行先不明の連れ出し
ふと目を開けると、部屋の中の薄暗さから日が落ちたことが窺えた。どうやら自分は疲れてあのまま眠ってしまったらしい。顔も体も動かさないまま、リラは先ほどフィーネに告げたことについて考えていた。
どうして、あんなことを言ってしまったのか。天蓋に施された刺繍をじっと見つめる。言うと決めたのは自分だ。その判断を今更後悔したところでどうしようもない。案の定、フィーネはリラの言葉を聞くと、訝しげな表情を浮かべていた。
その反応は無理もないし、予想していたことだ。けれども、せっかく縮まった距離を、この城での数少ない頼れる人間を失ってしまうかもしれない。
ため息をついたところで、部屋のドアが開く音がした。
「陛下」
この部屋に入ってくる人間は限られている。リラは急いで身を起こすとヴィルヘルムは廊下ならば、つかつかと靴音が響きそうな足取りでリラのそばに寄った。その顔はいつもよりも、どこか険しい。
「リラ」
名前を呼ばれてリラは王を見上げた。
「突然で悪いが、共に来て欲しいところがある」
まさかの王の言葉にリラは大きく目を見開いた。一体、どこへ? と自分は尋ねてもかまわないんだろうか。もしかすると、また違う誰かのところへ……。
最悪の事態を想定し、顔が青ざめるリラを見て、ヴィルヘルムは色々と悟ったらしい。言葉足らずだったことを悔やみながらも、腰をかがめてリラに視線を合わせる。
「心配しなくても、お前を手放したりはしない」
その言葉にリラは心臓が鷲掴みされたようだった。王はすぐに扉の方に向き直り、側近の名を呼ぶ。
「陛下、いくらなんでも女性の部屋に入るときは、ノックぐらいしましょうよ」
その顔にリラは見覚えがあった。呆れたようにヴィルヘルムを見つめる青年は右目にモノクルを装着しているが、聡明さよりも人懐っこさの方が滲み出ている。その視線がリラに向けられた。
「こうしてお話するのは初めてですね。僕はエルマー。突然ですみませんが、陛下の言う通り、一緒に来てほしいところがあるんです。まずは服を着替えていただけませんか?」
エルマーから服が手渡され、リラはずおずと受け取った。なにか言いたげな目で見つめ返すと、エルマーはにこりと人のいい笑みを浮かべる。
「すみません、本当は着るのにフィーネにでも手伝ってもらうべきなんでしょうが、このことは極少数の人間にしか知らせずに進めたいので」
ますますリラの心に不信感が募る。助けを求めるように、ヴィルヘルムに視線を寄越すと、その口がおもむろに動いた。
「手伝いが必要なら、私がしてやろうか」
「そういうことではありません!」
反射的にリラは叫んだ。相変わらず王の言っていることが冗談なのか本気なのか理解できない。状況についていけず、突然のことに頭が痛くなってくる。しかし目の前の男たちはさして気にしてはいないようだ。
「手伝うって、陛下は脱がすの専門でしょう」
「着せるためにはまず、脱がさないとならないだろ」
「なるほど-」
軽快なやりとりを繰り返すヴィルヘルムとエルマーにリラは頭を押さえていた手を軽く握った。
「分かりました、おとなしく従います。着替えはひとりでできますから!」
強く言い切ると、男たちふたりは渋々と部屋を後にする。リラはてきぱきと与えられた服に着替えることにした。まだ傷が痛むのでフィーネが手助けしてくれる場合もあるが、もうそこまで重症ではない。
普段から、傷や治療のことを考慮してか、リラには着脱しやすい服が与えられていた。それは見様によっては質素なものではあるが、高貴な身分でもないリラにとっては重厚なドレスやコルセットよりもずっと落ち着くものだった。
なんとか服を身にまとい、部屋の外に声をかける。すると、入ってきたのはエルマーのみで、そこにヴィルヘルムの姿がなかったことに、リラは少しだけ落胆した。そしてすぐに、そんな気持ちになったことに動揺する。ぎゅっと唇を噛みしめるのと同時に、気持ちも引き締め直し、リラはゆっくりと部屋の外に出た。
リラに与えられた服は濃灰色の地味なものだった。膝下まで覆う長い生地はゆったりとしたもので、むしろこの城の中では返って目立ちそうな雰囲気だ。
ただ、よく見ればエルマーも地味な黒に近い服を身に纏っていることにリラは今更ながら気づいた。普段、そんな派手な身なりはしていないと思うが、王の側近にしては地味な気がする。
「どうぞ、こちらへ」
質問はできないまま、エルマーについていく。昼間歩いた廊下の印象とは異なり、肌寒さを伴って徐々に夜の帳が下りてきたのか、暗い城の中に自分たちは溶けてしまいそうだと思った。
リラを気遣って、ゆっくりと歩くエルマーではあったが、それでも、まだ体力の十分ではないリラには、壁を伝いながら、ついていくのも精一杯だった。
「すみません、大丈夫ですか?」
足を止めて、エルマーが問うと、リラは軽く首を縦に振った。
「大、丈夫です」
「あと少しですから。すみません、ちょっと失礼しますね」
数歩先を歩いていたエルマーだったが、おもむろにリラの隣にやってくると、その手を脇下に差し入れ、体を支えるようにして自身に寄せた。重心が隣に寄りかかり、体が密着する。これにはリラも戸惑いを隠せない。
「あ、あの」
顔を赤くして狼狽えるリラにエルマーは苦笑する。意図せずともその顔は近い。
「余計歩きにくいですか? 他意はないんです。少しでも支えになれば、と思ったんですけど」
リラは勢いよく今度は無言で首を横に振った。変に意識しているのは自分だけで、今まで異性とこんなふうに触れ合ったことがないのが、どうしても丸分かりである。極力、エルマーの顔を見ないようにして足を前に進めることだけに集中した。
「なにをしている?」
しばらくしてから聞き覚えのある声が耳に届き、リラは顔を上げる。他に誰もいない廊下でその声はとてもよく通った。姿が分かるくらいの距離で、不機嫌そうな顔をしたヴィルヘルムとクルトがリラたちの方に視線を送っている。
「お待たせしました? 彼女がひとりで歩くにはまだ、本調子ではなさそうだったんで支えていただけですよ」
そう言いながら、エルマーはそっとリラから体を離した。ヴィルヘルムは眉根を寄せたままの表情でこちらに近づいてくる。王の表情よりも、リラはその服装が気になった。
足丈まであるコートのようなものを身にまとい、その色は黒だ。柄など一切なく縦襟で前にボタンがびっしりと並んでいる。キャソックと呼ばれるものだろうか。そして首には白色のストールがかかっている。その姿はまるで――
じっとヴィルヘルを見ていたところで、距離がかなり近いところまで縮められたことに、リラは気がつかなかった。そのことに気づいたとき、王は素早く動くと、リラの膝下に腕を回し、軽々しく持ち上げたのだ。
「えっ」
「こっちの方が早い」
突然の浮遊感に事態が飲み込めないが、反射的に、落ちないようにとリラは王の首に腕を回す。重力に従い、銀の細い髪がはらはらと流れ落ちた。
「陛下、私は大丈夫です。降ろしてください」
「時間がないんだ、言う通りにしろ」
リラの抗議の声はあっけなく一蹴される。そう言われてはリラもおとなしくするしかない。そのままクルトの元に足を運べば、彼は小さな扉の前で待機していた。どう見ても玄関ではなく、普段、ここから人が出入りするようには思えない。
「すみません、気が利かなくて。僕も陛下と同じようにした方がよかったですかね?」
からかい口調でエルマーが尋ねると、ヴィルヘルムはそちらを軽く一瞥しただけでなにも言わない。リラは抱きかかえられたまま「いえ、そんな」と弱々しく否定する。
背中や足に触れられ、こうして密着して感じる王の温もりに、羞恥心に似たなにかが溢れ出しそうで苦しくなる。この触れられ方は言うまでもなく、先ほどのエルマーの比ではなかった。
ようやく降ろしてもらい、リラはヴィルヘルムに礼を言うべきか悩んだ。そっと顔を上げると、ヴルヘルムではなく、側近のクルトの冷たい瞳と目が合う。
なにも口にされなくても分かる、自分を敵として見なしているのが十分に伝わってくる冷たさだった。
「馬車はすぐそこです。急ぎましょう」
エルマーの指示で扉を開けると、裏庭のようなところに出た。思えば城の外に出るのは初めてだ。しかし感動などはなく、今は暗くて、生い茂っている木々たちはどこか不気味だった。庭を抜けてすぐのところに馬車は待機されていた。
四人で馬車に乗り、リラはエルマーと隣に座り、ヴィルヘルムたちとは向かい合わせに座る形になった。お世辞にも広いとは言えず、道も悪いからか、振動が響く。国王が乗る馬車にしては狭いし、粗末すぎるのではないか、と疑問が浮かんだ。
けれど、それよりも今はこの馬車がどこに向かっているのか不安でしょうがない。そのことを尋ねてもいいのか迷っていると、口を開いたのはクルトだった。
「陛下、なぜ彼女を連れて行くのですか?」
冷たい声と眼差しにリラの肩が縮む。
「何度も説明しただろう」
「しかし、確証もないまま同行させるなんて」
「その確証を得るために、こうして連れて行くんだろ」
意味が分からないまま、面倒くさそうに答えるヴィルヘルムとクルトに交互に視線をやる。そこに口を挟んだのはエルマーだ。
「間もなく目的地ですよ」
その声で車内に沈黙と緊張が走る。
「リラ」
前触れもなく名前を呼ばれ、リラは憂いがかった眼差しでヴィルヘルムを見た。
「なにも心配しなくていい。お前を悪いようにはしない。ただ、今から見ることも聞くことも他言無用だ」
「……分かりました、陛下」
リラは静かに返す。ちゃんとした答えをもらったわけではない。だが、リラにとってヴィルヘルムの言うことは、どこか信じることができた。
馬車は、ある屋鋪の裏で停まった。造りや大きさからして、身分の高い人間の家だということが十分に察せられる。裏口から家の中に続こうとした際に、ヴィルヘルムが振り返り、リラを再度見た。そして、その足をリラに向ける。
まさか、また抱き抱えるつもりではないだろうか、と身構えたが、ゆっくりと近づいてきたヴィルヘルムはその首に掛けてあったストールを外すと、リラの頭を包むようにして掛けてやった。
「それで髪を隠せ。お前の髪はどうも目立つからな」
「なりません! それはあなたに必要なものです」
すぐさまクルトが噛みつくように叫んだが、王は煩わしそうな表情を浮かべる。
「あっても、なくても変わらないさ」
「そういう問題ではありません」
リラはどうすればいいのか、とっさに分からなかった。かけられた布からは仄かにいい香りがする。しかしなんの香りかまでは分からない。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、クルトは懐から布を取り出した。それをリラに差し出す。
「これで髪を隠してください。いいですね?」
強く言われて、リラはぎこちなく首を縦に動かす。自分に掛かっているストールをヴィルヘルムに差し出すと、渋々と受け取ってくれたので、次にクルトからの布を受け取る。
リラは自分の髪を服の中に仕舞うと、正方形の無地の布を広げ、頭巾のようにして自分の髪を覆った。べつに否定されたわけではない。自分の髪がどんなふうに他人の目に映るのかなんて、ここに来るまでの経緯を思い出しても十分に理解できる。
それでも、隠せ、とヴィルヘルムに指示されたことに、多少なりともリラはショックを受けた。なんとも勝手な話ではあると思うのだが。