重ねられた唇の意図と思惑
『この魔女め!』
またこの夢だ。リラはここに来るまでに自分を襲った悪夢を何度も繰り返し見ていた。
『その目は悪魔と契約を交わしている証拠だ』
『目が合うと呪われるぞ』
痛い。自分が魔女なら、今、目に映っているお前たちは悪魔に憑りつかれている。たくさんの目がリラに向けられ、畏怖を宿したその眼差したちから自分は逃げることができない。そのうちの誰かがリラに触れようとした。
やめて!
その手を払い除けようと無我夢中で抵抗する。耳を劈くような悲鳴が反響して、そこで目が覚めた。動悸が激しく、これが夢だということに気づくのに幾らか要したが、実感した途端、心底安心する。そこで、視界にある人物の影が映った。
「随分、魘されていると思えば」
認識する前に、その声で誰だか分かる。程よく低く、冷たさを孕んでいるのに、耳に心地のいいこの声の持ち主をリラは他に知らない。先ほどと同じシチュエーションでベッドの傍らに立ち、自分を見下ろしているのはヴィルヘルム王だ。左手で右手の甲を擦りながら、相変わらずその表情は読めない。
リラはとっさに身を起こすと、後ずさりをして王から距離をとった。夢のおかげもあって、煩く鳴り止まない心臓を落ち着かせようと、自分で自分を抱きしめる。寝汗を掻き、乱れている呼吸を整えるために息を吐こうとするも上手くいかない。
部屋はいくつかの蝋燭が灯され、それが鏡に反射し薄暗くも明るさを保っていた。
「なにも口にしないと聞いた。死にたいのか?」
ベッドサイドに用意されたパンとスープに口をつけた様子はまるでなく、冷たくなっているだけだった。水差しとグラスも使われた形跡はない。
リラは王の言葉になにも答えず、俯いたままだった。
リラはシュヴァルツ王国の南国境となるゲビルゲ山脈の中の小さな村で祖母と二人暮らしていた。両親は幼いころに亡くし、あまり記憶はないが、この瞳の色はリラの曾祖母から受け継いだと聞いている。
場所が場所なだけに閉鎖的な村だった、だからといって、それを嫌だと思ったことはない、リラにとっては村がすべての世界であり生きる場所だった。自給自足しながら、皆慎ましく生活する日々。
しかし、リラが普段、あまり立ち入ることのない森の奥まで薬草を採りに行ったことから運命の歯車が狂い始めた。村は様々な植物に恵まれ、薬草の宝庫だった。
それを、たまにやってくる商人たちに売り、収益を得たりする。滅多に外部の者が訪れることはないが、貴重な薬草を狙い、やってくる者たちもいた。
いつもより遠くに来たと自覚はしていたが、帰り道は体が覚えている。なにより、たった一人の家族だった祖母を亡くして日もまだ浅く、どこか躍起になっていたのもある。布を頭から被り、薬草を探すのに必死だった。おかげで近くにいる人の気配にはまったく気づかなかったのだ。
昼だというのに覆い茂った木々が夜を思わせる暗さをもたらす。不気味な鳥の鳴き声が聞こえていた。今思えば、あれはなにかを予兆していたのかもしれない。
いきなり後ろから口を塞がれ、体を拘束されたときには心臓が止まりそうになった。自分を押さえている男を含め、柄の悪そうな男たちが三人。リラが摘んでいた薬草の籠を拾って大喜びしている。
それは、この辺でしか採れない貴重なものだった。消毒と鎮痛作用があり、高値で取引される。リラは歯の根が合わず、ただ目に涙を浮かべながら震えた。目の前の薬草を渡して済むなら、それでかまわない。
しかし、薬草に目を向けていた男の一人と目が合ってしまった。
『おい、この娘、瞳が紫だぞ。しかも見ろよ、この見事な銀髪』
頭の布は払いのけられ、他の男たちもリラに視線を注ぐ。
『こいつは珍しい』
『下手に手を出すな、魔女かもしれない』
その言葉に男たちが、少し怯む。悪魔、魔女への恐怖は、神の存在を信じるのと同時に、人々の心に当たり前のようにあった。
『どうする? こいつは奴隷以上の価値がありそうだ。いい値がつくぞ』
『でも、もしも魔女だとしたら』
『さっさと引き払っちまおう。リスティッヒの商人にいい値をつけてもらうんだ』
塞がれた口から息も上手くできず押し付けてくる男の手が気持ち悪い。瞬きひとつせずにリラは、自分の置かれた状況を整理しようと必死だった。絶望という名の闇が目の前を覆っていく。自分は、殺されてしまうのか。少なくとも、村に戻ることだけはないのだと、それだけは分かった。
男たちは疑心暗鬼で小物だった。リラを魔女だと疑い、恐怖を抱きながら接していた。悪魔が魔女と契約した際に捺す烙印。その烙印の捺された箇所は痛みを感じないとされている。
だから何度も暴力を振るわれた。魔女ではないかと疑い、恐れ、本気ではないにしろ痛めつけられる日々。リラが痛がる表情を見せるたびに男共は安心したような表情を見せ、そして呪われるのではないかと怯えた。
リスティッヒの商人はリラを見て、なにかを思いついたように、あっさりと引き取った。数枚の金貨を見て大喜びする男たち。解放される、という安堵感とこれから先のことがまったく予想できずに不安しかない。舌をかみ切って死ぬこともできない。
商人たちはリラを物のように扱った。幾重にも縛られ、この瞳を恐れ目隠しをされた。そして、どこかに連れて行かれる馬車の中で、商人たちが話すのを聞いた。
自分はこの国の王であるヴィルヘルム陛下に貢がれるのだと。なんでも王は後宮に足も運ばず、世継ぎを一切作る気配がないらしい。
見目麗しい外見と、王として申し分のない政治的手腕、隙をまったく見せない裏の顔は非常に恐ろしく残虐非道で、それが原因で普通の女性は相手にできないのだと、真しやかな噂が流れているそうだ。
実際に王が共に夜を過ごした女性の部屋からは、すすり泣く声や、必死に助けを求める声などが聞こえたらしい。
そんな話を聞きながらリラはこれからの自分の身を案じて泣きそうになった。しかし涙も出ないほど、体も乾ききっている。もう何日も物を口にしていない。このまま死ねるなら、それでよかった。
「このままだと死ぬぞ?」
王の言葉にリラは我に返った。自分がここに連れてこられた理由は、王がここにいる理由は、ひとつしかない。自分は一生、慰みものとして、この紫の目を疎ましがられながら生きていくのか。
ベッドが軋む音がして、王が膝をつき、自分に近づいてきたのが分かる。もう抵抗する気力も体力もない。
最後の力を振り絞って、潰そうとしたこの紫の瞳。これがすべての元凶ならば、今ここで王の前で潰してしまおうか。そんなあてつけさえも馬鹿らしい。どこか投げやりな気持ちになりながらリラは目を閉じる。
そして次の瞬間、腕を掴まれ、そのまま後ろに倒された。まるで物でも扱うような乱暴さだった。ベッドが柔らかかったので、痛みはなかったが、リラは開けないでいようと思っていた目思わずを開けてしまう。
この暗さではきっと、自分の瞳の色は分からない。そして自分を見下ろしている王の表情もまったく読めない。
そこからの王の行動は素早かった。いきなりリラの頬に手を添えたかと思えば、親指を唇に滑らせ、そのまま直接、歯列をなぞる。驚きで反射的に口を開くと、さらに人差し指と中指が口内に捻じ込まれた。
噛みつけばいいのに、つい躊躇ってしまう。しかし、すぐに指はどけられ、苦しくなった肺に空気を取り込もうとすると、いきなり唇が重ねられた。
そして一方的に王の口から水が伝う。完全な不意打ちだったので、リラはすぐに顔を背け、咳き込んだ。飲み込めなかった液体がだらしなく口元から零れる。王はリラから身を離し、体を起こした。
「拒むな。これは命令だ」
そう言って腕を伸ばし、いつの間にか水が注がれていた杯をおもむろに煽る。ベッドの上でお世辞にも行儀がいいとは言えないのに、ベッドに横たわったまま、王の仕草一つひとつにリラは目が離せなかった。おかげで再び王が近づいてきたのに、命令されたとおり、拒むことができない。
頤に手をかけられ上を向かされる。さっきは、あんなに乱暴に扱われたのに、次に重ねられた唇は、まるで壊れ物に触れるかのようだった。目で口を開けるように促され、ゆるゆると結んでいた唇を解く。
零れないようにするためか、王はリラに覆い被さり抱きかかえるようにして密着させた。自分が今、どのような状況に置かれているのかなんて考えたくもない。だから、口内に満たされていく水分を必死に嚥下することに集中する。喉がごくりと音を立てて水分が体に染みていくのが分かった。
すべて口移せたのか、王がリラから顔を離した。その瞳に映る自分を、じっと見つめると、再び口を塞がれる。
「んっ」
もう終わったと思っていたのに続行される口づけにリラは頭が回らない。離れたくて手で押しのけようとしても、体力もなく細い腕では、密着した王はびくともしない。あっさりと逃げ惑う舌を絡め取られ、リラは初めての経験に震えた。
心臓が激しく鼓動し、酸素を求めれば、誘っているかのようで、王はリラを深く求める。この行為の先になにが待っているのか。鈍くなる思考回路を懸命にリラは働かせた。
「っ、や、め」
言葉を発しようとしても、それはすぐに封じ込められる。快楽なんて得られるはずない。荒い息遣いと唾液の混ざり合う音が不快でしょうがない。そして、さすがに王の手が乱れた服の合間から覗く白い肌に直に触れたときは、リラは息を呑んで目を見張った。
「ひっ」
これから起こることへの恐怖に顔を引きつらせると、まるでその表情を見たかったとでも言わんばかりに、王は満足げにリラを解放した。リラは必死で息を整え、体を起こし、手元にあるシーツを自分を守るようにして引き寄せる。
ヴィルヘルムはそのままベッドに腰を落とすと、口の端を上げて呟いた。
「やはり、魔女の疑いのある女とまぐわい合うほどの度胸は、連中にはなかったということか」
意味が分からずに王を見ると、その視線がこちらを向いた。二人の視線が静かに交わる。
「お前が処女かどうか見極める必要があったが、どうやら最後までする必要はなさそうだな」
「なっ!?」
「しょうがない。奴らと契約したかどうか確かめるにはそれが一番手っ取り早いんだ」
なんの躊躇いもなく指摘されたことにリラは唖然とする。対するヴィルヘルムは至極つまらなさそうに軽く頭を振った。細い黒髪が跳ねて、挑発めいた顔をリラに向ける。
「憎んでいるのか? お前を攫った奴、ここに連れてきた奴、そして私も、か。それでも、ここに来るまでに手を出されなかっただけマシだと思え。もしくは、その瞳を与えた神か両親でも恨むんだな」
「そんなことしません!」
今まで聞いたことがないような凛とした声に驚く。先ほどとは打って変わって、力強さの込められた眼差しが、王にぶつけられた。
「怖くて、今でも、頭がおかしくなりそう、です。でも、憎んでません。両親を恨むなんてもってのほかです。私は……私は、誰かのせいになんてしない」
たどたどしくもリラは言い切る。耳鳴りでもしそうな静けさがふたりの間を包み、やがて王が目を逸らして小さく漏らした。
「どうやら確かめるまでもなかったか。お前に付け入る隙はないらしい」
ひとり納得するヴィルヘルムを不信感溢れる目で見つめていると、再度その瞳がリラを捉えた。
「ようやく、少しは生きている表情を見せたな」
笑った、とは言いがたい。それでも今までで一番柔らかい表情を見た気がした。しかしその表情はすぐに消え、ヴィルヘルムはベッドから下りる。
「きちんと薬師の言いつけを守り、回復するまで、おとなしくしておくんだな。今日みたいなことがあってもろくに抵抗できないぞ。まぁ、わざわざ私に飲ませて欲しいのなら、きいてやらないこともないが」
意地悪く告げられたその言葉にリラは顔を赤らめた。言葉が出ずに顔を横にぶんぶんと振る。また様子を見に来る、と告げ今度こそヴィルヘルムは部屋を出て行った。
どういう、つもりなんだろうか。
リラの頭は混乱していた。てっきりひどい扱いを受けるのかと思っていたのに、王はそのつもりはなかったようだ。無意識に唾を飲むと、潤った喉に先ほどの行為が思い出され、リラは身悶えした。
起こしていた体を再びベッドに倒す。こんな魔女とも言われる得体の知れない女に、あんな事をするなんて、やはり王は怖いものなどないらしい。
ふうっと大きく息を吐いてから、気を引き締める。王の目的が分からない以上、安心するのはまだ早い。とりあえず、今日はひどい扱いを受けなかっただけで、今後は分からない。とにかく、この体を回復させるのが先だ。体力が落ち、思考も鈍っている。
そこでリラは、はたと気づいた。王がこの部屋を訪れるまでは、このまま死んでしまいたいと絶望していたのに。今の自分は、そんなつもりは毛頭なくなっている。それが、なんだかおかしい。状況はなにも変わっていないのに、結局は王の言う通りになっている。
不思議な人だ、そうリラは思った。いきなり口移しという暴挙に出ておきながら、それが少なからず自分のことを心配してだったとするなら、ヴィルヘルム王は噂だけに聞く、残虐非道な王ではないのかもしれない。
体を休めようと身を倒し、固く目を閉じる。痛む傷に顔をしかめながら、それでも少しだけリラの心は前を向けていた。
「陛下、その右手の甲はどうされたんですか!?」
翌日、執務室に顔を出したクルトは開口一番に尋ねた。まるで命に関わるほどの重症だと言わんばかりの勢いである。この目敏さをヴィルヘルムは買っているが、こうして間が悪いときもあるのが難点だ。
「べつに、たいしたことはない」
そう言って渡されていた書類に目を通したが、それでなかったことになるわけがない。さらに詰め寄ってくるクルトに、改めて自分の右手の甲を確認した。そこには薄っすらと滲むような赤い引っかき傷が幾らかついていた。まるで、そう
「猫にやられたんだ」
「猫、ですか?」
クルトは不審そうに王を見つめた。ヴィルヘルムは書類から手を離し、金で装飾を施している椅子に背を預けて、相好を崩す。
「そう。随分と粗暴で警戒心が強いが、毛色と瞳の色は文句ない。なかなか懐きそうにもないが」
その発言にクルトの眉間の皺が増えた。
「陛下、彼女に深入りすることは危険です。」
「なにを根拠に?」
「代々、王家に伝えている我が一族の直感がそう告げているのです」
あまりにも臣下らしくない言い方に王は切り返しに困った。その隙をついてか、クルトは咳払いをひとつして話題を変える。
「ドリーセン卿から直々に話がありました。知り合いの男の様子がずっとおかしいらしく、今、エルマーが調べていますが、十中八九、奴らの仕業かと」
余裕のある王の表情がわずかに硬くなった。ゆっくりと視線を落とし長く息を吐く。室内に重い空気が流れた。
「分かった。エルマーからの報告を待って対処しよう」
それ以上、二人は余計な言葉を交わさなかった。




