冷たい手に誘われて
気づけば舞踏会が明日に迫り、城の雰囲気も切羽詰っていた。なんせ久々の舞踏会が行われるのだ。浮かれる気持ちもありながら、迎える側としては緊張感も漂う。リラは最後の確認としてエルマーの元を訪れていた。
エルマーが拍子をとってくれるのに合わせて、リラは体が覚えたステップでついていく。最初は緊張していたエルマーとの接触も、大分慣れてきた。
一通り踊り終えたところで、ふたりはゆっくりと離れる。エルマーは最後だからか、律儀にも手を腹に添えて、リラに向かってゆっくりと頭を下げてくれた。その姿はとても上品で、普段の彼からはあまり想像できないほど様になっている。
ヴィルヘルムといつも一緒に見ているから、あまり意識したこともなかったが、こうして見るとエルマーの十分に整った顔立ちをしている魅力的な男性だった。
「ばっちりですね。これで舞踏会デビューもいつでもできますよ」
相変わらず茶目っ気たっぷりな口調にリラは笑いながらも、丁寧に頭を下げた。
「お忙しいのに、すみませんでした」
「いえいえ。すみませんね、本当はもっと教えるのが上手い方もいるんですけど、陛下が許さないので」
その言葉で、なぜかリラはこの前の彼女たちのことを思い出した。
『その見た目だと、誘ってくださる男性もいらっしゃらないんじゃない?』
『せっかく、陛下が久々に舞踏会を開催なさるのに、変に目立たれてもねぇ』
「私と踊るなんて、よっぽどの度胸がないとできないでしょうし、普通の方では……」
言い淀むリラの言葉をエルマーはきょとんとした表情で受け取った。
「あ、そういう考え方になります? いえいえ、陛下は自分の信用した者以外があなたに触れるのが嫌なんですよー。いや、本当は自分以外が、かな」
「え?」
おどけた言い方のエルマーに今度はリラが目を丸くする。
「それだけ、あなたのことがお気に入りだってことです。この前だって、歩く死者に同情して必死なのかと思えば、陛下のためにできることがあればなんでもする、なんて言われちゃ、そりゃ陛下も無下にはできませんよね」
「あ、あれは、その」
改めて自分の発言を持ち出され、羞恥心で顔が熱くなる。そんなリラに対してエルマーは腕を組み、うんうんと、ひとりで納得している。
「ですが、その、陛下は最近、後宮やご令嬢の元に通われているとか……」
「あ、そうみたいですね。今回は随分と熱心で。いやぁ、こちらとしては有難いことです」
歯切れ悪く切り出したリラに、エルマーはなんの躊躇いもなく肯定した。側近であるエルマーが言うのだから、間違いないのだろう。半信半疑な思いが事実と分かり、勝手に落ち込んでしまう気持ちをリラは必死で奮い立たせた。
「私は、陛下のお役に立てたらいいんです。こうして私が、ここにいられるのは陛下のおかげですから」
「陛下のせいで、とも言えますけどね」
自分に言い聞かせるように告げたリラの言葉をエルマーは冷静に訂正した。そして急に真面目な顔になる。
「陛下のために、と言うなら、どうか無理はなさらないでください。こんなに練習したのが歩く死者のためだけ、というのはなんとも勿体ない気もしますけれど」
エルマーの言葉に、リラは苦々しく笑って頷いた。
舞踏会当日、リラは自室でフィーネに用意されたドレスを身に包み、髪をまとめられ化粧を施されていた。そこまで張り切らなくても、とリラは言ったが、なんせ目当てのバルコニーには広間を通っていくしかない。下手な装いは余計に目立つだけだ。
「リラさまの髪って柔らかいですねー。ずっと触っていたいです」
機嫌よくリラの髪を梳かして、編みこんでいくフィーネの手さばきは見事で、化粧台の前に座らされたリラも鏡越しに見惚れてしまう。ヴィルヘルムにしろ、フィーネにしろ、不気味だと恐れられていた銀髪を、こうして触れられるのは、なんだか落ち着かない。どうかこの銀の髪も暗闇では金髪と見間違えてもらうことを祈るばかりだ。
用心して、ヴェールで銀の髪を隠す。リラに用意されたのは菫色のシンプルなドレスだった。そしてその下に着るコルセットはともかく、ペチコートは針金などでスカート部分を大きく見せたりするが、そこは丁重に辞退した。
生地の膨らみだけで十分だし、なにより自分は本当に舞踏会に参加するわけではない。とにかく、歩く死者に彼女と錯覚させて一緒に踊れればそれでいいのだ。
フィーネに礼を告げてから広間へ向かう。その間、リラはずっと緊張していた。慣れない格好をしているからだろうか、これから歩く死者と対峙するからか、ダンスをちゃんと踊れることへの不安からだろうか。
会場へ向かう足取りがとんでもなく重いのはドレスのせいだけではない。結局、ヴィルヘルムとは、あの執務室で話して以来、会っていない。彼は一体、誰と踊るのだろうか。その相手はもう決めているのだろうか。
「大丈夫ですか、リラさま?」
フィーネに声をかけられ顔を上げる。前に一度だけ来たことのある広間の扉の前まで来ていた。今日は、使用人であるフィーネはこれ以上先には共に行けない。
「フィーネ、色々ありがとう」
「なにを仰ってるんですか。いいですか、リラさま。絶対に無理なさらないでくださいね、それだけは約束してください」
なんだか泣きそうになっているフィーネにリラは軽く微笑む。そして互いに手を握り合った。フィーネの温もりを受けて、リラは前を向いた。
シャンデリアに灯された多くの蝋燭たちの炎が鏡によって反射され、広間は昼間のように明るい。壁一杯に描かれた神話をモチーフにしたような絵は誰が描いたのか。
この前は見る余裕がなかった広間の様子をリラはまじまじと見つめた。まだ正式には舞踏会は開催されていない時間だが、それでも早くに来ている客人たちは何人かいた。それぞれ正装し、語らい合っているところを、極力誰とも目を合わせないように俯きがちに階段を目指す。
そして、ゆっくりとバルコニーへ足を踏み入れた。夜が世界が支配し、辺りは暗い。この前と同じように冷たい風が吹き抜け、リラの項を掠める。普段は長い髪を下ろしているので、なんだか心許ない。
次第に目が暗闇に慣れ、境界線を捉えれるようになった。そして楽器の音が聞こえてくる。音合わせをしているのだろう。リラはわざとらしくバルコニーから外を眺め、気を逸らした。
しばらくしてから、ゆったりとした音楽が徐々に会場を包み、バルコニーにも届いてきた頃だった。リラが気配を感じて振り向くと、そこには彼がいた。この前と同じように力なくリラを見つめている。しかし音楽に反応してか、リラの方に近づいてきた。今回はリラもドレスの裾を少し掴み、彼の元に自ら歩み寄る。
『一曲お相手願えませんか』
掠れた声がリラの耳に届いた。リラはなにも言わず、無表情のまま差し出されている彼の手の上に自分の手をそっと重ねた。意識をしっかりと持ち、この前のように取り込まれないように気を張る。
冷たい!
ぞくりと背中に悪寒が走り、叫びそうになるのをぐっと堪えた。触れた手から、密着した箇所から伝わるのは氷のような冷たさだった。彼が歩く死者なのだということを改めて実感させられる。
自分が目の前に相手にしているのは、生きている者ではないのだ。その恐怖が足を竦ませ、体の動きを鈍くさせる。体が覚えたステップでなんとか足を後ろに引き、ゆっくりと踊り始めるも、彼についていくのが精一杯でお世辞にも踊っているとは言いがたい。音楽が耳に入ってこない。
おかげで足がもつれそうになり、リラはついに転びそうになった。それを支えたのは意外にも、冷たい腕だ。支えられたまま、恐る恐る顔を上げてみる。その顔は、やはになにを考えているのか読めずに感情が伝わってこない。彼の唇がゆっくりと動いた。
『慣れていなくて、申し訳ない』
その言葉にリラは固まった。そしてこの前の記憶を少しずつ思い出す。彼は元々笑顔が苦手で不愛想な男だった。ぶっきらぼうで、不器用で。ダンスのリードもお世辞にも上手いとは言えない。それでも、彼女との約束を果たすために必死だった。真剣だったのだ。
リラは気持ちを入れ替えて、改めて彼の手を取る。今まで自分が見てきた生者ではないものは、恐ろしいものもたくさんあった。たくさんの恐怖を味わってきた。でも、元はみんな生きていたのだ。
フィーネと話していたときに現れた彼女の祖父は、とても心配そうに、穏やかな表情でリラに自分が残した本の場所を教えてくれた。いつも自分の目に映るのは、なにかを必死に訴えかけてくる者たち。彼もそうだ。
少しずつ、冷たさが気にならなくなってくる。竦んでいた足が、次第に音楽に乗って動き始める。青白く表情が読めない目の前の男の顔も、歩く死者だからではなく彼の素のものなんだと思い始めることができた。
そのまま曲は緩やかに終演に向かう。どこまでも続く長い時間に思えたが、終わりはやってくる。そして、踊り終えた後、男はリラから離れ一歩下がると、深々と頭を下げた。




