有紀-8
「純……」
マスターは身体を起こし振り返った。
お母さんに肩を抱かれた純君は涙を流しながらマスターを真っ直ぐに見つめていた。
「パパ、僕要らない子じゃない……?」
「当然だろ。要らないならお前を引き取らないし、学のいる小学校の学区に引っ越したりはしない。お前の事どうでもよかったら仕事だって辞めなかった」
「パパ大好き」
「パパも」
マスターは純君の涙を指で拭って小さな身体を抱きしめた。
お母さんはそれを見て、ニッコリと微笑み厨房の奥へと歩いて行った。
おそらく、こんな話をしていると分かっていたんだろう。
だから、純君を連れてこの店にやって来たのだ、そうに違いない。
お母さんには足を向けて寝られないなぁ……。
「昨日ね、有紀ちゃんが僕の秘密基地を見つけたんだよ」
純君が鼻を啜りながらマスターの腕の中で昨日の話を始めた。
「いっぱい蚊に刺されて凄く痒かったんだ。でね、有紀ちゃんちに行って有紀ちゃんと一緒にお風呂に入って、有紀ちゃんのママがお薬塗ってくれたんだ。夜は有紀ちゃんと一緒に寝たんだよ」
嬉しそうに話す純君とは対象的に固まるマスター……。
何ゆえ?
私は二人を眺めながらストローでグラスの中身を掻き混ぜる。
「有紀ちゃんとお風呂……?」
「うん!」
「そんなうら……」
「ね、有紀ちゃん?」
純君がカウンターにいる私に微笑んだ。
すると、純君を放して勢いよくマスターが振り返った。
気のせいか微かに頬を紅潮しているように思える。
もしかして私が居た事忘れてた?
何気にショックなんだけど?
「純君がパパのトコに戻るなら今日は一緒に入れないね、残念だなぁ」
私が意地悪に言うと、純君は甘えた目でマスターを見上げた。
「パパ、今日も有紀ちゃんちに泊まってもいい?」
「駄目」
「意地悪」
「パパは昨日ずっとお前の事心配してたのに、一人だけ楽しみやがって」
マスターの両手が純君の頬をきゅっと摘んだ。
「パパは僕がう……」
「こっ……この服どうしたんだ? こんな服持ってなかっただろ?」
マスターはあからさまに話を逸らした。
やっぱり後ろめたいのかな?
それよりも純君の言葉の続きが妙に気になる。
何を言おうとしたんだろう?
「有紀ちゃんのママが貸してくれたんだ」
「あぁ、うちには子供服なかったから近所の小学生の服を借りてきたの」
私はストローでグラスの中の飲み物を吸い上げた。
「あ、じゃあ……純、上で着替えて来い。その服すぐに洗うから」
マスターが純君の服を摘んだ。
「え、別に……洗濯くらいうちでやるから気にしなくていいよ?」
「いや、借りたものはきちんとしなきゃ」
「だからうちで洗うって……」
「純、上で着替えて服を持ってきなさい」
マスターは純君の背中を押しながら店の片隅にある “private room” と書かれた扉の中に純君を押し込んだ。
扉を開けると靴を脱ぐスペースと階段があり、マスター達の部屋に繋がっている。
それ以上の事は知らないけど。
その扉を閉めたマスターが大きく息を吐く。
「純君が分かってくれてよかったね」
「あぁ……そうだね」
言葉とは裏腹にその表情は疲れている。
「マスター寝不足なんでしょ? 開店時間過ぎてるし、このまま臨時休業にして寝なよ。私も帰らせてもらうし」
顔色も蒼くなったり赤くなったり忙しいし、今日は開けなくて正解かもね。
私は飲み物を飲み干して立ち上がった。
自分が使ったものだし、自分で洗おうとグラスに手を伸ばすとグラスの感触と違うものに触れた。
マスターの手だ。
お互いに慌ててその手をグラスから離す。
「有紀ちゃん、昨日は本当にありがとう」
「どう致しまして。私も純君好きだし楽しかったよ」
「純君好きだし……か」
「うん」
マスターは苦笑しながらグラスを手に取った。
「マスター?」
今日のマスターは何か変。
「昨日、一人でずっと考えてた。ちなみの事も純の事も……でも、気が付くと全然違う事を考えてた」
私は意味が分からずに首を傾げた。
「ちなみと純と三人で生活しているなんて想像も出来ない。でも、有紀ちゃんと三人なら簡単に想像できるんだ」
「それは私が毎日ここに居るからでしょ?」
変に期待させるような事を言わないで欲しい。
「そうじゃない。純が懐く時点で運命だったんじゃないかって思った」
真っ直ぐな眼に私はうろたえた。
真剣な眼をして何を言おうとしているんだろう?
「有紀ちゃん、結婚を前提に俺と付き合ってもらえないだろうか?」
「は?」
結婚を前提に?
何なの、この急展開は?!
「純も有紀ちゃんの存在に凄く救われてるんだ。母の日の絵は毎年有紀ちゃんを描いてる。純の中では有紀ちゃんは立派に母親なんだと思う」
純、純って……母親として私を求めてるの?
マスターの気持ちは全然伝わってこない。
こんな告白……ちっとも嬉しくない。
「純君の母親として私を求めてるんだ? だったらお断り」
「ゆ……」
「私は欲張りなの。純君の心も欲しいけど、マスターの心も欲しいの。両方とも手に入らないなら嫌」
何だか悔しくて私はマスターを睨んだ。
こんな告白ないでしょ?
純君が大事なのは分かる。
純君と上手に付き合えなきゃいけないってのは結婚の条件になるとも思う。
でも、純君のためだけに私を望まないで欲しい。
「純君、純君って……確かに私は純君好きだよ? でも、純君のためだからって愛のない結婚は絶対にしない」
結婚は一生の事。
純君のためだけに結婚したら、純君が大きくなった時どうなるの?
お役御免で離婚届でも突き付けられるの?
そんなの絶対に嫌!
「好きでもなかったらこんな事言わない」
「純君のためだったらマスターは言うでしょ」
「言わない」
「嘘!」
今しがた告白されたとは思えないような険悪な空気が漂う。
今、互いを睨むように見つめている私達を見ても、告白の場面だとは誰も思わないだろう。
マスターが大きな溜め息を吐いて私から視線を外した。
「有紀ちゃんはどうしたら信じてくれる?」
「今日のマスター変だよ、寝てないせいかもしれないけどおかしいよ」
寂しそうな顔で私を見ないで。
信じてしまいそうになるから。
「着替えは明日返してもらえればいいから」
私は逃げるように店を出た。
家に帰るとお母さんが不思議な顔をしていた。
「有紀、仕事は?」
「ん〜? マスターが寝不足で変だから臨時休業」
お母さんは純君が居なくなって悩んでいたと勘違いしたようだ。
すんなりと納得してくれたので私はそのまま自分の部屋に向かった。
今日はなんという日なんだろう。
好きなマスターからの告白なのに、ちっとも嬉しくない。
「純君のためとはいえ……何でそんな事言えちゃうのかな……」
男は分からない生き物だ。
付き合った人数が多くないから余計に分からない。
恋愛経験が豊富だったら彼の本心が分かったかもしれないのに。
「明日行きたくないなぁ……」
そうはいっても時間というのは皆平等に進んでしまうわけで。
私は寝不足のまま朝を迎えた。
私はダラダラと出勤準備を整えていた。
いつものようにシャキシャキ動けないのは昨日の事があるから。
「有紀、ここんとこやる気ないわね?」
「ん〜? 何かねぇ……純君の事とかで疲れちゃったかも」
それは嘘じゃない。
「休めば? お母さん電話しようか?」
「ううん、いい。行く」
そう答えたものの、身体は鉛のように重い。
ダラダラと準備した結果、のんびりする暇もなく家を出る破目になった。
「いってきまぁす」
「いってらっしゃい、しんどかったら早く帰って来るのよ?」
「分かったぁ」
早く帰るなんてのは正直難しい。
あの喫茶店のアルバイトは私一人。
そう簡単に休んだり早引けしたりなんか出来ない。
この二年間休んだ事もないし。
まだ走らなければならない時間ではない事だけが救いだ。
これで走ったら間違いなく仕事にならない。
寝不足って結構しんどいもんなんだなぁ……。
何かに悩んで寝不足になるなんて経験は今までにない。
彼氏と別れる時にだってウダウダと悩んだりしなかった。
なのに、今回はどうしたんだろう?
「らしくないぞ、有紀」
店の裏口で一人呟いて私は扉を開けた。
店内から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
純君だ。
こんな時間から下に来てるなんて珍しい。
一昨日の事が嘘のようだ。
「おはようございまぁす」
厨房から顔を出すとカウンターに立つマスターの背中とその正面に腰掛けている純君が見えた。
「純君おはよう」
「おはよう有紀ちゃん」
ご機嫌な純君。
その笑顔を見ると心が和む。
「純、勉強の時間だろ。さっさと上に行きなさい」
マスターは私を見ようともしない。
やっぱり昨日のは冗談だったんだな。
悩むんじゃなかった……。
私はカウンターの内側にある戸棚にバッグを入れて振り返った。
触れてしまいそうな距離にマスターがいる。
居るんだけど……何か変。
「ん……?」
私はマスターの顔を覗き込むようにしてその異変を確認した。
「マスター……髭、どうしたの?」
ないのだ。
マスターのトレードマークの口髭が。
「剃っちゃったんだよね、パパ?」
「純は上に行きなさいっ」
マスターは顔を赤らめながら口許を手で覆う。
やっぱり恥ずかしいのかな?
でも……口髭がない方が若く見える。
純君は楽しそうに階段を上って行った。
それを見送って、扉を閉めるとマスターはいつものように私に飲み物を用意してくれる。
「座って」
「あ、うん」
カウンターに座るとマスターの顔がはっきりと見えて。
でも、何だか違和感があって落ち着かない。
「あのさ……そんなに見ないでくれないかな?」
「だってマスターの髭のない顔初めて見たから」
始めて会った時からマスターは口髭を生やしていた。
「髭がないと若く見える」
「今まではおじさんだった?」
「ううん、パパだった」
「パパだし」
「今は若いお兄さんみたい。三十代には見えないかな」
マスターはコースターを私の前に敷くと、アイスウィンナーコーヒーを置いた。
「でも、急にどうしたの?」
私がマスターを見上げると、鼻の下を指先で擦りながらマスターが呟いた。
「有紀ちゃん、髭嫌いなんだって?」
「へ?」
ストローの紙パッケージを破く手が止まる。
「純がそう言ってた」
「あ、純君が……ね」
純君に話した私が馬鹿だった。
子供の口に蓋は出来ないって分かってたはずなのに……。
「昨日、有紀ちゃんに言った事は本気だよ。でも、いくら話しても有紀ちゃんは本気にしてくれないでしょ?」
「だって、嫌なんだもん。私は欲張りだから純君の心もマスターの心も両方欲しいの。片方なら要らない」
自分の吐き出した言葉に私は固まった。
今のって……何気に告白じゃない?
マスターの事好きだって言っちゃったようなもんでしょ?
そう思った瞬間、たちまち私の顔は火を噴きそうなくらい熱くなった。
「昨日も言ったけど、俺は純のためとはいえ妥協はしない。純を幸せにしてやるのも大事だけど、俺だって幸せになる権利はあると思うから」
マスターは私の言葉を聞いていなかったのかそこを言及してくる事はなかった。
「だから、もう一度言わせて? 俺と結婚前提でお付き合いしてくれませんか?」
「純君の……ためじゃないの?」
「俺のため」
昨日は絶対に嘘だと思った。
だけど、綺麗に手入れしていた髭を剃って再度そう言った今日のマスターを疑う事なんか出来なくて……。
「私なんかでいいの?」
「有紀ちゃんしかいないよ」
さすがに恥ずかしいらしい。
手馴れているはずの作業がぎこちない。
それが何だかおかしくて、私はプッと噴き出した。
「人が一生懸命告白してるのに何で笑うかなぁ……」
「だって……マスターが怪しい動きしてるから」
「そりゃ、一世一代の大勝負だから緊張もするよ」
「二度目のくせに」
マスターはカウンターにコーヒーカップを置くと私の隣にやって来た。
「確かに二度目だけど、こんなに緊張したのは初めてだよ」
私の隣に腰を下ろしてカップを口に運ぶ。
ホットのウィンナーコーヒーだ。
少し口を付けてマスターは微笑んだ。
「マスター、また髭作ってる」
紙ナプキンを引き抜き、それをマスターの口許に当てると腕を掴まれた。
「嫌いな髭もなくなったし、キスしてもチクチクしないと思うけど?」
「え……?」
「純の心も俺の心も有紀ちゃんに奪われちゃったし」
しっかり聞かれてるし……。
「両方手に入ってるんだけど?」
「う……」
「有紀ちゃんからも聞きたいな」
さっきのじゃ不合格らしい。
「髭があってもなくても、私はマスターが好き……だよ?」
そう言った瞬間、マスターは満面の笑みを浮かべて接近してきた。
開店前の店の中。
クラッシックをBGMに私達は唇を重ねた。
「髭があってもなくてもいいなら、また生やそうかな」
「嫌」
「え? だって……」
「やっぱりない方がいい」
私はマスターの腕の中でクスクスと笑った。
「開店準備しようか、有紀」
意表を突かれ、呼び捨てにされ私の顔は、ボンという音が聞こえそうな勢いで真っ赤になった。
マスターの顔も心なしか赤い。
「俺もマスターじゃなくて名前で呼んで欲しいな」
「まだ無理」
お母さんにちゃんと話さなきゃなぁ……。
いや、でも……この急展開をどうやって話そう?
私自身まだ実感ないのに……。
「あ、純が借りた服返しに行くついでに純がお世話になったお礼を言いに行きたいんだけど、今日送って行ってもいい?」
「え? そんな気にしなくたって……」
「ご両親にちゃんと話しておきたいし」
「うぇ?!」
「有紀、愛してるよ」
マスターはそう言って再び私に口付けた。
その晩、本当に我が家にやって来た野中親子。
うちの両親が驚いたのは言うまでもない。
ただ、お母さんがマスターの人柄を気に入り、お父さんに話していた事もあって、野中親子はうちの両親にえらく歓迎されていた。
人見知りのはずの純君もうちの両親には警戒していない。
まぁ一昨日の事もあるしね。
そしてめでたく親公認のお付き合いをする事になった私達。
取り敢えずはゆっくりと前に進んでいこう。
純君とマスターの手をしっかりと握って。
私がマスターを名前で呼ぶようになるのはそれから数ヶ月後の事―――――。
― Fin ―
ご覧頂きありがとうございます。
本日最終日です。
この作品をPG12としたのは内容に育児放棄や子供を傷付けてしまう言葉を含んでいたためです。
甘々な雰囲気を期待していた方々、本当にすみません。
8日間お付き合い頂きありがとうございました。
またお会いしましょう♪
― 武村 華音 ―