有紀-3
最近マスターの様子がおかしい。
笑顔で接客しつつも心ここに在らずって感じ。
気のせいかもしれないけど、純君もマスターの変化に気付いている気がする。
子供ってそういう変化に敏感だってお母さんに聞いたことがある。
世間では夏休み。
なのに、この店が開いているせいで純君はどこにも遊びに行けない。
定休日は土日祝日なんだけど、今のマスターが純君を何処かに連れて行ってあげるなんて難しいと思う。
昼間の忙しい時間帯は仕事の事以外考える余裕がないけれど、ピークを過ぎてしまうと店と同様マスターの心まで空っぽになる。
いつものように三時に純君が上の自宅から店へと下りてきた。
おやつの時間だ。
「何か、パパ変だよね……?」
純君が私のエプロンを引っ張って呟いた。
マスターに気付かれないくらいの小さな声。
やっぱり気付いてたんだ……。
「夏休みになってからパパ、夜になるとお酒飲むんだ」
カウンターの椅子に腰掛けてボーっとしてるマスターを、純君が寂しそうな眼で見つめている。
純君が降りてきた事にマスターは気付いていない。
この二年間、そんな事は一度もなかったのに……。
「いつもは飲まないの?」
「うん、パパお酒嫌いだって言ってた」
お酒が嫌いなのに、毎晩飲んでるって……どうしちゃったんだろう?
いや、そんな事よりも純君に心配させちゃ駄目じゃん。
父親として問題だよ。
「マスター、純君の今日のおやつ何? 準備するから教えて」
私の声に大きく肩を震わせたマスターは慌てて立ち上がった。
「純、降りてきたら声掛けてって言っただろ?」
怒ってるわけではないだろうが、その言葉に腹が立った。
でも、純君の目の前。
まだ我慢、我慢……。
私は拳を握り締めた。
純君は無言で俯いている。
泣きたいのを我慢してるのかもしれない。
そう思うと一層腹が立つ。
マスターがおやつの皿をカウンターに置いた。
だけど純君は、いつもなら喜んで飛びつくおやつにも笑顔を見せない。
こんなに心配してる純君に何で気が付かないの?
「ねぇマスター、明日何処か出掛ける?」
私はいつもの口調で尋ねた。
「いや……予定はないけど?」
「じゃ、純君借りてもいい?」
純君もマスターも意味が分からないと書かれたような顔で私を見る。
「せっかくの夏休みだもん、出掛けたいよね、純君?」
「うん!」
純君は私の言葉に笑顔で答えた。
そうそう、見たかったのはこの笑顔。
「って事で明日純君とデートさせて?」
嫌だとは言わせない。
若干睨みの入った眼でマスターを見ると、何故か困惑している。
「……それならば、日曜日にお願いできないかな?」
「は?」
どっちだっていいじゃん。
何で日曜日なの?
「実は日曜日に予定があるんだけど……純を連れて行こうか悩んでたんだ。日曜日にお願いできるなら安心して出掛けられるかなって……」
純君は連れて行きたくないって?
一体何しに出掛けるっての?
息子がこんなに心配して元気がないってのに気が付かないほど何を考えてんの?
「いいよ、日曜日ね。突然駄目だって言っても認めないから」
私は純君の頭を撫でて微笑んだ。
「日曜日どこ行こうか?」
「ポケ●ンの映画観たい!」
「OKOK、任せなさい。どこにだって付き合っちゃうから♪」
苦笑するマスターを無視して私と純君は日曜日の計画を話し合っていた。
「終わったぁ〜」
午後十時。
店の片付けや掃除をしてようやく私の仕事が終わる。
十二時間労働だけど、しっかりと休憩貰ってるし不満はない。
いつもなら、だけどね。
今日は不満爆発だ。
器が小さいって思われたって構わない。
だって許せないものは許せないんだもん。
「お疲れ様」
私はエプロンを外し、クシャクシャと丸めて鞄の中に突っ込んだ。
純君は上の自宅で既に夢の中なのだろう。
上からは物音一つ聞こえてこない。
「マスター、あんまり言いたくないけどさ……子供の前で深酒したり考えに耽るの控えた方がいいよ。純君、凄く心配してる」
勝手口の扉に手を掛けて私は振り返った。
マスターは驚いたような顔で私を見つめていた。
「最近純君がどんな顔してるのか知らないでしょ? 何があったのか知らないけど子供に心配掛けるなんて最低だよ?」
「有紀ちゃん、もしかして純を誘ってくれたの……」
「私は明るくて元気な純君が好きなの。あんな顔見たくない」
元気のない純君も、元気のないマスターも見たくない。
「ゴメン……迷惑掛けて」
「私はどうでもいいから純君と一緒の時くらいちゃんと向き合ってあげてよ」
子供にあんな顔させないでよ。
私は勝手口の扉を開けて店の外に出た。
夜とはいえ夏。
湿気を帯びた温かい風が身体に纏わり付く。
「有紀ちゃん、これ……店の鍵。もし日曜日、俺がまだ帰ってなかったらこれで家の中に入れてやってくれる?」
自分はいつ帰って来るのか分からないってか?
っざっけんな!
「自分が早く帰って来ようとは思わないんだ? 本当、最っ低!」
私は鍵を奪うように受け取って乱暴に扉を閉めた。
「純君が元気ないって言ったばっかなのに、何でそんな事言えるわけ?」
私はそんなマスターを好きになったわけじゃない。
子煩悩で優しくて気配りが出来て、何にでも一生懸命なマスターが好きなのに……。
こんなマスターなんか大嫌い!
私は預かった鍵を鞄に突っ込んで駆け出した。
家までの十五分間、何も考えずにただ走った。
家の門の前に到着した時には汗だくだった。
日頃の運動不足もあったんだろう、喉の奥のほうで血の味がしている。
「ただいまぁ……」
疲れきった顔で玄関を開けるとお母さんが驚いた顔をした。
「どうしたの? 変なのに追い掛けられた?」
「……何で?」
「だって、そんなに汗掻いてるし……泣いてるから」
泣いてる?
私は自分の頬に手を当てた。
そして汗とは別に、次から次へと流れてくる涙にようやく気が付いた。
「う〜〜〜っ」
私は両手を握りしめ、額に押し付けながら唸って泣いた。
何の涙だか分からないけど、我慢できなくて……凄く哀しかった。
靴も脱がずに身体を丸める私をお母さんが優しく抱きしめる。
「何があったのか分かんないけど、泣きたいだけ泣きなさい。ここにはお母さんしか居ないから」
お母さんの優しい声に更に泣けた。
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連続投稿3日目です。
残り5日。
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