二人きりの舞踏会
これで、彼の未練は叶ったはずだ。成り行きをじっと見守るリラに顔を上げた男は真剣な眼差しを向けた。今まで焦点さえ分からなかったのに、それを思わせないほど今は強い意志を宿している。
『私の名はニクラス・バルツァー。君の名は? 次に会ったときに訊こうと思っていたんだ』
その問いにリラは息を呑んだ。もちろん、彼女の名前をリラは知らないし、自分の名を告げるわけにはいかない。黙ったままでいるリラに男が、ニクラスが詰め寄るようにして、近づいてくる。
『待たせてしまって本当に申し訳なかった。でも、ずっと君のことを考えていた。会いたかったんだ』
そう言ってニクラスの冷たい腕がリラの腰に回される。まさかの展開にリラは焦り始めた。引っ込んでいた汗が再び噴き出す。どこにそんな力があるのか、強引に腕の中に閉じ込められるが、そこに血も通っていなければ、心臓の音も聞こえない。彼が歩く死者であることを、ありありと痛感する。
「私はっ」
「パウラ・ギーゼン」
思わずリラが口を開いたとき、どこからともなく声が被せられる。今は音楽が止んでいるからか、外だからか。その声は、はっきりと聞こえた。そして声のした方に顔を向ければ、そこには意外な人物が立っていた。
「陛、下」
白い礼服を着たヴィルヘルムがバルコニーの入口に立っていた。そして、ゆっくりとリラたちの元に近づいてくる。
「惚れた女なら、間違えないことだな」
そう言いながら、また一歩距離を縮めたところで、右手を軽く上げた。その手からチェーンに通されたあるものがキラリと光る。それに反応したのはリラよりもニクラスの方が早かった。
『それは、彼女の……』
ヴィルヘルムは、ゆっくりと手の中にあったものを二クラスに向かって放り投げた。孤を描きヴィルヘルムの手から離れたエメラルドのネックレスは、二クラスが受け取ると同時に、白い靄みたいなもに変化し、女性を象っていく。
「あ」
ついリラは叫んだ。二クラスの目に既にリラは映っておらず、ゆっくりと距離をとったところで、現れた者を改めて見ると、それはニクラスの目を通してみた、彼女その人だったからだ。
仮面はつけておらず、豊潤な金髪が揺れる。笑顔を向けてニクラスの前に立ったパウラは静かに両手でスカートの裾を持ち上げ、お辞儀をした。そんな彼女にニクラスは泣きだしそうな顔で手を差し出す。
『遅くなったけれど……私と踊っていただけますか?』
ゆっくりと笑顔で頷き、その手をパウラが取ったところで、ふたりはゆっくりと光に包まれていった。優しく、穏やかな光がリラの目には眩しかった。
辺りは再び、暗闇と静けさを取り戻す。ヴィルヘルムは何事もなかったかのように、足を進めて、転がったエメラルドのネックレスを拾い上げた。
「陛下、どうして……」
「踊るだけで歩く死者の未練が断ち切れるとも思わなかったからな。相手の女性について調べていた」
「調べるって。いつの人か、名前さえも分からなかったのにですか!?」
どんな魔法を使ったのかリラは不思議でならなかった。顔をはっきり見たのでさえ、さっきが初めてだったというのに。ヴィルヘルムはエメラルドを再度確認してから、白い布に包んで自分の服の内側にしまう。
「まったく手がかりがなかったわけじゃない。まず仮面舞踏会が行われていたのは、少なくと先々代以上前のことだ。それから、お前が見た奴の記憶の中で、このエメラルドのことが引っかかっていた。アクセサリーとしてだけなら立派過ぎる。恐らくこれは紋章だ」
「紋章?」
「そう。紋章はふたつとして同じものはない。エメラルドは 紋章の色では緑を表す。そしてこの爪の部分が百合を象っているのは、チャージを表しているんだろう。そうなれば大方どの家筋かぐらいは絞れる」
淡々と説明するヴィルヘルムにリラは驚きを隠せない。たったそれだけのことから、彼女の素性や名前まで導き出すなんて。頭が切れるのは、国の頂点に立つ者だからか、それがヴィルヘルムだからかは分からないが、リラはただただ感心することしかできない。
「確信を得るために、そこの血筋の娘や屋敷を訪ねたんだ。ギーセン家の四世代前から受け継がれている、ということで少し借りてきた」
「そう、だったんですか」
そうなると、陛下が後宮やお屋敷を訪ねていると言っていたのは……。
「まったく、無理はするなと言っただろ」
呆れたようなヴィルヘルムの声にリラは、はたと現状を改めて認識した。そして、思いっきり頭を下げる。
「すみません。陛下のために、と言いながら結局は陛下の手を煩わせることになってしまって」
必死で頼んで、役に立てるのなら、と言ったわりに、こうしてヴィルヘルムに助けられる形で事態は収束を迎えたのだから、なんとも格好がつかない。恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちでリラは居た堪れなくなった。そのとき、音楽が再び広間から流れてきた。
「陛下、お忙しいところ申し訳ありませんでした。どうぞ、お戻りください」
これ以上、迷惑を掛けるのは本意ではない。ヴィルヘルムは誰かと踊ったのだろうか。そんな考えがふと頭を過ぎる。彼と踊りたいという女性は曲の数よりも多いはずだ。そんな思考が、手を優しく取られたことで遮られる。急いで顔を上げると、そこには意地悪く微笑んだヴィルヘルムがいた。
「せっかくだ。練習の成果を見せてもらおうか」
「え、いえ、でも」
心臓が加速し、動揺が広がっていく。わたわたと手を軽く振ってみるが、ヴィルヘルムはその手を離さなかった。触れられたところから全身に熱が回るのを感じる。
「あの久々の舞踏会のようですし、陛下と踊りたい方はたくさんいらっしゃると思います。ですから」
「お前は私と踊りたくないのか?」
まさかの問いかけにリラは返事に窮する。ヴィルヘルムは左手を自身の胸の前に添えて、いくらか軽い口調で再び誘いかけた。
「お相手願えますか、お嬢さん」
それは国王が口にするにはあまりにも俗っぽく、けれども、それが逆にリラの心をほぐした。国王の誘いを断われる人間なんているのだろうか。ましてや、あのヴィルヘルム陛下だ。でも、だから言うことをきくわけではない。そんな思いを込めてリラは返事をした。
「はい、陛下。……喜んで」
顔を綻ばせながら返すと、ふたりは手を取り合った。触れたところから伝わる体温が、リラをひどく安心させる。密着して得られる温かさに、恥ずかしさよりも今は安堵感の方が大きかった。
音楽はバイオリンの美しい音色に、時折ハープの音が乗せられ、耳にも心地いい。リラのスカートが音楽に合わせて翻り、暗闇に美しく舞う。
曲が静かに終わりを迎えたところで、ふたりだけの舞踏会もお開きとなる。なんだか夢から覚めたような気分だった。
どちらともなく密着していた体を離してお互いに見つめあう。離れるのが惜しくもあったが、いつまでもヴィルヘルムをここに留まらせておくわけにもいかない。そう思って手をのけようとした瞬間、ヴィルヘルムがリラを抱きしめた。
「やはり、冷えてるな」
驚きのあまり声にならないリラに対し、ヴィルヘルムの声は冷静そのものだった。回された腕が思った以上に逞しく、心臓が早鐘を打ち出す。それを悟られないようにリラは必死に返した。
「私は大丈夫ですから、どうかお戻りください。陛下がいらっしゃらないなんて、困りますよ!」
「困らないさ。今日はヴェステン方伯の誕生日祝いという名目だからな。挨拶も義理も果たした」
「ですが……んっ」
ヴィルヘルムがリラの首元に顔を埋めて、その肌に口づける。吐息と唇の感触にリラからは自然と上擦った声が漏れた。
「そんな声をあげるな」
苦々しい声にリラの体は瞬時に硬直した。心臓が破裂しそうなくらい強く打ちつけるが、これは自分ではどうしようもない。王の気に障ったんだろうか、とリラが不安に思っていると、体勢を崩さないまま言葉が続いた。
「もっと聞きたくなるだろ」
ヴィルヘルムは、リラの露になっている鎖骨から首筋にゆっくりと舌を這わせた。反対側は優しく指でその肌を撫でてやる。すると、またリラからまた甘い声が漏れ始めた。
「やめ、て、くだっ……」
切れ切れな声は涙混じりだった。恥ずかしさで、胸が締めつけられて痛い。肌は粟立っているのに、むしろ、触れられたところは熱く、体の中に熱が篭っていく。未知の感覚がリラは恐ろしくなり、自然と縋るようにヴィルヘルムに腕を回していた。
生理的に溢れそうになる涙と声を必死で堪える。そんな姿がいじらしくもあり、ヴィルヘルムの嗜虐心は煽られる一方なのだが、これ以上すれば恐怖だけを残してしまう。そう判断してリラの首元から顔を上げた。
離れたところに冷たい空気が触れ、一瞬だけ身震いしながらも、リラはほっと息をつく。ヴィルヘルムは安心させるようにリラの頬に触れ、顔を近づけた。
「戯れが過ぎたな」
「まったく、です」
怒っているようで、リラの声には力が入っておらずヘロヘロだった。今更ながら、羞恥心が襲ってきたようで、ヴィルヘルムと視線を合わそうとせずに、俯き気味だ。そんな様子をおかしそうに見つめながら、指で首筋をなぞると、再びリラの体がびくりと反応した。
「跡をつけたら、周りが色々と煩そうだからな」
「跡、ですか?」
なんのことか分からず、素直に聞き返すリラにヴィルヘルムはあえてなにも答えなかった。そのとき、人の気配を感じたヴィルヘルムが素早くそちらに顔を向ける。背が高く暗さで顔がすぐには分からなかったが、そのシルエットですぐに判別できた。クルトだ。
「陛下、さすがに限界です。そろそろお戻りください」
「分かった」
さすがのヴィルヘルムもおとなしく指示に従う。そして軽くリラを一瞥すると、手を差し出した。不慣れな自分を気遣ってのことなのだと悟り、嬉しくも思ったが、クルトの手前、その手を取るのを躊躇ってしまう。
「無事に片付きましたか?」
「ああ、リラのおかげでな」
完全に自分の手柄とも言えないので、クルトから受ける視線にリラはなんだか気まずくなった。しかしクルトはリラのことを気にしていない。
「フィーネが待機しています、行きましょう」
「ほら、行くぞ」
「はい」
手を出したまま再度促され、リラはおずおずとヴィルヘルムの手を取る。同時に階段を下りていくわけにも行かず、時間をずらして後からリラはここを出ることになった。その手引きは入れ替わりで上がってきたエルマーが担当する。リラはゆっくりと手を離し、それが合図のようにヴィルヘルムはリラを見遣った。
「リラ、今日はよくやってくれた。あとはしっかり休め」
「はい、ありがとうございます」
恭しく頭を下げてリラはヴィルヘルムとクルトの背中を見送る。エルマーは軽く首を傾げて笑った。
「上手くいったみたいでよかったです。それでは、陛下に注目が集まっている間に行きましょうか」
リラは再度バルコニーの方を振り返った。外からの冷たい風で重厚なカーテンが揺れている。あの向こうに、たった一度しか会ったことのない彼女のために、長い年月をずっとひとりで待っていた彼の姿はもうない。
報われたことに、安堵するような、羨ましいような。……羨ましい? そう、羨ましいのだ。嫉妬にも似た胸を焦がす羨望。なぜなら、自分もずっと待っている、もう長い間、ずっと――
そこでリラは我に返った。自分はなにを待っているのか、そんな存在はいないはずだ。長い間、歩く死者と接して、同調してしまったのだろう。一度目を瞑って気持ちを落ち着かせてから、リラはエルマーの後を追った。




