有紀-7
翌日目を覚ますと純君の寝顔がすぐ傍にあって、一瞬驚いた。
あ、そうだ。
昨日純君を泊めたんだっけ。
じっと純君の寝顔を見ていて、マスターと似てるなぁ……なんて当たり前の事を考えたりした。
親子なんだから似ていて当然だよね。
私は純君を起こさないようにベッドを抜け出し、着替えを済ませてそっとリビングに下りた。
「おはよう、有紀」
「おはよ、お母さん」
お父さんは既に出社した後らしく、使用後の食器だけがテーブルの上に乗せられていた。
「純君は?」
「まだ寝てる」
現在七時。
起こしてもいい時間なんだろうけど、昨日相当なショックを受けている純君を起こすのは気が引けた。
「髪梳かしてくるね」
私は洗面所に向かい、ブラシで髪を梳かし、後ろ髪を結った。
肩よりも若干長めのウェーブ掛かった私の髪は一度バレッタでサイドの髪を留めてから一つに纏める。
そうしないと後頭部が波立って不恰好なのだ。
「よし、OK」
ブラシを置いて洗面所を出ると、階段を下りる音が聞こえてきた。
私はリビングの前を通り過ぎて階段を見上げる。
「おはよ、純君」
「おはよう」
足を速め、下りてきた純君が私の手をぎゅっと握った。
「有紀ちゃん、今日お仕事だよね?」
不安そうに見上げてくる純君に私は苦笑した。
「うん、一緒に遊べなくてごめんね。帰って来たら一緒にお風呂入ろっか?」
「うん! 約束だよ?」
「うん。あ、でも遅いよ?」
「起きて待っとく」
純君を連れて行くと思ったのかもしれない。
私の言葉に安堵した純君は笑顔でリビングの扉を開けた。
「あら、純君。おはよう、よく眠れた?」
「うん!」
いつもとちょっと違う朝だけど、私は楽しく朝食を済ませて出掛ける準備を始めた。
バイト先まで十五分。
たったそれだけしか掛からない。
いつもなら通勤時間が短くてラクちんだと思うだけなんだけど……今日は憂鬱だ。
引き返していいならすぐにでも引き返してしまいたい。
グダグダとそんな事を考えながら歩いていると、あっという間に店に到着。
私は勝手口の前で溜め息を漏らした。
そして両手で頬を叩いて気合を入れ、勝手口の扉のノブに手を掛け……ようとしたら、扉が開いた。
「おはよ、有紀ちゃん」
マスターの顔色はあまり良くない。
目も充血しているし、若干目の下に隈が出来ている。
寝ずに純君の事を考えていたんだろうか?
「おはよ、マスター」
何だか顔を合わせづらい……。
「純は……?」
「まだ、帰りたくないって」
マスターは大きな溜め息を吐いて髪を掻き乱した。
「昨日、純君が何を言われたのか聞いてたんでしょ?」
「……」
マスターは口を噤んで説明を拒否している。
私に話したくないなら話さなくたって構わない。
でも、純君には納得してもらえるように説明する必要があると思う。
「別に、私は聞かなくたって構わないんだよ。ただ、純君にはきちんと説明してあげて欲しい」
マスターは私の腕を掴んで店の中へと連行する。
いきなりだったので、私は一瞬何が起こったのか分からなかった。
カウンターの椅子に強制的に座らされた私は、凄く間抜けな顔でマスターを見上げた。
「純から……何て聞いてる?」
「僕は要らない子だからパパのところには帰れない。僕なんか要らないから出て行けって女の人に言われたって泣いてた」
いつも流れているクラッシック音楽も掛かっていない店内は、マスターが触っている食器の音以外聞こえてこない。
この店内だけ酸素が薄いんじゃないかと思うくらい息苦しい。
マスターの手が私の目の前に伸びてくる。
紙のコースターが置かれ、その上に、アイスウィンナーコーヒーが乗せられた。
「今日は営業できないな……」
マスターはそう言って苦笑した。
「純が、昨日会った女は……有紀ちゃんが見た人と同じだよ。で、あの女は……純の生みの親」
私は弾かれるように顔を上げた。
生みの親という事は彼女が純君を産んだという事で、マスターの元奥さんという事になる。
そんな女性が、純君を要らないなんて言うの?
お腹を痛めて産んだ我が子に酷い言葉を投げつけるの?
「あいつは、俺を繋ぎとめるためだけに純を産んだんだ。当時はホテルでシェフをしていた。毎日帰ってくるのは深夜、あいつも寂しかったんだと思う。でも、俺は二人を養うために頑張ってたし、分かってくれてると思い込んでた」
何でも一生懸命なマスターだから本当にそういう気持ちで頑張ってたんだと思う。
私は黙ったままグラスにストローを差し込んだ。
「純が生まれて一年が過ぎた頃、純の身体に痣が多い事に気付いたんだ。あいつは、純がやんちゃだから生傷が絶えないんだと言った。確かに純は元気な子だったし、俺はその言葉を疑わなかった。でも、ある日……棚卸しで早めに帰ったら、一人暗い部屋の中で純が泣いてた。母親の姿はどこにもなかった」
マスターは辛そうな表情でダスターを握り締めた。
「あいつは純を家に置いて遊びに出掛けてたんだ。純を連れて行くと楽しめない、自分と同じ年の友達はまだ独身で子供なんかいないって……」
子供を置いて出掛けてた?
その間純君は?
「純は何時間も家の中に一人だった。更に、遊びに出掛けて大量に自分の服を購入していて毎月多額の請求書が来ていた。あいつは俺に黙って借金してその支払をしてたんだ」
あまりにも衝撃的な話に私は言葉を失った。
「心を入れ替えてちゃんと育児も主婦もやると言ったあいつを、俺は信じた。でも、結局は同じ事を繰り返してた。もう駄目だと思った俺は純が二歳になる頃に離婚を申し出たけど、あいつはすんなり判を押してくれるような奴じゃなかった……最悪だったよ。裁判になって、純は渡さないとか言われて……」
それでも純君はマスターといる。
「醜い争いをした。あいつは純を手元に置いておけば養育費という収入を得られると思ったんだろう。俺は金なんかどうだって良かった……ただ、あいつに純を渡せば同じ事の繰り返しになると思ったから渡せなかった。純を守るためにはあいつがどんな生活をしていたのか他人に話さなきゃならなかった。恥ずかしいとかみっともないとか言ってられなかった」
マスターは純君を守る為に、当時の隣近所の人に証言を頼んだりして親権を手に入れていた。
「でも……だったら今更なんでその奥さんが出てくるの?」
「金だよ。俺と別れてからも一向に生活を改めなかった結果だ。同情する気もない」
それでも、彼女と会ってた。
純君を会わせたくない理由は分かるけど、彼女に会う理由が分からない。
「純が居てくれればそれでいい。俺は寄りを戻す気もないし、あいつに純を渡す気もない……だから有紀ちゃん、純を返してくれ……」
頭を下げるマスターの背後に人の気配を感じて、私は立ち上がった。
「聞いたわね、純君? これがパパの本心よ」
聞きなれた声。
「お……母さん?」
勝手口から入ってきたんだろう二人は厨房から現れ、マスターをじっと見つめていた。
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