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第六章 学校に仕組まれた罠

 月曜日。週の始めを意識させる曜日。

 なぜなら、月曜日には学校がある。

 日曜日までのお休み気分を引きずりながら、生徒たちは学校へと向かう。

 週の始めは、なにかと慌ただしい。先週に出された宿題とか、授業の予習に追われるからだ。休みの間にすませているものは優秀だが、大半の生徒は休みを満喫するために学校のことなど一時棚上げしていた。授業の始まる前までの休み時間が、この週をうまく乗り切れるかどうかのわかれめだ。

 夏弥(かや)は珍しく朝早い時間に学校に到着した。

 時間は、八時一〇分。

 いつもならちょうどこの時間に家を出るのに、夏弥は自分の机に着いて英語の予習をしている。英語の宿題はないが、毎回英語担当の教師が生徒を一人ずつ当てて教科書の和訳をさせるので、わからない単語は予め調べておかないといけない。数学の予習も必要だが、それはあとで別の生徒に見せてもらえばいい。数学は滅多にあたることがないので、それほど心配する必要はない。

 時刻は八時半を少し回った。教室の中では生徒たちの姿が増えてきて、それなりに賑やかだ。宿題をすませているものは仲間と雑談をして盛り上がり、あいにく休みを満喫してしまった生徒たちは自分の机で必死に最後の抵抗を続けている。

 夏弥はようやく英語の予習に目途が立ってきて、顔を上げる。ぼんやりと教室の中を眺めていると、後ろの扉から見慣れた生徒が二人入ってくるところだった。

「おはよう。水鏡(みかがみ)

 夏弥は二人に向かって手を振った。

 水鏡はにっこりと笑って夏弥に会釈する。

「おはよう。どうしたの、雪火(ゆきび)くん。先に学校行ったりして」

 一瞬だけ、どきりとする。

 水鏡は少し驚いたように目を大きくする。

「しかも、麻住(あさずみ)くんの家にお泊りしてたんだって」

 夏弥は少しだけ安堵した。

 幹也には予め、夏弥が幹也の家にいた(そういう)ことにするよう、電話をしておいた。幹也(みきや)はどうやら、うまくやってくれたらしい。

「ねえ。なにかあったの?」

 夏弥は返答に困った。

 幹也には誤魔化すように連絡をいれているので、本当のことを話すわけにはいかない。しかしうまい嘘が思いつくわけでもない。夏弥は適当に誤魔化すことにした。

「いや。特に。ただ、なんとなく」

 水鏡はまだ納得しない様子で、顔色を(くも)らせる。しかし、それ以上訊いてくることもしないので、この場はなんとかなったかと夏弥は安心した。

 横から、幹也が口を開く。

「絵を描きに来たんだよ。夏弥の奴」

 夏弥も水鏡も、幹也のほうへと顔を向ける。

 水鏡は訊き返す。

「絵?」

「そう。ほら、夏弥って美術部じゃん。いいモチーフ探しに、俺ん()に泊まりこんだんだ。俺ん()って、川沿いにあるからさ。なんかいいイメージが湧きそうなんだと」

 水鏡は納得しているのか、何度か頷く。

 水鏡は知らないだろうが、夏弥は何度か幹也の家に行っているのでわかる。幹也の家は学校のすぐ隣の川を上った先にあって、幹也の部屋の窓からは下に流れている川が見える。

 幹也の家は両親共働きで、大学生のお兄さんがいる。幹也とは中学校からの付き合いで、ことあるごとに幹也の家に泊まりに行った。幹也の家の中の様子や、外の風景について、夏弥は一通り知っている。

 水鏡はまた首を傾げる。

「でも、じゃあなんで別々に来たの?」

 すぐに幹也が答える。

「先に行って絵を描いていたかったんだと。筆持ったほうが形にしやすいとかなんとか。そうだよな、夏弥」

 急に振られて、夏弥は頷く。

「うん。そう」

 納得してくれたのかそうでないのか、水鏡は曖昧に頷く。

「ふーん」

 二人の女子生徒が夏弥たちの元へやってきて、水鏡に声をかける。

「水鏡ぃ!」

 水鏡は振り向いて、二人の生徒に挨拶をする。

「あっ。おはよう。なに?」

 声をかけてきたほうの生徒が素早く水鏡の両手を取る。

「英語の予習終わってる?」

 期待のこもった瞳で水鏡を見上げる二人。

 その強烈な視線に、夏弥は思わず身を引いた。もしも自分がこの手の話で同じように見つめられたら、夏弥は耐え切れずに逃げ出していたかもしれない。もっとも、夏弥がその手の話で頼りにされることはないから、そんな心配は無用でしかない。

 水鏡は彼女たちの強烈な期待を感じていないように、自然に答える。

「うん。終わってる」

「見せてーェ!」

 水鏡の両手をしっかりとつかんだ少女が叫ぶ。

 月曜日の教室。

 いつもより殺伐(さつばつ)とした光景。

 週の始まりは、いつもこうやって始まる。

 水鏡はにっこりと微笑む。

「いいよ」

 女子生徒たちに引かれるままに、水鏡は前のほうの席へと向かっていく。

「じゃあ、またお昼ね」

 水鏡はいなくなって、幹也は自分の席に座った。

「で、本当はなにしてたんだ」

 席に着くなり、幹也は振り返って夏弥を見る。

「朝いきなりおまえから電話があったときはびっくりしたぞ」

 幹也は顔の机に肘をついて、夏弥に迫る。

「水鏡には黙っててやったんだ。俺には、そのわけを教えてくれるよな」

 昨日、夏弥は路貴(ろき)の家に泊まって、そのまま直接学校に来た。家に立ち寄る暇はなかったので、幹也に先に連絡を入れておいたのだ。いつも通りだと水鏡がなにも知らずにミラーの下で待っていることになるからだ。

 電話をしたときは夏弥も間に合うかどうかわからなかったので早めに連絡をすませた。幹也にも、まだ詳しい説明はしていない。

 夏弥は適当に誤魔化した。

「ありがとな、幹也。ちょっと野暮用だよ」

「はぁ……」

 幹也は溜息を吐く。

「またそれか。秘密にしたいってのはわかるが、どうせ隠すならもっと上手い嘘を吐けよ。おまえのはそもそも、嘘にすらなってない。そんなんじゃ、水鏡を心配させるだけだぞ」

「やっぱわかっちゃうものか。……て、なんでそこで水鏡が出るんだ?」

 幹也はわかっていないとばかりに肩を落とす。

「水鏡は見たまんまの性格だ。他人の心配をして、しかも相手が話してくれなきゃ無理に聞こうとしない。だから余計に心配になる。おまえのそんな態度じゃ、余計に心配させちまうんだよ。水鏡はそういうタイプだからな」

 夏弥は感心して頷いた。

「へー。さすが幹也。遊んでるだけのことはあるな」

「人聞きの悪いこと言うなよ。俺は全ての女性に情熱を振りまいてるだけだ。まあ、そんなことはいい。おまえが話したくないって言うなら、聞かないでいてやる。水鏡に気づかれないようにフォローもしてやる。困ったときには手伝ってもやる。今の俺にできるのは、このていどだ」

 なにも話さない夏弥に、幹也は約束してくれた。

 夏弥は自然とお礼の言葉を口にしていた。

「ありがとな」

 幹也は笑う。

「気にするな。困ったときはお互い様っていうだろ。こんなときぐらい、親友を頼れよ」

「親友、ね」

 幹也とは中学校のときからの付き合いだ。いつもはふざけてばかりいて、ライバルだのなんだの言っているが、いざというときには本当に頼りになる、それが麻住幹也という男だ。

 親友という言葉に、妙にくすぐったいものを感じて、夏弥は胸が熱くなる。

 同時に、非常に申し訳ない気分にもなる。

 夏弥は幹也になにも話せない。幹也には魔術師(まじゅつし)の戦いは関係ないし、巻き込むわけにはいかない。事情を説明できない自分に、それでも信頼をおいてくれる幹也に、少しだけ悪い気がする。


 放課後。夏弥はいつものように美術室にいた。部長は部活が始まって三〇分くらいで帰って、中間(なかま)もつい一〇分前に帰った。学祭の準備が一番遅れている桜坂(さくらざか)は、今日も学祭実行委員の仕事で顔を出していない。

 夏弥は一人で黙々と学祭の絵を仕上げている。夕陽の絵も大分仕上がってきて、あと少しで完成する。

 今日はいつもより長めに残って、描き上げてしまおうかと考えていると、隣から妙な音が聞こえてきた。

「……?」

 夏弥は気になって顔を上げる。

 隣は美術室の準備室で、実際には美術部の倉庫に使われている。昔の先輩たちが描き残していった絵や、学校側で買った彫刻が保管されているのだが、あまり人が立ち入らないので整理されていない。

 また、音がする。

 誰かがいる気配。

「……」

 夏弥は筆をおいて、キャンバスに布を被せる。

 廊下に出てみると、隣の部屋は開きっぱなしになっている。普段は誰も使わないから、いつもは閉めてあるはずなのに。

 扉の隙間から覗き込むと、部屋の中に人影が見える。夏弥は部屋の中に入って、その生徒を呼びとめる。

「なにやってんだ。栖鳳楼(せいほうろう)

 振り返って、栖鳳楼は不服そうな声を上げる。

「あなた、まだいたの」

 かちんときて、夏弥も言い返す。

「なんだよ。いちゃ悪いかよ」

 栖鳳楼は肩を竦める。

「別に。何時まで学校に残っていようと、それは雪火くんの自由よ。でも、あたしはもう雪火くんの護衛はしないからね。夜遅くに出歩いて、誰かに襲われたとしても自分でなんとかするのね」

 夏弥はさらに腹が立って、咄嗟に虚勢を張る。

「わかってるよ。それくらい。自分の身は自分で守る。いつまでも女に頼ってられるか」

 そう、と栖鳳楼はもう夏弥を無視して作業に戻る。

 なにかを探しているみたいで、夏弥は気になって訊いてみた。

「で、栖鳳楼はなにしてるんだ?」

 栖鳳楼は振り向かずに答える。

「あなたには関係ないわ」

「なんだよ。その言い草。おまえがなにかしてるのって、魔術師関係だろ。だったら、俺にも関係ないことはない」

 栖鳳楼は一時作業を中断する。

 しばらくして、栖鳳楼は小さく答える。

「――結界(けっかい)を探しているの」

 夏弥は訊き返す。

「結界?」

 栖鳳楼は頷く。

「正確には結界の一部ね。誰かがこの学校全体に巨大な結界を張ろうとしている。あたしは今その一つ一つを探して、壊して回ってるの」

 結界という言葉を、夏弥なりにイメージしてみる。ゲームや小説で出てくる結界をそのまま想像してみた。

「結界って、外からの攻撃を防ぐ、あの結界か?」

 栖鳳楼は夏弥のほうへと振り返る。

「そういう結界もあるわね。結界とは正しくは固有の世界を構築した魔術的な場のこと。雪火くんが言ったように、外部からの攻撃を遮断する結界もあるし、逆に内部からの攻撃を防ぐ結界も存在する。結界とは魔術的な空間や範囲指定のことで、その意味は構築した術式によって異なる。結界の特徴は形成魔力と維持魔力が同種のものだから、他の魔術と違って長時間使用できるところね。ただ、広範囲の空間を指定するものだから、術式を組むのに手間のいるタイプ。術式としては場に存在するものだから、一度発動してしまえば術者の意図に関わらず自動で働いてくれる。術式によって様々な用途があって、よく用いられるのはさっき雪火くんが言った防御魔術、他にも相手の行動を制限する制御魔術や敵の動きに反応して起動する時限魔術なんてものもある」

 栖鳳楼は説明する。

「今この学校に張られているのは、おそらく制御魔術ね。効果まではまだわからないけれど、結界が完成したらこの学校の生徒、教職員関係なく被害が出る。あたしはそれが完成しないように、こうして壊して回ってるの」

「完成したら、どうなるんだ」

「わからないわ。結界の一部だけではその術式の全容(ぜんよう)は把握できない。前にも言ったけど、魔術は個人の才能に依存するから、同じ魔術でも人によって術式が違ったりする。まあ、でも。この手の結界は断裂ね。学校と外界をわけて、中でなにかよからぬことをしようとしている。そんなことは、絶対にさせないけど」

 栖鳳楼は再び作業に戻る。

 真剣な栖鳳楼の後ろ姿を見て、夏弥はたまらず声をかけた。

「なにか、俺に手伝えることはないか」

 栖鳳楼は一時手を止めて、品定めでもするように夏弥を一瞥(いちべつ)する。

「結界の一部を見つけたら、あたしに教えてちょうだい」

「どうやって探したらいいんだ」

「これだけ大規模な結界を張ろうとしているんだから、そう簡単には見つからないようにしているでしょうね。相手も。でも、結界は要するに魔術だから、その付近には魔術の気配が絶対にある。そうね。なんとなく空気が淀んでいたり、そこだけ雰囲気が重かったりするところを探していけば見つかるかもね」

 軽い調子で、栖鳳楼は答える。

 あまり期待はされていないようだ。当然だ。夏弥はつい最近まで自分が魔術師であることを知らなかった。今でも、魔術の感覚をつかめていない。そんな素人に、結界が見つけられるはずがないのだ。

「……そことか?」

 夏弥が指差す方向を、栖鳳楼は冷めた目で見つめる。あまり信用していないようだ。

「…………」

 栖鳳楼はいまいちすすまないという感じでその辺りに近づいて手をかざす。途端に、栖鳳楼の顔が真剣なものになる。

 栖鳳楼はなにごとか呟いて、手を振る。(あか)(もや)のようなものがその場にあがる。栖鳳楼は振り返って夏弥を見た。その顔には今まで見たことのない笑顔が広がっている。

「すごいじゃない、雪火くん。あたしもこの部屋のどこかまではわかったんだけど、それを一発で見つけてしまうなんて」

 気負いとか、魔術師の誇りとか、そんなものは一切なく、そこにあるのは純粋な好意だ。栖鳳楼の意外な一面に、夏弥はどきりとする。普段お堅い雰囲気を出しているのは、ふりなのかもしれない。実際は、もっと純粋で、もっと女の子らしいのかもしれない。意外にも。

「他にはわかる?」

 期待に目を輝かせて、栖鳳楼は夏弥を見つめる。

 夏弥は意識を集中させる。

 空気が淀んでいる場所。

 重い雰囲気。

 そこだけ景色が黒く塗りつぶされているような、違和感。

「…………そこ?」

 栖鳳楼は夏弥の指差した場所に手をかざす。

「…………」

 再び呪文のようなものを唱えて手を振ると、そこから紅い靄があがる。その瞬間、この部屋の中を覆っていた重い空気が消えたのを夏弥は感じ取った。今までこの空間を縛りつけていたものがなくなったような、開放感。

「当たりね」

 栖鳳楼は目を輝かせている。

 今までの態度が嘘のような、明るい雰囲気に夏弥も戸惑う。

「雪火くん、悪い気配を探す(こっちほうめん)には才能あるみたい。ねえ、折角だから手伝ってくれる?」

 栖鳳楼の提案に、夏弥は迷った。

 素直に受け入れていいものなのか、しかしせっかくの栖鳳楼からのお願いを無下(むげ)に断ることも悪い気がする。

「いいけど……」

 栖鳳楼から頼りにされている。しかも、こんなに生き生きとした栖鳳楼の姿を夏弥は初めて見た。今までのお嬢様ぶった、暗い雰囲気とは違って、とても新鮮だった。

 栖鳳楼は笑って頷く。他の人が見たらわからないかもしれないが、硬い表情ばかり見ていた夏弥にはわかる。とてもいい顔をしている。

「決まりね。じゃあ、次に行きましょう」

 足取りも軽く、栖鳳楼は準備室をあとにした。その後を、夏弥が追う。二人は、自然と並んで歩いていた。


 夏弥と栖鳳楼はすぐに美術室のある棟を出た。栖鳳楼はすぐ隣にある管理棟へと向かった。この棟は他と比べて低く、二階までしかない。生徒たちの間で管理棟と呼ばれているその理由は、入ってすぐに事務室があって、簡単な窓口があるからだ。その奥に職員室、職員室とは反対側に向かえば保健室、職員室を入ってさらに奥へ行けば、生徒たちにはほとんど無縁の校長室がある。

 栖鳳楼は職員室前、つまり事務室前のソファに近づく。残っていることを教師に見つからないかと、夏弥は心配だったが、窓口越しに見ても職員室には誰もいないことがわかって、ほっとする。教師も、最近の事件のせいか、当番になった先生以外はすぐに帰ってしまうようだ。

 栖鳳楼は無言で作業にとりかかる。

 夏弥にもその理由がわかる。

 ――この辺りは。

 空気が悪い――。

「そっちじゃないか」

 夏弥が指差したのは、ソファの裏側にある水槽だ。水槽といっても、本物の魚が泳いでいるわけではない。いや、実際には本物がいるように見えるのだが、実は水槽の形をしたテレビで、魚が優雅に泳ぐ映像が無限ループで再生されているだけなのだ。

 生徒の誰もがその事実を知っており、職員室前の飾り(そんなところ)に金を使うよりも椅子や机、教室を綺麗にするのに金を注ぎ込んでほしいと、不満が出ている。

 栖鳳楼は偽物の水槽に近づいて、凝視する。

「…………」

 手をかざし、小声で呪文を唱える。水槽から紅い靄が、美術室の倉庫のときよりも濃く、立ち込める。

 栖鳳楼は満足そうに一つ頷く。

「よし。他にある?」

 夏弥は辺りを見回す。周囲の空気は少しだけ軽くなったが、それでもまだこの辺りには重い雰囲気が感じられる。

「そこ」

 夏弥は二階へと続く階段を指差した。

 手すりのついた半螺旋の階段。その入口の二階を支える柱から、黒い空気が流れ出る。重い、鎖のような空気。

 栖鳳楼は呪文を唱えて、結界を破壊する。紅い靄が立ち上り、辺りから重い空気がかき消える。

「もう、ここはいいか?」

 夏弥は訊ねた。

 この辺りには、もう結界の雰囲気がなかった。

 栖鳳楼は首を振る。

「いえ。まだあるわ」

 栖鳳楼は階段を上り始める。夏弥もそのあとに続いた。

 二階は、一階よりも広く感じる。二階は一階の倍以上の高さがあり、開放感がある。壁には絵画が飾られていて、階段を上ってすぐに高価な皿や彫刻などが納められた硝子(がらす)ケースがある。高校という場所には、不釣り合いな美術品ばかり。生徒たちには、金の無駄遣いにしか見えない。

 歩きながら、栖鳳楼は呟く。

「まだ、この辺りに残っていると思うんだけど」

 栖鳳楼は奥にあるソファまで向かう。一階の倍以上あるソファの周りには特に絵画が多く、ソファを取り囲むように緑が並んでいる。

「ここね」

 栖鳳楼は絵画や植木を回って、右手をかざして呪文を唱える。油彩や植木鉢から次々と紅い靄が上がり、結界が崩れていく。

 この辺りに仕掛けられている結界は、下の職員室前よりも遥かに多い。ソファの周りだけで、十個近く破壊した。

 栖鳳楼は一通り結界を破壊すると、夏弥へと振り返る。

「これで、いいかしら」

 夏弥はすぐに首を振る。

「いや」

 夏弥は自分が感じ取った結界の近くへと歩いていく。

「まだ、ある」

 このフロアは二つの部屋にわかれている。夏弥と栖鳳楼がいる部屋のすぐ隣には、大きな集会場がある。始業式や終業式などは体育館で行うが、それ以外の全体集会のときはしばしばこの場所が使われる。広さはここと同じくらいで、固定の椅子と机が並んでいる。大学の講義室を思い描いてくれればいい。

 夏弥は隣の部屋には向かわない。そこからは気配が感じられない。普段、隣の集会室は鍵が閉まっていて、集会のときにしか開けられない。そのせいか、向こうの部屋からは結界が仕掛けられた感じはしない。

 夏弥は階段の目の前にある硝子ケースの前で立ち止まる。

「この中だ」

 栖鳳楼も、夏弥のすぐ隣に立つ。

「どれか、わかる?」

 硝子ケースの幅は五メートルくらいあって、中には様々な美術品、歴史的資料が飾られている。猫の彫刻、古い文献、凝った柄の入った陶磁器など。ただの高校にここまでのものが必要なのかと疑問に思うくらい、ぎっしりと詰め込まれている。

「……たぶん、これだ」

「どれ?」

 夏弥が指差したのは、お面だ。般若とか、ひょっとこといった、日本独自の仮面だ。栖鳳楼は硝子ケースを開けてその仮面を取り出す。勝手に開けるのはいけないことだろうが、今の夏弥たちはそんなことを気にしていない。

「ここは終わりね」

 一通り見て回ると、夏弥と栖鳳楼は管理棟を出た。

「次へ行きましょう」

 栖鳳楼はグラウンドのほうへと向かった。本来は土足で向かう場所を、夏弥たちは上履きのまま歩いていく。下駄箱のある棟はグラウンドとは反対側で、履き替えるために戻るのは手間がかかった。

 栖鳳楼はグラウンドを通り過ぎて、さらに奥にある体育館へと向かった。夏弥は不思議に思いながら、体育館を見上げる。

「体育館?」

 二人は体育館のすぐ前までやってきた。体育館の入口側には大きな木が二本立っている。その脇を通り過ぎて、屋根のある一歩手前まで、近づいて、夏弥は足を止める。

「……!」

 気配が、ある。

 重い、空気。

 背筋を、悪寒が走る。

 圧倒的な、違和感。

「大分仕込んでいるみたいね。体育館(ここ)は」

 頬を舐めるような声に、夏弥は振り返る。

 ――美しいと思った。

 その美しさに、戦慄(せんりつ)する――。

 夏弥は一瞬、あの夜の彼女と今の栖鳳楼の姿を重ね見た。あの夜、路貴と栖鳳楼が戦った、川原での彼女の姿を。

 刀を一本、(たずさ)えたその姿は美しく、同時に恐怖そのものだった。戦場で刀を振り回す、武人であり、華だった。

 美しく。

 それは、畏怖(いふ)

 栖鳳楼の口元が、形のいい笑みを浮かべる。静かに、笑い声が聞こえてきそうなほど、それは異常。

 夏弥を戦慄させたのは、その瞳だ。

 淡いブルーの瞳は、少しも笑っていない。

 夏弥には、まだわからない。――それが殺意のこもった瞳であることを。

「行きましょう」

 どくん、と心臓が高鳴った。

 栖鳳楼は横目で夏弥を流し見ると、体育館の中へと入っていく。

 今、自分はどんな顔をしているだろう。

 鏡を見たら、きっとその白さに夏弥は驚いていた。

 胸の奥はどくどくと脈打って熱いのに、指先は麻痺したように冷たい。

 夏弥は息を吐く。体の中から不純物が消えて、楽になる。大きく息を吸って、夏弥は栖鳳楼

のあとに続く。

 体育館の中には誰もいない。少し前なら、バスケ部やバレー部、バドミントン部なんかが、練習に使っているのに。最近の神隠しのせいで、この時間まで部活を続ける生徒はいない。

 しん、と静か。

 この広さに、二人だけ。

 その異質に、夏弥の肌は過敏に反応する。

 栖鳳楼は淡々と仕事をこなしていく。夏弥の助言が必要ないくらい、的確で、早い。体育館は広い分、結界の数も多い。だが、結界の仕掛けられた場所はどこか偏りがあって、いかにも人の手が加えられたという感じがして、わかりやすい。

 ほとんど全て破壊して、栖鳳楼は夏弥に訊ねる。

「あとはどこかしら」

 あと一つ。

 それは夏弥にもわかった。

 どこかに、一つだけ。

「こっちじゃないか」

 栖鳳楼は期待のこもった目で夏弥を見上げる。

「どこ?」

「ここ」

 指差した場所を目にして、栖鳳楼の顔から明るい表情が消える。

「本当に?」

「たぶん」

 不服そうに見る栖鳳楼。

 曖昧だが確信をもって頷く夏弥。

「……………………」

 二人分の沈黙。

 栖鳳楼は不機嫌そうに見上げる。

 そこは、男子トイレ。

 栖鳳楼は意を決して、拳を握りしめる。

「ついてきて」

 夏弥の返答も待たず、栖鳳楼は夏弥の腕を掴んで無理やり連れ込んだ。

 トイレの中は、暗い。明かりはついていなくて、窓も小さいから外の光も少ない。栖鳳楼は明かりのスイッチを押したが、明かりはつかない。何度か試しても、結果は同じ。仕方なく、栖鳳楼はスイッチから手を離す。

「それで、どの辺り?」

 睨むように、栖鳳楼は夏弥を見る。

 別に、夏弥はなにもしていないのだが、夏弥は自分が責められているようで言葉に詰まる。しかし、この沈黙にも耐えられない。

 夏弥は辺りに意識を凝らして、結界を見つける。

「そこと、そこ」

 一つは手洗い前の鏡。

 もう一つは、男子便器前に置かれた芳香剤。

 二つの結界を破壊すると、栖鳳楼は足早に男子トイレをあとにした。体育館の外に出ると、栖鳳楼は大きく息を吸って、吐いた。

 まるで、息を止めていたみたいに。

 栖鳳楼は無言で歩き始める。夏弥は栖鳳楼に少しだけ同情して、体育館をあとにした。普段ろくに掃除もしていないだけあって、男子トイレの空気は、純粋に淀んでいた。


 辺りがすっかり夕方になった頃、夏弥と栖鳳楼は一年一組、栖鳳楼のクラスにいた。どの机にも鞄はかかっていないで、唯一栖鳳楼の机の上にだけ学生鞄が置かれている。他の生徒たちはもう帰ったのだろう。最近は遅くまで学校に残る生徒はいない。部活も、すぐに切り上げて、生徒たちは逃げるように帰路につく。

「大分進んだわ」

 栖鳳楼は満面の笑みを浮かべている。

 今まで夏弥に見せてきた硬い雰囲気とはまるで違っていたが、しかし夏弥には栖鳳楼のもう一つの一面を見ているようで気持がよかった。

「今日はこのくらいにしましょう」

「いいのか?まだなにかありそうな気がするけど」

 栖鳳楼は笑顔のまま頷いた。

「いいの。今日だけで今まで学校に仕掛けてあった結界の半分近くを破壊できたから。このくらい破壊すれば、相手もすぐに結界を発動することはできないわ」

 栖鳳楼は自分の頬に右手を当てる。

「このペースで行けば、あと三日もあれば全部破壊できるわ。この調子で頑張りましょう」

「おう」

 栖鳳楼の声に、夏弥は咄嗟に力強く頷く。

 自分でも自然で、気分がいい。

 夏弥は気になって訊いてみた。

「でも、誰がこんなことしようとしてるんだ?」

 栖鳳楼の瞳が真剣なものになる。

「――きっと、神託者(しんたくしゃ)ね」

「神託者――」

 その単語に、夏弥の背筋に嫌なものが走る。

 楽園(エデン)争奪戦の参加者で、その中には戦いに関係ない民間人を襲って魔力を手に入れようとする(やから)もいる。

 夏弥の体は緊張で強張る。

「この学校に、まだ楽園(エデン)争奪戦に参加している奴がいるのかよ」

 栖鳳楼は腕を組む。

「そうとしか考えられない。こんな公共の場で結界を張るなんて、普通はしないわ。誰かにバレたら、それこそ世間的な問題になる」

 魔術の存在を一般人に知らせてはいけない。それが、魔術師として生きる者の共通の常識。だから魔術師は自分のため、他人にバレないように魔術を使う。

 しかし、ここは学校。人で満たされた、共同空間。いつ、誰の目に留まってもおかしくはない。被害が出れば、それこそニュースに取り上げられて、全国に知られてしまう。

「なんで、そんなこと……!」

 夏弥は、自然と腕に力を込めていた。

 拳を握りしめる痛みさえ、熱くなった夏弥の頭は感じていない。

「さあ。もしかしたら、あたしたちに対する当てつけかも」

 夏弥は訊き返す。

「どういうことだ?」

「たぶん、っていうか絶対あなたは関係ないと思うけど。もしもこの学校内に他に神託者がいるとすれば、相手はあたしのことを知っているはず。栖鳳楼家は有名な魔術師の家系だからね。あたしに対して、少しでもプレッシャーを与えようとしてるのかも」

 栖鳳楼は答える。

「もう一つの可能性は、学校の生徒たちから魔力を奪おうとしている。こっちのほうが重要かもね。魔術師としての血を引いていない人の魔力は大した量じゃないけど、これだけの数の人間から一気に吸い出せば、相当な魔力が手に入る。さすがにあたしも、全生徒たちの魔力とぶつかったら危ないかもね」

「そんな……」

 夏弥は愕然(がくぜん)として呟く。

 それは栖鳳楼が敵わないという意味ではなく、相手の狙いが楽園(エデン)争奪戦とは全く関係のない生徒たちにあるという可能性だ。

 栖鳳楼はさらに続ける。

「もっとも、この結界が魔力を奪う目的で仕組まれているのかはわからないけど。術式の特徴まではわからないから、どんな結界になるのか想像もできない。でも、可能性としてはあるという話」

 それでも、夏弥は安心できない。

 相手は魔術師で、神託者。

 白見(しらみ)町で起きている神隠しと、関連性がないとは言えない。

 相手が魔力を欲しているならば、丘ノ上高校の生徒たちは格好の獲物だ。夏弥にはそのほうが理解できた。

「そうか。じゃあ、これからも結界を壊していこうぜ」

 夏弥の言葉に、栖鳳楼も大きく頷く。

「もちろん。一般人に手を出そうとするなんて、栖鳳楼家次期当主として見過ごすわけにはいかないわ」

 夏弥は笑い、栖鳳楼も今までにない笑顔を見せる。

 初めて――。

 今まで色々あって、栖鳳楼のことはよく見てきたつもりだったが、初めて栖鳳楼と心から通じ合えた気がした。

 同時に、自分でもできることがあるのだと、夏弥は自信を持てた。結界は破壊できなくても、それを見つけることはできる。それでこの学校の生徒たちを守れるなら、夏弥は何時まででも学校に残るつもりだ。

 栖鳳楼は机の上の鞄を手に取った。

「じゃあ、あたし帰るけど、途中まで一緒に帰る?」

 頷こうとして、夏弥は思い出した。

 美術室に絵を出しっぱなしにしていた。

 それに、準備室の中を色々といじったまま片づけていない。

 夏弥は迷って、結局栖鳳楼からの誘いを断ることにした。

「ああ、悪い。美術室に用事があるんだ」

「そう。あまり遅くならないようにね」

 栖鳳楼は教室の扉まで歩いて、思い出したように振り返る。

「あ、あと。あたし明日は稽古があるから、あまり残れないの。結界を壊して回るのは、明後日ね。だから、明日はあなたも早めに帰って」

「わかった」

「じゃあね」

「じゃあ」

 栖鳳楼の後ろ姿が教室から消える。

 静かな教室の中に、遠のいていく足音がはっきりと聞こえる。夏弥はがらんとした教室の中を見回した。

<p class=MsoNormal style='text-indent:10.1pt'>いつも自分が使っている教室とは違う、他人の空間。

 夕日に染まって、さながら異世界のよう。

 ――静寂。

 ――異質。

 現実が、遠のいていくよう――。

 現在が、曖昧になる――。

 少し前なら、部活に残る生徒たちの声が聞こえて、教室では授業から解放されて楽しそうに笑う生徒たちの姿があった。

 そこに生徒たちの姿はなく、校舎のいたるところには不可視の結界がそこら中に仕組まれている。

 ここは、一つの異界。

 気づかないままに捕らわれて。

 逃れることのない迷宮。

「俺が、なんとかしてやる」

 ぽつり、と夏弥は呟く。

「絶対に、誰も傷つけさせたりはしない」

 息を吐き。

 夏弥は教室を出た。

 いつもの空間。

 夕日に染まった廊下。

 夏弥は美術室のある棟に向かって歩き出した。


 傾いた太陽から橙色の暖かい光が差し込んでくる。夕陽に燃える日差しは暖かく、影になったところは暗く、冷たい。階段は窓が少ないから、余計に影が目立つ。夏弥の足音だけが、階段の上で踊る。

 夏弥は五階まで上がって、美術室へ向かう廊下を一人で歩く。その向かい側から、別の人影が見えた。

「あれ。竜次(りゅうじ)先輩」

 そこにいたのは竜次だった。

 向こうも夏弥に気づいたのか、手を振っている。

「やあ、雪火くん」

 竜次は歩きながら自分の髪を撫でつける。

「竜次先輩、まだ残ってたんですか?」

「そういう君だって、残っていたわけだろ」

 竜次は夏弥に訊ねる。

「今日は美術室にいなかったね。なにをしていたんだい?」

 夏弥は返答に一瞬迷った。

 栖鳳楼とともに学校中に仕掛けられた結界を破壊して回っていたなんて、とても言えない。魔術師ではない人間に魔術の存在を知らせることは、いけないことだ。

 夏弥は咄嗟に嘘を吐いた。

「教室に忘れものを。もう遅いんで、美術室の片づけが終わったらすぐに帰ります」

 朝のこともあって、夏弥はうまく誤魔化せているかどうか不安だったが、竜次は素直に信じてくれたらしく、(さわ)やかな笑顔で頷いた。

「ああ、そうするといい。最近は物騒だからね」

 夏弥は笑って答える。

「そういう先輩だって、早く帰ったほうがいいですよ」

 竜次は癖のある髪をかきあげる。

「心配ご無用。僕も部活動を終えて、今帰るところだ」

「弁論大会の練習でしたっけ。お疲れ様です」

 竜次は品良く笑う。

「なに、趣味でやっているようなものだからね。疲れたということはないよ」

 夏弥は興味から、竜次に訊ねてみた。

「先輩の練習しているところ、見に行ってもいいですか?」

 竜次は快く頷いてくれた。

「かまわないよ。ああ、でも、明日はクラスで学祭の準備をするからね。そこら辺を駆け回ってると思うよ」

「もう学祭の準備を始めているんですか?」

 夏弥は少しだけ驚いて訊き返す。

 竜次は笑って答える。

「わりとやる気のある奴らが多くてね。うちのクラスは。僕なんかは弁論大会の練習に励んでいたいんだけど、いたしかたないね」

 言って、竜次は肩を竦める。

 夏弥はこの高校に入学してから二月しか経っていないので、学祭準備の様子を知らない。やや不安になって、夏弥は訊ねた。

「やっぱり、そろそろ始めないとまずいですかね」

 どうかな、と竜次は首を傾げる。

「クラスの企画の内容にもよるよ。まあ、雪火くんは初めてだから、クラスの学祭実行委員の言うことをちゃんと聞いていればいいよ。彼らが一番学祭のことを知っているからね」

 夏弥は頷く。

「わかりました。俺、そろそろ片づけに戻るんで」

「ああ、すぐに帰れよ」

「はい」

 竜次は夏弥のすぐ隣を通り過ぎて手を振る。

 竜次とすれ違う瞬間、ふわっと甘い香りが鼻腔(びこう)をくすぐる。香水だろうか、あまりくどくなく、自然に香る。

 その匂いを、夏弥はどこかで嗅いだような気がした。しかし、どこかは思い出せない。

 甘く、優しい香り。

 少し気になったが、夏弥はそれほど気にすることでもないと思って美術室へと向かった。夏弥も片づけを終えて早く帰りたかった。


 帰宅後。

 夏弥は居間に寝転がる。

「はぁー……」

 自然、溜息が出る。

「今日はやけに疲れたな」

 夏弥は鞄を投げ出して、天井を見上げる。汚れが染みついて変色したペンダントライトが黄色の光を放ち、その上には黒い木目(もくめ)が波打っている。柱に取り付けられた振り子時計が、周期的に時を刻む。

 時間は七時半。

 そろそろ夕食の支度をしないといけない。

 けれど、夏弥は動く気になれない。空腹なのに、食事の準備をしようと思わない。いつもなら帰ってすぐに台所に直行するのに。

 八時になった。

 秒針の音を数えていて、途中で止めた。

 胃の辺りが、空腹で重い。

 腹の虫は鳴らないが、胃の中の空気が圧縮されるように、苦しい。

 ――不思議な気分だ。

 空腹で。

 疲労感。

 しかし体は栄養を欲しない。

 なにも、やる気が起きず。

 脱力だけが残る。

 それは、空っぽの器――。

 九時になった。

 夏弥は時計を見て、確認する。

「……」

 夏弥は起き上がる。

 喉が渇いた。台所へ行って水を飲む。蛇口から零れる水を、口で直接受け止める。冷たい水が喉を通り、余った流れは頬を伝う。

 きっ、と蛇口を閉める、音。

 口の周りに、冷たい感触が残る――。

 ――体が、濡れる。

 濡れた頬を、手で拭う――。

 ――べったりと、手が濡れる。

 腹の中から、冷たい感触が広がる――。

 ――体が凍りつきそうなくらい、冷たい。

 いつもの、古い台所――。

 ――暗い、雨の降った寒い夏。

 ぞくり、と体が寒くなる。

 どくん、と胸が熱くなる。

「……!」

 蛇口を(ひね)る。いっぱいに。

 ざー、と水が流れる。水の中に手を突っ込む。

 音と、温度。

 視界を意識して、しかし感触は思い出す。

 ――冷たい夏。

 全てが死んだ、雨の夜――。

 夏弥は顔を洗って、うがいをした。

 全てを吐き出すように。

 全てを捨て去るように。

「はぁ……」

 顔を拭いて、居間に戻る。

 さっきよりも、お腹が空いた。

 水を飲んだせいで、体が貪欲(どんよく)に食べ物を欲している。

 それでも、夏弥はなにも食べたくなかった。

 ――そう。

 なにも口にしたくない――。

 夏弥は畳の上に放り投げた鞄を引き上げる。

 (くさび)でも入っているように、重い。鞄から、路貴から借りた鉄の棒を取り出す。細い鉄の棒が、コンクリートの塊のように腕に負担をかける。

「これ持ってると、妙に疲れるんだよな」

 夏弥は両手で構える。自然、緊張で肩の辺りが張る。

「じゃあ、早速特訓をしますか」

 夏弥は目を閉じる。

 そこに意味はない。ただ、目を閉じていたほうがイメージしやすいだろうという、夏弥の勝手な思い込みだ。

「魔術を、触るイメージ」

 呟いて、息を吐く。静かに、長く。肺に溜まった空気を吐き出すように。血液中の二酸化炭素を追い出すように。

 秒針の音が聞こえて。

 居間の明かりが瞼に透ける。

 ――意識を集中させて。

 音はなく、静寂(せいじゃく)

 光はなく、皆無(かいむ)

「…………」

 そこは、闇だった。

 音はなく、風はなく。

 生きているものの気配はなく。

 しかし命の感触が漂う。

 命の牢獄。

 できそこないの命たちで満ちている。そこは、闇。

 生きているものの気配はなく。息遣いもない。ゆえに音はなく、風はない。

 ただ、命だけが満ちている。

 そこは闇。

 そこは混沌。

 命が集まり、命が混ざり、命が崩れて、命は無価値。

 そこにあるのは、命という個ではない。あるのは、命の集合体。

 ゆえに個はなく、それは全。

 全は一より生まれて、一は全を為す。

 命は集合の無意識。

 意識がないから、意思はない。

 命は、しかし決して生きてはいない。

 それは、存在。存在している、事実のみ。

 混沌の器。命の檻。

 そこは闇で、混沌。

 命に満ちた、暗い檻。

「…………」

 なんて、形容すればいいだろう。

 恐怖(きょうふ)歓喜(かんき)畏怖(いふ)憧憬(どうけい)拒絶(きょぜつ)恋慕(れんぼ)憎悪(ぞうお)愛執(あいしゅう)哀愁(あいしゅう)渇望(かつぼう)不快(ふかい)快楽(かいらく)否定(ひてい)擁護(ようご)破壊(はかい)解放(かいほう)束縛(そくばく)満足(まんぞく)窮屈(きゅうくつ)甘美(かんび)苦痛(くつう)欲求(よっきゅう)消滅(しょうめつ)――――――――。

 ここは太極(たいきょく)のよう。

 陰と陽が混在する。

 命を陽とすれば、檻は陰。

 陰でもあり、陽でもある。

 ゆえに、陰にもなれず、陽にもなれない。

 矛盾と、真実が内包された、魔術の牢獄。

 命と術式が絡み合い、魔力によって紐解かれる。

 ここは魔の巣窟(そうくつ)ではない。

 ここは、命の牢獄。

 重く、苦しく。しかし、目が離せないほど――。

 ――紅い光が(またた)いた。

 夏弥は目を開く。

「……!」

 視界が白く(にご)る。

 夏弥は強烈な光に瞼を閉じることも忘れる。

「はぁはぁ…………」

 自分の息遣いが、ようやく聞こえた。

 辺りの景色の、輪郭(りんかく)が見える。ここは自分の家で、居間にいる。足から伝わる畳の感触、年季の入った襖に、黒い柱。柱時計から秒針の音が小さく聞こえて、天井には木目が走る。

 畳の上には鞄と、鉄の棒。夏弥はその光景を見て初めて自分が持っていた鉄の棒を放り投げていたことに気がついた。

 音が戻って、視界がはっきりしてくる。

 夏弥は(むさぼ)るように、目を凝らす。

 畳に、襖、柱に、天井。いつもの居間を、いつも以上に凝視する。まるで日常を瞳に焼きつけているように。

 ――音が、耳障りだった。

 秒針も。呼吸も。鼓動も。

 ただ、静寂を望んで――。

 つぅーっ、と、涙が一筋。

真紅の(あかい)、瞳……」

 無音。

 自分の、息遣いさえ聞こえない。

 心臓は酸素を求めて、肺を収縮させる。

 きん、と耳鳴りがする。

 それは、夏弥にはなにも聞こえていないということ。

 自分の言葉さえ、幻。

 その光景だけが、現実。

 夏弥は、自分が泣いていることにも気づかない。


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