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1.

【はじめに】


※この作品は史実を元にしたフィクションであり、実在する人物等とは一切関係ありません。


1.

----------------------------------------


「お前がいなくなると、寂しくなるな。この家を一番把握していたのはお前だったから、これから大変だよ」




 エゼルが何十年も仕えた屋敷を辞める時、主人はそう言って彼の辞職を惜しんだ。




 ナチスによって「非ユダヤ人はユダヤ人を雇ってはならない」という法律が制定された、丁度その頃のことだ。




 しかし、主人がエゼルを辞めさせたわけではない。


 エゼル自身が、人のいい主人に迷惑はかけられないと、自ら退職を申し出たのだった。




 以来エゼルは、郊外の工場にもぐりこみながら家族を養っていた。


 薄給のせいで何度ひもじい思いをしたかしれない。




 その上、ナチスのユダヤ人弾圧がのしかかってきた。


 胸にユダヤ人の印をつけろ、電車はユダヤ人用の車両に乗れ、店はユダヤ人お断り。




 正直、やり切れなかった。




 しかも弾圧は日増しに強くなっていく。


 気がつけば、ユダヤ人は公共の場から締め出され、ろくに外出もできない有り様になっているのだった。




 外に出ればドイツ人たちに石を投げられ、蔑まれ、下手すれば殺される。




 おかげでエゼルは、工場に通うことすらできなくなっていた。




 非ユダヤ系で残った友人といえば、二十年来の親友、アーリア人のランドルくらいなものだ。


 昔は二人つるんで、人生の甘いも辛いも共有したものだった。




 だが今では、その友人宅のドアを叩くことすら命がけである。




 そしてその日、エゼルは数ヶ月振りにランドルの家を訪れていた。


 広くはないが、雨漏りするエゼルのボロ家に比べれば、ずいぶんましな家だ。




 ランドルの部屋で安酒の瓶を開け、二人で呑むのも久し振りのことだった。


 天井から吊るしたランプに火を入れ、傷だらけのテーブルで向かい合う。




 明かりに照らされたエゼルの顔は年齢以上に老けていた。




「近頃は酒も高くていけねぇ」


 ランドルは薄い水割りを一気にあおって言った。


 金髪碧眼は昔の特徴を残しているが、すっかり中年太りで腹が出ている。




 対するエゼルは生活苦と心労から痩せこけ、髪に混じる白の割合もひどいものだった。


 漆黒の目は闇のどん底を映し、とても同い年の二人には見えない。




「そんな高いものを馳走になって悪いな」


 エゼルは縁の欠けたコップを持ち上げ、削げた頬にえくぼをつくった。


 その仕草は自嘲を含み、ランドルに「遠慮するな」と言わせる原因にもなった。




 しかしそれ以前に、法律でユダヤ人が酒を飲むことは禁止されている。




 細かいことを言うなかれ。


 この家の中までは法律の手も及んでいないのだ。




「なぁ、国外に逃げたらどうだ?」




 互いの苦労話と愚痴を吐き出して、政治に泣いたり怒ったりして話が途切れた時のことだ。


 ランドルが静かに切り出した。




「ユダヤ人が次々とナチス軍に連行されてること、知らないってわけじゃねぇだろ」


「……ああ」




 口にアルコールを含みながら、エゼルは連絡のつかなくなった親戚のことを思い出した。


 結婚して家を出た上の息子も、一向に帰って来ない。




 ナチス軍に捕まったのかもしれないし、奴らから逃げ隠れているのかもしれない。


 いずれにせよ、この治世下においてまともな生活をしているとは考えにくかった。




 だからといって、そう簡単に国外逃亡できるものではない。




「国外、か。昔はともかく、今はユダヤ人にビザを発行してくれるところなんかないさ」


 エゼルが溜め息をついたのも、無理ないことだった。




 重苦しい沈黙の淀む部屋の中央で、煌々と輝くランプの明かりが、神妙な二人の表情を浮き彫りにする。


 油を節約しているから、彼らの手元は闇にまぎれていた。




 お互い歳を取ったものだな、とエゼルはつけ加えた。




「知っているか?」


 テーブルに身を乗り出し、ランドルが突然声を低めた。


 豊満な腹が嫌でもテーブルに食い込む。




「ユダヤ人を見つけて通報した者には、肉と賞金が出る」


「……」


 ろくに外出しない上ラジオの使用さえ禁止されているエゼルが、知るはずもなかった。




「フランスの山間に俺の知り合いがいるんだ。紹介状書いてやるから匿ってもらえ。今の生活、相当きついんだろ?」




 エゼルは酒の入ったコップをテーブルに置き、眉をひそめてランドルを凝視した。




「ここだけの話だがな、そいつの村、村ぐるみでユダヤ人を匿っているってぇ話なんだよ。まず、道端で石を投げられることはねぇ。国境さえ越えればこっちのものさ」


「ビザがない」


「この際、そんなこと言ってられねぇだろ?」




 エゼルは無言でコップの中身に目を落とした。




 目の前にいる金髪碧眼の太っちょは無二の親友だ。


 だが……。




「そう疑うな。信用できる奴だ。俺もそいつも絶対お前をナチスに売ったりしねぇよ」


 エゼルの心配を読み取ったのか、ランドルは固い椅子にもたれかかって、わざとらしい明るさで言った。




「まあ、俺の家も隣の家も裕福な方じゃないからな。誰が何をするとも分からねぇのは事実だけどよ。特に俺の妻とか、さ」




 笑えないランドルの冗談に、エゼルは愛想笑いで応えた。




 エゼルはランドルの妻が苦手だった。


 ランドルと同じ金髪碧眼、乳白色の肌。


 親子ほども歳が離れ、若くて美人は美人なのだが、どことなくつんけんして冷たかった。




 特にエゼルを見る彼女の目には、明らかに侮蔑が混じっている。




 それでも、暗い話で盛り下がるよりは美人の話でもしていた方がいい。




「あの綺麗な奥さん、お前を放って先に寝たのか?」


 エゼルの口をついた言葉を皮切りに、話はどんどん別の方角に転がっていった。




 そしてエゼルが腹を決めたのは、夜も白む刻限だった。

閲覧ありがとうございます。


他サイトで色々投稿していますが、こちらのサイトへの投稿を強く勧められました。

よろしくお願いします。

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