垣間見た素顔に
シュライヒ家を後にしようとすると、高い位置にあった太陽は、すでに山あいに姿を隠していた。城までの距離を考えると、遅くなるのは明白だ。そんな折、ブルーノが明るく自宅での宿泊を提案してきたので、一行はヴェステン方伯の屋敷で一晩過ごすことに決めた。
やはり方伯ともなると屋敷の大きさが違う。ブルーノの父親は西隣国との協定の見直しに赴いているため不在だったが、突然の来訪なのだからしょうがない。むしろヴィルヘルムにとっては、そちらの方が有難かった。幸い、仕える者も客室も十分にある。
「しかしまぁ、あれで解決って言えんのか? 奥方になんて説明するんだか」
杯に入っている酒を呷り、ブルーノは心配そうに漏らした。
「できることはやった。あとは我々の手出しすることじゃない」
「冷たい奴ー」
きっぱりと答えるヴィルヘルムにブルーノは大袈裟にリアクションをとってみせた。夕食をとるために集まった食堂では、あまり喋る客人たちではないので、ブルーノの独壇場となり、今回の件についての感想を延々と述べ始める。
その間、話を真面目に聞いている者はほとんどおらず、唯一、途中までは相槌を打っていたリラも、塩漬けされた魚のソテーが運ばれると、そちらにすっかり意識を持っていかれた。あの瓶詰されている小魚の目を思い出しドキドキしたが、口にすると動物の肉とはまったく違う味と食感に魅了された。
「今日はゆっくり休んでいってくれ」
食事もすみ、ひとしきり喋り続けたブルーノのその一言でようやく解散することになった。思えば全員が疲れている。リラは最初に案内された二階の奥の部屋に戻った。城の自分に与えられた部屋よりも、狭くはあるが調度品などは立派なものばかりだ。
壁にかかっている獣の毛皮が少し気になるが、これは方伯の趣味なのか。しかし眠ってしまえば同じだ。すべての部屋になのか、リラに宛がわれたからなのかは分からないが、わざわざ花まで飾ってくれている。
そっと活けられた花に近づき、リラは匂いを嗅いだ。甘くて人々を魅了する香り、その見た目も十分に目を引く薔薇の花だった。紫に近い赤色が何輪も誇らしげに咲き誇っている。リラの住む村には、多くの植物が生息していたが、その中でもリラはとくに薔薇がお気に入りだった。
明確な理由はないが、薔薇を見ていると、とても懐かしい気持ちになる。きっと子どもの頃から家に当たり前のように飾られていたからかもしれない。母か、祖母かが好きだったのだろう。
薔薇をしばし堪能した後、赤いリネンが使われている寝台にそっと腰を落とす。そして、ずっとつけたままだったヴェールをゆっくりと払い、フィーネが丁寧に編んでくれていた髪を解いた。
軽く頭を振ると、銀の髪が舞い、静かに重力に従って流れ落ちる。癖ひとつつかない絹のような髪を手櫛で整え、リラはそのまま後ろへ身を投げた。すると、それを待っていたかのように瞼が勝手に降りてくる。
ふと意識が覚醒したとき、次に覚えたのは喉の渇きだった。そのままの体勢で、微睡んでいたらしい。どれぐらいの時間がたったのかは分からない。けれど確実に意識は手放していたようだ。
喉を手で軽く押える。やはり塩漬けは辛かったからか、食べたときにはそこまででもなかったのに、水で喉を潤したくなる。迷いながらもリラは、食堂に行って水をもらうことにした。
食堂に行くと、片づけをしていた使用人が、すぐに水を用意してくれた。お礼を告げて水をいただき、リラは再び部屋に戻ろうと階段を上がっていく。絨毯張りの階段は重厚で足音も吸い込んでくれる。あちこちに灯された蝋燭を頼りに部屋まで戻ろうとしたそのときだった。
ある部屋の前を通ったときに話し声が聞こえ、つい足を止めてしまった。見ればドアがわずかに開いている。声の主はすぐにブルーノのものだと分かった。
しかし、それだけだ。聞き耳を立てるつもりはない。そのまま通り過ぎようとしたところで、リラの足が再び止まった。なぜなら、はっきりと自分の名前が聞こえたからだ。
勝手なもので、自分のことが話題にされているのだと思うと、気になってしまう。聞き間違いかもしれない。リラは確かめるようにドアに一歩近づいた。
「で、結局、お前はリラをどうするつもりなんだ? 本当に仕事だけを手伝わすためだけにそばにおいておくのか? まさか側室にでも、なんて考えてないよな」
やはり、自分のことを話題にされていたのは間違いないらしい。酒が入っているのかブルーノの言い方はいつもよりもやや横柄だった。しかし、リラにとってはそこが問題ではない。ブルーノがそんな問いかけをする相手は世界で一人しかいない。
「だとしたらどうなんだ?」
やはり、相手はヴィルヘルムだった。そのことにリラの心臓が一気に加速する。早くここを離れなくては、と必死に訴えかけてくる自分がいるのに、リラの足は影を縛られたかのように動かすことができない。
「おいおい、お前の後ろで腹心の部下がものごい視線をこちらに送ってるぞ」
クルトもそばに控えているらしい。側室、という言葉の意味くらいリラも理解できる。王は自分になにを望んでいるのか。そしてリラ自身は、なにを願っているのか。
「あんま、こんなこと言いたくないけど、次期ヴェステン家の当主として言うぞ。お前は国王なんだ。自分の立場、分かっているだろ?」
真剣みを帯びたブルーノの声はリラにも刺さった。ヴィルヘルムの立場を考えれば、自分の存在は邪魔なだけだ。彼は結婚を、世継ぎを望まれている。
「珍しくどうした?」
ヴィルヘルムの問いかけにブルーノは迷う仕草を見せた、ややあって、ゆっくりと重い口を開く。
「……なにげなく親父にリラのことを話したんだ。そうしたら、すごい形相で銀髪なのか!?って何度も詰め寄られて。それから銀髪だけは駄目だ、その色は不吉で呪われている、けっして王に近づけるんじゃないって言うんだよ。俺もお前が本気じゃないことを話したけど、尋常じゃない感じだった」
リラは自分の長い髪に目をやった。この髪が、この髪の色が、なんなのか。たしかに珍しいものだとは自覚している。けれど、そこまで言われるほどのなにかが、この髪の色にはあるのか。
そしてリラの思考は自分の髪から、まだなにも反応を示していないヴィルヘルムに向けられる。彼はなんと答えるんだろうか。聞きたいような、聞きたくないような。
足が動かないなら、耳を塞いでしまいたい。なぜなら、王の口から出る答えを、王としての答えをリラはどこかで分かっていた。しばしの沈黙が部屋を、館を包む。
「心配しなくても、そんな馬鹿な真似はしない。自分の立場も理解している。それに、どうせ別れる存在だ」
耳鳴りと共に聞こえてきた王の声は、どこまでも感情が読めなかった。けれども、言われた言葉の意味は痛いほどよく分かる。リラはふらつきそうになりながらも、足音をさらに気をつけて自分の部屋に急いだ。
ベッドに体を横たわらせ、足を折り曲げて体を縮める。体は疲れているのに、リラはなかなか寝つけることができなかった。少し眠ってしまったからか、いや、それだけが原因ではないのは明らかだ。
何度も何度もヴィルヘルムに言われた言葉を頭の中で繰り返す。そのたびに、目の奥がじんわりと熱くなり、心がズキズキと痛みだす。この痛みを和らげる方法をリラは知らない。
微かに甘い薔薇の香りが鼻孔をくすぐった。そのとき、部屋に控えめなノック音が響き、リラは心臓が口から飛び出そうになった。
「はい!」
思わずその場で返事をすると、ドアがゆっくりと開き、ヴィルヘルムがおかしそうな顔をしてに入ってきた。
「そんなに驚かなくてもいいだろ」
声だけで慌てぶりは伝わったらしい。リラは恥ずかしさや気まずさもあり、顔を隠すように頭を深々と下げた。ヴィルヘルムは祓魔のときに着ていた漆黒の服から着替え、白いシャツのようなものを羽織っていた。かくいうリラも寝間着は新しいものを用意してもらったのだが。
「今日はよく働いてくれた。礼を言う」
いつものようにベッドのそばまで歩み寄ると、ヴィルヘルムは端に腰を落としてリラに顔を向けた。しかし、リラは顔を上げられないままだった。
「いいえ、私は今回、なにも役に立っておりません。なにも見ることもできませんでしたし」
「メラニーに口を割らせたのはお前だろ。メラニーから名前を聞き出せなければ、私でもどうすることもできなかった」
萎んでいくリラの声をヴィルヘルムがすくい上げる。それは心も同時にだった。でも、今のリラは素直に嬉しがることができない。
「ありがとうございます。でもあまり深く考えず、勝手に自分と重ねただけですから」
「そう謙遜するな」
そっとリラの頭に手を伸ばし、優しく頭を撫でてやる。それはまさに飼い猫にするようなもので、リラの心がざわめく。その手を振り払うような真似はしない。でも、やめてほしい。このままなんでもないかのように触れられていると、リラの中のなにかが壊れそうだった。
しばらく沈黙が続き、リラはちらりとヴィルヘルムを窺った。するとヴィルヘルムは部屋に活けられている薔薇の花に視線を注いでいる。その顔はどうも苦々しい。
「どうしました?」
「いや、私は薔薇が好きじゃないんだ」
その言葉にリラは、なんだかショックを受けた。なんとも勝手な話ではあるが、自分の好きなものを否定されたような気になってしまう。しかもヴィルヘルムの顔には嫌悪とはまた違う、複雑な感情が込められている気がした。
「あの、陛下」
「ヴィルだろ、リラ」
リラの方に向き直り、髪を弄りながらヴィルヘルムは意地悪く微笑んだ。しかし、代わりにリラは泣きだしそうになる。苦しくて息が詰まりそうだった。どうしても先ほどのブルーノとの会話が頭を過ぎって堪らなくなる。だから、懇願するように震える声で必死に訴えた。
「お願いです。もうおやめください、陛下。戯れが過ぎます。どうかご自分の立場をご理解ください」
「……十分に理解してるさ」
返ってきたのは不機嫌さを乗せた声だった。心臓を冷たい手で掴まれたような感覚。自分の方が立場を理解できていなかったのだと悟る。分不相応な発言をしたことを後悔しながら、なにも返すことができない。そんなリラにヴィルヘルムはベッドに手をついて、その身を寄せた。
「それなら、お前の言う国王の立場から命令してやろう。その謙る態度も敬語もやめろ。お前がお前のままで接してくれたらいい」
「ですがっ」
顔を上げたリラが言葉を飲み込む。思ったよりも近くに、ヴィルヘルムの顔があり、その瞳は真っ直ぐにリラを見つめていたからだ。
「命令に背く気か?」
低い声と共に、ヴィルヘルムはさらに距離を縮める。ベッドの軋む音がやけに大きく感じた。それはリラの心臓の音もだった。目を逸らすことができず、まるで金縛りにあったかのようだ。ゆっくりとヴィルヘルムの手がリラの頬に触れる。自分の体温よりもいくらか低いことに反射的にリラは身を竦めた。
「陛、下」
拒否したいわけではない。けれども、ヴィルヘルムの言葉が頭の中で何度もリフレインされ、得体の知れない不安がまた胸に広がっていく。それが怖くてリラは恐る恐る呼びかけたが、ヴィルヘルムは一歩も退かなかった。
「ヴィルでいい」
そのまま唇が重ねられる。驚きもあって離れようとしたリラだったが、それは許されなかった。いつの間にか体に回された腕が離してくれない。触れられていた手はいつの間にか熱くなっていて、繰り返される口づけに、リラはなにも考えられなくなっていく。
口づけが終わりを迎え、青みを帯びた漆黒の双眸にリラを映したところで、ヴィルヘルムはその身をリラの横に倒した。これにはリラも目を丸くして、急いで隣に横になった王に目を向ける。
「お前の前でくらい、“国王陛下”じゃなくてもかまわないだろ」
無造作に散った髪を振り払うようにして、ぶっきらぼうにヴィルヘルムは告げた。それが、あまりにも素のように思えてリラはつい口をぼかんと開けてしまう。王はそんなリラを一瞥した。
「命令すればなんでも手に入るようで、本当はなにも手に入らない。なんでも思い通りになるように思えて、本当はなにも思い通りにはいかない。虚しいものだな、自分が王になりたいとけっして望んだわけでもないのに」
顔を歪ませて自嘲的に続ける王にリラは胸が締めつけられた。そして少しだけ、ヴィルヘルムの気持ちが理解できた。
『……私の周りには、そんなことを許してくれる大人はいなかったけどな』
昼間のヴィルヘルムの発言を思い出す。国王であることを望まれる限り、それは絶対的な存在で、誰かと対等になることはできない。自分という人間を常に抑えて、国王であることを意識しなくてはならない。
リラもこの外見のせいで嫌というほどの孤独を味わってきた。けっして自分が望んだわけでもないのに、ただ「違う」というだけで距離を置かれ、ときには畏怖の対象にされる。さっきみたいに。
この人も孤独なんだ。
リラは投げ出されていたヴィルヘルムの手をそっと握った。自分は、彼のそばにずっといることはできない。本当はそばにいない方がいいのかもしれない。王の一番になる日なんて絶対に訪れない。それでも――
「命令せずに、願ってください。それで十分です。私にできることなら、あなたの望みをなんでも叶えましょう」
今度はヴィルヘルムが目を丸くして、ゆっくりと上半身を起こした。リラはその手を離さないまま、静かに微笑みかける。
「恋人ごっこなんて必要ありません。私はあなたの飼い猫です。飼い猫が主人に従うのは当たり前のことですから……違いますか、ヴィル」
これでもかというくらい大きく目を見開いたヴィルヘルムの顔は、どこか抜けていて、いつもの冷厳さも聡明さも残念ながらあまり感じられない。そして、目を細めて笑う顔もきっと彼を知る近しい者たちでも見たことがないだろう。
「随分とできた飼い猫だな、お前は。おかげで、誰にも渡したくなくなる」
力強く、けれども壊れ物を扱うかのようにヴィルヘルムは両腕にリラを閉じ込めた。絡むことのない銀糸に指を通し、優しく口づける。その間もリラの胸中は、満たされる温かい気持ちと、逃げ出さなければ、と追い立てられる気持ちがせめぎ合っていた。それに気づかれないように、ヴィルヘルムの胸に顔を埋める。
この気持ちになんて名前をつけたらいいのかリラには分からない。自分の本心がどこにあるのか、なにを願っているのか。分かりたくもなくて、知ろうとしてもいけない気がした。王の気持ちもだ。自分はただ、気まぐれに飼い慣らされている猫で十分だ。
戯れでも、慰みでもかまわない。いつか別れなければならないなら、今だけでも。少しでもこの人の孤独を癒すことができるのなら――。
これはふたりだけの秘め事。命令によってでも、利害関係からでもない。なにかに導かれるように自然とお互いを求めるこの先になにがあるのか。それはひどく甘く朧げで、泡沫なものだった。




