歩く死者の噂
『ごめんなさい、リラ。あなたにこの宿命を背負わせてしまうなんて。でも、これはずっと受け継いでいかなければならないの。辛く、恐ろしいものではあるけれど。私もそう言い聞かされてきたわ。だからお願い、どうか約束して――』
何度も祖母に聞かされた言葉が頭の中に蘇る。それなのに、なぜか、その続きがどうしても思い出せない。どうしてだろうか。あんなに繰り返し嫌になるほど聞いてきたのに。自分はなにを約束させられたのか。
幼い自分の両肩に祖母の手が乗せられる。その手は普段の温厚な祖母からは考えられないほど力強かった。だから、頷くことしかできない。幼くして両親を亡くしたリラにとって祖母の言うことは絶対だった。
『分かった、言うことをきく。絶対に、約束するから』
祖母の迫力に押されながら、必死に返事をする自分。なにを? 私はなにを約束したの? その答えが暗い奥底に沈んでいく。そこで場面が切り替わるようにしてリラの意識は覚醒した。
「おはようございます、リラさま。今日は生憎のお天気みたいですが、ご気分はいかがですか?」
フィーネが、カーテンを開けてリラに声をかける。いつもはフィーネが訪れる前に目が覚めているのが普通なのだが、今日は夢見が悪いせいか、どこか頭が重い。てきぱきと朝支度を進めていくフィーネに視線を向ける。
あの夜から四日が経過していた。翌朝、いつも通り部屋にやてきたフィーネは、硬い表情で開口一番にリラに謝罪の言葉を述べた。もちろん、誰にも言わないでほしい、と言われたのに王に話してしまったことに対してだ。
リラの告げた通り、祖父の使っていた机の一番下の引き出しの奥にフィーネ宛の本を発見したらしい。何度も謝罪と御礼の言葉を繰り返すフィーネにリラは苦笑しながら大丈夫だと告げる。すると途端にフィーネはなにかを強く決意した顔になった。
『私は陛下の命令でリラさまのお世話をしておりますが、これからは私の意志でもあります。なにがあってもリラさまをお守りしますから!』
守るとは、一体なにからだろうか。そんなことを思いながらも、フィーネは続けて、リラの不思議な力のことについては絶対に他言しないことを熱く誓ってくれた。もちろん、ヴィルヘルムからも言われているのだろうが、それでもフィーネの純粋な気持ちは十分にリラに伝わった。おかげで二人の距離は初めてここで会ったときよりも、ぐっと縮むことができたのだった。
対するヴィルヘルムは、あの夜からリラの部屋のドアを叩く事はなかった。また来るとは言ったが、それがいつだとは言っていない。毎日訪れると約束したわけでもない。自分が飼い猫なら、それを可愛がるのは主人の気まぐれだ。ましてや多忙な王のことを考えるなら、尚更こんなことは当たり前だ。
それなのに、つい寝る前に何度もドアを気にしてしまう自分に呆れてしまう。こんなにもヴィルヘルムが自分の元に足を運ぶことがないことに、言い知れぬ寂しさを抱くなんて。これではまるで、会いに来てほしくて恋焦がれているみたいだ。自分から彼になにかを望むことなど決して許されない立場ではあるのに。
「リラさま?」
その声で意識を現実に取り戻すと、アーモンド色の瞳が心配そうにリラを見つめていた。どこかご気分でも? と尋ねてくるフィーネに慌てて首を振る。着替えを手伝ってもらっている途中だった。もうひとりでもできるのにそこはフィーネが納得してくれない。そして話題を変えるためにも、気になっていたことを口にした。
「そういえば、最近どこかみんな慌ただしいみたいだけど、なにかあるの?」
元々部屋からあまり出ないリラではあったが、最近は廊下によく人が通り、城の者がなにやら忙しそうにしている気配を感じ取っていた。フィーネはドアにちらりと視線を投げかける。
「ええ。近々、久々に舞踏会を開くらしいんです。ヴィルヘルム王が即位してからはあまりなかったので、その準備に忙しくて」
「そうなの」
舞踏会というのは、リラにとっては未知の世界だった。知識だけならどんなものか知っている。ある程度の階級層の者たちだけが参加することを許され、豪華絢爛な大広間で、心地よい音楽に酔いしれながら踊りを楽しむのだ。
「陛下のお眼鏡に適う女性がいらっしゃるといいんですが」
フィーネの何気ない一言にリラは心臓が鷲掴みされたように苦しくなった。舞踏会は若い男女の出会いの場であるとも聞いたことがある。つまりヴィルヘルムが気に入る女性を探すための場でもあるのだ。
ズキズキと痛み出す胸をそっと押さえた。なんでこんな気持ちになるのかリラ自身よく分からない。そんなリラの気持ちなど知る由もなく、フィーネは頬に手を添えてなんだか浮かない顔をしている。
「どうかしたの?」
リラの問いかけにフィーネは苦々しく笑った。
「いえ、舞踏会が開催されることは喜ばしいことだと思うんですが、そうなるとまた、“歩く死者”が出たみたいで」
「歩く死者?」
鸚鵡返しに尋ねると、フィーネは躊躇いながらも口を開いた。
「リラさまだから言うんですけどね、舞踏会が行われる広間にはバルコニーがいくつもあるんです。ですが、そのうちの一番大きいメインのものは、立ち入りが禁止されていまして……」
目を泳がせながら、フィーネはまるで内緒話でもするかのように口の横に手を当てて小声で続けた。この部屋にはリラとフィーネしかいないのだが。
「出るんですよ、歩く死者が。準備や清掃のためにそのバルコニーに出入りすると、若いブロンドの髪を後ろでひと括りにした男性が青白い顔をしてこちらをじっと見ているんですって」
一際低いフィーネの声にリラは目をぱちくりとさせた。その反応がどうもフィーネには面白くなかったようである。
「もうっ! 信じていませんね。でも何人もの城の者が遭遇し、中には気分が悪くなった者も出て、あそこは立ち入り禁止になったんです。せっかく広くて見晴らしもいい場所なのに」
「フィーネは会ったことがあるの?」
「まさかっ! 私はその話を聞いてから、足を運んだこともありません」
身震いしたのか、フィーネは自分をぎゅっと抱きしめた。そして、リラはしばらく考えを巡らせる。
「もしも……その歩く死者が出なくなったら、そこはまた使えるの?」
「もちろん。舞踏会の合間にこっそり抜け出した男女が愛を語らう場所、なんて使われ方もしますが、普段からあの広さを持て余すのは勿体ないですからね。なにより、城での舞踏会には歩く死者が出る、なんて話のせいで出席を辞退する方もいるくらいですから」
「そう、なんだ」
生返事のようで、しばらくふたりの間に沈黙が走ったが、フィーネに向けられたその瞳には、強い意志が込められていた。一瞬だけ、たじろいだフィーネだが、すぐに察したらしい。
「まさか、リラさま」
「お願い、フィーネ。その歩く死者についてもっと教えて欲しいの」
そのことでフィーネはとんでもない話をリラにしてしまったのだと後悔した。これは、なんと王に報告すればいいのだ。しかし真っ直ぐ自分を捉える紫の瞳にフィーネはリラの頼みを断わることができなかった。
その日の晩、ベッドに入ってから、リラはフィーネが語ってくれた歩く死者の情報を反芻していた。立ち入り禁止となっているので、あまり多くの目撃情報は得られなかったが、それでも分かったことがいくつかある。彼が現れるのは、太陽が沈む頃から夜にかけて。そして目撃者は全員女性ということだ。
フィーネの話していた通り、そのバルコニーに足を踏み入れて、じっとまとわりつくような視線と悪寒を感じて後ろを振り向けば、背が高い金髪の男性が立っているのだという。その表情は読めず、顔は青白くて目にも色がない。
すぐにこの世の者ではないと悟ることができ、多くの者は叫んだり、その場を後にしたり、さらには気絶したりと、それ以上の接触はないという。害を与えられたという話はないらしい。
何度目かのため息をついて寝返りをする。そのたびに、リラの長い髪が惜しげもなくベッドの上に広がった。ひとりで寝るには十分すぎるくらい広いベッドは、やはり落ち着かない。
怪我の具合も大分よくなり、日中、フィーネに案内されながら城内を歩いていると、嫌でも他の城の者たちとすれ違うことがあった。その度に、好意的ではない眼差しを向けられたり、リラの外見をもの珍しそうに眺め、こそこそと囁き合われたりもした。
改めてこの城で自分がどう思われているのかが突き刺さるように染みる。分かっていたことだ。けれど、その度にフィーネが変わらない笑顔で自分に話しかけてくれたり、気遣ってくれるのが伝わってきて、救われたのだ。
『なにがあってもリラさまをお守りしますから!』
フィーネの守る、っこういうことだったんだ。
言われたときには分からなかった言葉に込められたフィーネの決意になんだか泣きそうになる。そのとき、控えめなノック音が部屋に響き、リラは急いで身を起こした。
「起こしたか?」
「陛下」
どこか申し訳なさそうに部屋に入ってきたヴィルヘルムに、リラの心は安心感と嬉しさで満たされていく。そして、やはり待ち焦がれていたのだと、はっきりと自覚させられる。
ヴィルヘルムは、ベッドにゆっくりと近づくとリラに断わりを入れてから腰掛けた。リラもその隣に躊躇いながらも移動する。改めてヴィルヘルムの横顔をリじっと見つめた。薄暗い中でも、はっきりと分かる整った顔立ち、自分とは正反対の黒髪は、夜を封じ込めたようだ。
「お久しぶりです」
なにを話していいのか分からず、リラは無難に挨拶を述べる。するとヴィルヘルムは顔だけリラの方に向けた。
「私はあまり久しぶりとは感じないな。だが、たしかに起きているお前に会うのは久しぶりか」
発言の内容がすぐには咀嚼できず、リラは懸命に頭を回した。そしてひとつの答えにようやくたどり着いたところで先に王が続ける。その顔はどこか楽しそうだ。
「ここ最近はずっと忙しくてここに来るのも遅かったんだ。だが、その分いいものが見られた」
予想していた答えが当たっていることを示され、リラはシーツを持ち上げ、顔を隠そうとした。
「き、来てくださっていたなら、起こしてくださいっ」
「そう言うな。あんな顔をされてたら起こす気もなくなる」
顔に熱が走って頬が染まる。自分は一体、どんな顔をして眠っていたのか。それはとてもではないが聞き返せなかったが、それでも、自分が知らない間にも、こうしてここに足を運んでくれていた事実に嬉しさも感じていた。
「最初は随分と魘されていたからな」
独り言のように呟かれた言葉に、この城に連れて来られたときのことをリラは思い出した。鈍い痛みが胸に蘇り、息が苦しくなるのをぐっと堪える。もしかして、そのことを心配して様子を見に来てくれていたのだろうか。シーツを握り締めると波のように皺が寄った。
「それにしてもどうした? 歩く死者に興味があると聞いたが」
話題を変えるかのように問いかけられ、リラは目を白黒させた。どうやらこれが本題らしい。わざわざいつもより早い、こうして自分が起きている時間に尋ねてくれたのは、このことを訊きたかったのだろう。自分の言動はフィーネ伝いに筒抜けなのだ。なのでリラは素直に答える。
「興味、と言いますか。陛下もご存知なんですか?」
「ああ、報告として何度か聞いてはいる。だが、私は歩く死者は専門外だ。あいつらはどうすることもできない」
「そうなんですか」
純粋に驚きを含んだ声で返す。リラにとっては、違って見えるものの、歩く死者だろうが、悪魔だろうが、生者ではないものをこの紫眼には映してしまうので、少し意外だった。ヴィルヘルムは首元を緩めて、軽く息を吐いた。
「言っただろ、そもそも私はお前のように奴らを見ることはできないんだ。祓魔の力も、できることは文字通り、憑いたものを祓うことだけ。逆に言えば奴らを滅ぼしたり、消したりはできない」
やれやれと肩を竦めるヴィルヘルムにリラは気になったことを問いかける。
「陛下が詠唱されていたのは、その……」
「あれはラタイン語と呼ばれるものだ。日常ではほとんど使われない。祓魔の呪文はほとんどが、昔から受け継がれてきたラタイン語を使う。本当に憑いているかどうか判断するために、奴らとのやりとりに使ったりな」
「憑いていない場合もあるんですか?」
リラの質問に王は口角を上げた。そしてリラの頭に、そっと手を乗せる。何気なく触れられただけで胸が締め付けられて、息が詰まりそうになる。
「数え切れないくらいあるさ。病からくる精神的なもの、狂言、自己暗示。だから祓魔を行う場合は念入りに下調べを行う。お前のようにみんながみんな素直で単純なわけじゃない」
「それは、褒められてるんでしょうか、貶されているんでしょうか」
動揺を悟られぬように、リラはむっとした声で返した。ヴィルヘルムはおかしそうに笑うと、さらに空いていた方の手もリラの髪に伸ばす。両手の指が髪を滑ってゆっくりと頬に添えられた。
触れられていると意識するだけでリラの心臓は鳴り止まない。おかげで、瞬きすることもできずにヴィルヘルムの顔をじっと見つめた。
「もちろん褒めている。分かりやすい方が飼い主としては有難い」
吐息を感じるほど近くで告げられ、リラの心は震えた。仄暗くて視界が得る色彩は少ない。それでもヴィルヘルムの瞳の色ははっきりと感じる。そっと離れられ、リラは残念なような安堵した気持ちになった。それをなんだか王に悟られてはいけない気がしてしまう。
「どうせお前のことだ。フィーネから聞いた歩く死者をどうにかしようと考えているのだろう」
思考が沈みそうなところで、ヴィルヘルムに見透かされていたことにぎくりとする。
「あ、はい。私にできることがあるのかは分かりませんが……」
「私にとっては、どうでもいい存在だ。ただ、どうにかなるなら、それに越したことはない」
その発言を、リラが歩く死者について行動することを許可したと捉え、さらに尋ねる。
「明日、実際にそのバルコニーを見に行ってもかまいませんか?」
「好きにすればいい。ただし、ひとりで出歩くな。フィーネを連れて行け。本人にも言っておく」
「はい。……あっ」
そこでリラはフィーネが怖がりだったことを思い出した。自分の勝手な都合で彼女を歩く死者の出るところへ連れて行くのも申し訳ない。場所さえ分かれば、向かうのはひとりでも平気だ。そのことを告げると、王は途端に渋い顔になった。
「言うことが聞けないなら許可しない」
強い口調で言い放つヴィルヘルムにリラは言葉を迷う。たしかに、自分のような人間をひとりで行動させるには、信用が足らないのだろう。
「あの、陛下」
「お前は誰のものだ?」
言葉を遮るようにヴィルヘルムはリラに問うた。その凛とした声に、表情に思わず息を呑む。そしてヴィルヘルムはベッドに広がっているリラの髪を掬い上げた。その動作ひとつひとつに目を奪われる。
「私の目の届かないところに行かれて、なにかあったら困るんだ。私のものだと自覚しているなら、おとなしく言うことを聞け。自覚がないと言うなら……今すぐにでも分からせてやろうか」
銀糸に唇を寄せながら、射抜くような眼差しを向けられ、リラは大袈裟に頭を左右に振った。
「フィーネについていってもらいます」
その言葉を聞いて、ヴィルヘルムは手元を緩める。リラの髪が流れ落ち、それを目で追いながら、おもむろに立ち上がった。
「くれぐれも無理はするな」
それだけ短く告げると、王はいつものように、また来る、とだけ言い残してリラの部屋を後にした。そして、しばらく動けずにいたリラだったが、やがて金縛りが解けたかのようにベッドに勢いよく倒れこむ。
胸の奥で疼くような気持ちになんだか泣きそうになる。ここにいる限り、言葉通り、自分は王のもので、ただの飼い猫だ。けっして対等なものではなく、自分が抱くような気持ちは間違っている。
リラはぎゅっと目を瞑って自分の気持ちを振り払う。今は歩く死者について考える方が先決だ。いや、考えておかないと、またヴィルヘルムに対する気持ちで胸の中を占拠されそうで怖かった。
とにかく王の許可も得たことだ。フィーネには申し訳ないが、歩く死者の出る現場に足を運んでみよう。この瞳で見れば、なにか分かるかもしれない。これは、王のためでもあるのだ。
『陛下のお眼鏡に適う女性がいらっしゃるといいんですが』
どんな女性がヴィルヘルムの元へ集まるのだろうか。もし歩く死者の問題を解決できれば、ヴィルヘルムはそのバルコニーで誰かと愛を語らうのだろうか。そんな想像をするとなんだか胸が千切れそうに痛んで、目の奥が勝手に熱くなる。
どうして? 飼い猫なら、主人の幸せを願わなくてはならないのに。陛下のお役に立てるように尽くすことしか、今の私にはできないのに。
その日の晩も、結局リラはなかなか眠ることができなかった。