空を見上げてはいけません
下を向いて歩きなさい――それが祖母の教えだった。
祖母はいまどき珍しいくらいに厳格な人で、私はいつも説教を受けていた。
家の手伝いをしなさい。漫画じゃなくて本を読みなさい。弟の面倒を見なさい。そして、絶対に空を見上げちゃいけません、下を向いて歩きなさい――と。
私はいつも説教を垂れる祖母が大の嫌いで、正月やお盆に父親が「お祖母ちゃんの家に行くぞ」と言うと、やれ体調が悪いだの出かける用事があるだのと理由を捻り出しては抵抗を試みるのだが、「そんなことを言って、またお祖母ちゃんに怒られるぞ」と脅されると、あっさりと従うしかないのだった。
厳格な祖母とは違い私の父はおおらかな人物で、怒ったり泣いたり感情を表に出すことがあまりなかった。だから、あの日、家に帰ってくるなり泣き崩れた父を見た時には只事ではない、と子供心ながらに察したのだった。何があったのか、泣きじゃくる父からは何も聞くことはなかったけれど、おそらく会社でトラブルがあったのだろうと現在は推測している。
その次の日、父親が近所の川辺に家族四人を連れて来た。もちろん、私も一緒だった。四つになったばかりの弟の手を握り、私は川辺を歩く両親の後を着いていく、下を向いて。
すると、前を歩いていた父が突然、私たちに振り返り言った。
「一緒に空を見上げよう」
顔を上げて様子を伺うと、父はやつれた顔をのぞかせたが、どこか安心したような笑顔で手を空に掲げていた。ずっと父に寄り添って歩いていた母も、私の手を握っていた弟も、そして父も、掲げた手に視線を移していく――しかし、
絶対に空を見上げちゃいけません、下を向いて歩きなさい。
祖母が私に口酸っぱく言っていたのを思い出し、私は祖母への恐怖から地面に視線を落としてしまう。なのに、なぜだろうか――下を向いていたはずの私と父の目が合った。父は地面にぽっかりと空いた暗闇の中に落ちていく。
気が付けば、弟の手を握っていた私の手が強い力で引っ張られていた。視線を横にずらすと、そこには父と同じように暗闇に引きずりこまれようとしている弟の姿が見えた。
助けを求めようにも既に両親の姿はなく、私は必死になって弟を引っ張りだそうとするが、子供の力ではどうすることも出来ずに、弟はあっさりと暗闇の中に飲み込まれていく。
呆然と立ち尽くす私の耳には、さらさらと川の流れる音だけが響いていた。
あの後、どうなったのかはあまり覚えていないが、次に目を覚ましたのは祖母の家の布団の上だった。目を覚ました私を、怒った顔しか見せたことのない祖母が、その日だけは泣きながら優しい顔で私を抱きしめてくれた。
空を見上げてはいけない――
それは世界の常識として定着している。空を見上げたら最後、正体不明の暗闇に引き擦り込まれるのだ。空の上に目があって私たちを監視しているだとか、その目を見たものは地獄に落とされるだとか様々な憶測が飛び交っている。しかし、鏡やカメラなどで間接的に空を見ても、そこには変わらぬ空が広がっているだけで、本当の原因は分からないままであった。
暗闇に飲み込まれ行方不明になった人々は累計で一億人を超えると言われているが、未だ一人として見つかっていない。一時期は地面に埋められているのではないかと掘削作業が続けられたが、いくら掘り返しても誰も発見されなかった。暗闇に飲み込まれた人々がどこに消えたのかは、誰にも分かっていない。
なぜ父は私と、家族と空を見上げようとしたのか、本当のところは分からない。一家で心中するつもりだったのだろうか。現実に絶望し、空に救いを求めたのだろうか。母はどうして何も言わなかったのか。
ふと考えることを止めて顔を上げると、祖母の遺影が飛び込んでくる。遺影に写っている祖母の顔は相も変わらず怒ったように眉間にシワを寄せており、反射的に胃が締め付けられる。両親と弟が居なくなってから身寄りをなくした私を今まで育ててくれたのは祖母であった。最初こそ優しく抱きしめてくれた祖母であったが、その後は言わずもがな、今まで以上に厳しく教育された。
祖母は時より恨めしそうに顔を上に向けようとして、しかし、すぐに思い出したように視線を下に向けていたのを覚えている。その時の祖母の顔はいつものように眉間にシワの寄った怖い顔だったのだが、どこか悲しい顔をしているようにも見えた。
私はいつしか空を嫌いになっていった。いや、私だけでなく、世界中の人々が空を憎むようになっていった。決して空を見ないように、空を憎むように教育している節もあったが、やはり家族を奪った空を私は許せなかった。祖母もきっと空を憎み、死んでいったのだろう。
祖母が亡くなってから四十九日が過ぎ、私は本当に一人になってしまったことを実感する。もう私に一々口出しするような人はいない。祖母からは禁止されていたが、私は家族が消えた川辺に向かうことにした。
祖母の家から例の川辺まで歩いて二時間程度。その間、私はずっと下を向いて歩いていく。そして、地面に描かれている標識を見て、私が住んでいた町までやって来たことを悟る。
雑草で覆われた土手を降り、久々に目にした景色はあの頃とほとんど変わっていなかった。私は昔と同じように、川の流れに沿って川辺を歩いていく。しばらく歩いていると、普通の人から見るとなんの変哲もない場所であるが、私にとっては特別な場所に着いていた。
十年だ。家族を失ってから十年経っている。
これまで私を育ててくれた祖母には申し訳ないが、私はこの十年間、ずっと後悔して生きてきた。あの時、どうして一緒に空を見上げなかったのか。暗闇に落ちていった父の顔と弟の手の感触を今でも覚えている。
私は、家族を奪った憎むべき空をゆっくりと見上げる。見上げた空は雲に覆われており、所々にうっすらと青い色が見え隠れしている。初めて見た空はテレビでよく見るような綺麗な青空ではなかったが、それでも、視界いっぱいに広がる光景に息を飲むしかなかった。
空を見上げる時――それはどんな時だろうか。
例えば、雨が降ってきたのでふと空を見上げたり、嬉しいことがあって空を見上げたり、悲しいことがあって空を見上げたり、ただなんとなく空を見上げる。
私たちは同じ星、同じ空の下で生きている。でも、一人一人が違うものを見て、聞いて、感じており、決して交わることはない。人間は一人で生まれ、一人で生きて、一人で死ぬのだ。
私たちは空を見上げる――
そうすることで誰かと繋がれる、分かり合えると信じて。
暗闇に飲み込まれた私たちは、そこで沢山の目と出会う。その目は私の目であり、父の目であり、母の目であり、弟の目であり、そして、今まで飲み込んできた一億人の人々の目である。
空を見上げるという行為によって繋がれた私たちは、同じ空の下で、同じ空を見上げ続けている――