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話が決まったら、動くのは即行だった。
一刻も早い方がよかろうと、ランドルは酒も抜けないうちにペンを執り、よれよれの字でエゼルに紹介状を書いてくれた。
エゼルはそれを手にして帰路についた。
ユダヤ人が夜間出歩くことは禁じられているため、エゼルは慎重に慎重を重ねて夜道を急いだ。
もし誰かに見つかればナチス軍に通報され、その場で逮捕されるに違いないからだ。
けれども、エゼルの胸中は希望で膨れ上がっていた。
紹介状を握り締め、ランドルの親切に感謝しながら出立にあれこれと思いを寄せる。
明日の夜には家を出発しよう。
荷物は最小限に。何を持っていこうか。
国境を越えるまでが勝負だ。うまくいけば今よりましな生活が待っている。
朝一番、家族に教えてやろう。
「今帰ったぞ」
エゼルがドアを開き、小声で誰にともなく帰宅を告げた時、既に空は朝焼けに染まっていた。
ボロ家の薄汚れた白壁が赤紫色に反射し、エゼルを出迎える。
一度空に残った星を見上げ、エゼルは家に足を踏み入れた。
こじんまりとした家の中は、ドアを閉めるとすぐ薄暗さに支配される。
妻も子も、まだ寝ているようだ。
エゼルは、たった今仕入れたばかりの朗報に胸暖めて表情を緩めた。
そして二階の寝室に上がろうとした時。
ゴツ。
カチャリ。
背後から、冷たく固いものを頭に押しつけられたのだった。
「ずいぶんと遅い帰りだな」
後ろだけではない。
二階からも銃口が顔を覗かせている。
銃を構える者は、ナチスの印であるハーケンクロイツを軍服の左腕につけていた。
家の中に隠れて、エゼルを待ち構えていたらしい。
「ひっ……」
叫ぼうとしてエゼルは喉を詰まらせた。
その心についた小さな翼が、いとも簡単に引っこ抜かれる。
頭が痺れ、膝ががくがく震える中、エゼルは何とか両手を胸に上げた。
けれども震えは全身に伝導し、手は小刻みに痙攣を始める。
歯の根も一向に落ち着かない。
エゼルは密告の犯人としてランドルを疑った。
今晩酒に誘ってきたのは罠だったのかもしれない、と思う。
空白の「白」がエゼルの頭を占領しようとしていた。
間に合わなかったのか。
密告されてしまったのか。
もう家族は殺されてしまったのか、それともどこかに連れて行かれたのか……。
せっかく希望を見いだしたと思ったのに。
自分はどうなるのだろう。
「尋ねるが」
「あの、家族は…」
「教える義務はない」
エゼルの手に固く握られていた紹介状は、軍服の男によって乱暴にひったくられてしまった。
「こんな時間までどこに行っていた? 法律違反だぞ」
別の男がその紹介状を受け取り、ためらいもなく封を破る。
心臓の凍りついたエゼルのこめかみを冷や汗が伝った。
そして、少しでもランドルを疑った自分を恥じた。
よく考えれば、紹介状にはランドルのフルネームが克明に記されている。
村の名前は出ていないものの、「この親子を頼む」というようなことは書いてあるのだ。
このままでは、ランドルに危害が及ぶのも時間の問題だった。
ランドルは、エゼルが無事に国境を越えると信じて紹介状を書いてくれたに違いなかった。
でないと、危険な目に遭うのはランドルの方だ。
「なるほどな」
紹介状から目を上げたナチス軍の軍服がにやりと口を歪める。
夢であってほしい。
エゼルは強く願った。
が、その頭に押しつけられる銃の固い感触は、明らかに現実のものだった。
「このランドルとやらはどこにいる?」
エゼルは、背後で銃を持つ軍服の男もにやりと笑っているような気がしてならなかった。
「おい、答えろ」
ゴリゴリ。
更に銃口を頭に密着させられる。
嫌でも金属物を意識してしまう。
だが、エゼルは何が何でも口を割らないことにした。
今の状況から推測すれば、どのみち殺られる。
朝方。
エゼルの家から発砲音が響き、隣家が驚いて目を覚ました。