む訳にはいかねぇ。みんな引括って番屋へ連れて行ってやるぜ」
文吉の声に呼応するように侍の後ろにいる若狭がゆっくり立ち上がった。
「威勢のいい十手持ちだ。度胸だけは褒めてやるが、いつまで持つかの」
二筋の風を切る音がした。
二人の侍が同時に斬り込んで来た。文吉と佐平はすんでのところで左右に分かれて跳び、転がるようにして刀の軌跡を避けた。すぐに佐平は手近に積んであった座布団の角を掴んで高速で回転させながら投げ続けて応戦する。文吉は返す刀が下から斬り上げられるのを瞬時に柱の後ろに回ってかわした。刀の刃が柱に食い込んだが、木材の欠片を削り飛ばしてなお文吉の首を狙った。すかさず十手の鉤手に刃を挟み込み、鍔元まで滑らせて、懐に飛び込んだ。体を固めて相手の動きを封じた矢先、佐平を攻撃していた侍が一転翻り文吉を袈裟がけに斬りつけてきたため、掴んだ腕を離して後ろに跳んだ。
相当に武芸の修練を積んだ者たちのようだ。文吉の背中が粟立った。だが今まで辻斬りを追い詰めたりして何度か体験したことのある人を斬った経験のある目ではなかった。つけ込む隙があるとすれば、その一点だ。
文吉等がてこずっている隙に、若狭が階下へ逃れようと階段を途中まで降りたところでいきなり無念の声を上げ、じわじわと後退さりしながら、引き返してきた。
忌々しげに座敷の中央まで戻り火鉢を蹴飛ばした。信楽焼の大振りな筒型火鉢は灰の重みも加わってびくともしなかった。
「兄貴、助太刀に来たぜ!」
権太が仲間を五人ほど引き連れて階段を荒々しく駆け上がって来た。其々手に天秤棒を握りしめて手拭で捩じり鉢巻をしている。無鉄砲な若者が気色ばんで一斉に突き出す長い天秤棒の勢いに二人の寺侍は当惑した表情を浮かべて刀を振り被ったままジリジリと後ろに下がって行った。
遅れて島岡慶吾がゆっくりと階段を上って来た。その後を本物の取り方が御用提灯片手に続いた。八畳の部屋は人の数で足の踏み場がなくなった。
「まったくあちこち連れ出されて忙しい晩だぜ。二寧坂の権蔵! 花屋敷にいたお前ぇの手下はみぃんな捕まえたぜ。後はてめぇだけだ。観念しろぃ」
「二寧坂の権蔵とは誰じゃ! 無礼者っ、拙者大炊御門家の姫君に仕える……」
若狭こと二寧坂の権蔵がまだ白を切ろうとした。
「往生際が悪いぜ。てめぇの子分達がすらすら喋っちまったよ。口の軽いこった。全部お見通しだ」
慶吾が権蔵と刀を振りかざしている寺侍を大きな目で睨みつけた。
寺侍等が上段に構えたまま足を組みかえて、決死の気合を発した時だった。
奥の襖が開き、紫の衣に金襴の袈裟をまとった恰幅のよい坊主が出てきた。寺侍が慌てて抜き身の刀を金茶の鞘に納め片膝立てに座った。
その後ろで褥に身を沈めた松乃助が艶めかしく半身を起こし、しだけた白い長襦袢を引き寄せていた。
「何者じゃ!」
威儀を正して高圧的に大声を出した僧は、高僧の威厳を慶吾に浴びせた。
すかさず佐平が怒鳴り返した。
「なんだと! どこの坊主か知らねぇが、偉そうに何者だい? やってることはそんなに威張れることじゃねぇぜ。俺達ぁよう、みんなから口が軽いってよく怒られるんだ。お前さんの陰間好きは江戸中で評判になるぜ」
高僧らしき人物の表情が俄かに変わった。慶吾では奉行所の柵の中で言いたくても言えないだろうと佐平が気を回した。
「拙者、北町奉行所定町廻り同心島岡慶吾でござる。大阪東町奉行所からの手配者及び、内藤新宿仁兵衛長屋住人お蔦殺害の首魁、二寧坂の権蔵の捕縛に参上仕った」
「拙僧は上野忍岡東叡山寛永寺円頓院の僧でござる。名は勘弁していただきたい。そういうことならば拙僧には関係のないところじゃな。無礼な振る舞いがあったが、お役目ならば仕方あるまい。慈悲の心で許してしんぜよう。さ、道をあけよ。貴殿の働き見事であった。何かあれば寺社奉行を通じて話をされるがよい」
さすがに慶吾の辛抱が切れたようだ。文吉も眺めていて慶吾の我慢がよく持った方だと思った。
「グダグダ言ってねぇで、とっとと消えやがれ、この糞坊主!」
真っ赤な顔で慶吾が一喝すると、僧はろくな挨拶もせずにそそくさと二人の寺侍を引き連れ檜の階段を軋ませて下りて行った。途中まで佐平が見送りに出た。
「今、お役人様が言った、親方がおっ母さんを殺したってぇのは本当か?」
公家の鬘を脱ぎ捨てた若衆髷の松乃助が奥から飛び出してきた。
「ああ、お前に会わせろと煩く付き纏われたからな。なんたって大炊御門家の御姫様は大事な金のなる木だからよう。世間に正体が知れちゃあ拙いだろうが」
居直った権蔵がふてぶてしくそらとぼけた。
「おっ母さんとお鈴に楽して貰いてぇばっかりに、金になるからとお前ェの言うことを黙って聞いて、厭なことも我慢してきたんじゃねぇか! それを……それを……、なんてことしやがるんだ!」
握りしめてきた護身用の枕刀の鞘を捨て、松乃助が権蔵に突進した。
権蔵はどこかで松乃助を見くびっていたのだろう。従順だった彼が大それたことをする勇気はないと勝手に高を括っていたに違いない。それほど松乃助は男としてひ弱に見えた。慶吾に縛り上げられて座敷の中央に転がされている権蔵は逃げ場を失い、総毛立った恐怖の色を顔に浮かべて身を捩じらせた。
しかし、寸前で松乃助は文吉に取り押さえられた。
「仇を打ちてぇだろうが、権蔵の御裁きは奉行所がやる。それにお前ぇさんにも聞きてぇことがあるんだ。一緒に来てくんな。何はともあれ、あんたが自分のおっ母さんを殺したんじゃなくて、己いら安心したぜ」
短刀が手から毀れ落ちるのと同時に、松乃助は放心したように腰から崩れ落ちた。慶吾の小者から縄をかけられている松乃助にもう一度声をかけたが、うつろな目で文吉を見上げるばかりであった。
盗賊二寧坂の権蔵を八丁堀の大番屋まで護送するのに権太等のお陰で賑やかな道行となった。
「文吉兄ィ、こいつ等もみんな泥鰌鍋に呼んでいいんでしょ?」
「しかたねぇな。もう少しお前らの来るのが遅れたら、俺と佐平は今頃三途の川を渡っている時分だ。しかし、誰が勝手にそんな約束したんだい。佐の字!」
思わず文吉は家にある質草を思い浮かべた。派手な暮らしはしていないが、慶吾から貰う手当だけでは蓄えなど夢のような話だ。
「ここは慶吾の旦那にも差し入れしてもらいやしょう」
佐平が文吉に大声で耳打ちした。
「聞こえてるぜ。何がどぜうだ。てめぇ等には十年早ぇや」
慶吾が怒鳴った。そしてすぐ思い出したように十手の柄で佐平の頭を殴った。
「な、何しやがんでぇ! 痛ぇじゃねぇか、旦那」
「あの坊主からいくら口止め料を貰ったんだ? 懐が暖かそうじゃねぇか」
「なんだ、知っていたんですかい」
舌を出した佐平が懐を押さえて跳ねると、ザックザックと音がした。
「調子に乗って寅の真似をするのは、二十年以上早ぇぞ。恨まれて大川に浮かんでも知らねぇからな」
佐平がヒッと首を竦めた。さっきの寺侍の殺気立った太刀捌きを思い出したようだ。
「しかし、鍋代が出たじゃねぇか。こりゃありがたくご相伴させていただくぜ」
「それじゃあ、早速浅草の一番いい店を手配させていただきやす」
冗談とも真顔ともつかぬ顔で慶吾に返事する佐平を横目で見ながら、文吉は質草の心配から解放されて無意識に胸を撫で下ろしていた。
その夜の取り調べで松乃助の役割が判った。
権蔵の命令で松乃助は、ある時は高僧に衆道として、またある時は大奥の上臈女房に若衆姿で色を売らされていた。そこで培った人脈が薬を売り捌きたい権蔵と上総屋を結び付けることとなったのだ。
松乃助は権蔵が江戸へ逃れる途中に拾った芸人一座の女形であった。一旗揚げようと上方に出てきた松乃助の美貌に一座の頭が惚れて役者として引っ張りこんだのだった。ただ芸には一方ならぬ嗜みを持っていた座長も一座を経営する才覚に乏しかった。そこに権蔵からつけこまれたのだろう。何しろ盗んだ千両を効果的に使い、一座全員が籠絡されてしまったらしい。この仕事が終わったら浅草の芝居小屋で興行を打たせてやると権蔵に唆されていたらしいが、彼の正体を知らなかった一座の面々は訳のわからない路上芝居をさせられたまま、おそらく闇に葬られていただろう。
権蔵が始めからこんな芝居じみたことを考えて、芸人一座を雇い入れたのか、あるいは上総屋、旭一心堂とどこで誰が繋げたのかなど、わからないことはまだたくさんあるが、これらはじっくりと責めていけば判明するであろう。
始終無口だった松乃助が、お鈴が岡場所に身売りされたことを知った時、縛られた身を捩じらせ言葉にならない大声を何度も上げて叫んだ。
文吉が霜柱を踏みしめながら吾妻橋の長屋に帰って来たのはもう明け六つを過ぎていた。
歯を磨いていた数馬が出迎えてくれた。
「文さん、お疲れさんだったな」
「聞きましたぜ。数馬さんのご活躍。おかげで花屋敷に潜んでいた一味を一網打尽にしたとか」
「まぁな、……そう言えばさっき佐平殿が来て、今度文吉親分が深川の牡丹鍋に招待するから是非来てくれと申しておった」
「ぼ、牡丹鍋? 山くじらですかい、泥鰌って言っていませんでした?」
「いや、猪だとはっきり言っておった。泥鰌よりも冬はやっぱり牡丹鍋だと佐平殿が張り切っておった。ありがたく参加させていただく。すまんな、ま、拙者の働きから言えば相応かな」
数馬が口の中にたまった塩を吐きだして笑った。
「お澄美っ、うちに質入れするもんは残ってるかい?」
文吉は数馬への挨拶もそこそこに自分の家へ飛び込んで行った。
盗賊一味が全員捕まった翌日、浅吉とお咲は早くに呉服橋門内にある北町奉行所へ着いたが、予想以上に調書をつくる手間がかかった。取り調べをする役人も必ずや権蔵の首を獄門台に晒してやろうと気炎を上げていたせいだろう。微に入り際に入り詳しく浅吉に記憶を辿らせた。既に権蔵一味が全員捕縛されたことを知らされている。もうこれで終わりにしたいという気持ちから浅吉は神妙に洗いざらい正直に語った。帰りに幾許かの謝礼金を渡されて、二人は何度も頭を下げながら奉行所を出た。
呉服橋を渡ると浅吉は振り返らなかった。それがけじめだとぼんやり思った。
八つはとっくに過ぎて、温度を感じさせない冬の太陽がだいぶ傾き始めていた。日本橋を抜けてまず両国橋を目指した。途中ふたりで蕎麦を喰った。酒も少し喉を湿らせる程度に頼んだ。お咲の口数は少なかった。何か思いつめた表情で声をかけなければずっと箸が蕎麦を挟んだまま停まっていた。
「何でもないよ。きっと長いお調べで疲れたのさ」
「確かに、あんなに長ぇとは思わなかったな」
お咲はうっすらと笑顔を作って浅吉の心配を振り切り、話を遮るように銚釐に残った酒を浅吉の杯に注いだ。
両国橋を渡って川沿いに上り、吾妻橋を越えた。手習い所の先生は相談があればいつでも来いと言ってくれた。藤堂先生の指南所はこの辺らしい。挨拶に顔を出そうかとも考えたが、浅吉は、あの飄々とした人柄にまた甘えてしまいそうなのでそのまま行くことにした。
――まだあの人に頼らなくても大丈夫だ
胆の小さかった浅吉が何故か自然と胸を張って歩いている自分に気づく。数馬に言われた「償って生きよ」という言葉にきちんと向かい合ったせいだろう。
源森川に架かる小さな橋の袂までついた。この橋を渡れば向島。隅田村はもうすぐだ。橋の半分まで渡った浅吉はお咲のついてくる気配がないことに振り返った。
お咲は橋の欄干に体を預けて浅吉に背を向けていた。
ぼんやりと近くの民家の庭に咲いている薄紅色の侘助を見つめていた。
椿の仲間なのに椿に比べて花が小さく、花冠を最後まで開き切れない。開ききれないまま散ってゆく。
そんな侘助をお咲は一心に見据えていた。
「お咲、何やってんだよう」
浅吉は駆け戻ってお咲の顔を訝しげに覗き込んだ。
「わたしゃ、この橋を渡れない……」
お咲が肩を回して浅吉の視線をはずすと、欄干から身を乗り出すようにして源森川の流れに目を落とした。
「どうして?」
「……だって、」
――お蔦っていうお婆さんを殺したやつらもみいんな捕まっちまった。私らも今日、お奉行所に行ったことで終わりだよ。一区切りついたってことさ。あたしがお前さんと一緒に暮らす理由も無くなったってことだよ……終いさ……もう……
欄干に肘をついたまま、お咲は独り言のように呟いた。それは浅吉にではなく、自分に言い聞かせているようだった。
「ありがとうね、今日まで。浅吉さんは優しい人だから、楽しかったよ」
お咲は浅吉を見ずにずっと暗くなった川の流れに目を落として、川面に映った自分の影を見つめている。
能面のように表情の消えた顔が黒い鏡のような水面で揺らぐのを見て浅吉は慌てた。お咲が自分の内側に閉じこもろうとして、周りの何もかもを拒絶し始めている。
「何馬鹿なこと言ってんだよ。さ、帰ろう? 冷えちまうぜ」
お咲の手を取ろうとした浅吉の手が邪険に払われた。
「だって、あんたはもう私がお咲じゃないことを知ってしまったじゃないか。あんたも聞いた通り、あたしゃ心中の生き残りさ。嫌な女だろう? この傷痕にはあんたの知らない別の男がくっついてるんだよ」
右手の手首を浅吉に突き出した。二寸ほどの長さで肉が盛り上がっている。一生消えないお咲の傷だった。
「そいつぁ、もう死んじまったんだろ? この世にゃいなくなったが、お前の心の中にまだそいつが生きてるっていうのかい?」
お咲は首を横に振った。
浅吉はお咲の抗いに負けないくらいの強い力でお咲を引き寄せ抱きしめた。お咲が顔を顰めて小さな声を漏らした。
「でも、おめぇは生きてる。これから先も生きて行かなくっちゃならねぇ。この俺と一緒に生きて行くのは嫌れぇか?」
お咲が逃げるように顔を遠ざけながら、横に振った。「でも、あんたに相応しくない……」と悲しそうに眉間に皺を寄せた。
「指南所の先生に言われたじゃねぇか。俺達ぁ、あの事を償って生きていかなくっちゃならねぇんだ。昨日の今日だから俺ァまだ心が折れちゃいねぇが、これから先一人じゃ心細ぇ。お咲と一緒じゃなきゃこの先自信がねぇんだ。お願ぇだ、俺の心が弱くなったら、叱っちゃくれねぇかい?」
俯いたお咲は躊躇いながら頭を横に振る。
「性分なんだ。あたしゃ流れに逆らって生きるのが下手なんだ」
「逆らわずにどうやって生きるんだい? また夜鷹に戻るっていうのか? おめぇみてぇな客を取り損ねちまう下手な夜鷹は商売あがったりだぜ」
「……」
お咲の背中で侘助の花が一輪、萼の部分から丸ごと落ちて転がった。
浅吉にお咲がやっと目を合わせてくれた。何故かお咲の顔が滲んで見える。浅吉は自分の心をどうすればうまく伝えられるのか必死で考えた。
「だったら、俺が毎晩おめぇのことを二十四文で買い占めてやる。俺はお前のこと心底、信じているんだ。お咲のいない暮らしなんか考えられねぇ。一緒に頑張ろうじゃねぇか。一生懸命に頑張ることができると思ったのは、お咲だけなんだ。お前じゃなきゃ駄目なんだよ。一度、死んだんだろ。だったら生まれ変わったっていいじゃねぇか。今までとは別の人生、俺と一緒に……お願ぇだ」
満足なことが言えずもどかしかったが、心の中をすべてお咲に吐きだして、浅吉はもう言葉を知らなかった。黙って、細いお咲の体を抱き続けた。
「私なんかでいいのかい? ほんとに後悔しないかい?」
また、一輪侘助の花が落ちた。
――もう、黙ってろィ
強がって見せたものの浅吉の目頭が熱くなって涙が止まらない。
浅吉の抱きしめている腕の力が抜けても、お咲は浅吉から体を離さなかった。気付くとお咲の方が浅吉にしがみついていたことが嬉しかった。心が繋がるとはこういうことなのかと思うと、浅吉は初めての体験に胸が熱くなった。
お咲も涙を溢しながら笑って袖で浅吉の顔を拭ってくれた。
そんなお咲の体が温かかった。それは二人で作った温もりだった。こうして二人で抱き合っていれば、源森川の冷たい川風を弾き返せるのだと浅吉は確信した。
「ここまで来たついでだ。亀戸村に行ってみねぇかい?」
「……亀戸?」
「まだ、言っちゃいなかったが、俺のお袋と兄貴と兄嫁が住んでる。六つになる姪っこもいるぜ。狭い田んぼと畑でかつかつに生きてやがる。俺の女房はこんなに美人だって教えてやらなきゃあ」
――ばかっ
浅吉の二の腕がお咲から軽く抓られた。さっき蕎麦を食って少し使ってしまったが、まだ、浅吉の懐の中に奉行所から貰った謝礼金がたんまり残っている。姪っことお袋に甘い羊羹でも買って行ってやろうかと考えた。
日を経ずして、権蔵一味は市中引き回しの上、磔とお裁きが下った。
上総屋と旭一心堂は盗品を扱った咎により店は家財没収の上取り潰し、上総屋伍兵衛死罪、旭屋忠兵衛は遠島と決まった。幕閣の一部と繋がる上総屋であったが、奉行所が先に老中へ手を回し、横槍が出せぬよう彼等を封じ込め、一気に判決を言い渡した。その幕閣が老中田沼意次の一派ではなかったことが幸いしたが、市井に生きる文吉には思いも至らぬことであった。
そして、一座の役者達は権蔵に加担した罪として江戸十里四方所払に決定した。
ただ、松乃助の扱いだけは思わぬ所で北町奉行曲淵甲斐守を悩ませた。
彼と伽をした者達は、記録に残せぬ大物が何人かいたのだ。その事実を相手側に確認したことが奉行所の失態だったかもしれない。内密に無罪放免の嘆願書が奉行の元へ提出されたのだ。大奥が御用取次を通じてきたものや、寺社方を通じて来たもので曲淵甲斐守はその対応に苦慮した。中には松乃助との情交が数度に及ぶ大奥中臈もいた。皆表立っては関係を否認していたが、松乃助に情が移ったのか、何かと理由をつけて圧力をかけてきた。
やむなく、短刀を抜いて権蔵を刺そうとした行為を仇打ちと見なし、その志天晴れと無罪放免お構いなしに一度は決着しかけたが、半ば自暴自棄になっていた松乃助のたっての願いで入牢百日、鞭打ち五十回を申し渡した。
深川での牡丹鍋の会は、寅蔵がどこから仕入れてきたのか店の主人の弱みを握っており格安の料金で収まり、佐平が受け取った袖の下で十分賄えた。文吉はお澄美の大事な黄八丈を質草にしなくて済み安堵した。お澄美が「お父っつぁんに出してもらうから」と言ったが、それだけは勘弁して欲しかった。佐平はずっと慶吾につかまり説教され続け、翌日の二日酔いはひどいものであった。
それから一ヶ月後、藤堂数馬と寅蔵は三圍稲荷の桜がほころび始めた頃、隅田村で開かれた浅吉とお咲のつましくも心温まる祝言に招待された。お咲は別人のようにどこか吹っ切れた様子であったが、もう寅蔵はお咲のことを昔の名前で呼ばなかった。
そして、江戸に初夏の風が吹き始めた。
島岡慶吾が松乃助を引き取りに小伝馬町の牢屋敷を訪れた。ちょうど百日目の朝であった。
松乃助は特別な配慮で御目見得以下の武士、これに準ずる僧侶、医者、神官等が入れられる奥揚屋に入れられていた。他の牢慣れした囚人から虐められたり、悪い感化を受けたりしないための配慮であった。大奥の威光が働いたのかもしれない。
牢屋敷出口付近の同心詰所に最後の朝食を取った松乃助が牢役人に案内されて入って来た。
目は落ち窪み、髭は伸び放題。とても清々しい表情とは言い難い。元々華奢な身体つきだったので影が歩いているように見える。だが、勿論化粧はしていないはずなのに、ぞくっとする妖艶さが入牢前に比べてさらに増したようだった。
「これからどうする? おっ母さんの墓参りなら案内するぜ。だがその後のことだが」
百日間世間から遠ざけられていたお陰で、結果的に松乃助に纏わりついていた黒い繋がりが消えたようだ。その代り松乃助を贔屓にする後援者がいなくなったということになる。役者もどきの水草稼業も顔が見せられなくなったら忘れられるということか。
「まだ、何にも考えちゃおりません。せめて、お鈴を身受けしてぇが、恥ずかしい話、手に何の職も身についちゃございませんし……」
「役者やるなら紹介してもいいぜ」
慶吾が試すように言った。もし、松乃助が希望すれば見廻りで懇意になった芝居小屋や座長の四、五人には話を持っていくことができる。慶吾はそれでも構わないと思っている。
「とんでもねぇ、金輪際それだけは勘弁しておくんなさいまし」
松乃助が初めて顔を上げて強い拒絶を見せた。明日の希望が見えない暗く寂しい目を慶吾は見つめ返した。
「おめぇさん、指先は器用かい?」
能天気な慶吾の声の響きに、怪訝な顔で松乃助が慶吾の真意を読み取ろうと見つめ返した。
「へぇ、……自慢じゃねぇが昔から細かいことは得意な方で」
「それなら話は早ぇや」
框に腰かけている慶吾が膝をポンと打って顔を綻ばせた。
「人手が足りねぇと弟子を捜している指物師さんがいるんだが」
「そいつぁ、願ってもねぇありがてぇ話です。でもあっしなんかもう二十三ですぜ。そんな男を一から鍛えてくれる奇特な親方がいるんですかい?」
「ああ、そこに控えていらっしゃるご仁だ。もういいぜ、弟子入りを承知してくれたみたいだ」
詰所の座敷で丸に浅の字を染め抜いた印半纏を着て正座している男がくるりと体を反転させて向きを変えた。
深々と手を突いて頭を下げられた松乃助は、どのように処してよいかわからず、慶吾に助けを求めるように声を掛けようとした。
「すまねぇ」
頭を下げたまま、男が最初に発した言葉であった。松乃助はその男に全く見覚えがない。
「己いら、おめぇさんのおっ母さんが殺されるのを見殺しにしたんだ。許してくれ」
松乃助の顔からさっと血の気が引いた。だらりと下げた手の先で握りこぶしを震わせた。
すぐに慶吾が言葉を継いだ。
「この浅吉さんはお蔦さんが大川に放り込まれるのを見ただけだ。殺された後だった。浅吉さんが駆け付けた時はもう手遅れだったんだよ。でも浅吉さんがその後を一部始終見ていてくれたおかげで権蔵達をお縄にすることができたんだ。おめぇさんにすまねぇと言ったのは、もっと早くその場に駆け付けられなくってすまねぇってことだよ」
半分は慶吾の嘘だったかもしれない。ただ奉行所に残されている調書にはそう記述されている。
「そうだったんですかい。……浅吉さん、己いらの早やとちりを許してくだせぇ。それから、本当にありがとうございました。おっ母さんの仇を取ってくれたも同じだ」
松乃助は拝むように土下座して浅吉に謝った。浅吉が慌ててそんな松乃助を立たせようとした。
「別に浅吉さんには何の責任もねぇんだが、でも目の前で起こったことで大層胸を痛めたようだ。だからおめぇさんに詫びを言った。そこんとこよく判ってくれねぇかい? で、これも何かの縁だ。お蔦さんが結び付けてくれたのかもしれねぇぜ」
「おっ母さんが結び付けてくれた? おっ母さんには何にもしてやれなかったのに…… 」
松乃助の目が悲しそうに泳いだ。
「親子ってのはそんなもんさね。手のかかる子どもほどかわいいもんだ。お前さんは十分おっ母さんを幸せにしたんだよ。最後はちょっとばかし心配を掛け過ぎちまったけどな。そうじゃなきゃ足が悪いのに、内藤新宿くんだりから大川まで出てくるもんかぃ」
松乃助が悔しそうに唇を噛んで、自分の不甲斐なさを責めながら泣き伏した。
「浅吉さんの好意を受けてみるかい?」
松乃助が不安そうに顔を上げた。
「あっしでも、指物師としてモノになるでしょうか」
「大丈夫だ。俺が責任を持って一人前にするよ」
土間に飛び降りた浅吉が松乃助の手をしっかりと握った。
「決まりだな。それじゃ、そろそろお蔦さんの墓参りに行くかい」
慶吾が二人を促して小伝馬町牢屋敷の門に向った。
外に文吉が待っていた。慶吾が左手の親指と人差し指で丸をつくり文吉に向かって笑って見せた。
後ろに隠れて照れている娘を文吉は前に押し出した。
「おっ、大事な用事を忘れていた。俺はこれで失礼するが、おっ母さんの墓に案内してくれる娘を紹介するよ」
松乃助が何度も指で目を擦った。松乃助も娘も目を合わせたままその場を動けなかった。
「お、お鈴、お鈴じゃねぇか。おめぇ、深川で……」
慶吾が、懇意な吉原の廓主と結託して無理やり警動を画策した。前触れもなく深川のお鈴のいる女郎屋を一斉手入れで踏み込み、潰したのだ。そして、百日の吉原務めを終えたお鈴が晴れて自由の身になった。実はこの話にはさらに裏があって、お鈴を引いたその廓と話をつけてこっそりとお鈴を吉原の外に匿っていたのだ。廓の方としては太夫にもなれそうなお鈴を手放すことにいい顔をしなかったが、その時の警動で他にも上客を取れそうな散茶女郎を二人、梅茶一人、昼三数名を手に入れていたこともあって、しぶしぶ慶吾の無理押しの要求を飲んだ。いや、飲まされた。
文吉も慶吾の強引な警動につき合わされ、その後、お鈴の面倒を見ろと否応なしに押しつけられていたのだ。困った文吉は、弟子と二人暮らしの男所帯である医師榊原源庵にお鈴の処遇を何とか頼み込んだ。結果、医学書や薬品、医療器具など雑然と積まれていた診療所がお鈴のお陰で整然として広くなったと彦志郎が驚嘆した。似た者同士の師弟は片づけが苦手だった。源庵は単純に酒の肴が美味くなったと喜んでいる。心なしか患者の数が増えたのではないかと文吉は思う。佐平や佐平の仲間達がちょっと指を切ったと言っては源庵の診療所を覗きに行くようだ。
松乃助とお鈴、遅れて浅吉が楽しそうに語らいながら、お蔦の眠る浅草浄念寺へ向かって遠ざかって行く。お鈴が診療所の生活を松乃助に報告しているのだろう。何度も口に手を当てて笑っている。
「あの様子じゃ、隅田村の指物師さんもきちんと松の野郎に償う気でいるんでしょうね。嘘がばれなきゃいいが……」
「そん時ゃそん時よ。だが、松も馬鹿じゃなさそうだ。それでも何か言って来たらお鈴を助け出してやったのはどこのどいつだと凄んでやるさ。お鈴からも一方ならぬ礼の言葉をもらったぞ」
三人を見送りながら、相好を崩していつまでも脂下がっている慶吾を文吉はからかってみたくなった。
「旦那も決して長生きできそうもありませんね」
「どうして?」
「暢気なもんだ。その一言をもらうために、どれだけの人間が旦那のごり押しに恨みを抱いていることか、考えたことはねぇんですかい?」
「そんなもんが恐くて、御成先御免の着流しで歩けるかってんだ」
将軍の御成り先でさえ正装でない着流しが許され、朱房の十手に銀杏髷は、定廻り同心のみに許された特権である。
文吉は、慶吾に判らないように「極楽蜻蛉」と呟いた。
聞こえないはずの慶吾が首を傾げて文吉を睨んだ。文吉はそんな極楽蜻蛉が嫌いではなかった。いつの日か、松乃助とお鈴に男の子が産まれたら、いつでも八丁堀の定町廻り同心を思い出せるように鍾馗の人形を贈ってやろうと、薫風に舞う鯉のぼりを見て思った。
了
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