守られるもの
やってきたメラニーは、どこかよそよそしく、リラたちと視線を合わせようとはしなかった。先ほどのことを気にしているのか、ヴィルヘルムの存在があるからなのか。
「この部屋のことについて、教えてくれないか?」
首を小部屋の方にくいっと向けて、ヴィルヘルムは、リラやエルマーに言われたこともあり極力、優しめの声で話しかける。それにしても単刀直入だ。その発言を聞いて、メラニーの顔色は見る見る血の気が引いていく。まるで、とんでもないことが発覚したような。
「大丈夫ですよ、メラニー。僕たちはあなたを責めたりしません。誰も怒っていませんからね」
エルマーがメラニーの前で膝を落とし、フォローしてやる。しかしメラニーはなにも言わず、じっと床を睨みつけている。こげ茶色の髪が拒絶を表すかのように彼女の顔を隠した。
「話してくれないと分かりませんよ。これはお父様のものですか?」
エルマーが穏やかに続けるも、メラニーは頑なだった。その様子を見ながら、リラはなんだかこの光景に既視感を覚えた。
『いい、リラ。お外であんなことを言わないで』
祖母に優しく諭される自分。でも、どうしても納得がいかず、涙で顔はボロボロだ。
『なんで? どうして? だって本当のことなのにっ』
『しょうがないの。みんな、あなたとは同じようには見えていないんだから』
『そんな。でも、でも、私……』
「嘘つきなんかじゃない」
思わず口から出たリラの言葉に、メラニーがわずかに反応を示した。そのままメラニーの元に駆け寄り、エルマーと同じように腰を落として、視線も落とす。リラはメラニーとしっかりと紫の瞳で目を合わせた。リラの瞳の色をメラニーは不思議そうにじっと見つめる。
「この色、不思議でしょ? 私もね、あなたと同じで、他の人には見えないものが見えるの。自分には見えていて、それを話すだけなのに、信じてもらえない、嘘つきだって言われる。頭がおかしいんじゃないかって疑われて。話すのが怖くなる。信じてもらえない、それなら、なにも言わないほうがいいんだって」
リラの言葉を聞いて、メラニーの瞳が潤んだ。そんなメラニーを宥めるようにそっと頭を撫でてやる。
「大丈夫、メラニーは嘘つきなんかじゃない。頭がおかしいわけでも、なにかが憑いているわけでもない。ちゃんとあなたの言うことを信じるから」
ついにメラニーの瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が、零れ始める。
「っ、だって、みんな、パパのこと、悪く、言うもん。悪魔に、憑りつかれて、頭がおかしくなったって。私の、ことも。変だ、って。なにを話しても、信じてくれない」
嗚咽混じりにメラニーから紡がれる言葉は、ずっと抱えていた悲しみだった。話せば話すほど、周りは変な目で自分を見てくる。嘘をつくなと怒られる。自分は本当のことを話しているだけなのに。それでも、幼い少女は周りを納得させるだけの言葉を持っていなかった。
「ここにいるみんな、ちゃんと分かっているわ。だから、お話しして」
背中をとんとん、と優しく叩いてやる。リラの言葉を聞いてメラニーは頷きながらも、まだ涙は止まりそうにない。そんな状況を見て、ヴィルヘルムが声をかけた。
「ちゃんと自分の口で説明できたら、お前の望みを叶えてやる」
まるで悪魔が契約を持ちかけるような言い草だった。おかげでメラニーは目をぱちくりとさせている。ヴィルヘルムの真意が分からないのはリラとエルマーも一緒だった。
メラニーのたどたどしい説明を受けてから、ヴィルヘルムは、全員をこの部屋に呼んでくるように、とエルマーに伝えた。
「なにをなさるつもりですか?」
エルマーが部屋を出たところで、リラが遠慮がちに尋ねる。すると、ヴィルヘルムはとんでもないことを、なんでもないかのように告げた。
「ここにいる守護魔神を呼び出す」
「え!?」
リラはつい声を上げてしまった。ヴィルヘルムは逆にリラの反応に驚いた顔を見せる。
「なにをそんなに驚く? 言っただろ、私は聖職者じゃない。奴らを祓う術を知っているように、呼び出す術も持ち合わせている」
まさかの展開にリラは愕然とした。ヴィルヘルムはさっさと招霊の準備を始めている。隠し部屋からチョークや炭を拝借し、部屋の中央に手際よく円を描いていく。
書かれている言葉はリラにはまったく理解できないものだったが、絨毯の上とは思えないほど、くっきりと惹きつけられるような円は、不思議な雰囲気を醸し出している。一通り描き終えたヴィルヘルムは立ち上がり、粉を払うように、手を鳴らした。
「ただ、どんなものでも呼び出せるわけじゃない。曜日、時間、方角、生贄、そして呼び出す相手の名前が必要だ。“今日は日がいい”から助かったな」
ヴィルヘルムがここに来たときの発言を思い出す。そして、部屋の扉を閉めて、円陣の前にヴィルヘルムは静かに立った。さっきまで窓から好きなように風が入って来ていたのに、まるで意志を持つかのように、それがぴたりと止まる。
太陽を雲が隠し、部屋の中は一気に暗くなった。静寂と共に夜がやってくる。リラは部屋の隅で成り行きを静かに見守った。
この前は悪魔を祓う言葉を唱えたその口で、今は悪魔を呼び出す呪文を口にする。ヴィルヘルムの声はそんなに大きくないのに、凛として、空気を震わせた。
「――深い眠りから覚めよ、霊たちよ。ここに汝らの王がもつ力によって、汝らの王たちのもつ六六六の王冠と鎖によって、我が唱えし、地獄の霊はすべて、この魔法の輪の前にその姿を現せなければならぬ。この力の及ぶ限り、汝はわれに従うことを命ずる。我が呼びし者の名は、ドゥムハイト」
地鳴りにも似た轟音が部屋に響く。この部屋が耐えられるのかという爆発にも似た衝撃に、リラは反射的に体を丸めた。そのとき、タイミングよく、部屋の扉が開く。
「ヴィル、まさかっ」
案の定、一番に飛び込んできたのはクルトだ。それに続きオスカー、メラニー、ブルーノ、ユアン、そしてエルマーが顔を覗かせる。しかし、部屋の光景を前に、驚愕、恐怖、絶望、各々浮かべている表情は様々だった。
「これは……」
なんとか声を出したのはブルーノだった。彼らの目に映し出されているものは、およそこの世のものとも思えないおぞましい姿をしていた。全身、真っ黒な毛深い生き物は、頭は鳥のように長い嘴を持ち、鋭い眼光を放っている。ただ、胴体は翼はなく人間のように手があり、下半身は獣のようだった。
『我ヲ呼ビ出シ者、何用ダ?』
口が動くわけでも、喋っている様子もないのに声が直接、脳内に響いてくる。その声は唸り声のように耳につく。ついにユアンに至っては顔を真っ青にして、その場で卒倒した。オスカーはメラニーを抱きしめ、歯の根が合わず、ガタガタと震える。
「こ、これがメラニーに憑いていた……」
「ドゥム!」
オスカーの腕の中からメラニーの明るい声が響いた。久々に聞いたメラニーの声にオスカーは、つい腕を緩めてまじまじと確認するかのように見つめる。メラニーは笑顔だった。
『メラニー』
わずかに反応を示した魔神に、ヴィルヘルムはようやく面々の方に顔を向けた。
「彼の名は、ドゥムハイト。どういう経緯か、ゴットロープが呼び出した、守護魔神と呼ばれるものだ。害はない」
「嘘だ!」
オスカーは拒絶するかのように叫んだ。メラニーを再び腕に抱きしめなおす。
「そ、そんな奴が、この家にいたなんて。お願いです、祓ってください。こいつのせいでメラニーは喋らなくなって、ずっと部屋にも引きこもりがちに」
「違う! ドゥムは悪くない!」
それに反論したのはメラニー自身だった。緊張と怒りで顔を赤くし、ふるふると震えている。とっさに言葉が続かなかったが、泣きそうになりながら、必死で言葉を続けた。
「パパがいなくなって、励ましてくれたのはドゥムだったの。最初は怖かったけど、ドゥムは優しくパパの話をしてくれて、私の話も聞いてくれた。嬉しかった。でも、おじさんたちは、私の話なんて信じてくれなかった。パパを悪く言って、私も頭がおかしいんだって。残してくれた本も捨てようとして、だから、私。私……」
そこでメラニーの声は嗚咽に変わっていった。その続きをフォローするかのように、リラが言葉を継ぐ。
「オスカーさん。ゴットロープさんは、奥さんを亡くしてから、自分もあまり長くないことを悟っていたみたいなんです。残していくメラニーを案じて、彼を呼び出したようですが。メラニーはずっと、信じてもらいたくて、言葉ではうまく説明できないから、彼をあなたたちに見せられるようにってずっと、お父さんの残してくれていた本を読んで、その方法を探していたみたいなんです」
「そん、な」
オスカーは、焦点の定まらない瞳で、耳に入ってくる言葉を聞いていた。しかし、脳の処理が追いつかず、事実を受け入れられない。
「ゴットは馬鹿だ。なぜ、悪魔に頼る? なぜ、僕たちを頼らなかった? そんな信用もなかったのか? それが本当なら……メラニーを悪魔憑きにしたのも、言葉を奪ったのも僕たちのせいじゃないか」
責めるような口調。その独り言は自分に向けられているのか、亡くなった友人に向けてのことなのかは定かではない。
「にしても、なんでメラニーにはこいつが見えてたんだ?」
極力、目の前の魔神に視線は向けずに、ブルーノがヴィルヘルムに尋ねた。ヴィルヘルムはドゥムハイトから目を離さない。
「見えるから、ゴットロープはこいつを呼び出したんだろう。メラニーには元々見る力が備わっていたらしい。そういうのは奴らにつけこまれやすいからな」
「メラニーを守るため、っていうわけか」
そこでようやくヴィルヘルムはオスカーとメラニーに目を向けた。
「話した通り、こいつはゴットロープに呼び出され、律儀にメラニーを守護している。祓うこともできるが、そうなると違う奴らに今度はメラニーが狙われるかもしれない」
オスカーは肩を落として項垂れた。自分の置かれている状況も、迫られている決断さえ、どこか現実味がなくて、答えなど出せるはずもない。
「分からない、私は、私はどうするべきなんだ?」
「メラニーの話を聞いてあげてください」
リラの言葉に、オスカーは顔を上げた。
「頭から否定せずに、メラニーの話を聞いてあげてください。信じられないことでも、メラニーにとっては本当のことなんです。きっと、それだけで救われることがいっぱいあるんです」
リラの言葉を受けて、ヴィルヘルムが続けた。
「多かれ少なかれ、我々には捉えられないものを子どもが見えることはよくある話だ。メラニーはそれが少し強かった。ただ、たいていの場合、その力は成長と共に徐々に消えていく」
オスカーは改めて、目の前の魔神をじっと見つめた。そして、しばらくしてからメラニーに目線を移す。不安そうに自分を見ているメラニーを見て、オスカーはメラニーとこんなに近くで目を合わせることさえ、いつぶりだったのだろうかと胸が痛んだ。
自分はなにも間違っていない。おかしくなったのは友人とその娘だと決めつけていた。メラニーには悪魔が憑いていて、必死で父親の本を読む姿が恐ろしかった。
本をどうにかしようとすれば部屋が荒れ、自分には見えないものの存在を訴えてくるメラニーが怖かった。その問題を祓魔師に頼めばすべて解決すると。本当はこうしてメラニーを向き合うことをしなくてはならなかったのに。
オスカーはメラニーの頭をそっと撫でた。
「今まで、疑ってばかりでごめんよ。メラニーの言うことは正しかったんだね」
優しい声と眼差しに、メラニーの瞳から、再び涙が零れはじめる。耐えるような、辛そうな泣き方ではない。声を上げて、年相応に泣く姿は、どこか安心させるものがあった。
「お前も、メラニーのことを思うなら、もう少しやり方を考えるんだな」
魚の瓶をドゥムハイトに投げてやると、それを嘴で捕らえて丸呑みし、砂が舞うように姿を消していった。
オスカーはヴィルヘルムたちに何度も頭を下げた。正直、まだ夢見心地で事実を受け入れることは難しいが、メラニーの話すことをちゃんと聞く、ということだけは、しっかりと刻み込まれたようだ。妻のカミラもけっしてメラニーのことを嫌っているわけでも、恐れているわけでもない。兄と同じように、自分の殻に閉じこもり、いなくなってしまうのではないか、という強い恐れを抱いているだけなのだ。
メラニーはメラニーで実の親子でもないのに、という後ろめたさも感じていたらしい。たくさんの話をする必要が彼らにはある。ゴットロープが守護魔神を呼んだのは、あくまでも、目に見えないものたちからメラニーを守るためだ。
そして、オスカーたちも目に見えないなにかから、メラニーを守ろうとしていた。メラニーはちゃんと愛されている。別れ際のメラニーはあまり喋りはしなかったが、それでも、その表情はどこか明るかった。そんなことがリラには嬉しい。
全部信じてくれなくてもかまわない。ただ、うんうんと頷いて話を聞いてくれる存在がいることは、きっと大きな力になるはずだ。不思議そうに、紫色の瞳を改めてじっと見つめてくるメラニーに、リラはにこりと微笑んだ。




