国王陛下の秘密
屋敷に入れば、小太りで頭の薄い男性が丁寧に一行を迎え入れてくれた。相手をしているのはクルトで、なにやら確認を取るかのように真剣な表情でやりとりしている。それをリラは部屋の端でぼうっと眺めていた。自分はなんのためにここに連れて来られたのか。
その答えが分からないまま、二階に赴くようなので、おとなしくついていくことにした。しかし、軋む階段の音がなんだか緊張を増幅させる。直感でこの先に待つものが、なんだかいいものではないというのをリラは感じていた。
ドアの前まで案内され、家の主人は恭しく頭を下げると、ひとり階下へ戻っていく。その背中をじっと見つめて、早鐘を打ち出す心臓を必死で押さえた。
ヴィルヘルムはクルトとエルマーにそれぞれ視線を送ると、ふたりは目で応える。そしてそのドアを開けた。リラだけが状況についていけないまま、この扉の向こうに待つものに対峙しなければならないのだ。
ドアはなんの躊躇いもなく開き、蝋燭の明りが室内を照らしていた。そして獣のような呻き声にリラは耳を疑いたくなった。
この部屋にはなにがいるのか。中には獣などいない。大きなベッドが真ん中にあり、そこにはひとりの男性が両手足をそれぞれベッドの四隅に縛りつけられている。
その光景にリラは口元を覆った。男性の顔に生気がまったくなく、焦点も定かではない。落ち窪んだ眼窩、痩せこけている頬。恐らくリラとそう年も変わらない若さだろうが、その面影は微塵もない。
猛禽類のような目をぎょろりと動かし、こちらを捉えると、その口が心なしかにやりと笑ったような気がした。その顔も不気味で、リラは背筋が粟立つのを感じる。
歯の根が合わずにがたがたと震えるリラをエルマーがそっと支えた。そして男にヴィルヘルムはなんの躊躇いもなく近づいていく。
「名前は?」
「コルネリウス・ファーナー」
まるで老人のようなしゃがれた声は、青年のものと思えない。ヴィルヘルムはまったく動揺を見せずに、抑揚のない淡々とした声で続けた。
「彼の名前は知っている。お前の名前だよ」
「……教えるわけないだろ」
男の口角がさらに上がって不気味さを増す。色を宿していないと思われていた目には粗暴さが滲んでいた。しかし、ヴィルヘルムは表情を変えないままだった。
そして軽く息を吐くと、どこから取り出したのか小さな小瓶の蓋を開け、コルネリウスに向かって軽く振りかけた。コルネリウスの顔が一瞬だけ怯む。
それからリラには理解できない言葉がヴィルヘルムの口から紡がれる。意味は分からないが独特の韻と落ち着いた声が空気を震わせ、目に見えないなにかを圧として感じる。けれど、けっして不快なものではない。
ベッドの上にいる男にとっては、そういうわけでもないらしく、針かなにかで刺されているような苦悶に満ちた表情と叫び声を上げ始めた。縛られているところが痣になるほど、激しく抵抗し、ベッドが音を立てる。壊れてしまうのではないかと不安に駆られながら、リラはここでようやくベッドの青年を改めて見る事ができた。
その紫眼に映るのは、青年の姿ではない。胴体は人間のようだが、全身焦げたように真っ黒で、その頭は牡牛のようだった。苦しそうに舌を出して喘いでいる。これは
「アスラメルク」
リラが小さく呟く。その声に部屋の中にいた者たちの注目が一気に集まる。そして、激しく抵抗していた青年の動きが一瞬だけ止まったのをヴィルヘルムは見逃さなかった。
「なるほど。それが、お前の名前か」
「待て。ここは随分と居心地がいい。この男は賭博を不正に行い私財を肥やしている」
「だから、どうした? 自ら出て行くか、出で行かされるのか、好きな方を選ばせてやろう」
ヴィルヘルムの冷たい瞳が揺れる。そこに譲歩させる隙はないと見たのか、怯みながらも男は饒舌になる。
「この男に憑りついたのは三週間前。食べようとしていたパンに入り込んだのさ。おかげで、あと三年はここにいるつもりだ」
「自ら出て行くつもりはない、というわけか。ならしょうがない」
ヴィルヘルムは一瞬だけ目を瞑り、再び開かれた目は冷厳さを伴って、目の前の男を見据えた。
「立ち去れ、哀れなる者。名はアスラメルク。我は汝の名をもって縛り、厳命する」
さらに、再び聞きなれない言葉で詠唱を始める。先ほどよりもその声に込められた力は強く、淀みがない。
男は再び目を剥いて苦痛に満ちた声を上げる。体が傷つくことなんて厭わないような激しい抵抗が痛々しいくらいだ。その形相は彼本来のものではない。
そしてヴィルヘルムが先ほどの小瓶に入っていた水で右手の指先を濡らし、降りかけるようにして男の上で十字を切ると、男は顔を歪め断末魔のような叫び声を上げた。
その声は人間のものとも思えないもので、背筋に不快なものを這わせる。思わず耳を塞いでしまったリラだが、次にベッドの上に視線を向けると、そこには死んだような顔で気を失っている青年の姿があった。顔色が悪いのは違わないが、先ほどとはまったくの別人だ。まさに憑き物でも落ちたかのような。
「祓えましたか?」
事の成り行きを見守っていたクルトが静かに口を開く。ヴィルヘルムはおもむろに肩を落とすと、目を凝らして男を見てから、こちらに顔を向けた。
「おそらく。契約はしていなかったようで助かった」
そして、王の視線がまっすぐにリラを捉える。
「なにか言いたそうな顔をしているな」
分かってて水を向けると、リラは少しだけ考えを巡らせた。
「陛下は……聖職者だったのですか?」
その格好、そして今行った行為をリラは知っている。初めて見る光景ではあったが。コンジュラシオン――悪魔祓いと呼ばれるものだ。
「聖職者、とは違うな。私は神を信じていないし、仕える気もない」
「では」
「話は後だ。とりあえず用事は済んだのだから、長居は無用だ」
その言葉に弾かれたようにそれぞれが動き出す。リラは信じられない、というよりは重い鉛が心の中に沈んでいるような気分だった。そのとき、布で覆われているリラの頭に温もりを感じた。
「心配しなくても、説明はちゃんとする。それに、お前の話も聞かないとならないしな」
王の言葉にリラの心は渦巻いていく。どうして自分をここに連れてきたのか。その答えをリラも薄々と勘付づていた。そして、それが自分にって好ましくないことだとも。
行きと同じように帰りも馬車を使用したが、その車内は誰一人として口をきかなかった。自分の真向かいに座っているヴィルヘルムから視線を感じる。しかし、それを受けることができずに、リラはひたすら小さな窓の外に視線を送った。辺りは暗くて闇が広がっているばかりだった。
説明はちゃんとする、という王の言葉があったが、城に戻ってくるのと同時に、リラはかまわずに自室に足を向けた。馬車を降りる前に、頭を覆っていた布をクルトに返そうとしたが、それは冷たく拒否された。そもそも自分は歓迎されていない客なのだ。そのことで傷ついたりはしない。
部屋着にそそくさと着替えて、ベッドに腰かけ深く息を吐く。肌寒さを感じながら、リラはゆっくりと目を閉じた。自分が見たこと、体験したことをひとつひとつ思い出しながら、少しずつ頭の中を整理して落ち着かせていく。
そうしていると部屋にノック音が響き、心臓が跳ねた。フィーネか、エルマーか。その予想はどれもはずれた。
「陛下」
そこにはしかめっ面をしているヴィルヘルムの姿があった。もちろん着替えており、いつも通りのヴィルヘルム王、その姿だ。短い、けれども艶のある黒髪が揺れる。
「そんなに意外そうな顔をすることもないだろ。説明する、と言ったはずだ」
ゆっくりと近づいてくるヴィルヘルムに対し、リラは急いで立ち上がって釈明する。
「いえ、その、ノックがあったので、てっきり……」
「エルマーに言われたからな」
数時間前の臣下の冗談とも取れるような窘めを王は律儀に聞いたらしい。そのことが意外でもあり、王の人柄を思わせるようでなんだか微笑ましく思った。
リラは目線を部屋に備え付けのテーブルに向ける。小さな四角いテーブルに対し、年代を感じさせる木製の椅子がふたつ。この部屋で話すならそこがいいだろうと思い、一歩踏み出したところで機先を制される。
「そこでかまわない。同席すると言ってきかないクルトをわざわざ部屋の前で待機させたんだ。楽にしろ」
どういう意味なのか理解できないまま、そこで立ち尽くしていると、ヴィルヘルムはリラに断わりもなく、天蓋から吊るされている布を手で除け、乱暴にベッドに腰掛ける。
そのとき、ふっと王の肩の力が抜けたような気がした。そして、まだ立ち尽くしたままでいる自分に顔を向けられ、リラは慌てた。
「あの」
「またエルマーに言われそうだな。とりあえずここに座れ」
自嘲的に微笑んで指示され、リラに拒否権はなかった。しかし、そんなふうに告げるヴィルヘルムがどこか素のような気もして、一人分ほどの間を空けて隣におずおずと座る。
「なぜ、シュヴァルツ王家が長きに渡って国を治めてきたと思う?」
沈黙を破ったのはヴィルヘルムの方だった。突然の質問にリラは虚を衝かれる。ヴィルヘルムは前を向いたまま続けた。
「この国の多くの者は神という存在を信じ、祈りを捧げる。絶対的な存在は国を治める者にとっては脅威だ。あくまでも王家といえど人間だからな。神にはなりえない。だが、もしも神にも似た特別な力を持っていたとしたら?」
そこで王がリラの方にゆっくりと顔を向けたので、仄暗い部屋の中でふたりの視線は交わった。リラはなにも言わずに紫色の瞳に王を映す。そして王の口角が微かに上がった。
「神を信じ祈るように、その対になる存在をも信じ、祈りを捧げる者がいるのは不思議なことではない。いつからかは知らない。けれどシュヴァルツ王家は代々、それらを祓う力を持っている」
「それが、先ほどの……」
目線を逸らさないまま口を開くと、王は目で応えた。
「表立ってはけっして行わない。まさか、今も王家がその力を持っているとは誰も思っていないさ。知っているのは王家とそれに近しい者たち、そして方伯だけだ。王家がその力をもって国を治めている、というのは大半の人間は古くからの言い伝えだと思っている。それに、わざわざ奴らの存在を知らしめても混乱を招くだけだろう」
「なぜ、陛下はその話を私に?」
ここで、ようやく気になっていた問いかけをリラは口にすることができた。しかし、その答えはもう分かっている。問題はどうやって王がそのことを知ったのかということだ。
「そう怖い顔をするな」
宥めるかのようにヴィルヘルムは気の抜けたような笑みをリラに見せた。後ろに片手をつき、そちらに体重をかける。その重みでベッドが軋んだ。
「その瞳を見たときから、ずっと気になっていた。ただ色が珍しいからではない。なにか惹かれるものがあった。その正体が明確には分からなかったが。今日、連れて行こうと思ったのはフィーネの報告を聞いて判断した」
その言葉にリラは顔を歪めて傷ついた表情になる。そしてフィーネに告げた言葉が思い出された。
『お祖父様の使っていた机の一番下の引き出しの中身を奥まで全部見てみて。あなたの探しているものが、きっと見つかると思う』
突然の前触れもないリラの発言に、フィーネは怪訝な表情を浮かべた。無理もない、ほぼ初対面の、祖父とも会ったことがないような人間の言うことだ。言ったことを後悔しながらも、このことは誰にも言わないでほしい、と念押ししたのだが。
「フィーネは言い渋っていた。けれど、祖父の話をお前にしろと言ったのは私だ。その反応を報告しろ、ともな」
リラは目を大きく見張って王を見た。薄暗い中で王の肌の白さがやけに目につく。
「無事に祖父からの贈り物は見つかったそうだ。とても感謝していたぞ。そして……私も確信を得られたわけだが」
リラはなにも答えないまま俯いた。結局、自分は王の掌の上で転がされていただけなのだ。今更自分から答える必要もない。きつく唇を噛みしめた。