あくと2
雄一郎の前に一軒の喫茶店がある。看板には『あばかぶ』と書かれていて、一見落ち着いた喫茶店だ。
ところが、だ。扉を開けると大音量でアニメソングが流されているのだった。
ここが雄一郎が世話になっている、中村得道のやっている喫茶店だ。彼は美食桃源郷、つまり雄一郎の父親が経営する料亭の仲居である、千鶴の兄だ。アニメオタクで、喫茶店にいつもアニソンを流している。なぜ、こんな道楽みたいな喫茶店ができるのかと言えば、得道は清海の弟子で、その作品は師の清海ほどではないが、高い値で取引されているからである。アニソンは単に彼の趣味で、清海も彼がよくできた弟子なので、それに口出しすることはなかった。
ちなみにこの喫茶店は住居を併設していて、二階が住居となっている。雄一郎はそこで生活しているのだった。このことは実際には雄一郎にとっては不本意なことだった。誰にも世話にならないと誓ったのに、このように得道の世話になっている。高校の学費まで彼は支払ってくれている。ただし休日には店の手伝いをすることが条件だった。ぶっちゃけこの条件は雄一郎にとって大したことはない。
「おぅ、帰ってきたか、雄一郎」
角刈りの、眉毛が太い風貌の得道。ちなみに年齢は三十一歳。服装は、パンツルックで、Tシャツの上にYシャツを着ていて、カジュアルな感じだ。
「あいっかわらず、ヘンな曲流してるな、得道さん」
「変な曲とか言うんじゃねえぞ、これはなぁ」
「あ、長くなりそうだからいいわ」
アニメソングのこととなると長く語りたがるのが得道だった。だから雄一郎はあまり深入りしないようにしている。彼はアニメにはあまり興味がなかったからだ。
「それはそうと、雄一郎」
カウンターの中にいる得道がカップを洗いながら真剣な表情で言った。
「なんだよ」
「親父さんとは早く仲直りしないのかい?」
雄一郎は少しイラッとした。あの男はどんなことがあっても許さない、と決めているからだ。だけれども、得道は雄一郎と清海が和解することを望んでいるらしい。
「……」
「まあ、いい。ゆっくりここで考えるといいさ」
雄一郎は黙って奥の階段を上がっていく。
二階には、雄一郎の部屋もある。わざわざ得道が用意してくれたのだった。本当はああいう失礼な態度をとってはいけないのは雄一郎も分かっていた。ただ父親がらみとなるとどうしても感情が抑えきれないのだ。
部屋の電気をつけて、ノートパソコンの置いてある机に歩いていく雄一郎。今から何をするかと言えば、甲府鳥もつ煮についていろいろ調べてみるつもりだった。
と、そこへ、下から得道が雄一郎を呼ぶ声が聴こえてきた。
「おーい。まりのさんが訪ねてきたぞ、雄一郎」
雄一郎は呼びかけを無視することにした。
仁木まりの。
彼女は、懐石料理の名店『星木茶寮』の一人娘であり、子供のころから一緒によく遊んだものだった。ただ最近は、雄一郎が彼女を避けつつある。父親絡みのものは極力避けたかったのだ。
トントントン。
勝手に階段を上がってくるまりのに、雄一郎の心はイラついていた。なんで、今日わざわざ訪ねてきたのか。
「入ってもいいかしら? 雄一郎」
「ダメ、って言っても入ってくるんだろ」
「鍵を閉めないところが、あなたの良心ね」
雄一郎は、実際のところ、鍵を閉めてもよかった。だがそれをしなかったのは、幼馴染だからこそ、である。
ドアを開けて、まりのが部屋に入ってきた。
黒髪のロング、スレンダーな体型。一言で言えば一輪の白い百合の花であろうか。気高さと清楚さを、まりのはあわせもっていた。
「なんだよ、わざわざ訪ねてきて」
「あなたと清海さんのことよ」
「まりのもやっぱりそれを言うんだな」
「あなた、清海おじさまと千恵子おばさまのこと、誤解してるもの」
「誤解なものか! あいつは自分の芸術のために、おふくろをこき使い、早死にさせたんだ!」
「……」
「それでも、料理のことだけはまだ未練があるのね」
「?!」
なぜ彼女は自分が倶楽部に入ったことを知っているのだろう、と雄一郎はいぶかしんだ。そうだ、まりのは生徒会長だった。だから、京が部活活動の申請書類を出した時に見たのだろう、と彼は推測する。だが、次にまりのが言ったことはそのことと関係がないことだった。
「ほら、あなた、まだ包丁大事に持ってるじゃない」
雄一郎はハッとして、まりのの指さしたほうを向いた。それは彼の机の上。さらしが巻かれた包丁が置いてあった。
まりのは、そこに歩いていくと、包丁の晒しを剥がしていく。
「お、おい。やめろ」
「やっぱり……」
なぜだか嬉しそうに微笑むまりの。
「何がやっぱりだよ」
「ちゃんと研いであるのね」
「……ッ!?」
そうだ、確かに雄一郎は毎日その包丁、ここに住むことになった時に得道に手渡された自分の包丁を手入れしていたのだった。
これは未練なのだろうか。本当ならその包丁を受け取るときに拒否してもよかったのだ。だがこうやって手入れまでしている。
雄一郎がB食倶楽部に入ったのもやはり料理が好きだからだろう。父親とは関係がない、と割り切ってしまえばそれまでだった。
「関係ないだろ。早く帰れよ。俺はあんな男と和解する気はないね」
「そう。分かったわ。でも私、嬉しいの。貴方がまだ料理の世界に興味があって」
そう言ってまりのは部屋を出ようとした。
「あっ、あのな」
「なにかしら?」
「……いや、なんでもない」
B食倶楽部のことをまりのに話そうとしたが、口ごもる。なぜか話す気にはなれなかったのだ。
雄一郎は、彼女が出て行ったことを確認して、喫茶店の手伝いに下に降りることにした。と、そこで雄一郎が見たのは意外な人物だった。
喫茶店の名前の元ネタは『きまぐれオレンジロード』です。古いですね。あとキャラの名前は某美食漫画からです。