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第七章 もう一人の神託者

 翌日の放課後。

 夏弥(かや)はいつものように遅くまで美術室に残っている。他の部員たちはいつものように夏弥より先に帰宅した。夏弥は一人、一枚のキャンバスを前に筆を持つ。

「…………」

 辺りは輝くような(あかね)色。町は夕日に染まり、美術室の中は暖かな光に色づく。今日の夕日は、一段と夏弥の制作意欲をかきたてる。

「…………」

 夏弥はキャンバスから筆を離す。

 白紙は茜に染まり、空白は夕日に塗り潰される。夏弥は自分の作品をよくよく観察する。もう、キャンバスは全て塗り終えて、外の景色と夏弥が写し出した景色は、狂いがない。

 夏弥は一つ頷いて、筆を置く。

「よし。完成」

 いましがた、夏弥の絵は完成した。

 キャンバスの中に描かれているのは、美術室から見えるここ白見(しらみ)町の風景だ。背の低い家々が立ち並び、その間から畑が所々に見てとれる、田舎の景色。背の高いビルが遠くに見えて、そのさらに奥には山々がこの町を囲んでいる。

 町と呼ぶには、自然に囲まれすぎた場所。村みたいな田舎の景色に、しかし近代的な部分も多少にある。

 だから夏弥は、この作品に『町』という単語は使わない。『白見の夕焼け』それが一番ぴったりくる気がする。

 町のような慌ただしさはなく、村のようにゆっくりと時間が流れる。田舎しか知らない若者は都会の華やかさを求めて、この町には年寄りが多い。そのゆったりとした空気が、夏弥は好きだ。穏やかで、平穏。時間はゆっくりと流れて、ただ静か。

 この町に、事件は似合わない。

 このときだけは、事件のことなんて、忘れていたい。それが欺瞞(ぎまん)でも、ほんの少しでも、そう信じたい。

 この町は、平和なのだ、と――。

 がらがら、と。美術室の扉が開く。夏弥は振り返る。そこにいたのは先週から引き続き見回りをしている、夏弥の担任の風上美琴(かざがみみこと)だ。

 美琴は夏弥を見つけて、ムっとして腰に手をあてる。

「こーらー。夏弥。いつまで学校に残ってるの。あたしが見逃しているとはいえ、少しはお姉さんの立場ってものを考えてよね」

 美琴は夏弥の前でしか見せない、砕けた調子で不平を言う。美琴は夏弥の担任だが、同時に小学校の頃から付き合いがある。夏弥の父親、雪火玄果(ゆきびげんか)と風上美琴は教師と生徒の関係だった。美琴は玄果に憧れて教師になった。玄果が美琴の勤めている丘ノ上高校に近いこともあって、美琴はよく夏弥の家に遊びに来て、今でも休みには顔を出す。そのせいか、二人の関係は教師と生徒というより、お姉さんと弟という構図がぴったりくる。

 夏弥は興奮したように、美琴を手招きする。

「美琴姉さん。見てよ。やっと完成したんだ」

 どれどれ、と美琴は夏弥の隣までやって来る。さきほどまでの教師の態度はなくなって、美琴はじっとキャンバスを見つめる。

 美琴は真剣に夏弥の作品を見つめる。()きつけられたように、視線を外せない。夏弥の作品には、それだけの雰囲気がある。

「――きれい」

 一〇秒くらいして、ようやく出てきた言葉がそれだった。

 夏弥は興奮が治まらず、続けて美琴に訊ねる。

「どう?結構自信作なんだ」

 (ぼう)と、美琴は夏弥の作品を見入ったまま硬直する。意識を半分以上もっていかれたように、夏弥の言葉に反応がない。

 しばらくしてから、ようやく美琴が呟く。

「うん。きれい」

 小声で、そんな言葉が返ってくる。美琴の視線は夏弥のキャンバスに固定されたまま動かない。

 ぽつり、美琴は誰に言うでもなく、呟く。

「なんだろう。それ以外の言葉が見つからない。きれいね」

 それは完成された、写生。

 世界を、あるがままにとらえて、世界を世界と認める行為。

 見えるままに、()たままに写す。

 生きたまま写すから、写生という。

 だから、写真は写生の究極ではない。写真は、世界の真実を映すだけで、世界が内包している意識、無意識までは写さない。

 夏弥は、絵を描くときはいつも、そのとき自分が感じた印象が残るように、筆を動かす。自分の感性、感情、感覚。それは世界という存在が自分という対象にもたらした、印象。自分は世界に通じて、世界を作り上げる。自分という個体が全てを内包する世界と通じる唯一が、その感覚。

 自分は世界を想像して、そして自分を残す。全ての人に自分の喜びを、全ての人に自分の感覚を伝えるために。

 夏弥は興奮した心の奥で、小さく笑う。誰かが喜んでくれるだけで、夏弥は満足だ。だって、それが夏弥の目的だから。

 くるりと振り返って、美琴が訊いた。

「これ、学祭で出すんだよね」

 夏弥は頷く。

「うん。そうだよ」

 ぽん、と美琴が手を打つ。

「じゃあ、あたし。一番最初に夏弥の絵見ちゃったんだね」

 無邪気に美琴は笑う。打算もなにもなく、純粋に喜んでいる笑顔。夏弥はくすぐったい気持で、はにかむ。

「学祭まで、秘密だよ。見る人には驚いてほしいんだから」

「了解。誰にも言わないわよ」

 一つ頷いて、美琴は再び夏弥の作品を見つめる。何度も何度もそうして、しかし美琴は飽きることなく見つめる。

 呆と、美琴は呟く。

「それにしても。うん。きれいね」

 自分の作品を真剣に見つめる美琴の横顔を、夏弥は眺める。

 その表情は呆としていて、なにを想っているのかわからない。心ここに非ずといった感じで、瞳は目の前のものに惹かれている。

 自分の作品を見て、そんな表情をしている人を見ることが、夏弥は好きだ。自分の、そのときの感動が伝わっているみたいで、胸が熱くなる。それが、夏弥の原動力。自分が絵を描いていて、よかったと思える瞬間。

「学祭までどうするの?」

 不意に訊かれて、夏弥は答える。

「ちゃんと布をかけて、保存しておくんだ。絵って、結構デリケートなんだ。温度とか、湿度とかでどんどん劣化しちゃうから。学祭までは、大切に保管しておかないと」

 そうね、と美琴は頷く。

「折角夏弥が描いた絵なんだから。きれいなままでとっておきたいわね」

「だから、隣の倉庫にしまっておくんだ」

 よし、と美琴はなぜか腕まくりを始める。女性らしい細い腕は、しかししっかりと筋肉が発達している。

「じゃあ、お姉さんが運んであげる」

 嫌な予感がして、夏弥は慌てて手を振った。

「いいよ。自分でやるから」

 夏弥の心配を全く無視するように、美琴は明るく笑う。

「遠慮しなさんなって。お姉さん、力には自信あるよ」

「知ってるよ。だから壊されちゃたまんないよ」

 美琴は若くして剣道五段の実力を持ち、そのせいか力勝負では夏弥よりも強い。しかし、細かいことが苦手なのか、時折力の加減を誤って今まで数多くのものを破壊している。雪火家の茶碗やコップを始め、一番大きなものでちゃぶ台を破壊している。

「なによそれ。お姉さん、そんなに乱暴じゃないわよ」

 不満そうに漏らす美琴に、しかし夏弥は信じない。本人は無自覚なのだろうが、美琴の力は半端ない。

 夏弥はなんとか美琴を説得しにかかる。

「絵は軽いから、俺にだって運べるよ。どうせ手伝ってくれるなら、倉庫の整理をお願い。あそこ、いつも放っておいてるから整理されてないんだ。この絵を隠せるような場所を作らないと」

 倉庫の片づけさえも危ない賭けだったが、一度やると言い出した美琴を止める方法はないことを、長年付き合っている夏弥は知っている。ならせめて、最も被害が少ないものをとるべきなのだ。

 美琴は不承不承に頷く。

「そう。そういうことなら、先に行ってるね」

「うん。お願い」

 持っていた倉庫の鍵を、美琴に向かって投げる。運動神経に恵まれた美琴は見事に鍵をキャッチして、足取り軽く倉庫へと向かう。

 ――異変は、そのとき起こった。


 ドクン――。

「え?」

 と、声。

 自分のものだと。

 理解して。

 認識する。

 ふわり、と。

 身体が浮遊する。

 感覚。

 浮いているのではなく。

 漂っている。

 鳥ではなく。

 それは、羽のように。

 空気の流れに。

 流される。

 床に立っているのではなく。

 空気に、浮いている。

 それは、空に浮いている感覚。

 景色が、茜色に染まる。

 白い、視界。

 クリーム色の、視野。

 ミルクに混ざる、景色。

 思考。志向。試行。施行。至高――――――――。

「くっ……!」

 夏弥はたたらを踏んだ。

 その異常に、なけなしの思考が理解する。

 頭が、揺れる。脳内の景色が、曖昧。ずきずきと頭が痛み、ひどい目眩(めまい)に吐き気がする。込み上げてくる嘔吐感(おうとかん)に、高速の観覧車に放り込まれたように地面が揺らぐ。

 地震なんてものじゃない。天地がひっくり返り、空が地になり、床が宙となる。紅い海の中にいるように、上も下も、右も左もない。

 景色が(ゆが)み、視界が混ざる。それはキャンバスの上に水を垂らしたよう。色は混ざり合い、形が曖昧になる。モノとモノとの境がなくなって、それはモノではなく存在。そこにあるのは、集合。

「なに、が…………」

 夏弥は椅子を支えに、なんとか立っている。

 ぐらぐらと、足場が揺れるよう。

 くるくると、教室が回転するよう。

 くらくらと、視界が歪むよう。

 歪んだ視界の中で、夏弥は人影を見つけた。

「……!」

 形がはっきりとしない。

 しかし記憶の中から、夏弥はその人物を理解する。

「美琴姉さん……!」

 美琴は床の上に倒れていた。

 夏弥は美琴に近づこうと、一歩踏み出す。ぐらり、と景色が歪む。倒れてしまいそうになるのを、なんとかこらえる。床がぐらぐらと揺れているようで、立っているだけでやっとだ。

 それでも、夏弥は美琴の元へ向かおうとする。床に倒れ込んだらそのまま動けなくなってしまう気がして、夏弥は必死に踏ん張って歩く。

 距離も、時間の感覚さえも歪んでしまいそうな中で、夏弥はなんとか美琴の(そば)まで辿(たど)り着く。目の前が歪んで、美琴の姿もはっきりととらえられない。意識を集中させて、美琴にまだ意識があることだけは理解できた。

「大丈、夫?美琴姉さん……」

 自分の声が、頭に響く。ひどい頭痛に、強烈な吐き気を覚える。だが、胃の中に何もないから、胸の辺りが焼けるように熱い。

 美琴は、答えない。

 それが数秒なのか、数十秒なのか、あるいは数分なのか、夏弥には時間の感覚がない。時間も、距離も、形も曖昧な世界で、夏弥はひたすら強烈な頭痛と吐き気をこらえる。

「…………あれ。夏弥」

 ぽつり。

 美琴が呟く。

 景色が揺らいで、美琴の口の動きは見えない。

 音だけが頭に響いて、神経に直接針を刺したように痛い。

 ずきり、ずきり、と、しかし夏弥は懸命に美琴の声を聞こうとする。気配の見えない視界で、夏弥は目を凝らす。

「なんで。夏弥。そんな、に、恐い顔、して、るの………………」

 夏弥には美琴の表情は見えない。

 美琴は、血の気のない(あお)い表情で夏弥を見上げる。床の上に倒れたまま、起き上がることができない。

 焦点の合わない目が次第に弱くなって、酸素を求めるように口だけが小さく開く。最後まで支えていた首が折れて、瞼が落ちる。美琴の意識は、そこで途切れる。

「美琴姉さん……!」

 定まらない視界の中で、夏弥は直感的に悟る。

 夏弥は美琴の体を揺さぶった。自分の視界までもぐらぐらと揺らいで、気持ちが悪い。それでも、そうしないではいられなかった。

 それでも、美琴の意識は戻らない。肌で、夏弥は感じ取った。

「なにが、起きて……」

 口にした、瞬間。

 ――ぞくり。

 ぐらり――。

 ――ガタガタ。

 グラグラ――。

 ――ケシキが。

 ゆらいデ――。

 ――ハンてン。

 いシき――。

 ――シかい。

 チガう――。

 ――ココ――――?

 ちがウ――。

 ――どコ。

 ワカら――――――――――――――。

「屋上?」

 ぽつり。

 漏れた、言葉。

 それが自分のものであると、夏弥は気付かない。

 導かれるように、夏弥は歩きだした。自分が向かっている先がどこなのか、夏弥にはわからない。


 ひどい眺めだ。

 乾ききっていないキャンバスの上に水をかけたような、いや、パレットに描いた絵に上から水を混ぜたように、景色がぐちゃぐちゃだ。

 なんて不完全な、作品。

 いや。

 壊された作品、だ。

 それは、一つの芸術――。

 『壊した』という。

 『壊す』ことで意味をもたせる。

 そんな、作品。

 『壊れている』から、それは完成している。

 『壊す』ことで、完成した作品としている。

 しかし――。

 これは、『未完成』だ。

 美琴は倒れた。おそらく、学校に残っている他の生徒たちも同じように倒れているだろう。

 しかし。

 夏弥は倒れない。

 このていどでは、まだ夏弥を作品にすることはできない。

 壊れた視界。

 壊した作品。

 完成した人間と。

 未完成の作品。

 ――そう。

 これは、不完全――。

「おく、じょう……」

 うわ言のように。夏弥は呟く。

 揺らぐ視界の中で、自分がどこを歩いているのかもわからない。今は廊下を歩いているのか、床を這っているのか、壁を這っているのか、天井を這っているのか。階段を上っているのか、階段を下りているのか。扉を開けたのか、扉を閉めたのか。窓の中なのか。窓の外なのか。

 視界が揺らぐ。視界が回る。

 ぐるぐるぐるぐる、と。

 景色が歪んで、視界が茜色に染まる。

 水の上に。茜の絵具を一滴。筆でかき混ぜて、ぐるぐるぐる、と。

 目が回って、頭痛がして、吐き気がする。

 地面が揺らいで、自分が立っているのか、歩いているのかもわからない。ここはどこで、自分はどこに向かっている。

 わからない。

 わからない、けど――。

「お、く、じょ、う」

 ただ、繰り返す。

 その言葉だけが、夏弥を支えているもの。

 揺らぐ視界。

 混ざる景色。

 その中ではっきりと――。

 ――屋上の上に立つ、一人の姿が見える。


 ぎい、と。

 扉が開く。

 風が鳴る。肌を、空気が泳ぐ。誘うように、空気が舞う。風は穏やかに、静かに。空気は流れて、風は鳴く。

 ――風は。

 泣いている――。

 視界が晴れる。

 目の前の歪みが、なくなって。

 ――見えたのは。

 (あか)い空――。

 それは、夕焼けの(いろ)ではない。ずっとそれを見続けていた夏弥にはわかる。それは、不自然なまでに澄んだ(あか)

 美しい、(あか)い色――。

 ――しかし、夏弥はそれを美しいとは思わない。

 雲さえなく、空には紅い硝子(がらす)が覆われているみたいだ。均一な紅は、地上を紅く染め上げる。歪み一つないそれは、まさに(いびつ)。完璧であるがゆえに、それは、自然ではありえない。

 ――完璧な美しさは。

 むしろ、不完全――。

 異世界のような屋上に、夏弥は人影を見つける。

 紅い空の下、一人の少年は夏弥を見て微笑(わら)う。

「やあ、雪火くん」

 聞き慣れた、音。どこか高貴な雰囲気が漂って、しかしそこに嫌味や悪意がないから、聞いていて不快はない。

「……竜次(りゅうじ)、先輩…………」

 今まで歪んでいた視界が嘘のように。竜次の姿がはっきりと見える。夏弥と同じくらいの背丈に、やや癖のある髪。どことなく遊び人めいた雰囲気があって、貴公子のような容姿。その品のいい笑みにくらりとくる女性は少なくない。

 竜次は整った顔立ちで苦笑する。

「どうして来ちゃったのかな。今日は学祭の準備があるから、部活はないって言っておいたのに」

 夏弥は開けた扉にもたれかかるようにして竜次を見る。紅い空を背にして笑みを浮かべる竜次は、よく映えた。それは血の池に浮かぶ、誰かの忘れ形見。混じりけのない(あか)に、純粋なアカ。ゆえに、――――それは異質。

 竜次は癖のある自分の髪を手ぐしで()く。

「せっかく来てもらったのに悪いんだけど、今日は部活はない。ああ、今はちょっと息抜きをしに来ているんだ。学祭の作業ばかりでは疲れてしまってね。いつも使っている、この場所が一番落ち着くんだよ」

 夏弥は竜次の言葉に返事をしようとして、しかし言葉が浮かんでこない。

 視界ははっきりしていて、意識も正常。しかし認識だけがずれている。自分がここにいないような浮遊感。自分はここにいてはいけないような違和感。第三者の視点を通して見た自分の景色。

 それは、まるで、テレビだ。

 相手がここにいるという実感がないのではない。

 自分がここにいるという実感がない。

 ここにいることの全てが間違っているような、異質。

 黙ったままの夏弥に、竜次は困ったように目元を苦笑させる。

「ちょっと雪火くん。聞いているかい?」

 そっと近づいて、竜次は夏弥の顔を直視する。その視線は夏弥の体を隅々まで観察するようで、夏弥は無性に目を背けたかった。

「大丈夫?雪火くん。顔色がよくないね。保健室に行ったほうがいいよ」

 竜次が近づいて、夏弥に向かって手を伸ばす。

「立てるかい?ほら、僕の手につかまって」

 差し出された男の右腕。制服の下から宝石のようなビーズのリングがのぞく。竜次の妹である、水鏡言(みかがみあき)が作ったものだ。一粒一粒の大きさは一ミリていどの小石くらいで、それがいくつも一つの輪に通っている。色は、紅。手首の周りに、まるで血の跡のように一周しているが、血とは異なる色。それは、この空と同じ――。

「………………」

 ぱん、と乾いた音が聞こえた。

 その音だけは、現実のものだと、夏弥にも認識できた。

「………………」

 夏弥は竜次が差し出してくれた右手をはたいて、竜次から距離をおく。さっきまで夏弥がもたれかかっていた扉のすぐ隣に、竜次が立つ。たてつけが悪いのか、扉は閉まらずに開いたまま、明かりのない向こう側はただの闇。

 竜次と夏弥との間は、距離にして三メートル。自分でも驚くくらい、竜次から距離をおいたものだ。その驚きを、夏弥は確かに認識している。

 竜次は夏弥の行動に驚いて眉を寄せる。

「どうしたんだい。雪火くん」

 一歩。竜次は近づく。

 二歩。夏弥は離れる。

「どうした。どうして逃げるんだい?」

 二歩。竜次は近づく。

 四歩。夏弥は離れる。

「具合が悪いのだろ。顔色がよくないじゃないか」

 三歩。竜次は近づく。

 六歩。夏弥は離れる。

「あまり無理はしないほうがいいよ」

 四歩。竜次は近づく。

 八歩――。

 ――ガシャン、と。音が鳴る。

 背中に、フェンスの感触。行き止まりだ。

 夏弥は振り向かず、目の前に立つ竜次を見つめる。さっきよりも、大分距離が開いた。竜次は、微笑を浮かべたまま右手を差し出す。とても優しい、貴公子の笑顔が紅い空に浮かぶ。

 無言で手を差し伸べる竜次に、夏弥はたまらず口を開いた。

「竜次先輩は、平気なんですか?」

 自分の言葉が、耳につく。意識できる。自分が口にしている。自分が発声している。この言葉も、意思も、自分のものだと実感できる。だから――。

「なにがだい?」

 竜次の言葉が、耳につく。意識できる。竜次が口にしている。竜次が発声している。その言葉も、意思も、竜次のものだと実感できる。だから――。

「竜次先輩。その右腕はどうしたんですか?」

 竜次の顔に変化はない。ああ、やっぱり竜次は、夏弥の知っている先輩だ。――だから、夏弥はさらに問う。

「――それ、〝刻印〟ですよね?」

 ぴくり、と。竜次の双眸(そうぼう)が動く。

 ――ああ、やっぱり。

 竜次は典型的な激情型だと、夏弥は知っている。遊び人のような雰囲気を持つ貴公子は、普段は悠然としていても、少しでも感情的になると全部顔や態度に表れる。話に気分がのってくると早口になって、弱いところをつかれると顔に出る。

 竜次は、夏弥の知っている先輩だ――。

 夏弥は確信して、訊ねる。

「……どうして」

 竜次の表情の変化は、夏弥の予想が真実であることを示している。

「どうして、竜次先輩が、神託者(しんたくしゃ)なんですか?」

 竜次は手を下ろす。人の良さそうな笑みは消えて、そこには普段は見せない竜次の苦悩が浮かび上がっている。

 途端、貴公子は笑う。

「それは僕が、楽園(エデン)に選ばれたからだよ」

 竜次の笑みは、本物だった。それは、愉悦(ゆえつ)。運や確率でははかることのできない、誰かという不特定なものでもない。

 ――世界から認められたという、矜恃と狂喜。

「竜次先輩は、魔術師(まじゅつし)だったんですね」

 夏弥の言葉に、竜次は笑い声を漏らして答える。

「それは僕のセリフだ。雪火くんは、魔術師だったんだね」

「この結界(けっかい)は、竜次先輩が仕掛けたんですね」

 竜次は肩を(すく)める。

「僕の魔力は、残念ながらあまり高くなくてね。最後まで残るには、外から補給をしないと足りないんだ。なんせ相手は、この町で最強の魔術師だからね。僕は自分の身のほどってものをちゃんとわかっている。だから、これはやむをえないんだ」

 仕方ない、とばかりに竜次は息を吐く。

「……なんで、そんなこと…………」

 夏弥は体が熱くなるのを感じた。胸の辺りが、特に熱い。それを、実感できる。

「なんで、ですか。こんなことをして。今学校に残っている人たちは、みんな苦しんでいるんだ」

「それも仕方のないことだよ。勝つためにはどうしても力が必要だ。そのための犠牲は必然なんだ。それに、自業自得だとは思わないか。雪火くん。最近は物騒だってことを、みんなわかっていたはずだ。それでも放課後まで学校に残っているなんて、それなりの危険(リスク)を考えるべきなんだ」

 夏弥は愕然(がくぜん)とした。

「そんな…………」

 ああ、そうか、と竜次は納得したように頷く。

「結界を破壊したのは君だね。驚いたよ。昨日一日で、僕が一週間近くかけて張った結界を半分近くも壊してくれたんだもの。僕も計画を早めなくちゃいけなくなったんだよ。でも、幸運(ラッキー)かな、僕って。不完全な結界でも、魔術師である雪火くんがかかってくれたおかげで、僕の魔力も大分満たされる。やっぱり、一般人(そこらへんのやつ)なんかより魔術師(ゆきびくん)のほうが絶対的に魔力が多い。しかも、雪火くんは神託者で、その上欠片まで持っているなんて。うん。やっぱり、神様は僕に味方してくれるんだね」

 くく、と竜次は子どものように笑う。その笑い声に邪気はなく、純心なまでの喜び。――だから、それは歪――――。

「……こんな」

 こんなの、おかしい。

 夏弥の言葉を無視して、竜次は口を開く。

「さあ。そろそろ話も終わりにしようか」

 ブレザーの裏側から、竜次は紅いビーズを取り出した。ビーズは複雑な編み方をしていて、まるで宝石のよう。大きさは竜次の親指か、それより大きいくらいで、それが掌に満ちる。空と同じ、紅い色。

 ――ずきり、と、胸の奥が(うず)く。

 竜次の掌が開く。放たれた紅い宝石は、重力を失ったように中空を彷徨(さまよ)う。

 紅く、輝く。光は竜次の手の周りを飛んで、一つの形をなす。点は結んで線となり、線は幾何学の模様をえる。それは、氷柱(つらら)のようだ。紅い、氷柱。

 さわさわと、血管の中を血液が巡る。

 それが魔力の奔流(ほんりゅう)なのだと、夏弥は直感した。

「苦しめずに、一瞬ですませるよ。痛いのは嫌だもんね。あと、君の欠片は大事に使わせてもらうから安心してくれ。――君のことは一生忘れないよ。たぶんね」

 夏弥に向けて紅い(やり)をかまえて、貴公子は笑う。紅い宝石の中で魔力が光り、内包した術式が魔術を構築する。あれが放たれれば、夏弥の胸には大きな穴が穿(うが)たれる。

「……っ!」

 魔力の揺らぎを感じる。全ての感覚が、急速に拡大される。魔力の解放を、その瞬間、夏弥は感じる。


 時を少し(さかのぼ)る。

 それは、ほんのささやかな気紛れだった。路貴(ろき)は丘ノ上高校の近くまでやって来て、異変を感じた。

 路貴にとって、夏弥は憎い相手だった。自分の欠片の秘密を見られて、証拠隠滅に夏弥を始末しようとしたら、血族(けつぞく)の少女に邪魔されて、挙句少女と楽園(エデン)を賭けた勝負をして敗北し、死を覚悟していた路貴を夏弥は頼んでもいないのに助けて、最終的に路貴の刻印は夏弥に渡った。

 路貴からすれば、夏弥は出会った瞬間から厄病神でしかなかった。

 その後、夏弥と話をしていても、路貴には夏弥という人間がよくわからなかった。魔術師のはずなのに、魔術師らしくない。魔術自体も、使ったことはないらしい。自分の刻印を、こんなわけのわからない奴に奪われて、路貴は納得がいかない。

 ところが、夏弥に魔術の特訓をした二日間で、路貴はその認識を改めた。

 夏弥の魔力は、底が知れない。

 路貴が夏弥に渡した〝奪帰(だっき)〟は、触れた者の魔力を奪う。魔力の少ない並の人間なら、三分で立ってはいられない。たとえ魔術師でも、三十分ももてばいいほうだ。それを、夏弥は一時間以上振っていても平気だった。

 魔術の才能は、まだわからない。欠片に触れるイメージがつかめないのでは、魔術を使うことはできない。しかし、魔力だけなら、かなり高位の魔術師とも並ぶほどだろう。

 ――もしかして。

 路貴が夏弥と出会ったのは、偶然。

 路貴が夏弥に話しかけたのは、認められないから。

 路貴が夏弥に会いに来たのは、気紛れ。

 なら、今のこの状況は――。

 路貴は丘ノ上高校を前にして立ち往生している。

「ったく。どうなってやがるんだ。この学校は」

 学校全体を取り囲むように、紅い結界が張り巡らされている。普通の人間には、この異常はわからない。しかし、そこには大量の魔力が(そび)え立つ。

「やけに念入りに魔力を組んでやがる。どこにも隙間がない。これじゃ中に入れねーぞ」

 毒づいて、路貴は結界に触れる。紅い結界と路貴の魔力が衝突して、空間に見えない火花を散らす。

「ちっ。こういうとき、呪術ってのは使えねーんだ。魔力を相殺できりゃ、一発なのに」

 もどかしそうに、路貴は手を離す。

 呪術師の専門は、人間の精神に介入すること。対人には強力な効果を誇っても、対物にはほとんど効果がない。純粋な魔力にも、呪術師には関与できる術が少ない。魔力同士を相殺させるという粗い方法もあるが、路貴はその術式を知らない。完全にお手上げだ。

 苦々しく校舎を見つめる路貴の目に、巨大な影が映る。

「!」

 人の形をしたそれは、しかし人とは明らかに異なる怪物。高さは校舎を超え、右手には自身と同じほどのこん棒が握られている。皮膚は暗緑色、胸の前には金属の鎖が交差している。

 その怪物は、一体だけではない。紅い結界の中、校舎の周りを五体の怪物が取り囲む。その光景は、ただただ異質。

「〝巨人兵隊(トロール)〟……!」

 路貴は驚愕(きょうがく)をもって、呟く。

 その魔人を、路貴は知っている。

夏弥(やつ)が、いるのか……」

 路貴が以前使用していた欠片〝無限回廊(エターナル・プリズン)〟。それは、永遠の闇。深淵(しんえん)の底に生きるのは、魔物ではなく、命そのもの。命に肉体はなく、ゆえに深淵は不死身。外界に解き放たれた瞬間から、命は一個の個体として肉体をもつ。

 無限回廊(エターナル・プリズン)は、すなわち永遠の檻。捕らわれた命は、その原初のときより不明。ただ、命が混在するがために、そこは混沌。無限の混沌から、術者は魂を呼び、肉体を与えて、精神を(つかさど)る。

 人をなす三大要素は、肉体、精神、魂といわれる。

 無限回廊(エターナル・プリズン)は魂を保有し、術者の魔術により肉体を生成し、術者の命令、すなわち精神によりその意思をもつ。

 術者の術式や魔力に応じてその形体や数は異なり、より高度な術式を解いたものほど強力な魔物を呼び、より多くの魔力を注いだものほど多数の魔物を召喚できる。

 無限回廊(エターナル・プリズン)の今の術者は雪火夏弥。以前の術者である路貴がなしえたものは、単体である〝巨人兵士(トロール)〟まで。しかし夏弥は無限回廊(エターナル・プリズン)の封印を解くと同時に、五体の〝巨人兵隊(トロール)〟を召喚した。

 路貴は、恐怖で震えた。

 それは夏弥に奪帰を渡したとき以上の、明確な畏怖――。


 地鳴りがする。

 地の底から、それも深い深い深淵から響いてくるような、重低音。

 夏弥は顔を上げない。――その存在を知っているから。

 竜次は顔を上げた。――その異常に恐怖したから。

 校舎をゆうに超えて、その頭は屋上からさらに三十メートルくらいの高さにある。皮膚は淡い緑、頭は小さく、体の余りみたいにくっついている。人の形から見ると耳が大きく、体のわりに目が小さくてほとんど見えない。

 自身の体と同じほどの長さの棍棒を持つ、それは想像の〝巨人兵士(トロール)〟。

 それが、五体で〝巨人兵隊(トロール)〟。校舎の周りを取り囲む。巨人兵隊(トロール)は竜次と夏弥を見下ろす。その威圧感に、竜次は竦む。

 ――と。

 竜次は、いつものように品のいい笑みを浮かべる。

「やるじゃないか。雪火くん」

 消えかかった紅い結晶に、再び光が灯る。

 それは、刃。

 それは、槍――。

 ――紅い、閃光(せんこう)

 衝撃音。悲鳴。

 噴煙(ふんえん)が舞って、巨人兵士(トロール)が一体消える。

 跡形もなく。痕跡(こんせき)もなく。

 竜次は品のいい笑みを浮かべる。

「これが雪火くんの欠片か。大したものだね。でも、制御はまだできていないのかな。ただ突っ立っているだけじゃ、なんの意味もない」

 懐から、紅い宝石を取り出す。

 魔具は空間に広がり、竜次の手の上で構築される。魔力を含んだ魔具は、空間で内部で記録された術式を狂いなく、生成する。

 紅い槍が、巨人兵士(トロール)を殺す。

「……!」

 夏弥の腕に痛みが走る。

 熱をもったように刻印が光り、夏弥の右腕を締めつける。

 衝撃と、悲鳴。

 三体目の巨人兵士(トロール)が、消える。

「っ!」

 あまりの痛みに、夏弥は声を漏らす。

 それ以上声を上げないように、夏弥は必死でこらえる。ここで叫んでしまったら、全てが吹き飛んでしまいそうだった。

 竜次は品のいい笑みを浮かべる。――美しい。

「はは。どうだい。僕にだって、このくらいはできるのさ。雪火くんが欠片を使ってきたって、僕はそんなものなしで十分戦える」

 また、一体。紅い光に巨人兵士(トロール)が散る。

 竜次は品のいい笑みを浮かべる。――美しく。

「ほらほら。どうしたんだい。そんなんじゃいい的だよ。少しは反撃してみたらどうだい。それとも、まだ欠片を使いこなせないのかな」

 最後の巨人兵士(トロール)を、竜次は(ほふ)る。紅い空に、紅い光が散る。それは、幻想的で、作りもの。紅く染め上げられた、紛いもの。

 竜次は品のいい笑みを浮かべる。

 ――美しく。

 狂気に満ちた、残忍な、笑み――――。

「そんなんじゃ、魔力の無駄遣いだ」

 竜次は笑って、胸の内に燻る感情を押し殺す。

 自分には、余裕がある。相手は欠片を使ってきたが、しかしまだ扱いには不慣れと見える。雪火が魔術師だったなんて初めて知ったが、どうやら雪火本人も魔術師として経験が浅いらしい。戦力は、欠片一つ。欠片は強大な魔術だが、その使用には高度な術式と膨大な魔力が必要だということを竜次は知っている。欠片に内包した魔術を働かせるには、起動させるための術式と、稼働させるための魔力が不可欠。ゆえに欠片は戦況をひっくり返す奥の手であり、同時に膨大な魔力を失う賭け。

 ならば、低魔力で働く魔具を持っている竜次のほうが有利で、加えて学校全体に結界を張って夏弥から魔力を常に奪っている。神は自分を味方している、と竜次は思った。

 負けない。負けるはずがない。高揚した竜次は、しかし自分を見つめる夏弥の眼を見て驚いた。

 殺意はない。怒りさえも、夏弥の瞳からは感じられない。

 あるのは、憐み――。

「…………なんだよ」

 竜次の中で、怒りが湧き起こる。

 優位なのは、自分だ。自分こそが、この戦いを支配している。相手はただ、己の弱さに打ちひしがれて、苦汁(くじゅう)を舐めていればいい。

 だから、その憐憫(れんびん)の眼は竜次の自尊心をかきむしる。弱者に憐みを送るのは、強者の特権だ。見下ろしているのは、水鏡竜次だけ。なのに――。

 ――これでは、竜次のほうが夏弥に見下されているようで。

「なんだよ。その眼は……!」

 竜次の周りの空間を、紅い宝石が踊る。紅い槍は、より鋭利な刃となって夏弥に向かって放たれる。

 紅い光が竜次と夏弥の間の半分の距離まで達したとき、竜次は夏弥の背後に開いた巨大な闇を見た。

 それは漆黒。それは深淵。

 底のない闇に、竜次は真紅の双眸を見る。

「……!」

 竜次は驚いてその闇を見つめる。

 闇から現れたのは、漆黒の神獣。

 大きさは夏弥の二倍以上で、翼を広げればさらにその四倍くらいの大きさになろうか。漆黒の体躯(たいく)には鉄のような(うろこ)が覆う。翼は鋼のようで、しかし飛翔するその姿は雄大なものだと容易に想像できる。爪は血に染まったように朱く、サバイバルナイフのように分厚く、鋭利。虎のように発達した筋肉に、首は蛇のように長い。(いか)つい顔に、真紅の瞳は対照的に綺麗だ。

 それは、龍。

 黒い、鋼の龍。

 〝巨人兵隊(トロール)〟などとは比べものにならない、神聖な幻獣。

 黒龍は夏弥の前に立って、向かってくる紅い光をその真紅の瞳で睨む。黒龍が右翼を振るうと、紅い槍は硝子が砕けるように粉々に散った。

「…………」

 竜次は恐怖して、後退さる。

 ――自分の力が打ち砕かれたという屈辱と。

 自身の意思で動いた黒龍に対する驚愕と――。

 さきほどの巨人兵隊(トロール)とは明らかに異質な相手に、竜次は知らず恐怖する。同時に、恐怖する自分に激しい怒りを覚える。そんな自分を叱咤(しった)するように、竜次は叫ぶ。

「ふざけるなよッ!」

 竜次は紅い宝石を空に投げる。

 星のように輝く魔具に魔力が流れる。紅い宝石は、紅い氷柱へと姿を変える。夏弥と黒龍を取り囲む血よりも紅い数十の刃は一斉に降下する。

 黒龍は天を見上げ、口を開く。そこから放たれたのは、魔力の(ほのお)――。

「!」

 竜次は、今度こそ完全に恐怖した。

 竜次の放った多量の魔具、それは術式と魔力。それを黒龍は一瞬にして闇に消した。

「…………」

 夏弥は黒龍の後ろ姿を見上げる。

 黒い鱗、鎧のような皮膚。その厳つい姿を、しかし夏弥は悲しいと思った。無数の鎧は、しかし自身の肉を切り裂く剣のようで――。

「おまえ…………」

 自然、夏弥は呟く。

 黒龍が振り向く。真紅の双眸は、悲しく、美しい。

「え?」

 そんな間抜けな声を、上げる。夏弥の体は浮き上がり、軽い衝撃を受けて黒龍の背に乗る。黒龍にくわえられて背中に乗せられたらしい。

 夏弥が黒龍の背に乗ると同時に、黒龍は飛翔(ひしょう)する。

「ええぇぇぇぇっ!」

 一度の羽ばたきで、すでに竜次の姿は豆粒くらいの大きさ。校舎は視界の半分にも満たない。

「わっ。ちょ。なに!」

 慌てふためく夏弥に頭上から声が降る。

「しっかりつかまっていろ」

 夏弥は黒龍の首にしがみつく。地上は遥か下界。両足は黒龍の鱗を踏んでいるが、体の周りを風が飛んで、ここが空なのだと理解する。夏弥はひたすら、下を見ないように心がける。たとえ高所恐怖症でなくても、この不安定な高さには目が(くら)む。

 再び頭上から声が響く。

「命は助けたぞ。さあ、命令を。主人(マスター)

 知らず、夏弥は訊き返す。

「マスター……?」

「そう。俺を呼んだのだから、主人(マスター)だ。早く命令を」

 真紅の瞳が夏弥を見る。この声は黒龍のものだと、夏弥はようやく気づいた。

「なにを望む?あの調子に乗った小僧を今すぐ血祭りにあげてやろうか?それとも、俺の炎で一瞬にして灰燼(かいじん)にしてやろうか?」

 黒龍の双眸が夏弥をとらえる。それは神秘的で、美しい。

「――なんでも、主人(マスター)の命令通りに」

 夏弥の思考は、飛んだ。

 夏弥の望み。

 ――それは。

「……じゃあ」

 夏弥は答える。

「学校を覆っている結界を破壊しろ」

 夏弥の望みは、苦しんでいる人を助けること。だから夏弥は死を望まない。どんな理由があっても、人殺しは罪だ。

 黒龍は深く頷く。

御意(イエス)主人(マスター)

 黒龍は広げた翼をもう一度打つ。風に押し出されて、黒龍の体は空に向かって急激に上昇する。夏弥は咄嗟に目を(つむ)った。


 耳元で空を切る音を聞く。ひゅーひゅーと、海の上を潮風が飛ぶのと同じように。

 自分の前に壁があると、夏弥は感じた。それは、目には見えない重圧。盲目の人は自分の前に壁があると、その手前で止まるらしい。盲目の人に聞くと、圧迫感があるからだということだが、それは自分の足音が壁から反射して、そこに障害があることを知るからだそうだ。

 それと似ている。目では見えない。耳では聞こえない。皮膚ですら感じえない。それは、魔力の感触。魔力に触れる。この先に大きな魔力の塊があって、その存在感に圧迫されている。

 そう。夏弥には魔力の感触がわかる。

 不思議な感触だ。雲の上を歩いているようだ、といえばそれらしい。触れているようで触れていない、しかし確かにそこにあるのだという確信。

 曖昧だが、存在している。

 存在しているが、それはなにをもっても他者には伝えられない。

 経験しないと、わからない感覚。だから、夏弥にはわかる。いや、なぜ自分にはわかるのか。どこかで体験したから――――。

 ――硝子が、割れた。

 紅い空が砕ける音を、夏弥は聞いた。

 閉じた瞼の裏側で、きらきらと紅い破片が舞い散る。

「結界は破壊した」

 声を聞いて、夏弥は目を開く。そこは屋上、黒龍はコンクリートの上に立って夏弥を屋上へと下ろす。屋上に出るための扉の前だ。

「これで、助かるんだな。みんな、大丈夫なんだな」

 黒龍は重く頷く。

「ああ。心配ない。強い結界ではなかったから、みな気絶したていどですんでいるだろう」

「よかった……」

 夏弥は安堵の息を漏らす。

 これでみんな助かる。誰も死んでいない。夏弥にはそれで十分だ。

「……なんだよ」

 ぽつり、漏れる声。

 夏弥が顔を上げた先に、竜次は恐怖と憤怒(ふんぬ)を混ぜ合わせた表情で叫んでいる。

「なんだよそれはァ!」

 ぐい、と右手を差し出す。

 手の甲には禍々しい刻印。手首には紅い宝石のようなビーズのリング。

 ――キイィィィィン!

 魔術が駆動する音。

 リングは巨大な輪となり、術式を構築、魔力を加熱させる。

 魔力はエネルギー。いかなる方法でも魔力は自然に増加しない。魔力を高めたければ、魔力を外部から補給しなければいけない。

 だが、魔力を別のエネルギー形態に変換すれば話は違う。竜次は魔力を熱エネルギーに変換して、さらに魔力を高速回転させることで出力を上昇させる。

 ――しかし、それは魔術師としては禁忌の技。

 魔術師は、一般人に魔力の存在を知らせてはいけない。

 結界を失ったこの空間は、すでに異界ではない――。

 紅い輪の前に、黒龍が立ち塞がる。膨大な熱エネルギーを黒龍は自身の爪で切り裂く。ジュウと肉の焼ける匂いがして、紅い魔力は維持魔力を失って崩壊する。

「ひっ……!」

 その場に倒れた竜次に、黒龍は煙を上げる爪をつきつける。動かない黒龍の背中に向かって、夏弥は叫んだ。

「なにをしてるんだッ!」

 黒龍は振り向かず、短く告げる。

主人(マスター)。早く命令を」

 ぞくり、と夏弥の背中を冷たいものが走る。

「命令って……」

 意味がわからず、夏弥は問い返す。

 黒龍は振り向かず、短く答える。

「この餓鬼(がき)を、殺せと」

 夏弥の頭が白くなる。その言葉の意味を、夏弥は嫌になるくらい知っている。

主人(マスター)が命じれば、この餓鬼はすぐにでも死ぬ」

 ガタガタと震える竜次の前に、黒龍は悠然(ゆうぜん)と立つ。その姿は凶兆の鳥。朱い爪は血を吸った死神の鎌。

 その光景に、夏弥は恐怖しない。

 むしろ、脆く、(はかな)い風景――。

「…………駄目だ」

 夏弥の言葉に、黒龍は顔を上げる。

「……」

 静かに、夏弥を見つめる。それは夏弥を試すような、真紅の瞳。

 夏弥は、応える。

「駄目だ。人殺しは、絶対に駄目だ」

 黒龍は表情を変えない。人とは異なる顔の作りに、普通の人ならそのわずかな変化にも気づけないだろう。

 しかし、夏弥には理解できた。

 ――甘いな。

 声が響く。

 夏弥は睨むように黒龍を見つめる。

「駄目だ。殺すな。これは、命令だ」

 わずかな、間。

御意(イエス)主人(マスター)

 応えて、黒龍は竜次から爪を離す。

 途端、竜次の口元が(わら)う。左手が不自然に動いている。ズボンのポケットから、なにかを探している。

「――調子に乗るなよ。小僧」

 黒龍の声に、竜次の動きは止まる。左手は、まだポケットに入ったままだ。

悪戯(いたずら)が過ぎると、俺も見逃してやれなくなる。たとえ、主人(マスター)の許しがなくてもな」

 夏弥は迷いなく、黒龍を制する。

「やめろ。殺すな。命令したはずだ」

「わかっている。ただの冗談だ」

 黒龍は夏弥を一瞥(いちべつ)して、もう一度竜次に顔を寄せる。

「なあ、小僧――?」

「ひあっ!」

 子どものような、叫び声。

 知性もなく、理性もなく、竜次は()うように駆けだした。無我夢中で走る竜次に普段の冷静さはない。これほど取り乱した竜次を、夏弥は初めて見た。

 夏弥の脇を通り抜けようとして、竜次は意識せず夏弥にぶつかる。

 ――ずきり、と夏弥の右腕に痛みが走る。

 物理的ではなく、魔力的な感触――。

「……………………」

 夏弥は熱を帯びる右腕を意識しながら、竜次の消えた扉の向こうを見る。明かりはなく、暗い階段の先に、すでに竜次の姿はない。奈落の底のように、悲鳴だけが木霊する。

「もう、俺への命令はないか?」

 振り返って、夏弥は頷く。

「用があれば、また呼べ。俺はいつでも主人(マスター)の命令に従おう」

 それだけ残して、黒龍は消える。夕闇に溶け込むように、跡形もなく。

 呆と、夏弥は黒龍の消えた跡を見つめる。校舎は茜の空に染まり、暗い影が強くなる。静寂が包み、風の音が聞こえる。この静寂を前にして、夏弥はなにも言えない。

「どうやら。決着がついたみてーだな」

 声がして、夏弥は振り返った。

 扉に寄り掛かるように、学ランを着た路貴が立っている。

「路貴……」

 はっ、と路貴は馴れ馴れしく笑う。

「なにボーっとしてやがる。上出来じゃねーか。欠片も使えるようになって、そのうえ刻印まで手に入ったんだ。なにつまんねー顔してやがる」

 いつもなら反感を覚える路貴の言葉も、しかし今の夏弥にはなんの感情も呼び起こさない。

「竜次先輩は?」

 路貴は興味なさそうに答える。

負け犬(あいつ)のことか?逃げたよ。俺見て、咄嗟に魔具を放り投げてきやがった。俺も防御に手一杯で、捕まえる余裕なんてなかった」

「そうか」

 興味なく、夏弥も頷く。

 不思議な気分だ。竜次とは今まで普通に話をしてきたし、別に悪い人だと思ったこともない。その竜次が実は神託者で、学校中に結界を張っていた犯人だった。その竜次に夏弥は殺されそうになり、戦いの最中に欠片を発現できた夏弥は一命をとりとめた。

 ――それなのに。

 竜次に興味はない。関心が湧かない。

 あるのは、もっと別のところ――。

「――おまえ、なんで殺さなかった?」

 路貴は夏弥に訊ねる。それは、夏弥にとって致命的な問い。

「殺せなかったわけじゃないだろ。巨人兵隊(トロール)を召喚して、俺が辿り着けなかった魔物まで出したんだ。あれだけ精密な結界を一撃で破壊できる力を持った魔物を扱えるなら、あんな腰抜け、瞬殺だ。だが、おまえはあいつを逃がした。あいつは傷一つ負ってはいなかった。なんで、殺さなかった――?」

 なぜ、と魔術師は問う。

「当たり前だろ」

 夏弥は答える。

「人殺しはいけないことだ。どんな相手だって、どんな理由があったって、人殺しは罪だ。そんなこと、俺は絶対にしない」

 馬鹿馬鹿しいと、路貴は頭を振る。

「世間の常識なんか、この際どうだっていい。これは魔術師同士の戦いだ。普通の喧嘩と、わけが違う。いいか。魔術師の戦いってのは、自分の全てを賭けるんだ。古代の決闘と同じだ。互いの力とか矜持(プライド)とか信念とか信条とか名前とか、命をだ。いくら相手が有利だろうが、自分が不利だろうが、そんなの理由にならない。騙し打ちされたって、文句は言えない。勝つためには手段は選ばない。それが魔術師の戦いだ。命を賭ける以上、生温いことなんてやってられないんだ。――殺さなければ、自分が殺される」

 ――それでも。

 夏弥は応える。

「――それでも、俺は人殺しはしない」

「はっ。偽善者が」

 心臓に、その言葉は刺さる。

 肺が止まって、息ができなくなるように――。

 ――それはまさに、磔刑(たっけい)の宣告に似る。

「なん、だって……!」

 夏弥の言葉を無視して、路貴は夏弥に背を向ける。興ざめだ、と暗い階段に路貴の姿が消える。

「おいっ。待てよ」

 遠退く足音を、夏弥は追った。一階に降りたとき、しかし路貴の姿はどこにも見当たらない。この短時間で見失うはずがないのに。

 路貴の姿は、魔法のように消えていた。


 結局、路貴は学校のどこにもいなかった。一時間くらい学校の各校舎を回って、夏弥が見つけたのは数人の生徒と美術室で倒れたままの美琴だけだった。

「悪いねー。夏弥」

 ベッドの上で横になった美琴は照れたように笑う。ここは保健室、教師は美琴だけで、保健室には誰もいなかった。勝手もわからないので、夏弥はとりあえず美琴をベッドに寝かせる。

「いいよ。今はゆっくり休んで」

 (つと)めて、夏弥は明るく接する。見た目はいつも通りなのに、肩を持ったときの美琴の体は全く抵抗がなかった。体に力が入らないのだろう。夏弥は心の動揺を悟られないように、笑顔を絶やさない。

 天井を見上げて、美琴は呟く。

「本当に、どうしちゃったんだろう。学校中でみんな倒れちゃうなんて」

「大丈夫。救急に連絡したから、みんなすぐに病院に行って()てもらえる。そんなに具合悪いやつはいないし、心配ないよ」

 最初に美琴を保健室に連れてきてから、夏弥は他の教室を見て回った。残っていた生徒は数人だけで、みんな軽い目眩や立ち眩みがするだけだった。中には一人で帰れるというものもいたが、夏弥は念のために救急に電話を入れておいた。

 そっかー、と美琴はばつが悪そうに呟く。

「本当に悪いねー。ここは教師であるあたしがなんとかしなくちゃいけないのに」

 そんなことない、と夏弥は首を振る。

「気にしなくていいよ。こういうときは大丈夫なやつがなんとかしなきゃいけないんだ。それに、俺は男だから。美琴姉さんが困っているときには、ちゃんと助けてあげられるんだ」

「あはは。かっこいいこと言っちゃって」

 軽く、美琴の手が夏弥の脇腹を叩く。とても弱く、しかし確かな感触。いつも通りの美琴姉さんのリアクションに、夏弥は内心で安堵する。

「うん。ちょっとかっこうつけてみた」

 気恥ずかしくなって、夏弥は顔を逸らして答えた。

「でも、夏弥すごく男前だよ」

 かあ、と耳まで熱くなるのを感じた。

 逆光で見えませんようにと祈る夏弥に、くすくすと美琴の漏らした笑い声が聞こえる。

「じゃあ、お姉さんもお言葉に甘えて、少し休ませてもらおうかな」

 夏弥は横目で美琴の顔を覗き見る。美琴は目を瞑って、本当に眠ってしまいそうだ。夏弥はほっとして美琴のほうへと顔を向ける。

「うん。そうしなよ。側にいるから」

 つい、そんなきざなセリフが口をつく。

「うん。ありがとう」

 じわり、と、胸の奥に染みる。

 その言葉で、全てが報われたみたいに。

「なによ夏弥。そんな顔赤くして」

 急に美琴の瞼が開いて、夏弥は慌てて視線を逸らす。ええっと、と指で頬をかく。自分の顔が熱を持っていることに夏弥は改めて気づく。

「いや。なんか。人からお礼言われるのって、嬉しいものだなって」

 美琴は不思議そうに首を傾げる。

「そんなの、当り前でしょ。人から感謝されたら、誰だって嬉しいものよ」

 変な夏弥、と美琴はゆっくりと瞼を閉じる。静かに耳をそばだてると、すーすーと、小さく寝息が聞こえる。

「うん。でも今のは特別に、嬉しい」

 眠った美琴に、夏弥は呟く。それは美琴には伝えられない、けれど美琴に聞いてほしい夏弥の感想。

 夕日は暖かく教室を照らし、静かに夜の気配を滲ませていく。それは決して、暗い夜ではない。

 星が瞬き、月が昇る。

 その美しい夜空を、生きている誰もが見上げていますように。

 ――そう。

 どんなに暗い夜でも、光は絶えず、それはなにより、美しい――――――。


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