有紀-5
「おかえり純」
インターホンを鳴らすとマスターが笑顔で純君を迎えた。
「じゃあ純君、またね」
「え? もう帰っちゃうの?」
純君の寂しそうな眼に後ろ髪を引かれるが、今はにこやかに会話を交わせる心境ではない。
「ごめんね、これから用事があるんだ。また今度遊ぼうね」
マスターと眼を合わせないように真っ直ぐに純君を見つめる。
「約束だよ?」
「うん、約束」
純君と指切りをして私は背を向けた。
「有紀ちゃん」
マスターの声が聞こえたが、私は振り返る事無く家路に着いた。
純君を連れて行きたくない理由が女だなんて……。
あの時、純君は見ていなかったと思うけど、あれだけ香水の匂いをプンプンさせながら純君を迎えて欲しくなかった。
確かに、彼女とのデートも大事かもしれない。
だけど、今までは純君を優先させていた筈だ。
あんなマスターは大嫌い―――――。
家に辿り着くと、私はキッチンにバッグを置いて自分の部屋に入った。
扉を閉めた瞬間視界が歪んだ。
ポタポタと滴が零れる。
「最っ低……!」
マスターに彼女がいた事が哀しいんじゃない。
純君よりも女性を優先した事が私には許せなかった。
哀しい涙じゃない。
純君の笑顔を壊したくなくて、あの場でマスターを殴れなかった悔しさの涙だ。
「有紀? バッグに鍵が入ってるけど、どこの鍵?」
あ、昨日預かった店の鍵。
返し忘れちゃった……。
扉に与えられる振動をダイレクトに感じながら私は涙を拭った。
「店の鍵。これからお風呂に行くからカウンターにでも置いといて」
先日もお母さんに泣き顔を見られているし、これ以上心配を掛けたくない。
私は扉からそっと離れてタンスを開けた。
暑い日差しの中で遊んだので汗だくだ。
お母さんの足音が遠退いたのを確認して私は浴室に向かった。
「あぁ……明日行きたくないなぁ……」
浴室で何気なく呟いた言葉が妙に大きく感じて、思わず脱衣所に誰も居ないか確認してしまった。
明日ちゃんと話せるかな?
ちゃんと仕事できるかな?
「あぁ……憂鬱」
大きな大きな溜め息が零れた。
お風呂に入って苛々やモヤモヤを洗い流した私は、何もなかったようにキッチンに向かい夕飯の準備を手伝った。
「純君、お弁当凄く喜んでくれたよ」
「あら、早起きした甲斐があったじゃない」
「うん。いっぱい褒めてくれたらまた作ってあげるって言ったら嘘くさいくらい褒めてくれた」
「……あんた子供に何言わせてんのよ?」
野菜の皮剥きをしながらお母さんと話していると家の電話が鳴った。
「あ、お父さんの帰るコールかしら?」
お母さんは手早く手を洗って廊下へと出て行った。
途端に漏れる溜め息。
「有紀、野中さんって方から電話よ」
野中?
野中って……マスター?!
私は剥きかけの野菜を放り出してお母さんの持つ受話器を奪った。
「もしもし?」
『有紀ちゃん? 携帯に掛けても出ないから家に掛けさせてもらったんだけど、今大丈夫?』
何だか慌てているような口調だ。
「うん、平気。どうしたの?」
『純が……』
「え?」
『純が家を飛び出して……もしかして有紀ちゃんのところに行ってないかと思って』
純君が家を飛び出した?
「純君がうちなんか知るわけないでしょ? 何したの?」
『今、話してる余裕はないんだ。ごめん』
電話はあっという間に切れた。
「何? どうしたの?」
お母さんが怪訝そうに私を見ていた。
「今日一緒に遊んだ子が家を飛び出したんだって……」
受話器を下ろした私はそのまま玄関に向かった。
「どこ行くの?」
「探しに行く」
「有紀、財布と携帯くらい持って行きなさい」
サンダルに片足を突っ込んだ私の背中にお母さんが言った。
そのまま動けない私の代わりにお母さんが階段を駆け上がって行った。
純君が飛び出した?
何で?
どこに行ったの?
玄関の下駄箱の上にある置時計は七時になろうとしていた。
外は真っ暗ではないものの、随分と暗くなってきている。
「財布と携帯と家の鍵と、お店の鍵入れたから」
目の前に小さな見慣れたバッグが現れた。
お母さんが準備してくれたらしい。
「あ……り、がと」
私はそのバッグを受け取って家を飛び出した。
心当たりなんて全くない。
だからって放っては置けなかった。
変な人に連れ去られてないか、事故に遭ってないか、とにかく心配だった。
子供の行きそうな公園や駅、大型のショッピングセンターにゲームセンター、とにかく探し回った。
なのに、純君は見つからない。
時間だけが過ぎて、焦りばかりが募っていく。
純君を探し始めてもう二時間。
マスターからの連絡はない。
私が探しているとは思ってもいないだろう。
でも、見つかったら連絡の一本くらいはくれるはずだ。
きっと、まだ見つかってない。
私はたくさんの人が行き交う商店街の真ん中で立ち止まった。
生まれて二十二年間、私はここで生きてきた。
知らない場所なんかないはずだ。
絶対に何処かにいるんだから。
見つけてあげる、絶対に迎えに行ってあげるからね。
純君待っててよ?
気が付けば、私は小学校の前に立っていた。
小学校は当然の事ながら門が閉まっている。
電気も点いていない。
でも、私は知っている。
簡単にこの敷地内に入れる場所を。
正門を離れ、私は裏門に向かった。
コンクリートブロックの壁が途中から青緑のフェンスに変わっている。
その上には有刺鉄線。
私はその有刺鉄線に手を伸ばした。
一箇所の止め具を外し、そっと押すと横に伸びていた有刺鉄線は扉のように敷地内に向きを変えた。
小学生なら知ってて当然の事なのだ。
私はフェンスに手を掛け、よじ登る。
「あぁ……短パンにタンクトップだったか」
今頃になって自分の姿に気が付いた。
この姿で町内を走り回っていたとは……。
今更だけど……恥ずかしい。
「取り敢えず服装より純君だ」
フェンスの上から飛び降りて転ぶ事なく小学校の校庭の片隅に着地した。
「私もお母さんと喧嘩した時よく来たんだよねぇ……懐かしいなぁ」
私の足は迷わず裏庭の方へと向かっていた。
小学生の “秘密基地” がある場所。
「あぁ、虫除けスプレー持って来ればよかった……」
露出の多い服装で来てしまった事を少々後悔。
竹が密集して生えているその奥に子供達の秘密基地はある。
腕や首にかゆみを感じながら歩いていると、すすり泣くような声が聞こえた。
「純君、居る?」
返事はない。
でも、誰かが居るのは確かだ。
足を進めると、ホームレスの家のようなボロボロの掘っ立て小屋が見えた。
小さく動く影も見える。
「純君」
振り返った小さな影の顔部分に光るものが見える。
「有紀ちゃ……」
私は駆け寄って純君の前に立った。
抱きしめるよりも怒鳴りつけるよりも先に出たのは右手だった。
乾いたような音が響いた。
「こんな時間に何やってんの?! 凄く心配したんだよ?!」
「ごめ……さ……」
頬を押さえながら謝る純君の言葉は嗚咽に飲み込まれる。
「変な人に連れてかれたんじゃないかとか、事故に遭ったんじゃないかとか、凄く不安だったんだよ?」
私は純君を強く抱きしめた。
「無事でよかった……」
安心したせいか私の目からも涙が溢れ落ちる。
「帰ろ?」
身体を離して声を掛けると、純君は首を横に振った。
「やだ。僕は要らない子だからパパのとこに居ない方がいいんだ。おうちには帰らない」
「じゃあ、ここに住むの? ご飯どうする? お風呂は? 新学期始まったらどうするの?」
一分でも早くこの場から離れたい。
でも、純君は俯いたまま動こうとしない。
……仕方ない。
「ねぇ、純君」
「ん?」
「痒い」
「え?」
予想外の言葉だったんだろう、純君は目をまん丸にして私を見上げた。
「私ね、純君が居なくなったって聞いてこんな格好で出て来ちゃったんだよね。でね、蚊に刺されてメチャクチャ痒いわけ。純君は痒くない?」
「……痒い」
「でしょ? 取り敢えずここから離れようよ」
私は頷いた純君の手を握って歩き出した。
「今日ね、パパとご飯食べてたら女の人が来たんだ」
純君は俯きながらポツリポツリと話し出した。
「その人がね、パパと一緒に暮らしたいって言ったんだ。だから出て行けって。僕なんか要らないって」
純君が私の手をギュッと握り締める。
「パパも同じ事言ったの? 違うでしょ?」
マスターは純君を大切にしている。
絶対にそんな事は言わない。
「その女の人が、僕なんか居なくなっちゃえって……」
フェンスの前で純君は立ち止まった。
七歳の子供がどんなに傷付いたのか、その女の人は気付いていないんだろうか?
それとも分かっててその言葉を純君に投げつけたんだろうか?
「取り敢えず出よう?」
「僕……どこに行けばいいの?」
涙を零しながら純君は私を見上げる。
「うちにおいでよ。私のうちに帰ろう?」
純君の頭をポンポンと軽く叩いて私は微笑んだ。
ご覧頂きありがとうございます。
あと3日、お付き合い下さい。
ではではまた明日お会いしましょう♪