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第三章 開幕

 息が止まった。

 体中の筋肉が緊張で強張る。

 なんの間違いだろう。

 なんの冗談だろう。

 ――栖鳳楼礼(せいほうろうあや)がそこにいる。

 栖鳳楼は不機嫌そうな目で夏弥(かや)を見る。

「ずっと教室で待ってたんですけど」

 夏弥は声を出せなかった。

 栖鳳楼の声が届いている。しかしそれはテレビのスピーカーから発せられているようで現実味がない。まるで(もや)の中にいるような浮遊感。

「もしかして、約束、忘れてた?」

 夏弥のすぐ目の前に立った栖鳳楼は実に不機嫌そうだ。

 その像がはっきりと夏弥の目に結ばれると、それが現実のものであるとようやく認識できた。夏弥の凍りついた思考が少しずつ氷解していく。

「嘘だろ……」

 夏弥は反射的に立ち上がった。

「だって、マンションはなんともないし、いつも通り学校に来れた。なにも変わってないのに、なんで、なんでお前が来るんだよ!」

 夏弥は動揺を隠せない。立ち上がった勢いで思わず叫んでしまった。ここが学校の中で、美術室で、見回りの教師が来るかもしれないという考えは、夏弥の頭から吹き飛んでいた。

 栖鳳楼は品定めするように夏弥を薄く見る。

「本当になにもなかったら、あたしがこうして会いに来ると思う?」

 (あき)れたように溜め息を吐く栖鳳楼。

「あの男に破壊されたマンションだったら、その辺りの時間を少しだけ(ゆが)めてある。時間遡行(じかんそこう)と固定ね。あの夜、あの周辺には結界を張っておいたから、近隣住民だって気づいていない。でもマンションが倒壊したという事実は世界が記録してしまった。世界の記録と現在が不一致のままだと、世界が事実を正当化するために時間淘汰(じかんとうた)が起こる。それでも、目撃者は少ないから、一週間くらいは誤魔化せる。一応、今朝のうちに工事会社に依頼してあのマンションの取り壊しをお願いしておいたわ。元々取り壊す予定が長年放置されていたから、明日には工事が始まる。世界の記録上、あの倒壊に巻き込まれた人はいないから、事実もそういうふうに起こるでしょう。ただ、あなたやあたしはそのときの様子を観測しているから、あまり近づかないほうがいいわね。時間固定を歪めてしまう可能性があるから。破壊された時間が夜だから、朝の登校時には問題ないでしょうけど、帰るときには遠回りして帰ったほうがいいわ。あなたの前ではいつ倒壊しても不自然じゃないから」

 栖鳳楼の言ったことの、半分も夏弥は理解できない。

 なにが起こったのかもわからない。その説明をされても、いまいちぴんとこない。ただ、理解できたことは、夏弥が見たものは、確かに現実だったということだ。

「……じゃあ、本当に、あれはあったのか?」

「そう。あなたが目を()らしたくても、世界には記録が残っている。あなたの見たものは、幻でもなんでもない」

 残酷に、栖鳳楼は告げる。

 目の前がくらくらして、夏弥は椅子の上に座り込む。

 偽られた日常。本当に起こった非日常。殺されかけた自分。時間すら歪める魔術の存在。わからないことだらけで、受け入れがたいことばかりで、理解が追いつかない。それが、夏弥の現実。

「マジかよ。マジで、俺、殺されるとこだったのかよ」

 頭を抱えて、夏弥は(うめ)く。

 (あわ)れみも、同情も、感情すらなく、栖鳳楼は問う。

「それで、まずなにから話したらいい?」

 夏弥の表皮を悪寒が走る。

 黒いものに侵食されるように、心臓が締め上げられる。

 苦しいより、痛い。

 恐怖に触れて、こんなにも体が悲鳴を上げている。

 それでも、夏弥は目を背けることができない。それはあの夜感じた、恐怖以上の、理不尽な死の宣告を受けたときの怒りを、夏弥自身が貫かなければならないからだ。

 夏弥は訊く。

魔術師(まじゅつし)、って、なんだよ」

 栖鳳楼は(よど)みなく答える。

「読んで字の如く、魔術を扱う者の総称よ。魔術は科学の成立より遥か以前に存在していた。古代哲学や錬金術がその系統ね。魔術を行使するには、発現(はつげん)に必要な術式(じゅつしき)と、魔術を駆動させるための魔力(まりょく)が必要になる。その点は現代科学となんら変わらない。魔術を使用するための理論や装置が術式で、魔術を実際に働かせるためのエネルギーが魔力。魔術は理論に基づいて発現するから、万能ではない。必要な手続きを踏まなければ、どんなに魔力を注いでも魔術は完成しない。だから魔術師は長年に渡って研究を重ねて魔術を発展させてきた。現代では魔術を扱う一族は少なくなってきた。理由は、魔術なんかよりも簡単で、大規模な利潤(りじゅん)を生み出す科学技術が発展してきたから。魔術を発現させる基盤となる術式は不安定で、それを具現化してこの世界に体現させるにはさらに固定魔術と維持魔力が必要になる。それに対して、科学は固定と維持がより楽で、しかも再構築が可能。設計図さえ残しておけば誰でも作りだせるのが科学だけれど、魔術の場合、その魔術師ごとの才能に依存するところがあるから、伝承が難しいの。それでも、魔術師はまだこの世界に存在していて、魔術師を保護する組織も確立している。また、最初に言ったように魔術は古代哲学思想に基づいて発達した経緯があるから、魔術を正確に捉える倫理観や思想をもたない人には魔術を扱わせない。だから、魔術師は自分のためにしか魔術を使わず、それを他人に漏らすことはしない。そのせいで、魔術師の中には秘密主義の人が多くて、同じ魔術師でも家系が違えば一切その存在を明かさないという徹底した人もいるくらいよ」

「あのマンションを直したのも、その魔術ってやつか?」

 ちょっと違うかな、と栖鳳楼は夏弥の問いに答える。

「修復したのではなく、正確には時間を巻き戻したんだけど。時間遡行と固定は、魔術師が使う隠蔽工作(いんぺいこうさく)の典型で、用途は魔術的に改変された世界の情報を一般人に知られないようにするためのものね。今回のように観測者が少ない場合に有効な手段だけど、目撃者が多くなってしまった場合はこの手は使えない。世界の記録が強固なものになるほど、世界の時間淘汰が強く働いてしまう。そういう場合は、目撃者の記憶を操作することになるんだけど」

 記憶操作と聞いて、夏弥は身震いする。

 かまわず栖鳳楼は説明する。

「人間の記憶は、まず感覚したものを情報として記録して、記録した情報を貯蔵する。そして貯蔵した情報を再生して、確かにそれは記憶した情報だと再認する。これが記憶の一連のプロセスね。人が忘れるのは、大概貯蔵された情報のうち不必要なものを細分化して、肉体に与える負荷を軽減させるために起こる現象。あたしたち魔術師が人の記憶を操作する際、大体は再生か再認の段階に手を加える。その情報を再生できないようにする、あるいは再生してもその意味を理解できないようにすれば、結局その人は記憶を思い出すことができない。貯蔵された情報に直接手を下すのは上級魔術で、あたしはそんな方法知らないし、実際にやっていると言う人を見たことはないわ。もしもあなたが魔術師でなかったら、記憶操作をしていたところだけど」

 説明を終えて、栖鳳楼は一息吐く。

 一気に(まく)し上げられて、夏弥は理解が追いつかなかった。魔術師とかいう、そんないるわけないような奴らがこの世界にはいるということだけ、なんとなく理解したつもりだ。

 栖鳳楼はこれで十分とばかりに、夏弥を見る。

「とりあえず、魔術師についてはこんな感じ。他に訊きたいことは?」

 夏弥は訊く。

「その右手の模様。それはなに?」

 栖鳳楼は淀みなく答える。

「今この町では魔術師の戦いが開かれている。あたしたち魔術師では結構有名な話で、楽園(エデン)争奪戦と呼ばれている」

 夏弥は訊き返す。

「エデン?」

「そう。刻印(これ)はその証。大会に参加できるのは魔術師だけで、主催者側が勝手にその地域から選ぶ。最後まで生き残ったものには、楽園(エデン)への鍵が与えられる」

「鍵?」

楽園(エデン)は最も世界に近い場所で、そこでは全ての願いが叶うとされている。楽園(エデン)に入れるのは鍵を持ったものだけ、つまり、この戦いに勝利したものはどんな願いでも叶えられるの」

 栖鳳楼の話はどうもぴんとこなかったが、なんでも願いが叶う、というところだけは夏弥にも理解できた。なんでも願いが叶うなんて、そんなおとぎ話みたいなことがあるのかと思ったが、一夜でマンションを直してしまうあたり、あながち本当かもしれない。

「この戦いにはちょっと変わった仕組みがあってね。楽園(エデン)の力の一部である、欠片と呼ばれるものがその地域にばら()かれる。一部とは言え、あらゆる願いを叶える楽園(エデン)の力は偉大。より強力な欠片を持った者がこの戦いを有利に進められる。あなたが、男に見られたというのは、きっと欠片ね。欠片の効果を知られてしまうと、その対応策を考えられてしまう。だからあなたを始末しようとしたのね」

 夏弥の理解はだんだんついていけなくなっていたが、栖鳳楼はかまわず話を続ける。

「刻印を持つものを神託者(しんたくしゃ)、あるいは神託を受けた者と呼ぶけど、神託者の中には強欲な人間もいるわ。どうしても自分の願いを叶えたいって奴がね。そういう(やから)は、純粋に欠片集めをしようなんて思わない。他者から魔力を吸い上げて自分の力にしようとする。――最近起きている事件は、おそらく神託者の仕業(しわざ)ね」

 最後の言葉に、夏弥の心臓が大きく跳ねる。

 最近、この町で起きている事件が魔術師に関係している――。

 栖鳳楼の言葉は、淡々として続く。

「魔術師でないものの魔力は大した量じゃない。でも生命力なら話は別。おそらく今回の犯人は生命力を奪って、そこから魔力に変換しているか、生命力を高めることで自己の魔力を高めているかのどちらかでしょう。どちらにしても、下種(げす)なやり方だわ」

 吐き捨てるように、栖鳳楼は言う。

 しかし最後の言葉も、夏弥の頭にはまともに入ってこなかった。夏弥は自分でも頭に血が上っていることに気づいていない。

「じゃあなにか。今回の事件は、そんな普通の奴らには全く関係のない戦いのせいで起きているってことか?」

 栖鳳楼は黙っている。

 否定はしない、ということが、夏弥の理解には十分すぎた。

「ふざけるなよ」

 思わず、吐いた。

 頭の中が一気に熱くなる。

 魔術師同士の争い。そんなものは知ったことじゃない。でもそのためになにも知らない、なんの関係もない人たちが襲われているのは許せない。なんでも願いが叶うからって、そのために他人を傷つけていいわけがない。

 夏弥の頭は、理不尽な暴力に対する怒りで満ちていた。

「そんなの、俺たちには関係ない。戦いなんて、魔術師だけで勝手にやれ。なんで一般人を巻き込むんだよ」

 夏弥の怒りの目を、しかし栖鳳楼は冷ややかな瞳で見返す。

「あなたも魔術師だってこと、忘れてない?」

 夏弥は咄嗟に言い返せなかった。

 成り行きとはいえ、夏弥は自分が魔術師であることを栖鳳楼の前で認めている。魔術師である以上、夏弥自身が魔術師を非難するのは筋違いだ。

 栖鳳楼は肩を落として息を吐く。

「もちろん、この町を監督する者としては、今回の事件は快くないわ。魔術師の力は己のために。一般人に魔術の存在を知らせるだけでも許されないのに、魔術を無関係の人間に振るうなんて言い訳の余地もないわ。見つけ出したら、この手で処断(しょだん)する」

 冷え冷えとした声で、栖鳳楼は告げる。

 その声には憎悪も含んで、神経の奥にまで刻み込まれるようだ。

 夏弥は、しかし栖鳳楼の言葉に少しだけ安堵した。少なくとも、栖鳳楼は無関係の人間が被害に遭っていることを快く思っていないらしい。

 しかし、夏弥は同時に胸の奥で(うず)くものを感じる。

 ――処断する。

 その単語に、夏弥は不吉なものを連想してしまう。しかし、いまだ現実を見ていない夏弥にどうこう言えるわけもない。とにかく、今は栖鳳楼が夏弥の気持ちを汲んでくれたことに少しだけ感謝したい。

 ここまで栖鳳楼は夏弥の知らないことを色々と話してくれた。しかし夏弥にはまだまだわからないことだらけだ。栖鳳楼の家が魔術師の家系であることは、なんとなくわかったが、それでも栖鳳楼家がこの町にとって重要な存在で、けれどそれが一体どういったものなのか夏弥にはわかっていなかった。

 まだまだ訊きたいことは山ほどあったが、しかし突然割って入って来た闖入者(ちんにゅうしゃ)にそれは阻害される。

 美術室の扉が、音を立てて開いた。


 扉の向こうからやって来たのは、雪火(ゆきび)夏弥の担任の風上美琴(かざがみみこと)だった。いつもの(こん)のスーツに堂々とした立ち振る舞い。美琴は二人を見つけて美術室へと入る。

「今日も残ってたの、夏弥。しかも、美術室に女の子連れ込むなんて、夏弥も結構積極的になったじゃないの」

 意地悪っぽく美琴は笑みを浮かべる。その口調は学校の教師のものではなく、いつも夏弥だけの前に見せる姉貴分の声だった。

 夏弥はむっとして口を曲げる。

「誤解されるような言い方はやめてください。風上先生」

「いつもお姉さん、って呼ぶくせに、こんなときだけ生徒面(せいとづら)?」

 美琴は楽しそうに笑う。

 夏弥は体が急に熱くなるのを感じる。美琴と夏弥が昔からの付き合いであることをこの学校の生徒は誰も知らない。よくつるむ、水鏡(みかがみ)幹也(みきや)にだって、その関係は知られていない。それを、昨日初めて口をきいた栖鳳楼の前で、さらりと美琴は暴露する。夏弥は恥ずかしさのあまり、早くこの場から逃げ出したかった。

「風上先生、見回りですか?」

 夏弥のすぐ傍に立っている栖鳳楼が、普段の優等生の声で訊ねる。

 美琴もいつもの教師の顔で答えた。

「そ。見回りです。下校時間はとっくにすぎてます。早く帰りなさい」

「わかりました。雪火くん、帰りましょう」

 栖鳳楼の手が夏弥の腕を掴む。

 ひんやりとした掌の感触にどきりとした。

 男子のものとは明らかに違う、女子の小さくて柔らかな感触。同じ生き物のはずなのに、どうしてこんなにも作りが違うのだろうと不思議に思える。その弱々しそうな印象とは裏腹に、栖鳳楼は力ずくで夏弥を引っ張ろうとしている。

 その様子を見て、美琴は珍しいものを見たように笑った。

「あら、随分と仲いいのね」

 途端に、栖鳳楼の表情が崩れる。冷静な表情が、一気に氷点下まで下がって、眉は氷のようにきりりとしまる。

「雪火くんには昨日あたしが探し物をしているのを手伝ってもらったんです。今日はそのお礼をしに来ただけです。なかなかお会いできなかったので、美術室まで足を運びました」

 その真剣な表情に、ふざけ半分だった美琴の声も小さくなる。

「あ。そうなんだ」

「そうです。ですから、先生がお考えになっているようなことは、これっぽっちもございません」

 失礼します、と栖鳳楼は美術室を出た。

 遠くで階段を降りる足音が聞こえなくなって、美琴は腰に手を当てる。

「ちょっとやりすぎちゃったかな。やっぱり秀才様はお嬢様かぁ」

 美術室には美琴と夏弥の二人。

 時間は放課後だから、この階には他に誰もいないだろう。

 夏弥はまだ腕に残る栖鳳楼の体温を必死に意識から逸らして美琴を睨む。

「ちょっとじゃないよ。栖鳳楼の奴、本気で怒っちゃったよ」

 言葉にした瞬間、余計に栖鳳楼の手の感触が脳裏をよぎる。

 夏弥より少し冷たい掌。小枝のように細い指、けれど綿のように柔らかい肉の感触。手を離した瞬間の栖鳳楼の顔を思い出して、夏弥の心臓が一度、大きく脈打つ。

 美琴は少しも悪びれるところがない。

「そうね。まあ、しょーがないか。夏弥、あとで適当にフォロー入れておいて」

 美琴のあまりの適当さに、夏弥は不平の声を上げる。

「なんで俺なのさ。美琴姉さんがやっちゃったことなんだから、責任取ってよ」

「そりゃー、大人としてはなんとかしなきゃいけないんだけど、あたしって教師じゃん。教師が生徒に謝るのって、カッコつかないでしょ。だから、ここは夏弥がなんとかしといて。どうせ一緒に帰るんでしょ。男の子なんだから、お姉さんのお願いきいてよ」

 問題を起こした当の本人は、しれっとそんなお願いを被害者である夏弥にした。夏弥は頭を抱えたくなった。確かにこのあと栖鳳楼とはまた会うけど、いや、今のことでもう帰ってしまったかもしれない。どちらにせよ、このあと栖鳳楼にどんな顔をして会えばいいのかわからない。そもそも、問題は夏弥ではなく美琴にあるはずなのに。

 しかし、ここで夏弥は断ることができない。

 それを知っているからこそ、美琴もお願いをしたのだ。

「美琴姉さんって、都合のいいときに都合のいいこと言うよね」

「サンキュ。ちゃんとあとでお礼するから」

 美琴は、いつもの美琴姉さんの調子で夏弥に言った。

「じゃ、夏弥も早く帰ってあげなよ」

 美琴も他の見回りがあるのか、夏弥を残して美術室をあとにした。最後にとんでもない台詞を残してくれたものだと、夏弥は心底溜め息を吐く。

 空は綺麗な夕焼けだった。夏弥が描いている絵としては、最高の風景(モデル)だったが、夏弥は筆を持つ気にはなれない。

 夏弥は片づけをすませて、早く栖鳳楼を追いかけなければと思った。


 学校を出ると、校門のところに栖鳳楼は待っていた。その静かな目に、夏弥はまだ栖鳳楼の機嫌が悪いのだと思って、なんと声をかけていいのか迷う。しかし、栖鳳楼はそんなことには一切触れず、冷静なものだった。

「今夜の戦いが終わるまで、あなたの身に危険が及ばないようにあたしが監視している。だからそれまで行動を共にさせてもらうわ」

 昨日に続いて、今日も男である夏弥は女に守られる。夏弥は咄嗟に反発する。

「いいよ。一人で帰れる」

「そんなに死に急ぎたいの?」

 それを言われたら反論できない。

 夏弥はもうどうにでもなれと思った。

「勝手にしろ。家に帰る前に買い物、寄ってくからな」

 昨日行きそびれてしまったので、夏弥は学校近くのスーパーに立ち寄る。スーパーまでは昨日と同じ道を通らなければならず、またあの男が現れたらどうしようかと思いつつ、今日は栖鳳楼も一緒だから大丈夫のはずだと自分に言い聞かせる。そんな、結局女子に頼っている自分がどうしようもなく情けなく思えてくる。

 この辺りで買い物をするなら、大概このスーパーだ。もっと奥の、バイパスの途中に一回り大きなスーパーがあったが、それは去年潰れて、灰色のコンクリートだけが残っている。駅周辺にもそれなりに大きなスーパーがあるが、そこはさすがに遠い。服がほしいときには駅まで出るが、ただ食料品を買いたいときにはここで十分だ。

 夏弥は買い物かごを持って店内を歩く。その後ろから栖鳳楼が観察するようについてくる。(はた)から見ればどういうふうに映るだろうか。二人とも制服を着ているので、学校帰りだということは一目でわかる。同じ高校のカップルがスーパーに買い物に来る。夏弥はそれ以降の想像を無視して黙って買い物を続ける。

 魚介類のコーナーに差しかかった。ほたての安売りをしていたが、それでも高校生の夏弥にはその値段は高い。鮭の切り身のまとめ買いをして、わかめとこんぶをかごに入れる。

 不意に背後から栖鳳楼が声をかけてくる。

「意外としっかりしてるのね」

 夏弥は食料品コーナーを見たまま答える。

「意外ってなんだよ意外って」

 夏弥の態度を特に気にした様子もなく、栖鳳楼が感心したように続ける。

「男の人でも料理をするんだなぁ、って、そう思っただけ」

 夏弥は手を止めて、振り返る。

「そりゃ偏見だ。一人暮らししてれば料理だって作る。そうしないと生きていけないから、するだけだ」

 夏弥は買い物を続けながら言葉を続ける。

「親父と暮らしていたときだって、料理の手伝いはやってた。親父って、料理が下手くそで、魚や肉は大概焦がしちゃうんだ。だからその頃から、料理については色々試しながら勉強はしている」

 曖昧に頷いて、栖鳳楼は黙る。

 夏弥も買い物に集中していたので、それ以上はなにも言わない。二人はそのまま黙って、夏弥はレジに向かって買い物を終える。最近は物価高騰(ぶっかこうとう)に伴って、レジ袋が有料化しているので、学校の鞄の中にはいつも買い物袋が入っている。

 栖鳳楼から、おばさん臭い、とでも言われるかと思ったら、意外に栖鳳楼は静かだった。

 スーパーを出て、夏弥と栖鳳楼は一緒に夏弥の家へと向かった。家に着いて、食材を冷蔵庫にしまっている途中で、今まで黙っていた栖鳳楼が口を開いた。

「ねえ。どうせならご飯、うちで食べない?」

 突飛(とっぴ)な提案に、夏弥は首を(かし)げる。

「は?」

「家に帰る用があるの。着替えとか戦いに備えての準備とか。だったらあなたもうちで夕飯にしないかと思って。うちは料理人がいて、一人分も二人分も変わらないから」

 夏弥はしばらく思案する。

 このまま家で食事にするつもりだったが、栖鳳楼が食事に誘ってくれるなら、それもありだと思う。夕食の支度もこれからだし、栖鳳楼の言うように色々と準備があるのだろう。

「別に、いいけど」

 夏弥は冷蔵庫に食材をしまい終えると、鞄だけ置いて栖鳳楼と一緒に彼女の家へと向かった。

 栖鳳楼の家は昨日見たけど、改めてその大きさに仰天する。栖鳳楼の家は夏弥の高校の校門からまっすぐ出たところの、私有地だらけのかなり奥にあって、栖鳳楼の家に辿り着く途中にお寺や墓地をいくつも見た。

 家の周りをぐるりと塀で囲まれていて、外からでは中の様子は窺えない。いつの時代に作られた家だろうか、家の前には重厚な門がおかれて、中に入るには、そこだけインターホンという文明の利器(りき)が設置されていて、中の人を呼ばなければ家には入れない仕組みになっている。

 夏弥の心臓は激しく脈打って、緊張のせいか料理の味もまともに覚えられなかった。栖鳳楼の支度が終わるまで、夏弥は昨日通された客間で待たされた。時折、潤々(うるる)がやって来てお茶を持ってきてくれたが、夏弥はじっと座ったまま手をつけられなかった。

 もうどれくらい経っただろうかと夏弥は自分の時計を見ると、もう九時半になっていた。まだかかるのかと思っていた頃に、廊下側の障子が開いた。栖鳳楼が、着替えをすませて立っている。

「支度ができたわ」

 下は海のように濃い青のスカートに、上は清潔感のある白いシャツ。首元に細いオレンジのリボンを巻いて、髪は大人しい黒いリボンでポニーテールにまとめている。

 短く、栖鳳楼は告げる。

「行きましょう」

「まだ時間あるだろ」

 約束の時間は十一時。ここから学校近くの川原までゆっくり歩いても三十分。十時には着くから、川原に行っても一時間くらい時間がある。

「どうせすることもないのだし、ここにいるよりは川原にいたほうが集中できる」

 栖鳳楼の希望で、結局家を出ることになった。家を出るときに、二人を見送ってくれたのは潤々だった。

「いってらっしゃい」

 笑顔で言われて、夏弥はぺこりと頭を下げる。

「行ってきます」

「…………」

 栖鳳楼は無言で、そのまま二人は男と約束した川原へと向かう。

「で、なんだよ。それ」

 川原に向かう途中で、夏弥は栖鳳楼が手にしている細長い棒を見ながら訊ねる。形からして刀のようだと思った。

「栖鳳楼家に代々伝わる神具(しんぐ)獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟。宮廷の時代、栖鳳楼家がこの土地の管理を任されたときに(たまわ)った希代の名刀。それを、栖鳳楼家独自に魔力を注ぎ込んで、切れ味と魔術を極限にまで高めた、この世に唯一無二の宝刀よ」

 さらっと、そんな答えを返す栖鳳楼。

 夏弥は理解が追いつかず、頭が真っ白になりかけた。宮廷の時代というが、それは一体何百年前の話だ。もしかしたら千年以上前の話かもしれない。

 歴史的に、十分価値のある品だ。美術館に飾ってあるような、そんな品物かと夏弥は想像する。それが、夏弥の目の前にあることが信じられない。

「そんな高価なもの、勝手に持ち出していいのかよ」

 思ったままを言うと、栖鳳楼はどこまでも自然に返答する。

「問題ないわ。だってあたしは栖鳳楼家次期当主だもの」

 夏弥は思わず訊き返す。

「へ?」

 栖鳳楼は不服そうに眉を寄せる。

「本当よ。現当主である栖鳳楼公嗣(きみつぐ)からご指名をいただいているわ。名目上は現当主補佐役だけど、栖鳳楼家の権限や職務はほとんど一任されている。実質的に栖鳳楼家、ひいてはこの町の魔術師を統括しているのは、あたしよ」

 ぷい、と栖鳳楼は顔を背ける。

 夏弥は、まだ信じられない。

 今どき、当主だとかそういう呼び名もぴんとこなかったが、なによりこの町全体を管理しているというところは信じがたい。夏弥と栖鳳楼は同い年で、ただの高校生だ。そんな特別な存在ではない。昼間は学校に行って、夜になったら家でご飯を食べて、風呂に入って、眠って。また朝を迎えて朝食を済ませて学校へ向かう。学校がなければ宿題をしたり、買い物に出かけたり、特に理由もなくあちこちへ出かける。

 そんな普通で、特別なことなんてなにもない。それが、だから、夏弥は栖鳳楼が自分とは違う存在なのだと理解できなかった。

「次期当主って。おまえまだ高校生……」

「これは栖鳳楼家の決定事項。もう揺るがないし、覆らない。あなたが口出しすることじゃないわ」

 きっぱりと、断言する栖鳳楼。

 その横顔は気丈で、しかしどこか寂しそうな色をしている。

 夏弥は耐えられなくなった。なにかを言わなければと、そんな衝動に駆られる。しかしなんと言っていいのかわからない。夏弥にできたのは、ありきたりな台詞を口にするだけだ。

「大変、じゃないのか。その、次期当主の仕事って」

 自分でも、軽率な発言だったとは思う。けれど、夏弥にはこれ以上なにも言うことができない。

 栖鳳楼は少し目を伏せて、答える。

「小さい頃から次期当主候補として教育されてきた。だからいまさらね。むしろ、次期当主に決定して楽になったくらい。誰もあたしを子どもとして扱わないから」

 栖鳳楼は、乾いた笑みを見せる。

 楽になったと言った。

 けれど、それは本当なのか。

 夏弥にはわからない。

 次期当主だと言われることが、その言葉の意味が、町一つをまだ高校生の身でありながら背負わなければいけない、その重みが。

 もう六月だというのに、今夜は冷たい風が吹く。二人はそれっきり押し黙って、夏弥は歩きながら寒いと思った。


 夏弥がいつも水鏡と待ち合わせにしているミラーの角の近くに、細い道に入る脇道がある。その道は右手に昨日倒壊したはずのマンションが建っていて、左はガードレールもなく、坂を下ればそのまま川原に繋がっている。

 夏弥はいつマンションが倒壊するかと冷や冷やしたが、どうやらしばらくは本当に崩れたりはしないようだ。

 この辺りに街灯はなく、近隣の家もカーテンが閉まってるせいで暗い。石ころだらけの川原の隣を静かに川が流れている。

 夏弥と栖鳳楼が川原に下りると、橋の下から黒い影が現れた。

「早いじゃねーか。約束の時間まで、あと一時間はあるぞ」

 月明かりに男の姿が浮かぶ。昨日の男だ。昨日、夏弥を殺そうとした、魔術師。

 夏弥の体を緊張が走る。隣の栖鳳楼は静かに男を見据える。

「準備は済みました。あなたは?」

「いつでも、かまわない」

「では始めましょう――」

 栖鳳楼は(さや)から刀を抜く。

 夏弥は少し離れたところから二人を見守る。抜き放たれた刀は真剣だ。夏弥は刀には詳しくないので、それが特別な刀なのかはわからない。

 けれど。

 ――美しい、と思った。

 抜き身の刀は月光を照り返し、暗闇の中でも冷たくその存在感を示す。その刀が、今まで数多くの血を吸ってきたとしても、その光は白く、汚れがない。栖鳳楼の後ろ姿は凛々(りり)しく、(いにしえ)の剣客のように。

 でも。

 それは。

 どこか、(いびつ)――。

 夏弥を襲った魔術師のほうにも動きがある。魔術師は右手を隣の闇に向けて突き出した。

「――〝(ゲート)〟」

 闇の中に、さらに深い深淵(しんえん)が覗く。

 ドクン、と夏弥の鼓動が高鳴る。

 ぞくり、と夏弥の背中を寒気が走る。

 深淵の底、深い深い暗黒の底で。

 (うごめ)く影がある。

 それは、眼だ。

 無数の眼。

 爛々(らんらん)と輝く、血に餓えた眼。

 その奥に。夏弥はもう一人の気配を感じた。

 ――それは禍々(まがまが)しく、他のどんな獣よりも獰猛(どうもう)で。

 しかし。

 誰よりも美しく、気高い――。

 男は深淵に、短く命じる。

「〝解放(オープン)〟――」

 刹那。

 深淵から異形の軍隊が放出される。

 なんと形容すればいいだろう。ゾンビの群れ。オークの集団。人の形をしているが、人の姿をしていない。世界に近い存在でありながら、決して世界にはなりえない紛い物。

 それを目にして、しかし栖鳳楼は動じない。

 深く息を吐いて、剣先に意識を集中させる。

「――――――――」

 栖鳳楼の持つ刀、〝獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟が姿を変える。

 刃渡り二メートル、厚さだけで夏弥の拳くらいはある。刃は白く(きらめ)き、剣先には陰陽(おんみょう)太極(たいきょく)が施されている。

 なんの変哲もない、ただの刀だったそれが、一瞬にして巨大な剣へと変貌(へんぼう)を遂げる。栖鳳楼は右足を一歩引いて中段にかまえる。

「――参ります」

 静かに、迅速(じんそく)に、それでいて華麗(かれい)

 異形の兵士たちの群れの中へ、栖鳳楼は踊る。

 ――栖鳳楼が刀を振るう。

 周囲を突風が荒れる――。

 風刃に巻き込まれて、異形の軍隊は半分が消し飛んだ。

「くっ……!〝不死軍団(アンデッド)〟!」

 魔術師の命令に応じて、深淵からさらに倍以上の異形の群れが召喚される。異形の群れは血走った眼で栖鳳楼へと襲いかかる。

 ――結果は大して変わらない。

 栖鳳楼が刀を振るい、〝獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)〟が突風を巻き起こし――。

 不死軍団(アンデッド)は塵も残さず世界から消える。

 一撃、二撃、三撃…………。

 異形の兵士たちは加速的にその数を減らしていく。

 荒れ狂う刃の嵐に、しかし夏弥以外にこの異常を知るものはいない。この周囲は栖鳳楼が張った強力な結界のために、外界との関係が途絶えている。

 音は漏れず、見ることもできない。近づこうとするものには、無意識下で情報改変が起こり、決して近づかせないように命令が下る。

 栖鳳楼家次期当主にぬかりはない。栖鳳楼家の役割は、この町に住む魔術師を管理・監視すること。魔術の存在は決して一般人に知らせてはならない。その秩序を乱すものがいれば、例外なく処断する。

 ――それが栖鳳楼家として生まれた、次期当主たる栖鳳楼礼の役目。

 その一撃で、不死軍団(アンデッド)は全て世界から消えた。

 風刃の隙間から、魔術師は栖鳳楼を見た。

 荒々しい剣筋。不死軍団(アンデッド)を一瞬で無に帰す圧倒的強さ。その強さに恐怖するよりも、魔術師は栖鳳楼の美しさに見とれていた。それは魔術師としての、己よりも高位の実力を持つものへの憧憬(どうけい)――。

 魔術師の目と、栖鳳楼の瞳が一直線に結ばれる。その瞳は殺意のこもった冷たい淡いブルー。その瞬間、魔術師は戦慄(せんりつ)し、同時にそんな己自身を叱咤(しった)する。

「ちっ……!」

 魔術師は深淵に向かって右手を差し出す。

 魔術師の魔力に応じて、深淵の底から影が召喚される。

 それは巨大な影だった。川原に立ったそれは橋を通り越して、周囲の住宅と同じくらいの背丈をもつ。

 暗緑色の皮膚の上にはバツ印に鎖が交差して、右手にはその巨躯(きょく)と同じ大きさのこん棒が握られている。不死軍団(アンデッド)以上に醜悪(しゅうあく)なその顔は、人ではなく豚のようだ。

 魔術師は召喚された異形の巨人に強く命じる。

「やれ。〝巨人兵士(トロール)〟!」

 緩慢な動きで、巨人兵士(トロール)は栖鳳楼に向かって駆け出した。

 栖鳳楼もまた、巨人兵士(トロール)に向かって駆け出す。一人と一つの距離が縮まって、巨人兵士(トロール)は栖鳳楼目がけてこん棒を振り下ろす。

 大きな揺れが、夏弥のところまで届く。あまりの揺れに、夏弥はその場に膝を折る。衝撃で川の水が宙を舞って、水しぶきが橋の上まで上がる。

 しかし、どれほど被害が出ようとも周囲の住民、あるいは偶然通りかかった人には気づかれることはない。今この場所は一般人とは隔離された異界だからだ。

 栖鳳楼はこん棒が振り下ろされる直前、地面を蹴って巨人兵士(トロール)の足元へと跳んだ。巨人兵士(トロール)が彼女を見失っている隙に、栖鳳楼は巨人兵士(トロール)の足に獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)を突き刺す。

「――――」

 意識を集中させる。

 剣先に魔力が流れ、魔術が爆発する。

 ――巨人兵士(トロール)の体の中を風刃が駆け抜ける。

 爆発。

 巨人兵士(トロール)の体は粉々に砕けて、肉片を飛び散らせて、血の雨を降らせる。

 夏弥は咄嗟に目を瞑って、頭を腕で守る。幸いにも、巨人兵士(トロール)の肉片は落ちてこなかったが、巨人兵士(トロール)の血がべったりと服に染み込む。

 しかし、魔術的に構築された巨人兵士(トロール)の体は、その維持魔力を失ってこの世界から消える。異形の巨人の死体は、一〇秒ほどで世界から消えてなくなる。

 ぽっかり空いた闇の中で、魔術師は栖鳳楼の姿を見る。白い刃を手にして、瞳は敵を見つけて殺意に細まる。

「……!」

 魔術師は深淵に向かって手を伸ばす。新たな異形をこの世界に召喚するためだ。しかし、魔術師の魔力に、深淵は応えてくれない。

 焦ってさらに意識を集中させるが、闇はぴくりとも動かない。

 魔術を行使するには、魔術を構築する術式と魔術を駆動させるための魔力が必要。魔術師は、先の召喚で、深淵という術式が必要とする魔力を失っていた。魔術師にはこれ以上異形を召喚するだけの魔力がないのだ。

 栖鳳楼は魔術師に向かって駆ける。

 魔術師は咄嗟に自身の魔術を発動させようと右手を向けたが、間に合わない。

 魔術師の体を衝撃が走る。魔術師の意識は、そこで途絶えた。


 男は意識を取り戻す。

 気を失っていたのは、ほんの数秒くらいだろう。暗いせいで星の明かりが一つ一つ見える。月はない。月のない夜は、どうしようもなく胸の奥が(たかぶ)る。その高揚感が、今はない。ただ、空回りしたように(むな)しいだけ。

「…………」

 仰向けになった男を、一人の少女が見下ろす。

 男の体を戦慄が走る。毛穴が一斉に開くような、緊張感。けれど体は動かず、男は餓えたように少女を凝視する。

 すっ、と。

 男の胸に刃が触れる。

 白く、巨大な刀。

 その先端から火花が散る。

「――――っ!」

 男は声もなく呻く。

 火花が消えて、少女は冷たい声で呟く。

「――まだ結界を隠していたとはね」

 男は奥歯を噛む。

「あなた、名前は――?」

 少女に問われて、男は乱暴に答える。

「死んで(さら)す名前はねーよ」

 冷徹な少女の顔が、途端に笑みを浮かべる。全てを見透かし、わかっていながら黙って見下ろすような、残酷(ざんこく)無垢(むく)な笑み。

「家の名前を知られたくないの?親孝行なのね」

「……そんなんじゃない」

 そう。そんなんじゃない。

 ――魔術師は家系を重んじる。

 一つの魔術を大成させるには相当の年月を要する。一つの魔術を生じて、それを確立して、発展させる。そのためには一代だけでは時間が足りない。

 よって魔術を習うものはほとんどが魔術家の血を継いでいる。そのため、魔術師にとって家の名前は重要な意味をもっている。家の姓だけで、どういった家系で、どのような魔術を研究しているのか、どのような歴史をもつ家なのか、全てが知られる。

 故に、魔術師は己の本名を語らないことが多い。通り名で呼ばれることが多く、通り名が多いほど、その魔術師の実力が知れる。

 男が自分の名前を語らないのは、そんな自分の家のことを重んじたわけではなく、ひとえに自分の、魔術師としての誇り(プライド)が許さないだけ――。

 だから、男は負けてなお生き残ることを、潔いとは思わない。

()れよ。俺は、負けた。生き恥は、曝せない。〝エデン〟に選ばれただけで、十分だ」

 少女の顔から笑みが消える。

 その瞳は、ただ冷たい。

 同情もなく、殺意もなく。

 それは無感動な瞳。

「…………」

 少女は冷たく男を見下ろして、白い刃を握る。

 ふっ、と。

 獄楽閻魏(ごくらくえんぎ)が元の大きさへと戻る。

「あれでは、首は切りにくいの」

 ただ、それだけ。

 栖鳳楼は男の首筋に刃先を当てる。

 きん、と、冷たい感触が男の首筋を()でる。

 ――恐怖はない。

 ただ心地いい――。

 死への恐怖はない。

 ただ、改めて敗北を認識するだけ。

「……」

 男は目を瞑る。

 すっ、と。

 首筋から冷たい感触が消える。

 男は想像できた。

 少女が刀を上げる。

 おそらく、上段。

 狙いは、己の首。

 刃が闇夜に白く光る。

 少女は、憐れみもなく、殺意もなく。

 なにも感じない。それは人形のように。

 ただ人を(あや)める道具のように。

 少女の瞳に感情はなく。

 まるで計算されたように、男の首を()ねる。

 男は待った。

 自分の首に、一陣の風が吹くのを。

「おいっ!」

 しかし、それは起こらなかった。

 夏弥は栖鳳楼が刀を振り上げたのを見て、慌てて駆け寄る。

「栖鳳楼。おまえ、なにやってんだ」

 悲鳴のように。

 夏弥は栖鳳楼に訊く。

 栖鳳楼は決して振り向かず、男を見下ろしたまま感情なく答える。

「勝負はつきました。だから終わりにします」

「だからなにやってんだって訊いてんだ!」

 夏弥は叫んだ。

 それは、悲鳴のように――。

 栖鳳楼は横目で夏弥へと振り返る。

 その瞳にはどんな感情も読み取れない。夏弥は、しかし(ひる)まない。もはや(おそ)れず、しかし(おそ)れていた。

 ぽつり、と。

 栖鳳楼は呟くように告げる。

「殺します」

「――なんだって?」

 栖鳳楼は男の首筋に刃を向けたまま、夏弥へと振り返る。

 その光景は、ただ異常――。

 月のない、漆黒の夜。

 少女は刀を持って、(たたず)む。

 その瞳に年相応の感情はなく、刃は倒れた男の首筋に触れる。

 その異常な光景が、当たり前のように思えてしまう、そんな異常――。

 栖鳳楼の言葉は小さく、しかし夏弥の耳を執拗(しつよう)に震わせる。

「殺します。勝負はついた。だから、殺すんです。生きていていいのは、勝者だけ――」

 なんて、残酷――。

 その一言は、致命傷なまでに、残酷だ。

 ギリ、と、夏弥は奥歯を噛む。

「そんなの……」

 反射的に叫ぶ夏弥。

「そんなの、いいわけない。決着がついたなら、これ以上はなにもする必要ないだろ。そんな簡単に、人を殺していいわけがない」

 人殺しはいけないことだと、夏弥は信じている。

 どんな理由であれ、人殺しは罪だ。

 人の命を奪うような奴を、夏弥はどんな奴だって許せないし、許さない。

「…………なにも知らないくせに」

 冷たい。

「なにも知らないくせに。知ったようなことを言わないで。あなたに、魔術師のなにがわかるの。この町を任されるということがどういうことかも知らないで」

 冷たい声。

「魔術師の存在を、一般人に知らせてはならない。魔術の存在を世間に知らしかねない危険人物は、(ただ)ちに始末する。それが、魔術師の(おきて)

 凍える声で、栖鳳楼は告げる。

 夏弥は決して止まらず、栖鳳楼に訴える。

「知るかよ。そんなこと。関係ないだろ。そいつは誰にも魔術師だって知らせていない。魔術師(おれ)以外には、ばらしていないんだ。俺は魔術師だから問題ないって、おまえ言ってたじゃないか」

「不用意に〝エデン〟の存在を見られる。そんなものを、放っておけるわけがない」

「でもそいつは見られちゃいないんだ。問題はないだろう」

 なんて、傲慢(ごうまん)――。

 あんなに魔術師であることを認めなかった夏弥が、人の命を人質にとられた途端にあっさりと魔術師であることを認める。

 なんて、好都合――。

 それは、人殺しはいけないという、綺麗な自分を通すための自己弁護。

 自分でもわかっている。夏弥はただ、人が死ぬのを見たくないだけだ、と。でももう、止まらない。もう、後には引き返せない。

 夏弥はどうあっても、あの男を殺させたくなかった。

「――――――」

 ぞくり、と、その場の空気が重くのしかかる。

 なにも変わらない光景に、しかし栖鳳楼のもつ雰囲気だけが鋭利な刃物のように研ぎ澄まされる。

「――魔術師の戦いは、その家の名を背負う」

 夏弥は眉を寄せる。

 栖鳳楼がなにを言おうとしているのか、わからなかった。

「その家系が、代々研究し、受け継いできた魔術大系を、魔術師とは生まれた瞬間から背負う。魔術師にとって敗北は、自分だけでなく、自分の先祖まで侮辱されたも同じ。――だから魔術師は、敗北した瞬間に死んでいるの」

 夏弥の背中を悪寒が走る。

 背後からナイフを突きつけられたような、絶対零下の寒気。

 栖鳳楼は憐れむように、優しく、夏弥を(さと)す。

「わかるでしょう。彼はもう、生きている理由がないの」

「…………わからねーよ」

 夏弥は拳を握る。

 今は、刺激がほしかった。

 自分の信念が揺るがない、確かな感触。

 夏弥は()える。

「生きている理由なんて、なんでそんなものが要るんだよ。生まれたから生きているで、それでいいじゃないか。生きているから生きているで、なにがいけないんだよ。誰にも、誰にだって、殺される理由なんてないはずだ。殺していいとか、死んで当たり前なんて、そんなの、あるわけがないんだ」

 欺瞞(ぎまん)だ。

 そんな聖人君主みたいなこと、夏弥は本気で思ってはいない。

 ただ自分の都合を押し付けたいだけの、上辺だけの言葉。

 人が死ぬのは見たくない。人殺しなんて、起きてほしくない。人殺しは罪だ。人が死んだら、わけもなく悲しい。

「そんなの――」

 栖鳳楼は口を開きかけて、すぐに言葉を失った。

 栖鳳楼の刀の下で、男の右手が光を放つ。

「……!」

 誰もが驚いて、目を見張る。

 男の右手、それは〝刻印〟。

 刻印が光を放ち、それは生きているように蠢いて、男の手の甲から離れた。

「俺の、刻印……」

 力なく、男は呟く。

 刻印は闇夜を漂い、すっと夏弥の前に飛んでいく。

「え……?」

 誰もが目を疑った。

 刻印は夏弥の右手に張りついて、光を失う。

 夏弥の右手には、禍々しい模様が浮かび上がる。

「…………」

 一瞬だった。

 まるでなにごともなかったかのように、刻印は夏弥の右手で静かになった。

 それは、世界が夏弥を認めた瞬間――。

「俺って、魔術師だったんだ」

 ぽつりと、夏弥は呟く。

 改めて、夏弥は認識する。

 ――俺って、普通じゃないんだ。

 これが、夏弥にとっての楽園(エデン)争奪戦、最初の夜だった。


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