第二章 日常/非日常
夏だった。
夏弥は父親と一緒に縁側にいた。
その日は夏祭り。
一通り出店を回ってきた二人は家に帰って涼んでいる。二人の間には冷えた西瓜が切ってある。
まだ子どもだった夏弥は、三つ目の西瓜にかじりつく。口の周りが赤い果肉に汚れるが、気にしない。口の周りが涼しくなって、気持がいいくらいだ。
季節は、夏。
父親は夏弥に浴衣を着せてくれた。
子ども心に、普段着ない浴衣というものに興味が湧いた。締め付けられる帯も、足の指の間に食い込む草履も、気にならなかった。好奇心のままに出店を回って、まだ走り回れる気分だった。
ヨーヨー掬いをやって、射的をやって、お面を買って、綿菓子を食べる。最後には神社を回って、父親に言われるままにお祈りをした。
「二礼二拍手一礼」
正月でも、夏祭りでも、父親は夏弥にそう教えた。
子どもの夏弥にはその意味がわからなかったけど、夏弥は言われるままにそうした。
「カヤはどんなことをお祈りしたんだい?」
帰りがけに、父親は夏弥に訊いた。
夏弥は素直に答える。
「明日もいいことがありますように」
父親は笑った。
お祈りは、人に話したら叶わないのだと、子どもの頃の夏弥は知らなかった。だから素直に答えた。
それから、夏弥は決まってこう訊いた。
「親父はなにをお願いしたんだ」
父親は年相応の笑顔で答えた。
「お願いはしていない。ただ、今日もいい日にしてくれて、ありがとう、と言っただけだ」
夏弥は口を尖らせる。
「へんなのー。神社はお願いするところだろ」
神社にお参りするということは、神様にお願い事をしに行くことだと、子どもの夏弥でも知っていた。
しかし父親は子どもの夏弥に諭すようにこう答える。
「神様はいつもみんなのお願いを聞いてくれるんです。お願いばかりしていたら、神様だって疲れてしまう。だから、僕は神様にお礼を言うことにしているんです。いつも幸せをありがとう、って」
お店を一通り回って、神社のお参りをすませると、父親は夏弥を連れて家に帰った。その頃は近所の友達と遊ぶより、こうして父親と二人ですごすことのほうが多かった。
友達と遊ぶのは、もちろん楽しい。
でも、父親と一緒にいるほうが、もっと楽しい。
理由は、特になかった気がするけど、楽しければ、それで満足だった。
家に着くと、父親は冷やしておいた西瓜を切ってくれた。夏弥は夢中になって、西瓜を頬張った。真夏の季節でも、夜の縁側はとても涼しい。西瓜を食べていると、もっと気分がよかった。
そんな夏弥を見て、父親は優しく注意する。
「カヤ。あまり食べすぎるとお腹を壊してしまいますよ」
「平気だい。そんな心配するんだったら、親父も食べればいいんだ」
「そうですね」
父親は初めて西瓜を手にした。
その頃には、夏弥は五つ目の西瓜を食べきって、黒い種を庭に向けて勢いよく噴き出していた。
父親は、注意するでもなく、ただ嬉しそうに微笑んで西瓜を食べる。
「カヤ」
不意に、父親は夏弥に言葉を残す。
「カヤ。おまえは、人から感謝される人になりなさい」
夏弥は六つ目の西瓜に手を伸ばそうとして、手を止めた。まじまじと父親の顔を見上げて、不服そうに口を尖らせる。
「なんだよ。親父は俺に神様になれ、って言うのか?」
さっきの父親の話を思い出して、夏弥はそんなことを口にする。
父親は笑って、首を振る。
「そうじゃありません。人のために真剣になれる人は、人から感謝されるようになります。だから、カヤも人を傷つけない、人のために頑張れる人になりなさい」
そう、言葉を残す。
夏弥はまだ子どもだったから、その言葉がそれほど重要なことだなんて、知らなかった。こうやって父親と言葉を交わすことが、当り前のように感じていた。
――そう。
夏弥にとって、父親と言葉を交わすことは、特別なことではなかった――。
「なに言ってんだよ、親父。俺が人を傷つけること、大嫌いだって知ってるだろ」
そう、当り前のように夏弥は答えた。
父親は慈しむような目で一つ頷く。
「そうでしたね」
夏弥は手にした西瓜にかじりつこうとして、大きく口を開けた。
ぱっ、と目の前が明るくなって、夏弥は顔を上げる。
「あっ。親父。見ろ。花火だ」
夏の夜空を彩る炎の花。
海に揺れる蛍火のように綺麗だ。
太鼓のような音が空いっぱいに広がる。
夏弥は思わず声を上げていた。
「すげー」
父親もその光に感嘆の声を漏らす。
「本当に、きれいですね」
「うん。すげー」
噛み合わない言葉。
それ以降、会話は途切れて、二人はただ夜空を彩る花火に見とれていた。家の庭でやる家庭用の小さな花火とは違う、視界全部を埋め尽くすような強烈な光に、二人は言葉を失った。
季節は、夏。
その日は夏祭り。
雪火夏弥と雪火玄果の大切な思い出の一風景――。
夏弥は布団の中で目を覚ました。
天井で蛍光灯が白く光っている。天井は高く、部屋は広い。一部屋だけで、夏弥の居間の四倍くらいの広さがある。古い木造住宅らしく、天井には夏弥の家と同じように木目が見える。周りを障子で塞がれていて、下は染み一つない綺麗な畳。磨き上げられた漆の柱に、つい見とれてしまう。
「…………」
夏弥は体を起こした。
触った布団の感触があまりにも柔らかくて、布団に入っていたという事実を一瞬忘れそうになる。
服はブレザーのままだった。まるで自分の家ではないようだと呆然と思って、自分の家であるはずがないと唐突に理解した。
障子の開く音が聞こえて、夏弥は振り向いた。女の人が障子の向こう側に立っていた。服の上にエプロンをつけていて、頭の左右に赤いリボンがよく似合う。頭の上には猫みたいな白い帽子を被っていて、夏弥よりも年上のようだが可愛いという形容詞がぴったりくる女性だ。
「あっ。気がついた」
まるでイメージどおりの可愛らしい声で女性は言った。
女性は障子を閉めて夏弥のいる布団までやって来る。
「あ。はい」
つい敬語になってしまう夏弥。
こんな広い部屋の中、可愛い女性と二人きりという状況は、夏弥の心を不安定にさせる。
女性は布団のすぐ隣に腰をおろして、夏弥の顔を覗き込む。柔らかそうな頬が近づいてきて、夏弥は反射的に身を引いた。
「どこか痛いところはない?」
甘い囁きにしか聞こえない。
夏弥は理性を総動員して女性に答える。
「はい。大丈夫みたいです」
「よかった」
女性は目を細めて笑った。
反則的に可愛いと夏弥は思った。
自分の体がのぼせたように熱かった。もはや布団の中にいるのも暑くて仕方がない。さっきまであった頭痛は木っ端微塵に消し飛んでいた。
女性はすっと立ち上がって、またにっこりと笑う。
「待ってて。今、アーちゃん呼んでくるから」
女性が部屋を出て行った後も、夏弥はしばらくまともな思考ができなかった。
つい本音が出てしまいそうで、慌てて言葉を飲み込んだ。夏弥は暑苦しい布団から抜け出して、辺りを見回した。
どう考えても、ここは夏弥の家ではなさそうだ。だとすると、ここは女性の家だろうか。だとすると、夏弥は一人、女性の家にお邪魔しているということになるのか。そもそも、どうして夏弥はこんなところで、しかも眠っていたんだ。
いろいろ考えることやツッコミどころはあったが、それらが思いつく前に再び女性がやって来た。
「アーちゃん、着替えて来るから。居間で待っててもらえる?」
女性に言われるままに、居間に通された。居間に来るまでの途中に縁側を通ったが、そこから見える庭は立派な日本庭園で、一高校生にすぎない夏弥がもちえるものではない。
「今、お茶を持って来ますね」
つい正座してしまった、夏弥は一人居間で待たされることになった。
昔の夏弥の家の客間のような雰囲気があるが、やはり夏弥の家のものよりも遥かに広い。むかいの壁には大きな掛け軸が二枚並んでいて、すぐそばには鎧が飾ってある。
この部屋の柱も立派な漆塗りで、年代的な美しさを感じさせる。目の前のテーブルも上等な漆塗りで、曇りのない表面は蛍光灯の光を反射して眩しい。
隣の襖も手入れが行き届いているのか、新品のように汚れがなく、それでいて時代を感じさせる凝った絵が描かれている。
天井のほうへと目を向ければ、これまたどこかの職人が用意した立派な絵画が飾ってあった。どれも和風で、山だとか鷹の姿が描かれている。
自分でも場違いなところにいると夏弥は感じた。
それからどれくらい経っただろう。実際には五分ていどだろうが、夏弥には一時間も座っていたような気がする。
障子の奥から現れた少女の姿を目にして、夏弥は悪い意味で心臓が飛び跳ねた。
――自分を殴り飛ばした女が現れた。
少女は何食わぬ顔で夏弥の目の前に座った。
「お待たせ」
さらりとそんなセリフを吐いた。
どこぞのお嬢様よろしく、優雅なものだ。
夏弥が気絶する前までのブレザーではない。黒いフリルつきのスカートに、上はやや暗い茜色のブラウスだ。リボンも変えたのか、確かさっきは赤だった気がしたが、今はおとなしめのスカイブルーで、やっぱりポニーテール。
細い目はさっきの女性と違って、どこか寒々しい印象がある。
「もう大丈夫なの?」
静かに彼女は訊ねる。
心配しているというより、ただ確認するだけの冷やかな言葉。
「ああ」
夏弥も、反射的に乱暴に答える。
そう、と彼女は一言頷く。
「早速だけど、あなたの見たものについて話してくれない」
いきなりだな、と夏弥は少々不満だった。それでも律儀に思い出そうとする自分にさらに嫌気がさす。
「……」
ええっと、そもそも自分はなんで気絶したんだっけ。ああ、そうそう。彼女に同じ質問をされて、咄嗟に自分でもばかなくらい妙なことを口走って――。
――その先を思い出して、夏弥は顔から火が出たと思うくらい熱くなった。
夏弥の表情を読み取って、彼女は不服そうに目を細める。その頬がわずかに赤らんでいる。
「あなた、そんなにあたしを怒らせたいの?」
冷静に、怒りを抑える少女の声。
夏弥は慌てて手を振る。
「ばっ。違うって。あのときは、その、なんっつーか。いろいろありすぎて混乱してて、まともじゃなかったんだ」
少女は夏弥を軽蔑するように見下ろす。そう、見下ろしているように見える。
「そう。じゃあ今はまともなのね」
冷やかな声が頭上から響く。
その態度に夏弥の頭は一気に血が昇って、けれどなんて言い返したらいいのか、うまい言葉が浮かんでこない。
居心地の悪い沈黙を破るように、タイミングよく障子が開いて、さっきの女性がお盆を持って居間に入ってきた。
「お待たせ。アーちゃん来てたんだ」
女性は少女の前に湯呑を置いて、続いて夏弥の前にもお茶の入った湯呑を差し出した。
「どうぞ」
にっこりと笑う女性。
その笑顔に見つめられて、夏弥は別の意味で顔が熱くなるのを感じた。
もう少しだけこの笑顔を見ていたい、と思ったところに、少女の冷たい言葉が女性に向けられる。
「潤々。下がっていて」
はい、と明るい声で答えて、女性は部屋の外の縁側に正座して深々と頭を下げた。
「では、ごゆっくり」
にっこりと笑って、女性は障子を閉める。
居間には、夏弥と少女だけが残った。
「…………」
「…………」
二人とも、湯呑には手をつけない。
妙な沈黙が流れる。
部屋全体がぴりぴりと張り詰めていて、空気が重い。
まるで牽制するように、互いを見つめ返す。
「俺が話す前に――」
沈黙を破って、夏弥が口を開く。
「俺の質問に答えてもらう。ここはどこで、おまえは誰で、あの男はなんだ」
少女は溜息を吐くように肩を落とす。
「簡潔ね。最後の質問以外は答えられるけど、そんなことから教えなくちゃいけないの?丘ノ上高校一年三組、雪火夏弥くん」
夏弥の心臓が大きく跳ねた。
「どうして。俺のこと……!」
夏弥は一度だって少女の前で名乗ったことはない。夏弥の動揺がわかってか、少女はあっさりと答える。
「生徒手帳を見れば、一発だわ」
夏弥は反射的にブレザーのポケットを触る。中には夏弥の生徒手帳が入っている。盗られてはいないようだが、自分が眠っていた間に触られていたというのは気分が悪い。
夏弥の心中を無視して、少女は涼しげな顔をしている。
「それに、そんなものがなくても、あなたのことはよく知ってる。あたしは栖鳳楼礼。あなたと同じ高校の、一年一組。そして、ここはあたしの家」
ああ、それでか、と夏弥は納得する。
放課後、校庭を歩いていた少女は、やはり彼女だった。そこで夏弥はいろいろなことを思い出した。
栖鳳楼という珍しい名前だったのでよく覚えている。夏弥の高校では中間、期末試験の結果が上位の人だけ張り出されるのだが、彼女は今回の中間で一位だった。珍しい名前に加えて、学年トップの成績ということもあり、校内ではちょっとした有名人だ。
それまで夏弥は彼女と会って話をしたことはなかったが、夏弥は中間の結果から勝手に彼女はどこかのお嬢様で、自分みたいなやつとは対等に話ができるような人ではないと想像していたが、その予想は見事に当たっていたわけだ。
見るからに広そうなお屋敷、落ち着いた物腰、まさしくどこかのお嬢様だ。
栖鳳楼はそれで十分とでもいうように、最初の質問に戻る。
「それじゃあ、今度はあなたが話して。あなたはあの男のなにを見たの?」
結局そこに戻るのかと、無駄のない口調に夏弥は機械と話をしているようで目眩を覚える。夏弥はなんとか自分を保とうと反発するように答える。
「別に、なにも見てねーよ」
「嘘」
きっぱりと、断言された。
「なにもなかったら、男があそこまでする理由がない。あなたは、なにか見ている」
じっとこちらを見つめる栖鳳楼。
その瞳には一点の曇りもなく、真実を見抜くように厳しい。
夏弥はさらに居心地が悪くなって、正直に答える。
「本当に、なにも見てない。買い物に行く途中で公園のほうから物音がして、気になったから見に行ったらあの男がいただけだ」
栖鳳楼はそれでも納得していないらしい。夏弥のことを睨みつけるようにじっと見ている。目の前に少女がいるはずなのに、向こうの壁に向かって話しかけているようでくらくらする。
夏弥は思い出そうとして、言葉を続ける。
「暗かったし、本当になにも見えなかった。ただ、まあ、なにか独り言は聞こえたかな」
「なんて言ってた?」
淀みなく、栖鳳楼は訊き返す。
夏弥は、自分でも感心するくらいそのときの言葉を鮮明に思い出せた。
「やった。ようやく解けた」
栖鳳楼はようやく夏弥から視線を外す。考え込むように、目を伏せて黙り込むことほんの五秒。栖鳳楼は呟く。
「なるほど。それが自然ね。あなたは、単に不運だった」
「当たり前だ」
夏弥は口を開く。
「俺はなにもしていない。殺される理由なんて、これっぽっちもないんだ」
強気に、断言した。
そのときのことを思い出したら、夏弥は自然と腹が立ってきた。自分のどこに殺される理由があったというんだ。男の姿を見たからなんて、そんな短絡的な理由が成立していいわけがない。人を殺していい理由なんて、誰にもありはしないんだ。
「もう一つ、いいかしら」
栖鳳楼はさらに訊ねる。
「わたしはあなただけじゃなくて、白見の町の人のことは細かく調べて暗記しているの。それこそ、生い立ちから人間関係、どこに住んでいて仕事はなにをしているのかまで詳細にね。でも、あなたが魔術師だったなんて、初耳だわ。――あなたは、本当に魔術師なの?」
不思議そうに、栖鳳楼は訊ねる。
さっきまでの機械的な質問と違って、心底不思議そうな、目元は怪訝そうであまりいい印象はないが、それでもさきほどまでと違って感情のある栖鳳楼の様子に夏弥は奇妙な感じを覚える。
「違ーよ。あの男が勝手に勘違いしてるんだ。俺は魔術師なんかじゃない」
「でも、男はあなたに呪術を解かれたと言っていた」
夏弥はますます腹が立ってきて、乱暴に答える。
「知らねーよ。なにかされたとしたらナイフで刺されたくらいで、でもそれだって浅かったから、俺は死なずにすんだけど」
「……でも、あなたは、雪火、なのよね」
そう、栖鳳楼は呟く。
「雪火、雪火。そう、雪火……」
その意味を噛み締めるように、何度も何度もその名前を繰り返す。
「あなた、雪火の人なのね」
栖鳳楼はなにかを掴んだように夏弥の顔をまっすぐ見る。
「雪火は魔術師の家系よ。だったら、あなたも魔術師としての血を引いている」
「なっ!」
「もっとも、雪火家は元々白見の人ではないからわたしも詳しくは知らないけど。最近は魔術師としては聞かない名前だからわたしも失念していたわ。ここ一世紀くらいは一人の生存も確認されていなかったから、てっきり滅んでしまったのかと思っていたけど。あなたは、その生き残りというわけね」
栖鳳楼は少しだけ考えて夏弥に訊いた。
「あなた以外に雪火はいるの?つまり、ご家族や親類は」
「俺のこと調べてるなら、知ってんだろ」
乱暴に答える夏弥に、栖鳳楼は当然のように頷く。
「ええ。以前、お父様と二人で暮らしていたけれど、小五の春にお父様を亡くして今は一人暮らしをしている。でもわたしが気にしているのは、あなたは最初からお父様と二人で暮らしていたということ。お母様は?」
夏弥は面倒くさそうに、いつも通りに答える。
「最初からいないよ。親父も本当の親じゃなくて、なんつーか、養子みたいなもんなんだよ、俺は。小さい頃、事故で両親亡くしてさ。それで親父に拾われたってわけ」
「お父様は親戚とかそういう関係の人?」
「なー、なんであんたにそこまで話さなきゃいけないわけ?」
夏弥は乱暴に返した。
別に話していて嫌なことではない。それくらい、自分は乗り越えたつもりだ。だが、あまりにも事務的な栖鳳楼の態度に、夏弥は胸の内が抉られるようで気持ちが悪い。自分が人間として見られていない、そんな錯覚さえ感じる。
「大切なことなの。だから話して」
栖鳳楼はなおも訊ねる。
「……」
夏弥は少しだけ考えた。
初対面の相手にここまで自分の内情を話すのは抵抗があったが、知りたいというのなら拒む理由もない。夏弥は素直に答えた。
「全く関係ないよ。こういう言い方は嫌いだけど、親父と俺は赤の他人だ。どういう経緯かは知らないけど、事故で両親がいなくなった俺を、親父は引き取って面倒見てくれたんだ」
口にしてから、ずきりと胸を締めつけるような痛みが走る。
――そう。
俺と親父は赤の他人――。
雪火夏弥と雪火玄果に血の繋がりはない。あるとすれば、名前だけ。『雪火』という名前だけが、夏弥と父親を結んでいる。
それだけの関係だから、脆くて不安定。
それだけの関係だから、手放したくないほど尊い。
「ふーん」
栖鳳楼は一つ頷く。
「じゃあ、あなたは雪火の血を引いているわけではないのね」
栖鳳楼は考えるように口元に右手の人差し指を添える。
夏弥の目に、その模様がはっきりと映る。
彼女の右手の甲。
なんと形容していいのかわからない。
黒い炎のようなものが彼女の女性らしい白い肌を汚すように侵食している。
模様のような、記号のような、どこかの古代文字のような気もするが、夏弥にはその意味は読み取れない。
禍々しい、まさに刻印がそこに浮かび上がる。
夏弥は、思い切って訊いてみた。
「ちょっと気になったんだけど。それ、なんだ?」
問われた栖鳳楼は意外そうに目を上げる。
「それって?」
「だからそれだ。その右手の甲に描いてある妙な、絵?記号?」
指差されたものを見て、栖鳳楼はぎょっとしたように目を曇らせる。
「あなた、これが見えるの?」
夏弥はわけがわからず素直に頷いていた。
「そりゃもちろん。はっきりくっきりと」
夏弥にはその奇妙な模様が確かに見える。
しかし栖鳳楼にはそれが信じられないようだ。
夏弥は、自分が幻でも見ているのではないかと心配になる。
一〇秒くらいの沈黙。栖鳳楼は溜息のように息を漏らして、頷いた。
「――じゃあ、あなたは間違いなく魔術師ね」
この女、今なんて言いやがった。
――オレノコトヲ〝魔術師〟ダト。
夏弥は反射的に叫んだ。
「なっ。ふざけるな。なんでそうなるんだよ。俺は魔術師じゃない。なんだよ。おまえといい、あの男といい。俺はそんな得体の知れないものじゃない」
夏弥は自分が得体の知れないなにかに覗かれているようで気分が悪かった。自分が自分でなくなる感覚、それを指摘されて、でもそんなはずがないと叫びたい。無性に腹が立って仕方がない。
途端に、栖鳳楼の目が据わる。
「わたしは、魔術師よ」
冷たい声が広い部屋を凍らせる。
「魔術師を侮辱しないでくれる。なにも知らないというのなら、なおさらだわ。あなたに魔術師のなにがわかるっていうの?」
冷たい、氷のような怒りを栖鳳楼は夏弥に向ける。
夏弥はぞくりとする。
――それは、殺意を向けられた恐怖だろう。
あまりの冷たさに、夏弥は胸のうちの燻りが一瞬で凍りついた。自分の中から怒りが急速になくなっていく。
でも、同時に。
ちくりと刺すこの胸の痛みはなんだろう――。
夏弥は申し訳なくて、顔を上げられない。
「……悪かったよ」
顔を背けて呟く。
彼女のほうにも聞こえたのか、栖鳳楼は一息吐く。
「こっちも、ごめんなさい。つい感情的になってしまって」
妙な沈黙が部屋を覆う。
夏弥は居心地が悪くて、それでもさっきのことが引っかかっていたからあまり深いことは訊けない。夏弥は言葉を選びながら、それでも気になることを訊いてみた。
「でも、なんで。俺が魔術師ってことになるんだ」
「〝刻印〟は魔術師にしか見えない。これが見える以上、あなたは魔術師だわ」
「なっ……!」
「でも腑に落ちない」
栖鳳楼は顔を伏せて口元に右手を添える。彼女の右手の甲にはその異様な模様が嫌でも目についた。
「確かにあなたは雪火の名を持っているけど、雪火の血を引いているわけじゃない。だったらあなたはどこの生まれの人?お父様に引き取られる前の姓は?」
訊ねる栖鳳楼に、夏弥は素直に答える。
「覚えてない。昔のことだし、子どもの頃のことなんて全然覚えていない。前の両親の顔だって思い出せないくらいだからな」
夏弥が覚えているのは、育ての親である雪火玄果と会ったときの記憶。
――八年前。
――小二の夏。
漆黒の、冷たい雨――。
ドクン、と胸が鳴る。
チクリ、と胸が痛む。
栖鳳楼の言葉で現実に戻される。
「そう。まあ仕方がないわね。とりあえず、あなたが魔術師だということはわかりました」
「わからねーよ」
当然のように言う栖鳳楼に、夏弥は反抗的に吐いた。
「俺は魔術師じゃない。あの男に恨まれるような理由なんて、ちっともない」
「あら、そう。でも、あなたが魔術師でないとなると、少し面倒ね」
栖鳳楼は役者がかった口ぶりで言った。
「魔術師はね、一般人に自分が魔術師であることを知らせてはいけないの。だからあなたが魔術師でないのなら、このままあなたを放っておくわけにはいかない」
今までと違う優しい声に、夏弥の背中に寒いものが走る。
「どうする気だよ」
「そうね。しばらく軟禁して、口封じをしないといけない。わたしの家はね、代々白見町の魔術師たちを監視する役目を負っている。一般人にばれるようなことがあれば、いつでも手を下してきた」
栖鳳楼は心底がっかりしたように大きく息を吐く。
「本当に、残念ね。あなたに手を加えないといけないなんて」
芝居がかった物言いに、夏弥は内心で歯噛みした。
夏弥は魔術師ではない。しかし、夏弥が魔術師であることを認めないと、栖鳳楼は夏弥に手を加える。
「……どうすりゃいいんだ」
「別になにもしなくていいわ。ただあなたが自分のことを魔術師だと認めてくれればいいの」
夏弥は魔術師であることを認める以外に、方法がないらしい。
「好きにしろ……」
「ええ。そうね。あなたが魔術師なら、問題はないんだからね」
満足したように栖鳳楼は頷く。
夏弥はなんとなく釈然としなくて、彼女になにか言ってやりたくなった。
「その印って、そんなに大事なのか?あの男も、それを見て納得したように行っちまったし」
「ええ。大事よ。今ここ白見の町では、とても大事なもの」
「魔術師と関係あるのか?」
「言ったでしょう。これは魔術師にしか見えない」
「だったら、俺が魔術師なら、そのことを知っていてもおかしくないよな」
「……そうね」
渋々、といった感じで、栖鳳楼は頷く。
「じゃあ、教えてくれよ。なんで俺は殺されそうになったんだ。それが関係しているんだろ?」
一秒置いて、栖鳳楼は静かに答える。
「そうね。でも今はだめ。もう遅いから、明日にしてくれない?」
夏弥は咄嗟に声を上げる。
「なっ。逃げるのかよ」
「逃げないわよ。約束してあげる。明日の放課後にあなたに魔術師のことからこの〝刻印〟のことについて教える。だから今日は帰って」
あっさりと、言われる。
夏弥にはわからないことだらけだ。栖鳳楼は夏弥から色々と聞き出すことができたらしいが、夏弥のほうにはなんの情報も与えられない。はっきり言って、釈然としない。だが時間も遅いことは事実。これ以上は、限界のようだ。
「わかった。今日はもう帰るよ」
「わかってくれて嬉しいわ」
あまり嬉しそうな顔をせず、栖鳳楼はパンパンと手を叩く。
向こうの障子が開いて、そこから最初の女性が姿を見せる。
「潤々。この方をおうちまで送って差し上げて」
「はい」
女性はにっこりと頷く。夏弥は慌てて手を振った。
「大丈夫だって。一人で帰れる」
女の人、しかもこんなかわいい人に送ってもらえるなんて、男としてこれ以上の幸せはないが、夏弥にはそれを素直に喜べるだけの度胸がない。
栖鳳楼は無視するように冷たく言う。
「今は夜一人で出歩くのは危険よ。あの男がまたあなたを襲いに来る可能性だってある。あなたはそんなに死に急ぎたいのかしら」
「うっ……」
栖鳳楼の言うことはもっともだ。最近物騒なのは夏弥も知っている。事実、つい先刻まで夏弥は男に殺されそうになった。一度退却してくれたとはいえ、それは栖鳳楼が間に入ってくれたからであって、一人きりになった夏弥が無事に帰れる保障はない。
「安心して。潤々は頼りになるから」
返答を迷っているうちに、夏弥は女性に手を引かれて玄関へと向かっていた。女性の、滑らかな手の感触にどきりとして、夏弥はそれ以上思考が回らなかった。
――今日は厄日だ。
買い物を忘れる。
買い物の途中で男に殺されそうになる。
女に助けてもらう。
女に殴られる。
女に尋問される。
結局買い物には行けない。
これだけで十分今日が厄日だってことが証明できる。なのに、不幸なことはまだ続く。それは、夏弥だってかわいい女性と並んで歩けるなんて、そうそうできない経験だ。少し手を伸ばせばまた手を握れるけれど、さすがにそんな度胸はない。でもそれだっていい。近くにタイプの女がいて、一緒に歩けるだけで十分じゃないか。
でも。
夏弥にとって、このシチュエーションは羞恥プレー以外のなにものでもない。
――男が女を家まで送るのなら、いい。
でも、男が女に家まで送られるのって、どうよ――。
感情的には至極喜びたいのに、妙な居心地の悪さを感じてなにも話せない。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
しばらく沈黙していた夏弥に、女性はあの柔和な笑みを浮かべて口を開く。
「あたしは潤々。あなたは?」
「ええっと。雪火夏弥です」
咄嗟に答える夏弥。
言葉は最高にぎこちなかったが、緊張していた夏弥には返答できただけでよくできたほうだった。
女性はその柔らかそうな笑顔で微笑む。
「カヤくんか。よろしく」
男に殺されるより、かわいい女性の笑顔で殺されるほうが遥かにいいと思ってしまう。
「ねえ。カヤって、どういう字を書くの?」
夏弥はぎこちないなりに、懸命に答えようと手を動かす。
「夏に、弥生で、夏弥です」
「いい名前だね」
女性に言われると、本当に自分の名前が素晴らしいもののように思えるから不思議だ。胸のうちから込み上げてくるものを感じながら、夏弥も会話を弾ませようと口を開く。
「ウルルさんは、なんていう字を書くんですか?」
「潤すの繰り返しで、潤々。変わってるでしょ」
ウルル。潤々か。
かわいい名前だな、と夏弥は素直に思う。
「ねえ、夏弥くんはアーちゃんとどうして知り合ったの?」
咄嗟に誰のことを言っているのかわからなかったが、なるほど、栖鳳楼「礼」だから「アーちゃん」か。
「たまたまです。買い物に出かけたら途中で変な男に追われまして、そのときに栖鳳楼に会ったんです」
やっぱり敬語になってしまう夏弥。
潤々は心配するように目を大きく開く。
「こんな時間に買い物に出るなんて、危ないよ。最近は物騒だから。でもよかったね。アーちゃんが来てくれて」
微笑んでくれた潤々に、しかし今回ばかりは夏弥は素直に喜べない。曖昧に笑って見せたが、心境は複雑だった。
「その男の人はどうしたの?」
「なんか明日に栖鳳楼が勝負する約束だけして行っちゃいました。栖鳳楼も大丈夫なのかな。あんなわけのわからないやつと勝手に勝負するなんて約束しちゃって」
「大丈夫だよ。だって、アーちゃん強いもの」
そう、当然のように答える潤々。
その笑顔にどきりとした。
その言葉にぞくりとした。
――潤々さんは、栖鳳楼のことを知っているのか。
夏弥は思い切って訊いてみた。
「ねえ。潤々さんは栖鳳楼とは、その、どういう関係?」
潤々は、夏弥の予想と反して、笑顔のまま答えてくれた。
「栖鳳楼のおうちのお世話をさせてもらっているの。栖鳳楼家って、すごく大きなお屋敷なんだよ。夏弥くんがいたところはアーちゃんのための離れだけど、本家以外にもあと五個くらい離れがあるんだよ」
夏弥は頭の中がくらくらしてきた。
さっきまで自分がいたところが離れで、あんな、普通の家よりもずっと大きなものがあと五個くらいあって、さらに同じ敷地内に、きっともっと大きいであろう本家が存在している。屋敷の中には豪華な庭園もあったし、きっと潤々以外にもお手伝いを雇っているのだろう。
この現代社会において、そんな武家屋敷が残っているなんて、軽く時代錯誤だ。
夏弥が驚きのあまり黙っていると、潤々はくすくすと微笑んだ。
「驚いた?」
「ええ。まあ。なんか、別の世界の人間って感じですね。俺みたいな一高校生じゃ、比べものにならないみたいで」
素直な感想が夏弥の口から出てくる。
潤々は、照れるわけでも、偉ぶるわけでもなく、当たり前のように、自然に、夏弥に微笑んでいる。
「これからも、アーちゃんとは仲良くしてあげてね。アーちゃんがお友達を家に連れてきたのって、これが初めてなんだよ」
その純粋な笑顔に、夏弥は自然と頷いていた。
最初は色々と気負いするところがあったけど、道を半分すぎた頃には潤々と自然に話しができている。潤々の笑顔を見ていると、今日がわりといい日な気がしてきた。
家に着いた頃にはすっかり夢心地で、今日の悪夢のほとんどを忘れていた夏弥であった。
翌朝、夏弥は目覚ましの鳴る前に目が覚めた。
結局昨日は買い物に行けず、かれこれ一八時間ほどなにも口にしていない。まだ布団に潜っていたい気分だが、あまりの空腹に眠る気力もない。
仕方がないので起きてみたが、さて朝食はなにを食べようか。冷蔵庫の中を見渡したが、何度見てもサラダぐらいしか入っていない。
とりあえず、ご飯をレンジで温めて、サラダとドレッシングを先に食卓へ運ぶ。コップに牛乳を入れて、温まったご飯を並べる。
――これで普通の食事に見えてきた。
少しご飯を多めに食べてこの朝を乗り切る。
「昼は、購買で買おう」
洗い物をしながら、そんなことを呟く。
二階に戻ってブレザーに着替えて、鞄を持って一階に下りる。居間の時計を見ると、七時半。時間があったのでいつもよりゆっくりと新聞を読んでいたが、それでもまだ時間が余る。もう少し時間をおいてから出てもいいのだが、このままなにもしなかったら空腹で動きたくなくなる。
「ま、たまには早く行って、水鏡を驚かせてやろう」
七時三五分。
雪火夏弥、登校。
家の向かい側では個人経営の酒屋がすでに仕事を開始している。いつもは二階の窓から眺めるだけだが、こうやって直接ビール瓶の入ったケースを運んでいる男の姿を見るのは新鮮だ。
夏弥はいつもの登校ルートを歩き始める。さすがにこの時間では学校に向かう生徒たちの姿はない。
だいたい四五分か、五〇分頃だろうか、夏弥はミラーのある角まで来た。水鏡の姿はない。まあ、当然だ。夏弥だって、いつもは八時二〇分くらいにここに来る。いくら水鏡が早く来ても、さすがに八時前には来ないだろう。
生徒たちの姿もないし、夏弥はミラーにもたれかかって水鏡を待つことにした。
「暇だな」
ついそんな言葉が口を出る。
さて、水鏡はいつ頃来るだろう。夏弥がどんなに早く家を出ても必ず水鏡は待っているから、八時一〇分よりは前に来るのだろうか。だとしたら、あと一〇分か二〇分で来るだろう。
……正直言って、まともな食事をしていないので頭を使いたくない。
夏弥は早く昼になってほしいと願った。そうすれば、昼飯にありつけるからだ。
空を見上げる。マンションに囲まれた狭い空は、昨日と変わらない快晴だ。空の青さが妙に目にしみる。
「昨日、買い物行けなかったもんなぁー……」
改めて、そんなことを呟いてみる。
まともな朝食が食べれなくても、こうやって世界はいつも通り。昨日買い物に行けなかったなら、今日買い物に行けばいいだけの話。焦ることはない。
昨日あんなことがあったとしても――。
慌てて振り返る。
――昨日崩れたはずのマンションが、今でもそこに建っている。
夏弥は愕然とした。
「……どうなってんだ」
目の前に聳えるマンションを見上げる夏弥。
マンションはもう古く、住む人もいないから取り壊そうという話が出ているが、それも長く先送りにされている。いかに劣化がひどいとはいえ、すぐに倒壊するようなものではないから、誰もなにも言わなかった。
倒壊するわけがない。そこに存在していることが普通――。
でも昨日、倒壊した。そこに存在していることは異常――。
「雪火くん?」
背後から声をかけられて、夏弥は反射的に飛びのいた。
水鏡の驚いた表情がそこにあった。
「どうしたの、雪火くん。大声出して」
夏弥は水鏡の姿を認めて、慌ててその場を取り繕う。
「いや、悪い。ちょっとびっくりして」
「びっくりしたのはこっちだよ。雪火くん、今日は早いんだね」
「えっと。今日は珍しく早く目が覚めちゃってさぁ」
「そうなんだ。なにかあったの?」
そこまで滑らかに動いてくれた口が一瞬止まった。
水鏡の不思議そうな顔が覗き込んでくる。夏弥は慌てて言葉を探した。
「いや、昨日買い物行けなくて、ちょっと空腹」
水鏡は心配そうに首を傾げる。
「大丈夫?」
「平気平気。今朝はサラダと、ご飯にドレッシングかけて食べたから」
途端に、水鏡の表情が固まった。
「ご飯に、ドレッシング?」
オウム返しに、呟く水鏡。
夏弥はなんでもないように笑って答える。
「ああ、昔はたまにやったんだよな。買い物行かなくて冷蔵庫が底をついたときに。あれ、結構いけるんだ。塩分と油って、ご飯に合うのかな。ほら、ご飯にマヨネーズかける人っているじゃん。そんな感じ」
得意げになってそんなことを説明する。
水鏡の顔が信じられないものを見るようにどんどんと表情が強張っていく。夏弥は地雷の爆心地にいるみたいに、嫌な汗が首筋を伝う。
「だったら、そっちのほうがよかったんじゃない。さすがにドレッシングは……」
「うっ」
夏弥は言葉に詰まって、なにも言わない。
――確かにその通りだと、夏弥は思った。
さすがに、ご飯にドレッシングはないよな――。
放課後になっても、夏弥の頭には靄がかかったようですっきりしない。授業中は半分ほど意識を別のところにおいていたので、全くと言っていいほど覚えていない。
――昨日までと変わらない、今日。
夏弥は朝の、登校のときに見た光景を思い出す。
水鏡とのいつもの待ち合わせ場所。ミラーのある角。古びたマンション。
深夜の住宅地。怪しい男。倒壊したマンション。
昨日とは違うはずの、今日――。
夏弥がじっと考えに没頭していると、後ろから肩を叩かれて、夏弥は振り向いた。
「どうした?雪火」
そこに見知った男の顔があった。
日焼けをしていない白い肌には傷一つなく、背丈は夏弥よりも高い。縁なし眼鏡をかけたその顔は落ち着いた優等生の表情をしているが、そこに嫌味は少しもなく、むしろ清々しいほどの好青年の雰囲気が漂う。
髪は女子が羨みそうな滑らかストレートで、眼鏡をかけて正しくブレザーを着ている姿はいかにも真面目な優等生だが、眼鏡を外して第二ボタンまでシャツを開けたらどこかの店の売れっ子ホストにしか見えない。
北潮晴輝は丘ノ上高校の三年生で、美術部では数少ない男子部員の一人でかつこの美術部の部長である。他にも三年生がいるらしいが、生憎夏弥はこの人以外を見たことがない。基本的に北潮晴輝は放任するタイプなので、部員の出席率は元々低い。晴輝部長曰く、出展の提出期限さえ守れば何をしていてもいい、らしい。
一応言い足しておくと、北潮晴輝は名字で呼ばれるのを好まない。というより、自分の名前が気に入っているので、ぜひとも名前で呼んでほしいらしい。だから夏弥は彼のことを、晴輝先輩と呼んでいる。
そんな好青年、北潮晴輝が、女子なら一撃で悩殺できそうな悩ましげな表情を夏弥へと向ける。
「なんだ。浮かない顔をして。悩み事か?」
「ああ、いや……」
否定しかけて、夏弥は言葉を飲み込んだ。
「まあ、そんなものです」
晴輝は眼鏡の奥で目を丸くする。名俳優のごとく表情がコロコロと変わり、女子だったならそれだけでくらりときてしまいそうだ。
「珍しく素直じゃないか、雪火。よほどの悩みか?」
夏弥自身も少し意外だった。
数少ない男子部員のせいか、晴輝はよく夏弥にかまってくる。それでも夏弥には先輩、しかも相手は部長ということもあって多少遠慮するところがある。今のように自分の悩みを告白するのはこれが初めてかもしれない。
晴輝は胸の前に左手をおいて、そこに右肘を乗せて額に指を当てるという、なんとも、どこかの名探偵気取りのような格好をしだすが、好青年なので様になっている。
「雪火にとって、わたしに悩みを打ち明けるほどの壮大な悩み。はて、どういったものだろうか……」
考え込むこと五秒。
晴輝は閃いたように右手の人差し指を立てて、その勢いで前髪が軽やかに舞う。あまりのきざな仕草に、しかし好青年なので呆れるくらい似合っている。
「わかった。ずばり、これだろ」
晴輝はすっと小指を突き上げる。
――それだけで部長がなにをいわんとしているのかわかる自分が嫌になる。
夏弥は手を振った。
「いや、そんなんじゃ……。ああ、でも近いっていうのかな」
「なに。魔のトライアングルか?」
意味不明な単語を口にする晴輝。
夏弥の理解が及ばないうちに、晴輝は一人勝手に話を進めている。
「そうかそうか。雪火はもっと奥手かと思っていたが、意外と遊び好きだったのか」
晴輝の妄想の中で、夏弥はどうやら修羅場にいるらしい。さすがに夏弥もしっかりと否定しておかないといけない。生憎夏弥には二股をかけられるほどの度胸も器量もない。そもそもまだ彼女もいない。
「いや、そんなんじゃないですから。……って、なんでそんなに嬉しそうなんですか」
夏弥の言葉を全く無視するように、晴輝はぽんぽんと夏弥の肩を叩く。その顔がいやらしい喜色に塗り潰されているが、好青年なので気にならない。
「いやー、雪火。わたしは応援しているよ。なーに、世間のことを気にせず遊んでいられるのは、青春時代にしかできない。今のうちに悔いが残らぬようにしっかり遊んでおきたまえ。どんな過ちを犯しても気にすることはない。全ては若気の至りだからね。わたしがいつでも雪火の相談に乗ってやろう。そしてどちらか余ったほうをわたしに紹介したまえ」
幸運を祈る、と親指を立てる晴輝。
夏弥は頭痛がした。軽い目眩さえ起こしそうだ。目の前の男を殴り飛ばしてやろうかと思ったが、夏弥はぐっとこらえる。好青年の顔に傷がついたら、世の女性陣から反撃をくらう。このとき夏弥は、先輩を殴ってはいけないという常識をすっかり忘れていた。
夏弥が否定しようとしていたところに、扉が開く音が聞こえて夏弥と晴輝はそちらへと顔を向ける。美術室の扉の前、廊下に、一人の女子生徒が立っていた。
健康的に仄かに焼けた肌、成長期を迎えた女子らしい豊かな曲線を持った彼女は、しかし女子独特の甘い雰囲気を感じさせない、どちらかというとスポーツマンの印象がある。
夏弥とは同学年で、クラスは五組。性格は男子にも女子にも隔たりなく、同じように付き合う快活少女。夏弥の目には男勝りに見える、そのためか女子というより男友達に近い。運動部に入っているといわれたほうが納得するのに、なぜか美術部に所属している。桜坂緋色は、そんな女子生徒だ。
桜坂は乱暴に扉を閉めて、足音を立てるように美術室へと入って来た。
「日が出ているうちから猥談ですか。ああ、やだやだ。男って下品だから本当にやんなっちゃう。やめてくださいよ。恥ずかしい」
ギクリとする夏弥を余所に、晴輝は少しも動じず桜坂に話しかける。
「おお、桜坂くん。遅かったね。今日も忘れものをして、居残りをさせられたのかな」
途端に、桜坂の顔が赤くなる。
<p class=MsoNormal style='text-indent:10.1pt'>桜坂とは二か月くらいの付き合いだが、桜坂という人間について美術部で知らないものはいない。忘れものの常習犯で、授業で出された宿題はやってくるのを忘れるかやってはいるが持ってくるのを忘れたかのどちらか。教科書を忘れることもよくある話らしい。本人曰く、中間の結果が悪かったのはテストの日程を忘れて勉強をしていなかったためらしいが、とりあえずそういうことにしておこう。
桜坂は真っ赤になったまま大声で叫んだ。
「ち、違います。今日は学祭実行委員会で集まりがあったから、それで遅れたんです」
真剣な桜坂を流すように、さらっと晴輝は納得する。
「ああ、なるほど。もうそんな時期か」
丘ノ上高校では、六月の終わりに学祭がある。夏弥はまだ一年生なのでどんなものかわからないが、中学のときのようにそれなりに楽しめるものだろうと勝手に期待している。
桜坂はいつもの調子を取り戻して、得意げに喋りだした。
「実行委員会自体は中間終わってから動いています。今日やっと今年の学祭のコンセプトが決まったので、明日には各クラスに発表されます」
ここで、桜坂は重大発表でもするように殊勝な顔つきになって人差し指を立てる。
「ずばり、今年の学祭は『ひと夏の思い出へのカウントダウン!やっちゃえ青春!』なんです!」
自分の手柄のように胸を張る桜坂に、晴輝は嬉しそうだが心の底でなにか企んでいる、あの素直に直視し難い笑顔を浮かべて頷く。
「ほほう。なかなか面白そうじゃないか。今までは教師の目を気にしているようなコンセプトばかりで、若者らしさが欠けていたからね。今年は期待できそうじゃないか」
「もちろんです。ばっちり期待しててくださいね」
「……それっていいのか?」
一人呟く夏弥。
夏弥の気分とは対照的にハイになった晴輝はさらに思い出したように口を滑らせる。
「そうそう。学祭と言えば、我が美術部でも出展を行う。うちは毎年、部員一人が一作品必ず出展するようにしている」
中学も夏弥は美術部に入っていた。中学のときには学祭は部で模擬店を出して、いつもトウモロコシを焼いていた記憶がある。しかしここ丘ノ上高校の美術部では模擬店は開かず、代わりに絵画の出展が行われる。
<p class=MsoNormal style='text-indent:10.1pt'>夏弥が入部したときに学祭のときの説明をされていたが、その内容に夏弥は少なからず興味があった。自分の作品をコンクールに送ることは今までも何回か経験しているが、直に人に見せるというのは初めてかもしれない。
晴輝はさらに説明を続ける。ここからは夏弥のまだ訊いていない内容だった。
「足を運んでくれた人には誰の作品が一番素晴らしいか一人一作品を選んでもらって、もっとも優秀な生徒には豪華賞品をプレゼントしている」
「へー。面白いですね」
楽しそうに呟く夏弥とは対照的に、さきほどまでテンションの高かった桜坂は急に黙ってしまった。
桜坂の顔色を見て、晴輝は爽やかな笑顔でさらに続ける。
「ああ、心配しないでいい。桜坂くん。最下位だった生徒にもそれなりの栄誉が与えられる。最も得点の低い生徒には、その後の打ち上げの費用を全額支給してもらうことにしているから、楽しみにしていたまえ」
途端に、桜坂が叫ぶ。
「ちょっと、なんですかそれ。そんなのいりません!」
「なーに遠慮することはない。毎年三万くらいだ。今から貯金していればなんてことはない」
こともなげに美術部部長は告げる。
まるで最終通告を受けたかのように、桜坂の顔から血の気が引く。
晴輝は今から学祭が楽しみだとでも言いたそうに言葉を続ける。もちろん、夏弥も楽しみだ。
「というわけだから、そろそろ各々学祭に出展するための作品を考えておきたまえ。ときに雪火。君はなにか考えているかな」
「あ。はい。一応」
晴輝はさらに奥にいる少女へと顔を向ける。
「中間くんはどうかな」
今まで話に参加していなかった女子生徒は、急に話を振られてびくりと顔を上げる。
桜坂とは対照的に、女性らしい丸みが目立つ少女で、性格もまるで対照的だ。おとなしく、教室で本を読んでいる姿が思い浮かぶが、美術室で黙々と絵を描いている姿も十分様になる。
中間美帆は夏弥と同じ学年で、クラスも同じ。言葉をあまり交わしたことはないが、同じクラスのためか自然と話ができる。
頭のヘアピンが印象的で、女の子という言葉がぴったりくる感じの女子生徒だ。
中間美帆は消え入りそうな声で頷いた。
「はい。候補はいくつかありますけど、まだ描き始めてはいません」
晴輝は満足そうに何度も頷く。
「心配はいらない。学祭まで一ヶ月だ。一ヶ月あれば十分間に合う。ただ、肝心なのはどのような作品を作るか考えているかどうかだよ。この時期に決めておかないと間に合わなくなる。決して過言ではない。作品を決められないものは大方最後まで自分の作品が決まらずに、夏休みの宿題のように学祭前日に大慌てで描きあげて、結局三万円ほど寄贈してもらうことになるのだよ」
桜坂の顔が見る見る蒼くなっていく。見ていて面白いくらいだと夏弥は思った。
「ときに桜坂くん。君はもう決めているかな?」
稲妻に打たれたように、桜坂の肩がびくりと震える。
「ああ、はい。もちろんです。大丈夫です。一ヶ月あれば余裕で仕上がります」
即座に笑顔で答える桜坂。
夏弥は、部長がまだなにか桜坂に言及するのではないかと思ったが、晴輝はもう用はないみたいですんなりと頷いた。
「桜坂くんが来てようやく今日の部員は全員そろったな」
「晴輝先輩。まだ一人来ていないみたいですけど」
夏弥は一人の女子生徒の姿を思い出して、そう口にした。
今美術室にいるのは、夏弥と、晴輝と、中間と、遅れて来た桜坂の、合計四人。三年生にまだ何人かいるらしいが、夏弥はあったことがないし、晴輝も他の三年生が顔を出すことはないとまで言っていた。夏弥が言ったのは、二年生の女子生徒のことだ。
晴輝は夏弥の質問に即答した。
「彼女は今日お休みだ。しばらく部活はお休みするとのことだが、さすがに二年生だ。学祭の準備は怠らないとの言葉を聞いている。なにも心配することはない」
大きく頷いて、晴輝は自分のキャンバスを片付け始める。
「では諸君。わたしはこれで失礼する。鍵は最後のものに任せるよ」
桜坂が不思議そうに眉を寄せる。
「まだ部活始まったばかりじゃないですか」
「晴輝先輩、また外で描くんですか?」
夏弥の言葉に、晴輝は頷く。
「部屋の中にこもっていてはよい閃きは訪れない。芸術とは外からの刺激を受けてこそ爆発するものだ。いや、君たち若者への指導もわたしの責務ではあるが、なにぶん最近物騒だろう。あまり遅くまで外を歩き回っているわけにはいかんのだ。わかってくれたまえ、決して君たちを見捨てているわけではないのだ。ただわたしは感性に従って生きていきたいのだ。そんなわたしでも時間の制約だけはなんともしがたい。青春は待ってはくれないからね」
それだけ残して出ていくのかと思ったら、帰りの支度と外で芸術活動を勤しむための準備を終えた晴輝は夏弥の横に立って耳打ちする。
「ところで雪火」
「なんですか、晴輝先輩」
「さっきの話の続きだが、君が学祭に出展する予定の作品とは、あれのことかな?」
指差すそれを、夏弥は振り返り見る。美術室の奥で布をかけてあるその絵は、夏弥が放課後に描いている夕日の絵だ。
「はい。まあ、そうです」
「ふむ」
晴輝は神妙な面持ちで顎に手を添える。その深刻な表情に、夏弥は反射的に訊き返す。
「あの、どうしたんですか。なにか問題でもありますか」
「いや、問題はない。ないのだが……」
そう、晴輝は言い淀む。
「わたしの勘が告げているのだ。雪火はまだまだ上を目指せる、とね。君はもっと素晴らしい作品を学祭で出せるはずだとわたしはそう直感しているのだ」
確かに学祭までまだ日がある。一ヶ月もあれば、夏弥ならもう一作品ぐらい余裕で作れる。しかし、最近の夏弥のインスピレーションの中で気に入っているのは、その夕日の絵だけでもあった。
「でも今一番気に入っている絵があれなんで。あの絵で十分だと思うんですけど」
「わたしもそう思う」
支離滅裂なことを言う晴輝。
「わかるよ。わかる。君の気持はよくわかる。だがな、わたしの勘が、第六感が囁くのだよ」
「いや。勘で言われましても……」
「なにを言ってるのかね!」
晴輝は小声で叫んだ。
「直感は人間の持つ感覚でもっとも素晴らしい器官だよ。人間の持つ五感と、その個人が所有する無意識下の意識の融合をもって初めて開花するのが第六感だ。いわば直感とは人間の保有する究極の感性なのだよ。直感なくして芸術は語れない。どんなに言葉を弄しようとも、最後には体を貫くような閃き、直感がものをいうのだ。君も真の芸術家を目指すなら日々直感を鍛えておきたまえ。九九パーセントの努力と一パーセントの閃きが最高の傑作を生み出すのだよ」
「はぁ……」
さっぱり意味の通じないことを言って、晴輝は最後にこう締めくくった。
「まあ今のわたしも確かなものを掴んでいないからな。雪火があの作品にこだわるならば止めはしない。君の実力があればあと一週間もすれば完成するだろう。学祭まで一ヶ月、それまでは折角の作品が劣化しないように管理を怠らないことだ。空気と湿気は絵画の最大の敵だ、よく心得ておきたまえ」
高笑いを残して晴輝は美術室をあとにした。
残された三人のうち、最初に口を開いたのはすっかり肩を落とした桜坂だった。
「ああ、そっか。美術部でも学祭の企画があるんだっけ」
「桜坂ってさ。本当に学祭に出す作品って考えてあるの?」
すっかり落ち込みモードの桜坂に夏弥が訊ねる。桜坂は慌てていつものように胸を張る。
「も、もちろん。それくらい、考えてあるわ」
怒鳴るように言い返す桜坂。
夏弥は意地悪っぽく言ってやる。
「そう?桜坂が絵を完成させたことなんて一度もなかった気がするけど」
桜坂緋色は見た目スポーツ系少女だが、中身もやっぱり運動大好き少女だった。どうも細かい作業が苦手らしく、絵は今まで一度も描いたことがないらしい。
高校生にもなって美術部に入る奴は経験者か、趣味で多少でも絵を描いたことがある人に限ると思うのだが、そんな中で桜坂は珍しいタイプだ。
桜坂は描くのに行き詰ってしまうと、途中でゴミ箱に捨ててしまうので、夏弥はこの二ヶ月のうちに桜坂が一つでも作品を完成させたところを見たことがない。
「一ヶ月もあれば余裕よ。もうちゃんと決まってるんだから。ああ、もう。気が散るから話しかけないで」
そう残して、桜坂はキャンバスに向かう。
ちょっと優越感に浸りながら、夏弥は隅のほうで黙々と作画に勤しむ中間へと声をかける。
「中間はどんな絵を描くの?」
「秘密です。自分でもまだ描いていないので、出来上がってからのお楽しみです」
言いながら、それでも筆を動かす中間に夏弥は違和感を覚える。
「今描いてるのって、学祭用じゃないの?」
「はい。この町に越してきたときに印象的な風景があったので、それを描いているんです」
中間とは同じクラスなので、夏弥はたまに彼女と話しをする。中間は中学の卒業式の少し前に他所から越してきて、この高校に入学したらしい。だからこの辺りのことはなにも知らないという話だ。
中間はなにかを見ているふうではなく、思い出しながら描いているように見えた。興味がわいて、そっと中間の近くに立つ。
「見てもいい?」
「いいですけど……」
気恥ずかしそうに答える中間の返事を聞いて、夏弥は後ろからその絵を見た。
「あ」
小さく、声を上げる中間。
その声に気づかず、夏弥はその絵に見惚れた。
藍と碧の描写。
キャンバスが色で溶けたような開放感。
教室の風景が色で満ちていく。
コンクリートの上から見渡せる、広大な色。
暑い日差しに、冷たい風。
揺らめく光に、波の音を聞いた。
「これ、海?」
「はい」
夏弥は素直に呟く。
「綺麗な絵だね」
「…………」
聞こえたのか、中間は耳まで真っ赤にして俯く。
夏弥は率直な感想を述べた。
「それに難しい描き方するな。線は入れないの?」
中間の絵には線を入れた形跡が見当たらない。絵の具を直接空白のキャンバスに染めていく感じ。
「はい。その、色の印象を先に描いているので、形は最後に決まるんです」
「へー。面白いな。俺はこういう風にはきっと描けないな。絶対先に線を入れちゃうから」
普通は形を決めてから、色を入れていく。ただ線を入れると黒が目立って境界がはっきりしてしまうから、それを嫌って線を入れない画法もある。しかし、線を入れないと形が曖昧になってしまうから、短時間で仕上げられないとイメージが固定できない。
それを知っていて、中間ははにかんだ。
「そっちのほうが楽ですけどね」
「でも俺。こういう絵、好きだな」
夏弥は素直に言う。
中間の絵はモデルが実際にない上に、これは中間の実力ではどう見ても数週間はかかってしまう。それでも、これだけの表現ができれば大したものだ。
中間はすっかり顔を赤くして、困ったように目を泳がせる。
そんな中間の異変には気づかないで、夏弥は満足したように頷いて自分の席に戻ろうとして、立ったついでにと桜坂の傍まで近づく。
「桜坂はなに描いてるの?」
軽い気持ちで訊いてみたら、桜坂はものすごい剣幕で怒鳴ってきた。
「な、なんでもいいでしょ」
「ちょっと見せてよ」
「ダメ!」
桜坂は立ち上がって、夏弥から隠すようにキャンバスを両手で守る。
「絶対、ダメ。見たら殴るよ」
そこまで言われてしまったらどうしようもない。夏弥は諦めて絵の続きを描き始める。別にそんなにむきにならなくてもいいのに、と夏弥は思った。
一つの教室の中で沈黙したままキャンバスに向かう三人。緊張の中の静寂を、夏弥は好きだったし、同時に胸が締め付けられるほど嫌だった。
晴天の青空は次第に夕日の色に染まっていく。教室の中を茜色の影が包み始める。放課後のこの時間は普通ならまだ部活動で残っている生徒の姿が見られるが、今は普通ではない。用事のない生徒たちは急いで帰路につく。
「じゃあ、わたしたち帰るね」
「うん」
桜坂と中間は帰り支度を済ませて廊下に立つ。夏弥一人が美術室に残ってまだ絵を描いている。
「雪火、本当に残るの?もう下校時間すぎるよ」
「うん。この時間にならないと描けないから」
「学祭の絵ですね」
夏弥は頷く。夏弥が学祭に向けて描いているのは、美術室から見える町の夕日だ。モデルを見ながらやらないと、どうしてもイメージが固定しない。最近夏弥はギリギリまで残って絵を描いている。
そこで納得したように桜坂が頷く。
「へー。それでずっと線画ばっか描いてたんだ」
夏弥はムっとする。
「なんだよ。自分は見るなって言っておいて、人のは見るのかよ」
「わたしは見るなって言ったけど、あんたは別にそんなこと言ってないじゃん」
笑って答える桜坂に、夏弥は内心溜め息を吐く。
中間が心配そうに夏弥を窺う。
「でも晴輝先輩も言っていましたけど、あまり遅くなると最近は危ないですから」
そう。
今、白見町では夜一人で出歩くものはいない。
かなりの頻度で、人が消えている。今のところ死傷者はでていないが、それは生死不明ということに他ならない。そのため、犯人もいまだ特定できず、ニュースでは事件についてと警察の不手際辺りで連日盛り上がっている。
「うん。きりよくなったら帰るから」
桜坂が携帯電話を取り出して声を上げる。
「あ。ヤバ。そろそろ出ないと電車間に合わない。美帆、行くよ」
「あ。うん。では雪火さん、鍵お願いします。さようなら」
「さようなら」
ガラガラと、美術室のドアが閉まる。
「さて。ちょっと整理するか」
部屋を一通り眺めてみると、桜坂の出したキャンバスがそのまま放置されていた。
「桜坂のやつ。片づけしてから帰れよ。道具全部出しっぱなしじゃん」
片づけをしながら、つい文句が出る。キャンバスには丁寧に布が被せてあったが、放置されている道具からどんなものを描いていたのか大体想像がつく。
「なんだ。あいつも線画やってたんだ」
大量の鉛筆が転がって、床には消し屑が散乱している。
「っていうか、桜坂が色入れてるとこ見たことないな。全部鉛筆ばっかで、あいつ仕上げる気あるのか」
桜坂の絵の技量は、夏弥から見ると奇跡としか言いようがない。一体どういうふうに描けば、人の顔が犬の顔になるのか、夏弥にはいまだにわからない。
入部当初夏弥が桜坂の描いていた絵を見て噴き出して以来、夏弥は一度も桜坂の絵を見ていない。この二ヶ月でどれほど成長したのか、部長も桜坂の指導はやっていないので、それほど期待はしていない。
晴輝は放任的なところがある。桜坂に向かって言ったアドバイスはただ一言、「そこらへんにあるものを描けばいい」。美術室にあるものは彫刻が一つと、あとは机だけだ。
二ヶ月も同じようなものばかり描いていれば飽きるだろうと思っていたが、意外と桜坂は根気良く絵の練習に励んでいる。練習ばかりで、本番が一枚も完成しないのが気になるが。なんにせよ、学祭まで一ヶ月。どんなに下手であろうと、出展は絶対だ。絵を完成できないと、桜坂は自動的に部に三万円を献上することになる。
片づけを終えて、夏弥は一息吐く。
「よし。じゃ、仕度するか」
夏弥は、奥から学祭に出展する予定のキャンバスを取り出して、絵の具を準備する。さっきまで描いていた絵は隣の準備室にある夏弥専用の棚にしまいこんだ。
いよいよ絵を描く、瞬間になって、夏弥は数秒目を瞑る。
精神統一よりも、今まで見てきたもののイメージを一端リセットする意味で、夏弥は本気の絵に対してはいつもそうしている。
目を開いて、よし筆を入れようとなっても、今日の夏弥は何故か筆がそれ以上進まない。
「……気のせい、だったのかな」
筆を置いて、そんなことを呟く。
部活の間はなんとか思い出さないように意識していたが、やはり忘れることができない。
朝のこと――。
――いつも通りの、日常。
昨日の夜に買い物に行ったことも、買い物へ行く途中に男を見かけたことも、男に殺されそうになったことも、その後も。
全部、嘘だったのか。
そんな真実は、最初から存在しないのか。
――夢、だったのかな。
現実にはマンションは倒壊していないし、誰もそんなことは知らない。証拠がなくて、自分だけしか証人がいなければ、それは虚言なのか。
――気のせい、なのかな。
そう、夏弥は思った。
思いたかった。
全部、嘘で。
これが日常で。
いつも通りの、現実。
――ガラガラ、と扉が開く。
日常が壊れる音。
非日常を告げる鐘の音。
栖鳳楼礼がいた――。