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第四章 選ばれし者

 (くら)い、昏い、部屋の中。

 カリカリカリ、と、ペンが踊る。

 年月に生気を奪われた、薄汚れた木製の机。その上に(はりつけ)にされた羊皮紙(ようひし)を、肉を(えぐ)るように削っていく。

 カリカリカリ、と、ペンが抉る。

 昏い、昏い、部屋。そこはまるで棺桶(かんおけ)だ。窮屈(きゅうくつ)で、息苦しい。人一人が納まるだけの空間しかない。

 隠れるように。隠すように。

 生者の匂いがしない。

 死者の香りで満ちている。

 死んだ部屋。

 死を埋めるための場所。

 カリカリカリ、と、ペンが刻む。

 昏い、昏い、棺桶に。

 ただ一つの、()(とも)る。

 ()()

 闇の香りに()まれて、()(もろ)い。

 死んだ場所。死を(はら)む世界。そこでは命の灯火は風前の残り火。闇に吹かれて色を失い、風に呑まれて光を失う。

 蝋燭のような火炎は宙に浮く。それがこの部屋の唯一の命のように、死に捕らわれた生は()に燃える。

 棺桶の中、()()に黒衣の影が照らされる。

 ()りの深い顔は死者のように血の気がない。大樹のような体躯(たいく)に、石ころのような掌。全身が漆黒に包まれていて、手も黒いグローブで覆われている。呼吸を止めたように表情は動かず、手だけが機械のようにペンを走らせる。

 カリカリカリ、と、ペンが裂く。

 ペンからは黒い血が滲み、主を失った鳥の羽根が悲しく闇を泳ぐ。声もなく、悲鳴が棺桶を満たす。

 カリカリカリ、と、ペンが()く。

 カリカリカリ、と、羊皮紙が叫ぶ。

 黒衣の男は、死んだようにペンを走らせる。()に照らされた顔は髑髏(どくろ)のように白く、手元を見つめるその眼は硝子玉(がらすだま)のように虚無(きょむ)

 (せい)の気配はなく。

 ()に満ちている。

 黒衣の背後で、音がする。

「なんだ」

 黒衣は手元を見たまま呟く。

 まるで奈落(ならく)の底から響いてくるような、大地を揺るがす低い声。

 黒衣の背後で扉が開く。いや、ここは棺桶。あの世とこの世を結ぶ、(ふた)が開く。

 黒衣の背後に亡霊(ぼうれい)が立つ。黒いローブを被って、顔は(うかが)えない。ローブの中から、小枝のように黒く焼けた腕が伸びる。肉のない、骨のような手の中に、豪奢(ごうしゃ)な封筒が入っている。

 黒衣は振り返って手紙を受け取る。

「これは、珍しい」

 神妙な手つきで封を開けて、その手紙を上から下まで眺め見る。

栖鳳楼(せいほうろう)のお嬢様からとは。さて、わたしになんのご用か」

 黒衣は手紙を一読する。その姿は最期(さいご)の審判を下す裁判官のように重々しく、触れがたい印象を与える。

「七人目の神託者(しんたくしゃ)か」

 驚きの声を上げる黒衣に、しかしその色は窺えない。

 死に満ちたその場所で、黒衣の口元が不吉に笑う。

「面白い」

 初めて、黒衣は笑った。

 外界の全てを拒絶し、死を(まと)い続けた黒衣が、初めて世界に関心をもった。しかし、死に浸りすぎた黒衣の笑顔は、どこか(ゆが)んでいる。

「実に、面白い。こんなことが、今まであっただろうか。六人しか選ばれることのないこの戦いに、不運にも七人目が現れるとは。これは、どのような運命の悪戯(いたずら)だろうか。いや、〝エデン〟の呪いか。かくも人間の(ごう)の深さか」

 読み終えた手紙を、黒衣は目の前の()にくべる。

 手紙はちりちりと燃えて、灰も残らず()に消える。棺桶の中にお香のような芳醇(ほうじゅん)な香りが漂う。

 黒衣は立ち上がり、亡霊に命じる。

「よろしい。明日の日没後にお会いしよう」

 亡霊は静かに棺桶の蓋を閉める。

 死に満ちた漆黒。

 ()に照らされて黒衣の彫りの深い顔が揺れる。黒衣が指を伸ばして宙に文字を書くと、それに従うように()が文字の形に光る。

雪火(ゆきび)夏弥(かや)……」

 感情のこもらない死者の世界の中で、その言葉は重く、呪詛(じゅそ)のように神経を貫く。黒衣の顔に、すでに感情は失せていた。


 一晩が明けて、夏弥はいつもの日常の中に身を置いていた。教室の生徒たちの姿は見慣れているはずなのに、今は自分とは遠い世界のように見える。平和で、なにも起こらない平凡な時間は、刺激がない代わりに穏やかで落ち着ける一時、そのはずなのに、夏弥の心中は穏やかではない。

「はぁー……」

 つい漏れた溜め息を聞き取って、目の前の幹也(みきや)が訊ねる。

「どうした、夏弥。溜め息なんか吐いて」

 幹也は生徒たちの中でもっとも売れいきのいい焼きそばパンを頬張る。

 今は昼食の時間。授業もなく、教師たちの見張りもない。生徒たちがもっとも気を落ち着かせられる時間の一つである。

「いや。別に」

 夏弥は自分の弁当を食べ始める。

 今日は焼き魚とアスパラのサラダ、ほうれん草のごま和えに白いご飯という、夏弥定番の料理だ。

 幹也が口の中のものを飲み込んでから、どんと自分の胸を叩く。

「悩みごとがあるなら俺に言え。面白かったら盛大に笑ってやる」

 かっかっと、豪快(ごうかい)に笑う幹也。

 夏弥はいつものように笑って皮肉を返す。

「ふん。おまえに話すことなんてなにもないよ」

 そうだ。こんなこと、話せるわけもないんだし。学校(ここ)で悩んでいたって仕方がないじゃないか。

 夏弥は気持ちを切り替えて食事に専念する。

 夏弥の隣で水鏡(みかがみ)が心配そうに夏弥の顔を覗き込む。

「雪火くん。なにか悩んでいるの?」

 ご飯が喉につまるかと思った。

 夏弥は器官の中に入りかけたご飯を口の中で吐き出して、再び胃袋の中へと流し込む。生理反応で、夏弥は小さく咳き込む。

 水鏡は心配そうに夏弥を見る。

「朝から変だよ。あたしでよかったら、力になるけど」

 ようやく咳が治まって、夏弥は慌てて手を振る。

「大丈夫だよ。大したことじゃないから」

 そう、と水鏡はまだ心配しているように夏弥に視線を送る。

 夏弥は困った。どうあっても、他人に話せる類の悩みではない。だから、夏弥は誤魔化すことに必死だった。

 夏弥と昔からの付き合いのある幹也は、しかし次のパンの封を開けながら実に楽天的だ。

「そうそう。水鏡は気にすることないって。本人が悩みたいってときは、一人で悩ましたらいいんだよ」

 むっとして、夏弥は反論する。

「別に悩みたいなんて言ってないぞ」

 幹也は歪に目を細める。

「どうせ訊いたって言わねーんだろ。だったら同じだ。悩みなんて、つまるところ、そいつが自分で解決しないと意味がないんだから、悩みたいときは散々悩めばいいんだよ」

 豪快に笑う幹也に、水鏡は口を(とが)らせる。

「それはひどいよ。一人じゃどうしようもないときって、あるよ」

 幹也は肩を(すく)める。

「かもな。でも、こうは思わないか。誰かに悩みを話しちまったら、それはもうそいつの悩みじゃなくなるんだ。そうなったら、その悩みが解決しても、それはそいつだけで乗り越えた悩みじゃない。自分でやり遂げた、っていう、唯一の証を立てられないんだ」

 妙なことを言うものだと夏弥は思った。

 幹也の言うことにも一理ある。悩みとは本来その人だけが持っているものだ。それを誰かと共有してしまったら、それはその人唯一の悩みではなくなる。その人だけの悩みではなくなったとき、悩みの根源を乗り越えたとしても、それはその人だけの力ではない。結局、その人は悩みを解決できていないのだ。

 夏弥は珍しく真面目なことを言う幹也に感心した。

「おまえって、すごいたまに鋭いよな」

 幹也は悪態を吐いたが、特に気にしているふうでもない。

「なんだよ、それ。まあ、なんだかんだいって、俺が悩みってのは他の奴と共有できないって、そう思ってるからなんだけどな。自分では結構悩んでいるつもりでも、他の奴からすれば大したことのないものだったりするのって、なんか()なんだよ。あと、その悩んでることがすっげー重いことで、同情はできるんだけど助けになってやれねー、ってとき。なに言っても慰めくらいにしかならなくて、根本的な解決がなに一つできないのも、嫌だな」

 幹也は再び、今度はカツサンドを頬張る。

 夏弥の場合、今の悩みは後者だ。自分の悩みは誰とも共有できないし、自分以外の人間には誰も解決はできない。自分で乗り越えなければならないことなら、誰にも話すことなんてできはしない。

 最後に、幹也は紙パックを飲み干してこう締めくくった。

「だから、ま。俺は悩むのは面倒臭いから、悩むのを止めたわけだ」

「放棄しただけかよ。カッコワリー」

 三人で笑った。

 夏弥は少しだけ胸の内がすっきりしたような気がした。ただ仲間と一緒にいて、ただ笑って。そんなありきたりな日常が、夏弥には居心地がいい。


 授業も終わって、夏弥は部室である美術室に向かう。

 いつまでも悩んでいても仕方がない。今は絵に集中しよう、と夏弥は筆を持ってキャンバスに向かう。最近は部活の時間に線画をやることが多かったが、今日は色を入れてみる。昨日は結局夕日の絵は描けなかったから、その穴埋めだ。それに、今日も下校時間すぎても残れそうにないので、ちょうどいい。

「どうかしたか。雪火」

 後ろから声をかけられて、夏弥は振り向く。この美術部の部長で数少ない男子部員である北潮晴輝(きたしおはるき)がそこにいた。

 晴輝は品定めでもするように夏弥のキャンバスを注視する。

「今日は筆ののりがいまいちだな。なにかあったか?」

 夏弥は答えない。

 誰にも話せることではないし、もう誰にも話さないとそう決めた。

 晴輝はわかったとばかりに高らかに叫んだ。

「もしや、魔のトライアングルが発動してしまったのか?」

 夏弥の顔に苦いものが浮かぶ。急いで否定する。

「そんなんじゃないです。そんなに調子悪いですかね。今日の俺」

 大きく、晴輝が頷く。

「一目でわかる。いいか、雪火。絵画とは人の心を映し出す鏡だ。気分が悪ければ絵にもそれが出てしまう。故に、心から美しいと感じたときこそ、人は最高の芸術を生み出すことができるのだ」

 また、晴輝先輩の芸術講座が始まった。

 確かに晴輝の言うことには頷けるのだが、あまり何回も言われていると新鮮味がなくなる。芸術に関してはこの部活、いやこの学校で誰よりも熱いこの先輩は、しかし好青年なので気にならない。そう、気にしてはいけないのだ。

「はぁ……」

「だが今日の雪火の作品はひどい。あまりにもひどい。これでは中学のコンクールでも入賞できないぞ。芸術家に必要なものは美しいものをありのまま捉えられる感性だが、今日の雪火に限って言えば、集中力が足りない」

「集中力、ですか?」

「そうだ。今の雪火には雑念がある。集中力を乱す憎き雑念だ。わかる。わかるぞ。貴重な青春時代、羽目を外して思いっきり遊びたいという若者らしい考えは。しかし、しかしだぞ。芸術は一生の友となり伴侶(はんりょ)となり生き甲斐となるのだ。芸術的感性を忘れてはいけない。そのために、日々真剣に芸術に取り組んでいかなければいけない。常に芸術に対する集中力を乱してはいけない。そして女性に対するアプローチもだ。男なら、そう、(おとこ)なら、芸術も女も、全てものにしてみせろ」

 真面目な話をされながらも、夏弥は後半に、なにか余計なものを聞いてしまった気がする。晴輝は先輩である。先輩の言うことは正しい。しかし、芸術に関しては参考にできる事柄も、それ以外の、余計なことについては、どうしても頷けない夏弥であった。

 スピーカーから音楽が流れる。

 はっとして、晴輝は顔を上げる。

「いかん。そろそろ時間がなくなる。それでは雪火。わたしはこれで失礼するが、くれぐれも集中力を乱さぬようにな」

 床に転がっていた荷物をかき集めて、晴輝はものの一〇秒で美術室をあとにした。

 あまりの素早さにしばらく呆然としていた夏弥だったが、晴輝のいなくなった美術室でしげしげと自分のキャンバスを眺める。作品は、裏手の窓から見える風景だ。美術室は普通の教室よりも高く、高校のすぐ隣の山がなんの隔たりもなく見える。

 腕を組んで、ぽつりと呟く。

「やっぱダメかな。今日の俺」

 眺めていると、背後で人の気配を感じて夏弥は振り返る。夏弥と同じ学年で、美術部員の中間美帆(なかまみほ)だ。

 中間は、その丸い瞳でよくよく夏弥の絵を観察する。

「でも、今日の雪火くんの絵も綺麗だと思うな。雪火くんの絵は構成がしっかりしているから、ちょっとくらいじゃ悪くはならないよ」

 そんなフォローを入れられる。

 夏弥は硬い表情を崩して笑う。

「サンキュー。でも、自分でもわかるんだ。今日は調子悪いな、って」

 夏弥はじっと自分の絵を見つめる。

「ただ、なにがダメかな。それがわからないんだ。どこか違うとは思うんだけど」

 山には緑が広がって、しかし場所によって緑の濃さや輪郭(りんかく)、立体感や緑の形が異なって、絵画という平面世界でありながら、立体感、風の感触が感じられる、夏弥の絵には目立った欠点がない。

 うーん、と(うな)って、中間も夏弥の絵を凝視する。

「光りが足りないんだと思う」

 ぽつり、と中間が呟く。

 訊き返す夏弥。

「光り?」

 夏弥はいまいち理解ができなかった。

 中間が頷く。

「うん。雪火くんの作品って、どれも光って見えるんだよね。別に明るい色を使っているとか、そういうんじゃないの。少し暗めの作品でも、やっぱり光って見えるから。その、なんて言えばいいのかな。雪火くんの作品って、生き生きしているっていうか。そう、本当に生きているみたいで、その絵のもっている雰囲気とか、空気っていうのかな。そんなものが感じ取れるんだよ」

 夏弥は自分の作品に目を凝らす。

 絵の具独特の色の凹凸(おうとつ)が、実際の山の起伏(きふく)や緑の色合いを表現して、写真のようにその絵は忠実だ。

 忠実で、完璧。

 それは完成されている、にもかかわらず、どこか欠けた印象がある。

 まるで人間と人形を比べているような――。

 夏弥は首を(かし)げる。

「光り、ね」

「うん。雪火くんの絵は、どこか輝いて見えるの。そのとき雪火くんの見た感動が、そのまま伝わってくるみたいに」

 中間の頬が上気している。自分の変化に気づいて、中間は慌てて頬を両手で隠す。困ったように目を泳がせるが、夏弥は絵を凝視したまま気づかない。

 夏弥は一つ頷いて、後ろの中間へと手を上げる。

「うん。参考になった。サンキュー」

 夏弥は再び筆を持って色を混ぜる。

 中間は急ぎ足に自分のキャンバスへと戻って、隠れるように絵の前に身を寄せる。

 静かな美術室の中で、二人は黙々と絵を描いていく。夏弥は自分のブレンドした絵の具をキャンバスに塗りつけて、少し塗ってはバランスを確認する。さっきよりはよくなった気もするが、しかし本調子とは言いがたい。いい感じに仕上がらず、何度も首を傾げてそのたびに色の配分を変えていく。

 中間は学祭に向けての絵画に取り掛かっている。どんな絵が仕上がるのか、それは学祭までの秘密だ。

 夏弥は一息吐いて、奥の中間に訊ねる。

「そういえば、今日、桜坂(さくらざか)は?」

 美術室には夏弥と中間の二人きりで、いつも遅れてやって来る桜坂の姿は見られない。

緋色(ひいろ)ちゃんは、今日、学祭だって。色々準備が始まるから、しばらく部活には寄れないかも、って」

 夏弥は納得した。

 桜坂は学祭実行委員に所属している。学祭実行委員は各クラスから最低一人が選出され、年に一回の学祭に向けて準備を進める。

 他の役員と違って一ヶ月くらいしか仕事をする期間がないが、その代わりその一ヶ月が死ぬほど忙しい。

 実行委員会で集まってその年の企画や装飾を考えて、それを各クラスに発表して準備を進める。各クラスから企画を集めて、その必要経費を学校に報告して購入してもらう。許可が下りたらその物品を自分たちで買いに行って、各クラスに配る。

 学祭準備のために教室を借りる手続きをしたり、各クラス均等に借り教室を使えるように時間を組んだり、学祭当日に外部の人を呼び込むための宣伝をしたり、学祭までの一ヶ月で実行委員はフル稼働で駆けずり回る。

 学祭で使う物品を抱えたまま廊下を走る桜坂の姿を想像して、夏弥は微笑ましくも溜め息が出る。

「そんなんで大丈夫かよ。あいつ、学祭の作品も決まってないだろ?」

「そうみたいだね」

 中間はキャンバスの後ろで苦笑する。

 美術部部長の前では順調のようなことを言っていたが、実際の桜坂は学祭に出すための絵を描き始めているどころか、なにを描くのかも決まっていないことを、夏弥も中間も知っていた。そして、桜坂の絵の腕前は二人とも十分すぎるほど知っている。

 桜坂は学祭実行委員もやっているので、学祭が近づけばますます美術部のほうへは顔を出せなくなる。

 ちゃんとした絵を描けるかどうかはともかく、学祭で作品が仕上げられなくなるのだけは、夏弥も心配している。美術部に所属していながら、一度も絵を描きあげられないのは、さすがにもったいない気がする。


 中間が帰った後で、夏弥もすぐに美術室を出た。

 最近はほとんど放課後まで残って学祭の作品を描いていた夏弥だったが、今日はそんな気分ではないし、遅くまで残っていることができない。

 片づけをすませて、夏弥は鞄を持って自分の教室のある棟へと向かう。丘ノ上高校は通常の授業を行う校舎と、美術室や音楽室、化学室などの特別教室のある校舎をわけている。夏弥は一年生なので、階は二階。夏弥のクラスは三組だが、夏弥は最初に目につく三組を素通りして、一番奥の一組の教室のドアを開ける。

 ガラガラと、聞き慣れた音が響く。しかし、他人の教室のせいかその音に妙な違和感を覚える。見慣れない教室。感じの違う机と椅子。自分の教室とは異質な雰囲気に、夏弥は平衡感覚が狂いそうになる。

 教室の中に、一人の少女の姿が見える。

 彼女は窓側の、一番前の机に座っている。机の上に文庫本を開いて、静かに本の上に視線を落とす。

 静かだ。――静かすぎる。

 教室には一人の少女。――狂いそうなくらい、異質。

 ――ぽん、と本が閉じる。

 顔を上げた少女の口が動く。

「来たわね」

 ただ、一言。

「絵のほうはいいの?」

「そんな気分じゃない」

 胸が締めつけられる感覚。

 しかし心臓が跳ね上がりそうな錯覚。

 立ち上がって、少女は微笑む。

 ――そう。

 少しも笑っていない、微笑み――。

 少女は鞄を持って、夏弥のすぐそばに立つ。

 彼女と、視線が合って――。

 ――ぞくり。

 と、背筋を悪寒が走る。

 その冷たい視線が、鋭く夏弥を切る。それが殺意だとは、夏弥は知らない。敵視されていることはわかる。居心地が悪い雰囲気も、なんとなく感じる。

 しかし――。

 戦場を見たことのない夏弥には、わからない。

 死線を超えた彼女には、直感で理解できる。

 勝ちか、負けかは、すなわち――。

 ――生か、死か、なのだ。

 耳元で、少女の声が木霊(こだま)する。

「行きましょう」

 教室を去る、栖鳳楼。

 夏弥は、振り向くことができない。

 まるで金縛りにあったように。

 日が傾いて、教室が(あかね)色に染まる。血に染まったように、机と床が朱に歪む。遠くから、硝煙(しょうえん)の臭いが流れてくる。鼻孔(びこう)が麻痺したように、異臭しか感じない。視界が揺らいで、景色が暗転する。

 ――寒い寒い夏の夜。世界はただ。

 死に満ちていた――。

「なにをしているの」

 栖鳳楼の声が夏弥を現実へと引き戻す。

 夕日が教室を(いろど)り、そこは夏弥の思い描いた一つのキャンバス。暖かい光が、胸の奥まで染み込むように優しい。

 夏弥は振り返る。栖鳳楼は不機嫌そうに口を尖らせる。

「早くして。あなたに、どうしても来てもらわないといけないところだから」

 三組の教室の前で、栖鳳楼は立ち止っている。思えば、あの夜に彼女と出会わなければ、こんな景色を見ることもなかった。栖鳳楼の非難の視線も、しかし夏弥は感じなかった。

「ああ……」

 自分の声が、遠くから聞こえる。

 自分の足が、勝手に動いている。

 雲の上にいるような感覚。体が浮かんで、地に足がつかない。不安定。揺らぎ。無自覚。流れる。

 夏弥は栖鳳楼と並んで、学校を出る。


「なんであなたが選ばれたのかしら」

 辺りはすっかり夜だった。少し遠くなるからと言われて、夏弥は栖鳳楼と一緒にファミレスで夕食をすませて、電車で二駅行ったところで降りた。駅を出ると、すでに辺りは暗く、町には街灯が(とも)っている。

 電車を降りてからもう十分近く歩いている。次第に町の明るさは遠のいて、住宅も高い塀で囲まれていて団らんの光りは感じられない。

 二人のすぐ横には大きな川が流れていて、しかし暗いせいで水面は見えない。背の高い草に覆われていて、熱帯のジャングルのようだ。

「なんで、あなたが選ばれたのかしら」

 栖鳳楼は暇潰しのように、呟く。

 黙っていた夏弥も、さすがに我慢の限界がきた。

「そのセリフ、もう何度目だよ」

 口を尖らせる夏弥に、栖鳳楼は難しい顔をして眉を寄せる。

「なんであなたが選ばれたのか、理解できない」

 少しも変わらない内容に、夏弥はカチンとくる。

「俺だって、理解できないさ」

 夏弥は自分の右手へと視線を落とす。

 〝刻印〟と呼ばれるそれは、禍々しい形をしている。証というよりは、まさに刻まれている印。十字架や、烙印(らくいん)のように、その模様は重い。怨嗟(えんさ)の鎖のように、それは夏弥の肉体と精神を縛りつける。

 夏弥とは顔を合わせず、栖鳳楼はぶつぶつと呟く。

「確かに、あなたは雪火の姓だわ。でも、雪火の血を引いているわけじゃない。あなたが魔術師(まじゅつし)だとしても、それは表向きの話にすぎない。それなのに……」

 歯噛みするように、栖鳳楼が吐く。

「なんであなたが選ばれたのかしら」

 夏弥は答えない。さっきからなにを言っても、栖鳳楼からまともな答えが返ってこないからだ。夏弥は溜め息を吐いて、ふてくされたように訊ねる。

「で、どこへ行くんだよ。これから」

調律者(ちょうりつしゃ)のところへ向かうわ」

 ようやく栖鳳楼から返事があった。

 その聞き慣れない単語に、夏弥は眉間(みけん)(しわ)を寄せる。

「調律者?」

「この戦い、楽園(エデン)争奪戦を管理している人よ」

「そいつが、魔術師同士を戦わせている張本人か?」

 もしそうだとしたら、夏弥はそいつを許さない。この戦いのせいで、この町では無関係な人間が襲われている。夏弥は、それが許せない。

 栖鳳楼は、しかし首を振る。

「違う。戦いそのものを起こしているのは楽園(エデン)の意思。調律者はあくまで楽園(エデン)の意思を()んで行動するだけの存在。魔術師の存在は、一般人には知られてはいけないっていうのは前に話したわね。だから、円滑な大会運営のために、隠蔽工作(いんぺいこうさく)や〝刻印〟を失った魔術師を保護する役割が必要になる。神託者は、たとえ刻印を失ったとしても、この戦いにおいては重要な存在になってくる。欠片や敵情を知るためや、純粋に能力を買われて他の神託者との戦いで盾なんかに利用される場合も考えられる。そのための保護ね。調律者は、いわば監督者で、でも決して主催者ではない。この戦いの根源は、楽園(エデン)だから」

 夏弥はいまいち理解できなかった。

 戦いを主催しているのは楽園(エデン)であって、調律者ではない。その言葉の通り理解すると、つまりこの戦いを起こしているのは優勝者に与えられる賞品である楽園(エデン)であって、調律者という人間はあくまで賞品である楽園(エデン)の指示に従って動いていることになる。

 モノが主体で、人間が受動の立場にある。その上下関係、主従関係が、いまいち夏弥には理解できない。

 しばらく考えても混乱するだけだったので、夏弥はとりあえず考えるのを止めて、別の話題を訊いてみた。

「でも、なんでそんな奴のところに行かなきゃならないんだ?」

 栖鳳楼は答える。

「本当に楽園(エデン)に選ばれたか、確認するため。あなたが確かに楽園(エデン)から神託を受けたかということと、誰が神託者なのか、調律者が知っておくためね。まあ、あなたが魔術師で、神託を受けたということは、間違いないのでしょうけど」

 そう(にご)して、栖鳳楼は何度目になるかわからない呟きを漏らす。

「なんであなたが選ばれたのかしら」

 むっとして夏弥も言い返す。

「なんだよ。そんなに不満かよ。おまえだって、俺は魔術師だって散々言ってきたじゃないか。あれは嘘か?」

 わりと深刻に訊いたつもりなのに、栖鳳楼はしれっと答える。

「最初は冗談だったわ。あなたには魔術師らしいところがなに一つなかったし、あの男が言っていたことも確証がとれない」

 そのあまりの言いように、夏弥も力が抜ける。

「なんだよ。あの脅しは、あれはなんだ」

 栖鳳楼は悪びれもせずに答える。

「魔術師であることにしたかったのよ。魔術師でないものがその存在を知ることはいろいろと面倒なの。記憶操作をすることになるから。でも魔術師だってことにしてしまえば、そんな手間はなくなる。しかも、魔術師になった瞬間から、魔術の存在を他言できなくなるから、口止めにもなる。あなたが魔術師であることは、たんに名前が雪火だからで、それ以外に理由なんてないわ」

「…………なんだよ。それ」

 (あき)れ果てて、もはや言葉も出ない。

 自分がなにかを言うたびに、それだけで疲れてくるので、夏弥はそれ以上の思考を止めた。溜め息を吐くのも、(むな)しく感じる。

 栖鳳楼は難しい顔を崩さず、首を振る。

「でも、絶対に変。あなたは雪火の血を引いていない。なのに魔術師なんて。あなたって、もしかして異端(いたん)?」

 訊かれて、夏弥は訊き返す。

「なんだよ。異端って」

 栖鳳楼はしれっと答える。

「異端は異端。突然変異って言ったらわかりやすい?要は魔術師の家系でないにもかかわらず、魔術的な素質を持つ人のことをそう呼ぶの。ただ、異端だとしても自分が魔術を使えると自覚するのは小学校高学年から中学生の早い段階くらいで、あなたみたいに大分成熟してからもその兆しが全く現れない人はいないわ。それは個人の中で魔術が制御されていないにもかかわらず、それなりの魔術を内包しているから、ふとしたきっかけで勝手に魔術が発動してしまう。だから、自己が確立してくる中学生までには自分が魔術師であることを気づくはず。それなのに、あなたにはその自覚がいまだに欠けている。だから異端ってことはないでしょうけど。そうなると、あなたは一体どこの生まれなの?」

 自己完結されて、さらに夏弥は訊かれる。

 夏弥は答えようがないので、素直に返す。

「知らないよ。親父に会うまでのことなんか覚えていない。どこに住んでいたのかも、誰と一緒にいたのかだってきれいに忘れている」

 栖鳳楼は溜め息を漏らす。

「なんであなたが選ばれたのかしら」

 同じセリフに、だんだんと腹が立ってくる。夏弥は乱暴に答えた。

「くどいぞ。悪いかよ。俺だってわからないんだ。それは俺が聞きたい」

 夏弥の言葉に、栖鳳楼がむきになって食ってかかる。

「あたしのほうが聞きたいわよ。あたしは長いこと魔術師としての教育を受けてきた。だから魔術師とそうでない人の区別は簡単にできる。魔術師は普通の人よりも魔力を多く保持しているし、その独特の雰囲気は遠目でもわかるわ。それなのに、あなたにはそんな雰囲気もなければ、魔力だって感じない。なんで。(はた)から見れば、普通の人となにも変わらないのに。こんな屈辱(くつじょく)ってないわ」

 夏弥のほうが怒っているのに、栖鳳楼に逆ギレされる。

 夏弥も疲れてきて、栖鳳楼に聞こえないように呟く。

「……知るか」

 歩くこと、三〇分。道は変わらず、人気がない。歩くごとに町から離れている気さえする。辺りは暗く、街灯も減っていく。背の高い雑草ばかりが増えていく。

 沈黙に耐えられず、夏弥は口を開く。

「ところで、調律者ってどんな奴だよ」

 栖鳳楼の落ち着いた答えが返ってくる。

「名前は咲崎薬祇(さきざきくすりぎ)。魔術師よ。咲崎家は隣町に暮らしているから、詳しいことは知らないけど。一応、協会に所属しているらしいけど、それ以外のことは知らない。調べてはみたんだけど、あの男の詳しい過去はなにも出てこない」

 栖鳳楼が(くや)しそうに俯く。

 栖鳳楼は、いまさらだが、かなりプライドが高いらしい。この町を管理しているというだけあって、この町のことをほとんど把握しているようだ。そんな栖鳳楼でもわからないということは、相当謎な人物のようだ。

「どんな奴なんだ。そいつ」

 栖鳳楼の顔が、さっきとは別の雰囲気を出して険しくなる。

「魔術師としては、死んだ魔術師ね。魔術師は自分勝手な人間が多くて、それでも誰もが世界に到達していないことを知っているから、闘志とか野心をむき出しにしている人がほとんど。だけど、咲崎薬祇は世界の真理を追究する意欲もないし、それなのにどこか達観したところがある。人間としてはできた人かもしれないけれど、魔術師としては目標を失っているように見える。そうね、生きている理由がないようにも見える。魔術師としての腕前はまずまずのようだけど、その魔術を研究する気もないし、今まで(つちか)ってきた己の魔術を自分のために使う気もないし、他人のために使う気もない。無害だけれど、有益にもならない。一言で言えば、無価値ね。だから、魔術師としては死んでいる。生きていても目的がなく、ただそこに存在しているだけなら、それはいないのと同じ。だから、死んだ魔術師」

「――死んだ、魔術師」

 意味がわからず、夏弥が訊き返そうとすると、栖鳳楼は目の前で止まった。

「着いたわ」

 栖鳳楼が見つめる先を、夏弥も見た。

 どれくらい歩いただろうか、辺りはすっかり闇で、なにもない。街灯もなく、民家もなく、舗装されていない石ころの道と、腰くらいまで伸びた草があるだけだ。緑に覆われるように、その建物は忽然(こつぜん)と姿を現した。


 外観は黒く、窓はあったがすり硝子なので中は窺えない。正面から立って奥行きはわからないが、見下ろされているような威圧感がある。その建物の天辺には白い十字が伸びて、ここが教会であることがわかる。

 人気はなく、祈りを捧げるよりは懺悔(ざんげ)にでも来るような、どこか暗い雰囲気が漂っている。神にさえ見捨てられた、古びた教会。

 栖鳳楼が扉を開けて中に入る後に、夏弥も続く。

 扉は(きし)みながら、重い音を立てて閉まる。閉じ込められたように、胸が圧迫される。教会の中は、酷く冷えていて、(ほこり)っぽい空気で淀んでいる。

 中の造りも教会らしく、左右対称に長椅子が並んでいるが、どれも古くて座った瞬間に崩れ落ちそうだ。

 長椅子に挟まれた道を、夏弥と栖鳳楼は並んで歩く。カツン、カツン、と二人の足音が教会の中に響く。

 夏弥の耳の奥で、自分の心臓の音が激しく暴れる。胸が締めつけられるようで、痛い。祭壇に向かって、夏弥は歩く。祭壇の奥で、ステンドグラスの聖母が優しく手を差し伸べている。極刑(きょっけい)に向かう、罪人のような気分だ。

 吐き気を感じながら歩く二人の前に、ゆらゆらと影が揺れる。

 栖鳳楼が止まって、夏弥も止まる。そのとき、初めて夏弥は目の前の亡霊に気がついた。ぞくり、と背筋を冷たいものが走る。

 黒いローブをすっぽりと被り、表情は窺えない。

 影が実体化したようで、生気を感じない。人の形をしていても、夏弥はそれを生きた人間だとは感じられなかった。そう、それは亡霊のように――。

 栖鳳楼の声が聞こえて、夏弥は自分の位置を理解する。

「栖鳳楼(あや)よ。咲崎薬祇を呼んできて」

 黒いローブはなにも言わず、風に揺られるように奥の部屋へと姿を消す。扉の閉まる音だけが、静かに聞こえる。

 一〇秒くらいして、ようやく夏弥は口を開いた。

「なんだ。あれ」

 栖鳳楼が感心したように口を開く。

「あなたでもわかるの。――あれは、式神(しきがみ)よ」

「式神――?」

「魔術によって構築された擬似生命体のこと。魔術師の命令通りに動くけれど、万能ではない。より高度な命令を実行するためにはそれなりの術式を組まないといけない。一度きりの使い捨てや、単一の命令しか受け付けない低級式神なら簡単だけれど、本来式神はかなり高度な術式を組む必要がある、上位魔術の一つよ。基本的に自律行動するものだからね。命令を受け入れる対象を選択したり、魔術師の魔術を手伝ったり、魔術師同士の決闘で用いられることもあるから、維持魔力も膨大なものになる。でもあの式神は対人応答にしか使えないから、それほど魔力は必要ないけど」

 夏弥の感じた違和感。

 生きたものの気配を感じないのは、あれが式神だからだ。

 ――それにしても。

 ここには生き物の気配がしない――。

 まるで棺桶だ。

 この中は棺桶。

 ここで暮らすものに生きているものはいない。生きているものが足を踏み入れること事態が間違い。

 そんな異質。

 ここは異界。

 ――ギィ……。

 と、扉が開く。

 奥の部屋から男が一人現れる。

「ようこそ。栖鳳楼の姫君よ」

 外見は神父のような恰好をしているが、身にまとっているものは全て漆黒。両手さえ、黒いグローブで覆われている。年は四〇ほどで、しかしそれ以上の年月を感じさせるほど皺が深い。男が帯びている雰囲気は、神父というよりは死刑執行人のよう。生きるものに導きを示すのではなく、全てに死を振り撒く、死の化身。瞳は色素の薄い灰色で、硝子玉のように生気がない。

 栖鳳楼は男に一歩近づいた。

「手紙は読んでいただけたかしら?」

 男は頷く。

 一つ一つの動作が重く、これから審判でも言い渡すように(おごそ)かだ。

 男の首がわずかに動く。その硝子色の目に夏弥の姿が映し出される。

「そちらの彼かな。(くだん)の神託者は」

 夏弥の体は緊張で強張る。

 生気のない瞳に、自分の姿が映し出される。鏡の中に捕らわれたような錯覚。生を奪われていくような感覚。

 栖鳳楼が頷く。

「ええ」

「その証を見せてもらえるか」

 男は右手を差し出す。

 夏弥は硬直したまま動けない。

「……」

 脇腹を小さく小突かれる。振り向くと、栖鳳楼が横で夏弥を睨む。夏弥は慌てて右手を突き出した。夏弥の右手の甲には、〝刻印〟が、その禍々しい模様がはっきりと浮かび上がっている。

「確かに」

 男は頷く。

「少年。名は?」

 問われて、夏弥は答える。

「雪火夏弥」

「雪火、夏弥……」

 記憶に刻み込むように、男は重くその名を繰り返す。夏弥は今にも叫びだしそうだった。

 対して、栖鳳楼はいたって冷静だ。

「彼に楽園(エデン)について話してあげて。少し前まで、自分が魔術師だってことも知らなかったから、ちゃんとわかるようにね」

「承知した」

 男は頷く。(かす)かに笑みを浮かべて。

 栖鳳楼は一つ頷く。

「じゃあ、終わったら出てきて」

「え……?」

 栖鳳楼の姿が遠ざかる。夏弥が声をかける間もなく、栖鳳楼は教会から出て行った。この死んだ空気の中で、夏弥と男の二人きり。

「…………」

 沈黙が、胸を抉る。

 死が、空洞を埋める。

 夏弥の腕がかたかたと震える。

 それは、死から逃れようとする、生への渇望(かつぼう)

「さて――」

 重く、厳粛(げんしゅく)に、男の声が響く。

「まずは、君を歓迎しよう。ようこそ、わたしの城へ。そして、魔術師最高峰の戦い、楽園(エデン)争奪戦の舞台へ」

 微笑を浮かべる男に、しかし夏弥は歓迎されている感じがしない。いや、この男に感情と呼べるものはすでに存在していないのだ。それはまるで、死体を糸で操っているような人形劇(リビング・デッド)

「自己紹介がまだだった。わたしは咲崎薬祇。楽園(エデン)争奪戦の調律者をしている」

 そう男は、咲崎薬祇は名乗った。(あらかじ)め決められたセリフのように、咲崎は淀みなく語る。

「君には、最初に楽園(エデン)の歴史からお話ししよう。歴史よりはむしろ、神話に近い。楽園(エデン)の起源を」

 咲崎は懐から本を取り出した。それは聖書のように、分厚い。重々しい扉を開くように、本を開いてページをめくる。

「太古の昔、世界は一つだった。獣も、人も、全ての命は一つの意識のもとに存在していた。すなわち、誰もが共有の認識を持ち、種族の違いに関わらず全てと意思を交わし合った時代があった。当時の人間たちは、知に飢えていた。意味も、価値も知らず、ただその存在たる知識だけが人間の求める全てだった。知とはすなわち起源にあり、ゆえに全ての起源を辿り、ついには世界に到達することが人類の祈願だった。人間は力を合わせて、世界に到達するための知を集結させた。しかし、これを神は許さなかった。全ての起源は神が持ち、神すなわち世界の真理であり、絶対の意思。神は決して、人間とは相容れない存在なのだよ」

 パラ、と、ページをめくる音。

「神は命から言葉を奪ったのだ。全ての命が互いを認識し、理解するための言語を奪い去り、命から集団を奪ったのだ。結果、命は個人となり、世界としては膨れ上がった知識も、個人では脆弱なその知は、どんなにあがいても世界の真理には到達できない」

 咲崎の指がページをなぞる。

「魔術師とは、この神の審判のときの生き残りなのだ。知を有し、知を行使して世界に近づく者。ゆえに、魔術師の起源は知であり、魔術師にとって世界の真理を得ることこそ、最大の目的なのだ」

 咲崎の顔が歪に笑う。

「全ての生命が互いに分裂した存在になったとき、一人の男がある大魔術を完成させた。男の名は、ノアール・ヴォルダス。魔術師なのか、魔物なのか、あるいは世界の代行者なのか、様々な憶測が囁かれているが、その詳細は定かではない。そして、その男が完成させた大魔術こそ、楽園(エデン)なのだ」

 咲崎は歪な笑みを浮かべて、ページをめくる。

楽園(エデン)は近似世界であり、世界に最も近い場所と呼ばれている。魔術師が渇望する世界の真理を、楽園(エデン)は見せてくれるのだ。ノアールの魔術は多くの魔術師に求められ、数多の魔術師が楽園(エデン)へと旅立った。しかし、それを見た神は再び激怒した。神とは、唯一無二がために神たるのだ。ゆえに、真理を持つものはこの世に一人でなければならない。神は楽園(エデン)を破壊しようと試みた。しかし、なんという不思議だろうか、神のどんな力をもってしても楽園(エデン)は崩壊しなかったのだ。高度な魔術、絶対的な魔力、時間さえも、楽園(エデン)を変質させることはできなかった。楽園(エデン)はなにをしても壊れることのない強力な魔術。神はとうとう楽園(エデン)に敗れたのだ」

 硝子の瞳が文字を追う。

「そこで神は楽園(エデン)を封印することにした。破壊こそできなくとも、世界の奥底に閉じ込めることはできたのだ。しかし、その強大な魔力は時間とともに膨れ上がり、最後には世界を飲み込み、神すらも楽園(エデン)の一部に取り込んでしまうだろう。そこで神は、数世紀に一度、楽園(エデン)の魔力を解き放つことを人間に許した。これが楽園(エデン)争奪戦の始まり。楽園(エデン)は、特に優秀な魔術師を世界へと導き、真理を人間に見せることを約束したのだ」

 パタン、と、本を閉じる。

 まるで夢から()めたように、夏弥は咲崎の顔を見る。

 本当に、夢から醒めたみたいだ。咲崎が語る神話、そこに登場してくる人物たち、その全てが今まで生きていた。過去に引き込まれたのか、あるいは幻を見ていたのか、夏弥にはわからない。

 魔術師は本を抱えて暗く夏弥を見下ろす。

「――以上が、楽園(エデン)の始まりだ。なにか訊きたいことはあるか?」

 咲崎の眼が夏弥を見る。心の奥底まで見透かされるような、不快感。硝子の瞳に、夏弥の全てが映し出される。

「……俺は」

 死に呑まれないように、夏弥は自分の言葉を吐き出す。

「俺は、魔術師の家系に生まれたわけじゃないから、魔術師のことなんて、はっきり言ってどうでもいい。だから、世界の真理だとか、そんなものに興味はない。誰かと闘って、それで誰かを傷つけるようなことは、俺はしたくない。正直言って、こんな戦い、やりたくない」

楽園(エデン)の求めを拒むか?」

「ああ。俺はただの高校生だ。殺し合いなんて、したくない」

 咲崎の顔が愉悦(ゆえつ)に滲む。

 悪寒が走る。

 見ているだけで視界が歪みそうな、狂気に満ちた笑みが咲崎の口元を曲げる。

「誰かを傷つけたくはないと言っていたが、それは、誰かを傷つけたいからではないのか?」

 突然の言葉に、夏弥は目の前が真っ暗になる。

「なん、だって……?」

「人には衝動がある。それは起源に繋がる、その個人が生まれる前から持っている、その人間の根幹ともいえる一つの衝動だ。人は衝動の奴隷であり、なにをしてもその衝動を超越することは叶わない。高々数十年、君では十数年ばかりの人生で、世界が生まれた瞬間から続いている何憶という膨大な記憶を押さえつけることなどできはしないのだ。君の起源は、破壊か?」

 反射的に、夏弥は叫ぶ。

「そんな、そんなことあるわけないだろ!」

 そんなこと、あってたまるか。

 夏弥は起源なんてものを知らない。しかし、自分がただ破壊するだけの存在で、それを望んでいるなんて、思いたくもない。夏弥は人を傷つけたくないから、人殺しはいけないと思う。それを――人を傷つけたいなんて――そんなはずがない。

 咲崎は(あご)に右手を添える。もはや興味を失ったように、その瞳に感情はない。

「ふむ。そうか。まあ、それでもかまわない。しかしだ、少年。君が他者を傷つけなくとも、この戦いが続く限り誰かが傷つき、下手をすれば死ぬ。君は、それを知っておきながら見過ごすことができるか?」

 どくん、と夏弥の奥で鼓動が弾ける。

「それは……!」

 上手く舌が回らない。体は麻痺したように動かなくて、けれど体の奥ではなにかが(くすぶ)るように熱い。

「今回の争奪戦では、特に、知を欲する者が多い。自己の望みのためなら、他者の命すら(いと)わないという輩が」

「あんた、この町の事件で、なにか知ってるのか?」

 咲崎は微笑む。

 狂気に歪んだ、歪な笑み。

「わたしは調律者。魔術師と一般人(ただびと)をわけるのがその役目。無知は無知であるからこそ幸せ。なにも知らないものに、世界に通じるものを知らせないように隠蔽してきたが、どうやら情報を漏らす者がいるようだ」

「どういう、ことだ」

 夏弥の問いに、咲崎は答える。

「神託者の中に、人を襲う者と、それを世間に告知しようとする者の、少なくとも二人が存在するということだ。わたしとしては、そのような存在は早急に対処しなければならないのだが、楽園(エデン)の意思を受けたものを止めるのは、なかなか容易ではない」

 夏弥の中でなにかが燃える。

 それは今まで感じてきた恐怖を焼き尽くすような、熱い衝動。

「つまり、あんたでもどうすることもできないって言うのか。この町で起きている事件は?」

「残念ながら」

 咲崎は目を伏せて首を振る。

 夏弥は無意識に拳を握る。

 強く、強く。

 自分の中で、どうしようもない感情が爆発する気配を感じる。

「――君がなんとかするか。少年」

 咲崎の声が上から響く。

 夏弥は押し黙る。

 なにかを言いたいのに、なにも言えない自分。

 そんな自分が、無性に腹立たしい。

「…………」

「拒みはしないのか」

 咲崎の言葉は、挑発にしかきこえない。

 夏弥は暴れる感情を押さえつけて、できる限り冷静に答えようとする。

「俺だって、犯人を捕まえられるなんて思っちゃいない。しかも、相手は魔術師だ。魔術もろくにわからない俺に、なんとかできるわけがない。――でも、黙って見ているなんて、俺にはできない。犯人の手がかりがあって、なんとかする方法もわかってるのに、なにもしないなんて、俺にはできない」

「なるほど……」

 咲崎は納得したように頷く。

「君は、偽善者だ」

 ざわざわ、と夏弥の体が冷えていく。

「なん、だって……」

 今までと違う感覚に目眩(めまい)がする。

 吐き気とは違う、体が切り裂かれるような無数の痛み。

 咲崎は諭すように、夏弥を見下ろす。

「言葉では正義を語るが、しかしなに一つ行動できない。どれほど敵を憎んでも、決して武器を手にして()とうとはしない。これを偽善と呼ばずしてなんと呼ぼう。君は、生前からの偽善者だ」

 目の前が真っ黒になる。

 暗い暗い、暗幕。

 目の奥でなにかが弾ける。

 ぷちぷちぷちぷち。

 小さく、でも確実に。

 切れる。

「……なにを」

 言葉が口をついて出る。

「知ったような、ことを…………」

「否定するか。少年」

 にやり、と咲崎は笑う。

 愉悦に滲んだ、狂気に侵された笑み。

「方法は簡単だ。君がこの戦いに参加し、全ての悪を滅ぼせば、君は正義となる。しかし、今ここで君が楽園(エデン)の意思に背けば、その瞬間から君は偽善者だと認めることになる」

 その言葉は、審判のように。

「選択は、君の意思だ――」

 暗い棺桶の中に、響き渡る。

 それはすでに決まった、運命の悪戯。

「――いいだろう」

 夏弥は拳を強く握る。

「やってやる。俺が、この戦いで勝ち残ってやる。そして、この町から悪を消し飛ばしてやる」

「その言葉、忘れるなよ。少年」

 咲崎の、底の知れない笑みが響く。

「それでは君は、これから六人の敵と戦うことになるだろう」

「六人――?」

 咲崎は頷く。

楽園(エデン)争奪戦では、常に六人の者が神託を受ける。それは古来より変わらないルール」

 自分を含めて、六人の神託者がいる。もう一人は栖鳳楼。あとの四人はまだ会っていないからわからない。四人――。

「でも、おかしい。それじゃ、俺は五人の奴と戦うことになるはずだ」

 参加者は六人。その中に夏弥自身も含まれるから、結局のところどんなに多くても五人としか戦わないはずだ。

 咲崎は芝居がかったように首を振る。

「いいや。君は六人と戦うことになる。五人の神託者を討ち滅ぼした後に、君は楽園(エデン)と対峙することになる」

楽園(エデン)……?」

「そうだ。前回の戦いで、勝ち残った神託者は楽園(エデン)を前にして畏怖(いふ)したのだ。他の魔術師には知られていないことだが、わたしは調律者の任に就いたゆえ、当時の記録を受け継いでいる。かの神託者は楽園(エデン)に踏み入る権利を得ておきながら、それを躊躇(ちゅうちょ)したのだ」

 楽園(エデン)――。

 楽園(エデン)争奪戦の勝者に与えられる、世界に通じる神秘。

 楽園(エデン)はこの世界そのものであり、あらゆる願いを叶える大魔術。

楽園(エデン)は、その神託者を世界に受け入れるにはふさわしくないと判断して、その町を()いた。君は覚えているかな。八年ほど前、隣の海沿いの町が消えたあの大事件を」

 夏弥の心臓が高鳴って、脳裏に光景が浮かぶ。

 八年前――。

 雨が降っていた夜。

 町は崩れて、多くの人が死んだ。

 一人立って、無性に悲しかった。

 冷たい、夏――。

 咲崎の声が遠くから聞こえる。

「その後、楽園(エデン)は消え、新たな町で世界に踏み込む勇気ある者を探した。そして今回、この町で新たな楽園(エデン)争奪戦の幕が開いたのだ。喜べ、少年。君はこの町の悪を滅ぼせるだけでなく、この町を危機から救う救世主となるのだ」

 咲崎の硝子の瞳が夏弥を見透かす。 

 ――偽善者には、これ以上ない舞台だろう。

 心の奥で、幻聴を聞く。

「俺は、偽善者じゃない」

 反射的に、夏弥は呟く。

「俺は、偽善者じゃ、ない」

 繰り返し、繰り返し、口にする。

 ――言葉にしないと。

 嘘になってしまうかのように――。

 咲崎は懐に本をしまう。

「わたしが君に伝えるべき話は以上だ。栖鳳楼の姫も待ちくたびれているであろう。すぐに行ってあげたらいい」

 それで、終わりとなった。

 夏弥は咲崎に背を向けて、入って来た扉へと向かう。暗い教会の中で、自分の足音がやけに耳につく。

「少年――」

 咲崎に呼び止められて、夏弥は振り向く。咲崎の顔には弱者を(いたわ)る、慈悲の笑顔が浮かんでいる。

「いつでも、ここを訪れるがいい。わたしは悩める者に道を示す者。君が正しく悩めるように、わたしはいつでも君の話し相手になろう」

 胸に痛みが走る。

 心臓を掴まれているような、不快感と、痛み。

「――あんたに、話すことなんてない」

 夏弥は教会を出る。

 扉が閉まる音がして、中はただ暗い。棺桶の中で、死んだ魔術師は人形のように笑う。


 教会を出ると、扉のすぐ隣に栖鳳楼が立っていた。栖鳳楼は腕を組んで壁に寄りかかっていたが、夏弥に気づくと腕を解いて彼の傍まで近づく。

「話はすんだ?」

「ああ……」

「そう」

 一つ頷いて、栖鳳楼は歩き出す。

「じゃあ、帰りましょう」

「ああ……」

 空返事を返して、夏弥は栖鳳楼の後に続く。

「…………」

「…………」

 沈黙。

 重い静寂ではなく、二人とも喋る機会を失っている。夏弥は、口を開くのも億劫(おっくう)だった。

「どうだった?」

 不意に、栖鳳楼が口を開く。

「どう、って?」

楽園(エデン)のこと。少しは理解できた?」

 夏弥は動かない思考を無理矢理働かそうとして、やっぱり頭の中に靄がかかったように考えがまとまらない。

「……どうかな。余計にわからなくなってきたって感じだ」

 夏弥の反応に怒るでもなく、栖鳳楼は静かに頷く。

「そう」

「でも、この町で起きている戦いについては、なんとなくわかったつもりだ」

 強く、夏弥は拳を握る。

 犯人は魔術師で、この戦いに参加している誰かだということ。夏弥は、許さない。自分の欲望(エゴ)を満たすために、無関係な人を傷つけるなんて。

「なあ、この町で起きている事件って、魔術師の仕業なのか?」

 栖鳳楼の顔が曇る。

「そうだと思うわ。衣服を含めた身の回りのものだけを残して、人だけが消えるなんて、どう考えても普通の人間の仕業じゃない。転移魔術か、あるいは直接肉体を変異させるような魔術を使ったのかは、わからないけど。……どうしたの?急に」

「いや。なんとなく」

 答えに困って、夏弥は適当に濁す。

 夏弥が黙ると、栖鳳楼も黙る。しばらく二人の間に沈黙が下りた。

「それで、あの男はどうだった?」

 再び、栖鳳楼が口を開く。

「どう、って?」

「初対面の印象。あなたの率直な感想を聞きたいわ」

 夏弥はあの男、咲崎のことを思い出す。栖鳳楼は〝死んだ魔術師〟と言っていた。確かにそうかもしれない、と今の夏弥なら思える。全てを見透かすような、どこか達観した雰囲気を持ちながら、そんな世界に興味すらない。まるで、全ての終わりだけを望んでいるような死の代弁者。

「わけのわからない奴だ。知ったようなことをベラベラ喋って、はっきり言って腹が立つ」

 栖鳳楼は冷めた口調で返す。

「あまり気にしないほうがいいわ。最初くらいしか、あの男と会うこともないでしょうから」

 慰めでも、同情でもない。純粋に、事実を述べているような言葉。

 その後、二人から会話が途絶える。人気のない道を抜けて、町まで戻って、電車に乗って、二人が住んでいる白見(しらみ)町まで帰る。

「じゃあ、俺こっちだから」

 バスから降りて少し坂を登れば夏弥の家。栖鳳楼の家は、ここから丘ノ上高校まで行く必要がある。

 夏弥が別れを告げると、栖鳳楼に呼び止められた。

「――昨夜も言ったけど」

 ぞくり、と、背筋を冷たいものが走る。

 首筋に刃物を向けられているようで、体が動かない。

「改めて言っておくわ」

 栖鳳楼の冷たい瞳が夏弥を見つめる。金縛りにあったように、夏弥は栖鳳楼から視線を外せない。

 ――耳を塞いで、この場から逃げ出したい。

 しかし、体がそれを許さない――。

 この言葉を聞いたら、夏弥の信じていた世界が崩れるような気がした。

 それでも栖鳳楼は、無情に、残酷に、夏弥に告げる。

「一ヶ月後、あなたに勝負を挑みます。時間は夜の十一時。場所はあの川原。……異論はない?」

 夏弥の視界の中で、映像が重なる。

 それは昨日見た、栖鳳楼が刀を持った、あの姿。

「ああ……」

 自然と、夏弥は返事をしていた。

 栖鳳楼の瞳にもはや感情はなく、ただぽつりと別れの言葉を口にする。

「それじゃ、おやすみなさい」

 栖鳳楼の背中が遠くに見える。

 小さく、小さく。

 少女の姿は、ただ遠い。

「ああ…………」

 栖鳳楼が見えなくなって、夏弥は誰に言うでもなく、呟いていた。


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