エピローグ 戦鬼
星が瞬く夜空。
空気は澄んで、雲もない。
煌く星は砂のように夜を舞う。
月明かりも気にせず、少年は星を見た。
一つ一つの星を追って、ゆうに一時間。
少年は、ついに星を見るのをやめて、星々を眺めることにした。
――人とは、すなわち星なのだ。
一人一人には、確かに輝く才能がある。しかし誰がその一人を気に留めるのだろうか。数多の人がいる中で、しかし誰もその人を見ることはない。ただ漠然と、人間の存在を感じるだけ。決して、自分は注目されない。
人が見るのは月だ。
少年は膨らんできた月を見上げる。
周りがどれだけ光を放っても、人が見るのはその絶対存在、唯一無二の巨大な存在。その力強い光に、少年は狂いそうになる。
月は、視界を狂わせる。
月は、視野を乱す。
視界は、死海。
視野は、死野。
月の前に、人は死ぬ。
月の世界で、命は無意味。
月が星を殺して、星は塵のように空に踊る。亡骸は海を漂うように揺れて、骨の骸は地に埋まる。
何億、何兆を超える星の中で、一つの輝きが失われたところで、誰が気づくだろうか。
人が消えても、社会の中では数字が一つ減るだけでしかない。
人は数字。星は数。
その唯一の存在は、絶対の存在ではない。
星が消えても、世界は回る。
人が消えても、社会は動く。
決して止まらず――。
誰も振り返らず――。
少年は空を見上げる。
満天の星空。
欠けた月。
――満月なら、よかったのに。
それは絶対の存在。
それは完璧な姿。
これ以上はない、最高の美。
美しいものに人は焦がれて、その崇高さに人は畏怖する。誰もが叶わないから、誰もがそれを望む。
星は欠片だ。亡骸の破片。
星が一つ消えても、世界は嘆かない。
――ああ。
満月だったら、よかったのに――。
川のせせらぎが聞こえる。
黒い水の上を天の川が流れる。そう、不完全な天の川。
静寂を乱す、不協和音。川の流れが、空気を揺らす。
川原の上で小石が踊る。互いにぶつかって、小さく旋律を奏でる。
「……」
足音に、少年は振り向く。
暗い夜。
星が瞬く空。
少女が一人、少年の前に立つ。
「――――」
美しい、と思った。
同時に、戦慄が走る。
それは美しさに対する憧憬か。
死に直面したときの恐怖か。
息が止まり。時間が止まる。
黒いフリルつきのスカートに、上はやや暗い茜色のブラウス。スカイブルーのリボンで髪をポニーテールにまとめている。
凛とした顔立ち、静かな瞳。女性らしい丸い頬に、しかしどこか引き締まった硬い印象がある。
少女は左手に一本の刀を携えて、少年から一〇メートル距離をあけて、止まる。刀は少女が持つには少し大きい、年代を感じる重厚さがある。
月明かりに少女の姿が映し出される。
美しい――。
――それは、戦場に立った一輪の華――――――。
全てを拒絶し、全てを破壊する戦の鬼が、しかしそのまっすぐで純粋な想いが、少女の可憐さをいっそう際立たせる。
「――――――――」
言葉が出ない。
息が止まる。
しかし――――。
ここで言葉を発するのは自分だと、少年はよく知っている。
自分の指に爪を立てて、赤く腫れるほど肉を突く。痛みが神経を刺激して、血液を循環させる。荒れ狂う心臓を無理矢理押さえつけて、冷静を装っていつものように余裕の笑みを浮かべる。
「久し振りだね。礼」
少女は答えない。
「こうやって面と向かうのも、何年振りかな?」
少女は無言。
少年は困ったように肩を竦める。
「どうした。ずっと黙って。なにか言ってくれよ。それとも、怖いのかな?」
少年は笑う。
しかし、少女は笑わない。
まるで彫刻と話をしているように、心がない。
「あなたは――」
少女が初めて口を開く。
「あなたは、今の自分の立場がわかっているのですか。水鏡竜次」
冷たくて、重い。
硝子に触れるような。氷で切られるような。胸が、軋む――。
「……なんだよ」
少年の声が変わる。
「なんだよ。その言い草。この僕に向かって、そんな、そんな言い方はないだろ!」
冷静さはなく、余裕もない。
喚くように、少年は叫ぶ。
「見下しているのか?見下しているのか、おまえまで。この僕を!随分、偉くなったじゃないか。えぇ?当主様はもう、僕とは話をしてくれないっていうのか。栖鳳楼家から捨てられて、四家に堕とされたこの僕なんかとは!」
少女はなにも言わない。
ただ黙って、静かに少年を見返す。
「そうやって全部持って行くのか。おまえは。おまえたちは!僕は栖鳳楼の血を持っているんだぞ。それなのに、おまえたちはそうやって見下すのか?そんなに僕を虐げたいのか?名前を奪って、血さえも奪って、なにもかも奪って。そうだ、そうだとも。なにもかもだ。あんな、魔術も途絶えた牢屋に放り込んで、それでもまだ僕を見下す気か?僕は栖鳳楼なのに!」
少女――栖鳳楼礼――は、激昂する少年――水鏡竜次――を、冷たく見返す。
「あなたは、水鏡竜次。一般人に対して魔術を使用した、魔術師の面汚しです」
「だって、仕方ないだろ。おまえには栖鳳楼家の神具がある。式神もいる。それなのに僕には、慰めていどの道具があるだけだ。僕にだって、魔術師の才能はある。負けるわけがないんだ。あんな、つい最近魔術師になったばかりの、雪火に負けるわけがないんだ。栖鳳楼の生まれである、この僕が!」
竜次は右腕を上げる。腕には薄い痣が残っているだけで、なにもない。しかし、竜次はそれをいとおしむように、固執するように、高らかに吼える。
「楽園に認められた。認められたんだよ。この僕は!おまえらの目が節穴でも、世界はちゃんと僕を見てくれている。僕が、魔術師にふさわしいってね!」
竜次は左手を振って、投げた。
栖鳳楼は咄嗟に後ろに跳んで、かわす。
竜次がさらに、放つ。
瞬間、栖鳳楼に向かって閃光が走る。
抜刀して、〝獄楽閻魏〟が空気を切る。
直後、栖鳳楼の頭上から光が落下する。紅に染まった氷の光。
衝撃。爆音。粉塵。
栖鳳楼の姿が消える。
竜次の顔に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「……」
風が吹く。静かに。静かに。
粉塵が散って、彼女の姿が現れる。
巨大化した刀は、剣のよう。
頭上に掲げて、彼女を守る。
獄楽閻魏の下、少女は竜次を睨む。鋭く、獰猛。獲物を欲する獣の眼ではなく、血を欲し、殺意に満ちた修羅の眼光――。
「……!」
竜次は反射的に後退る。
同時に、左手に握った魔具を抛る。
漆黒を紅の光が彩る。
――術式。構築。魔力。注入。駆動。発動。
栖鳳楼の周りを朱い光が踊る。
足元から火柱が上がり、栖鳳楼は宙高く舞う。
空で回転して、栖鳳楼は獄楽閻魏をかまえる。
術式――――。
栖鳳楼の周りを紅い光が踊る。
光は栖鳳楼の周りを、球をなぞるように回って、輝きを増す。
魔具から放たれた光は魔力を帯びて、栖鳳楼を灼く。
光の刃――――。
剣の檻――――。
「これで……!」
竜次が魔力を注――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――心臓を刀が貫く。
「……!」
幻視は、減思。
そして、現知。
「〝閻魏〟雪牡丹」
華が咲く。
紅い紅い華が咲く。
華に囲まれて少年は眠る。
永い永い眠りに就く。
「――――」
意識は遠く、まだ夢の中。
紅い華に送られて、朱い川に沈んでいく。
紅い魔具が闇に消える。それは蝋燭の残り火のように、風もなく消えた。
きん、と、刀を鞘に納める。
空を見上げる。そこには、数多の星々。
すっ、と、流れ星。
少女の頬に、星が流れる。
「――さようなら。兄さん」
それは幻。
日が昇れば醒める、淡い夢。




