プロローグ
目の前の割れた皿を見ながら、少年は呆然としていた。憎しみに身を任せて割ったその皿――備前焼の皿は、何百万という値段のつくものだ。そして少年が憎み、恨み、嫌悪する人物が作ったものだった。
息も荒げながら、少年はこう思っていた。
――これで俺はもうここには戻れない。
当然だ。この皿がどれだけ高価なものか、少年はよく知っている。
だけれども、こんなものがそこまで価値のあるものか、と彼は思っていた。
あの男は芸術のためにどれだけ大事なものを犠牲にしていたのか。それを考えるだに腹立たしい。だからこそ少年は皿を割った。
誰もが名前を知る、稀代の芸術家。海山清海。陶芸家であり、書家であり、そして『美食桃源郷』を経営するその男は、少年にとってはもはや父親ではなかった。
少年は、清海が犠牲にしてきた一人の女性のことを思い返していた。今はもうこの世にいないその女性。そう、少年の母であり、清海の妻だ。
――おふくろ、俺はこの家を出ていくよ。
そう心の中で呟いたその時、騒ぎを聞きつけた清海が、障子を開けて部屋に入ってくる。総髪で厳しい顔をした中年の男。ライオン、と形容したらいいのだろうか。服装は和装で、がっちりとした体つきだ。
少年は殴られることを覚悟した。稀代の芸術家、いや芸術の鬼である清海という男が魂を籠めて創ったものをこっぱみじんにしたのだから、ただでは済まないのは当然だった。ただそれは少年にとってはタカラモノなんかではない。人を犠牲にして作り上げたものなどタカラモノに値しない。
形あるものはいつか壊れる。命あるものはいつかは死ぬ。だったらそれは、こんな粘土をこねくり回して作り上げたものではなく、おふくろを大事にしてほしかったのだ。
身を硬くした少年に清海は手を上げなかった。ただ一声吼えた。獅子のような声で。
「出ていけぇっ!」
だが少年は怯まない。ここで怖気づくようなら、こんなことは最初からしない。清海に負けないように怒鳴るように言い返す。
「言われなくても出ていくさ!」
そして部屋を飛び出した。これからどうするかなんて考えていなかった。少年の若さに任せた行動だった。
おろおろしている仲居や調理人を無視して、廊下を走り、そして裸足のまま、玄関から脱兎のごとくに飛び出していった。
――もう俺はここには戻らない。
憤然として少年は駆けていく。海山清海の息子、海山雄一郎は。
某美食漫画リスペクトですが、一応オリジナルです。