有紀-2
「あれ? 有紀ちゃん知らなかった?」
知らなかったも何も……。
「初耳です」
今まで確かにマスターの口から奥さんの話も聞いた事がないけど……純君の口から母親について聞いた事もないけど……幸せな家庭なんだとばかり思っていた。
「ありゃ、余計な事行っちゃったかな……」
私は学さんの目の前にアイスカフェオレを置いた。
「離婚したのは純が二歳くらいだったかな? 俺もよく覚えてないけど」
「へぇ……」
「母親が居なくたって子供は真っ直ぐ育つんだなぁって、純とタク兄見てて思ったね。育児に仕事に大変なのにそんな顔もしないしさ。本人の前じゃ言わないけど、結構尊敬してたりする訳よ」
ニッコリと笑った学さんの顔は、兄弟だから当然かもしれないけど、ちょっとマスターに似ていた。
「私も尊敬してますよ?」
「でも、タイプじゃないんだ?」
「だから、好きになった人がタイプなんですってばっ」
タイプじゃないのは確かだけど、気になるのも確か。
私は学さんの言葉を否定したくて声を荒げてしまった。
「有紀ちゃん?」
マスターが怪訝そうな顔を覗かせた。
「あ、ごめんっ」
「学、有紀ちゃんを苛めるなよ?」
「苛めてないし」
べぇっと舌を出した学さんは私を見て悪戯な、意地悪な笑みを浮かべた。
「なるほどねぇ。実際に好きになるのと理想って違うよね」
気付かれた?!
私は恥ずかしくて意味もなくシンクを洗い始めた。
「ほい、お待たせ」
「お、サンドイッチ♪ トマト入ってない?」
「入れてない。まったく……いつまでも子供だな、学は」
二人の会話が遠くで聞こえる。
私の頭の中はさっきの学さんの言葉で埋め尽くされていたのだ。
その日の晩、夕食を摂りながら私は母に尋ねた。
「ねぇお母さん、バツ一子持ちってどう思う?」
突然の私の質問にお母さんが噎せ込む。
「あんたそんなのと付き合ってんの?!」
そんなのって……酷くない?
「ううん、付き合ってない。ただ訊いてみただけ」
母はあからさまに安堵の色を浮かべる。
「どう思うかって言われたら、あんまりいいイメージはないわね。バツが付くからには何かあったんだろうし。まぁどっちに非があったのかは分からないけど」
「やっぱそうだよねぇ」
私は溜め息を漏らしながら皿の上の粕漬けを摘んだ。
「その人がどうしたの?」
「ん〜? 不思議な親子でそういう人が居たから訊いただけ。深い意味はないよ、ご馳走様」
私は使った食器を持ってキッチンに向かった。
「離婚って片方が原因でするものじゃないと思うのよ。些細な事の積み重ねってのもあるし、相手だけが悪いって事はほとんどないと思うの」
お母さんは深い追求をしてこない代わりにそんな言葉を吐いた。
「子供を引き取らない母親ってどう思う?」
私は新たな質問を投げた。
離婚しても子供は母親から離れないものだと私は勝手に思い込んでいたのだ。
なのに、マスターは男手一つで純君を育てている。
学さんは離婚だと言った。
死別じゃない。
母親は生きてるって事だ。
「そういう家庭もあるわよね。母親が育児ノイローゼになって子供を嫌っちゃったり、幼児虐待とかも今は問題視されてるし。他にも経済面の理由から子供を手放さなくてはならなかったり……手放さなきゃいけない状況ってのもある事だけは知っておく必要があると思うわ」
マスターの奥さんはどうだったんだろう?
今でも会いに来たりしてるのかな?
私は食器洗いのスポンジをギュッと握りしめた。
「はい、Resting timeです」
店に掛かってきた電話を受けるのも私の仕事の一つ。
だけど、そのほとんどがマスターの私用の電話。
正直あんまり出たくないけど……調理なんて出来ないし、代わってあげる事もできないから仕方ない。
『大田 ちなみといいますけど、野中に代わって下さらない?』
「少々お待ち下さい」
女の人からの電話……。
「マスター、電話」
「誰?」
「大田 ちなみさんだって」
できる限り平静を装ったつもりだけど声が震えた。
マスターは彼女の名前を聞いて表情を硬くした。
「……もしもし」
いつもよりもワンオクターブ低い声。
初めて見る険しい表情。
「いい加減にしてくれ。そういう電話ばかりしてくるな……分かった、時間は作る。都合が付き次第連絡するから」
マスターは受話器を下ろすと共に大きな溜め息を吐いた。
「マスター、大丈夫? 顔色悪いよ?」
無関心なふりをする事なんか出来なかった。
「あぁ、うん。大丈夫」
私と視線を合わせる事もなく、無理やり笑顔を貼り付けてマスターは厨房に入って行った。
その奥にある勝手口が開いた音が聞こえる。
マスターは基本的に煙草を吸わない。
だけど、時々勝手口から出て行って煙草を吸っている事を私は知っている。
意味の分からないクレームをつけてくる客が居たり、純君絡みで何かがあった時がほとんどだ。
いつもにこやかなマスターだけど、本当は感情を笑顔で隠してるんじゃないかって思う。
爆発しそうになると煙草でその怒りや不安や苛々を抑えてる気がする。
学さんからマスターが離婚しているという話を聞いてからもう二ヶ月。
穏やかだった季節は暑い夏を迎えていた。
店の外では蝉が騒音としか思えないようなボリュームで鳴いている。
店に入ってくる客は気持ち悪いくらい大汗を掻いていて、差し出すお絞りで顔を拭くサラリーマンが続出。
陽にも焼けるし、嫌な季節。
今日の電話も嫌だけど、それだけじゃなくて……何だか嫌な予感がした。
もっともっと夏が嫌いになるような大嵐が迫ってきそうな感じ。
私はこのまま何も起こらず過ぎ去ってくれる事を願わずにはいられなかった。
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今更だけど、このお話 全8話 です。
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