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 夢を叶えるために戦う事が出来たなら、どれだけ楽しかっただろうか。

 夢の為に戦えたら。

 そんなに、生きる事に必死にならず、高みを目指すなんてことが出来たら。

 丹羽兄弟には、許されなかったこと。とてもとても手の届かなかったこと。夢を思い描く事すらも、贅沢だった。

 やりたい事、好きなもの、欲しいもの、行きたいところ。

 そんなものが生まれては、無理矢理忘れ、降ってきては、無理矢理捨て去る。

 そんな事ばかり続けてきた彼らの、欲望は一つ。

 生きる、ことだった。

 いつかきっと両親の負の遺産の追随を振り切って、自由に生きてみせる。

 兄には、愛する人がいた。女性と、弟だった。彼はそれを、がむしゃらに生き続ける事で伝えようとした。

 弟は、とにかく今に必死だったけれど、兄がいた。彼が不在の世界で、自分は生き続けられる訳がない。何かあれば助けてくれ、自分を認め続けてくれた。もしかしたら、借金を返し切るにも、その後の人生にも、自分は邪魔なのかもしれない。でも自分たち、二人だけの家族は、兄弟は、それ以上でもそれ以下でも、自分であり続ける事は出来ないような気がしていた。

 どちらかがかけたら、自分は自分でなくなってしまうのではないか。

 今や、社会のどこにも居場所もない弟ー丹羽陸は、ただひたすらに、その存在理由を探していた。

 兄は、死んだ。

 自分をかばって、死んでいった。

 自分が許せなかった。

 死んでしまいたかった。

 それでも、恐怖がそれを許さない。

 せっかく、ここまでやってきた。自分たちの世界の清浄化を。

 ならば。

 報え。

 この世界に、兄を殺したこの世界に報え。

 そうして兄とまた会えたときに、笑い合えるように。

 報え。

 だから、彼は力を欲した。

 世界に存在を証明するため。

 そして、兄に手を下した人間に、同じ罰を。


 丹羽陸は、心を闇に閉ざしながら、とある女性と邂逅し、金で自由と恐怖を手に入れた。

 






 駆け抜ける。

 人口のジャングル。

 弐英瑠には下品に見える光の海を、駆け抜ける。

 託先には、ある種なじみのある当たり前の風景だったそれは、今は背景でしかない。

 黒衣の2つの影は、つかず離れずの距離を保って、俊敏に駆け抜けていく。

 代々木の街は、すぐ近くに新宿と渋谷を望むため、まるで空白地帯のように建物の平均階層が低めだが、それでも地上付近にはギラギラした扇情的な光が多い。19時前という時間帯も影響して雑踏も混雑しているが、二人は慣れているようにひょいひょいと身を躱しながら走っていく。

「走りながらでわりーんだけど」

 託先が大股で駆けながら、一歩半前を行く弐英瑠に話しかける。

「なに?」

「ちょっと思ったんだけどよ、アリスの居場所知ってんだろ?お前、そっちに行った方が良い気がするんだけど」

「…珊柱君達も分散させる?」

「それが良いだろ」

 やや人ごみの密度が下がったかと思われた途端、弐英瑠は走っていた表通りから脇道へとためらいなく角を曲がると、速度を緩やかに落として止まる。

 二人とも、少し息があがっているが、会話は休まない。

「わかった。やっぱりそうした方が良いよね。可能性は考えたんだけど、丹羽の方が先に狙われると思って戦力分散を避けるために一択にしたんだけど」

「相談しろよ。そんなに軟弱じゃねーだろ」

「ごめん」

 言いながら、弐英瑠は両手に携帯端末を取り出す。

 片方で珊柱へ通話をコール、片方はアリスの居場所を示すデータにアクセスする。この端末は全て弐英瑠の自宅のPC群とリンクしている。

「あ、珊柱君」

『どうした?』

「今、あさ生と一緒だよね」

『ああ。ごめん、合流までもうすこし』

「じゃあ、ちょうどいいから、今から二手に分かれてほしい。丹羽陸と、クライアントのアリス両方にアクセスする。あさ生は予定通りに移動して…」

 途中で言葉を切って、託先に目配せする。

「俺が丹羽んとこに行く」と、通話の邪魔にならないよう空いている方に耳打ち。

「ごめん、逆だ。珊柱君は予定通り」

『僕が丹羽の方ね。託先?』

「うん。アリスは、私とあさ生で。こっちの方が、襲撃の可能性は低いし、あっても、一般女性一人が相手だと思ってくるだろうから、戦力は対したことないと思う。私たちでもきっと大丈夫」

『了解。場所は、あさ生の端末に』

「もちろん」

『弐英瑠』

「なに」

『後で』

「……わかった」

 そこで通話を終え、片方はそのままあさ生の携帯端末に情報を送信開始した。

「んじゃいくか」

「託先君」

「あい?」

「後でね」

 端末のディスプレイに、送信完了の文字。

「おうよ」

 二人は、別の弧を描いて走り出した。







 光の河。

 弐英瑠は、あまり夜の街を出歩かない。

 電子の光の海には慣れているが、だからこそ、現実のネオン街の明るさや様々な光の種類が綺麗なようで、うっとうしいようで、不思議な存在に思えた。

 弐英瑠には、それらが成す文化を享受した経験が酷く乏しい。

 音楽や、芸能や、風俗は、彼女の生活の中にほとんど存在しない。

 この国では、政治で人は死なないが、娯楽は人を殺す。

 乏しい経験からそう判断した彼女は、それを事象として捉える事にした。事実、彼女の娯楽は内にある。楽しむ、という事はわからないが仕事以外にしたい事もある。生きる事に、おそらく不足はしていない。だから、彼女は一般大衆が享受せしめる一般的大衆娯楽の存在意義は理解せども、認めなかった。

 ただひたすらに楽しいという事だけを追い求める娯楽は、弐英瑠にとっては少し恐ろしい。人間の認める娯楽は、すべて欲求に繋がっている。であれば、この光達が祭り上げ、人々の踊る舞台は何で出来ているのか。

 最終的には再現のない性欲や食欲、占有欲に及ぶのだろう。だから、娯楽は人を殺すと判断した。

 酷く偏った、一遍通りな考えではあった。しかし、身分証を持たない推定年齢16歳の少女で、しかもその内14年半の経験的記憶のない人間が、習慣的記憶を持ったまま目覚めて特殊な仕事を受け持ったのでは、この偏り様も、一概に否定できないだろう。

 その弐英瑠は、流れ行く風景に一考した後、思考を仕事に切り替える。

 絶えずに走りながら、弐英瑠は思考する。

 アリスとは、作戦開始前に一度連絡を取った。居場所を確認して今夜中にその場所に行く約束を取り付けて、何かあってもそこから動かないようにと伝えてある。アリスが利口な人間であれば、自分が黒い仕事を依頼した人間からこのような指示がくれば、それはどのような事態を招いた影響かは想像出来るだろう。

 あさ生は問題なく向かっているだろうか。電子機器が不得意でない事は承知しているが、方向音痴でないと聞いた事はない。今までの作戦でもそのようなトラブルはなかったから、特に心配はしていなかった弐英瑠だが、その可能性に気づいて少し心配になってきた。

 アリスにあったら、まずは連れ出す。そして、シナリオ通りに行けば丹羽睦を保護した託先・珊柱組と合流してそのまま一度縁興に通ずる地下通路の入り口を隠してある隠れ家に二人を保護。二人の自宅を監視して、敵性勢力の存在と目的、所属を確認する。その後の情報の収集、分析結果次第でそれからの出方を決める。

 弐英瑠の描いたシナリオはこの通りだった。

 しかしこれは、相手の勢力の情報が一切ない状態、登場人物の名前はあるが、性質もパラメータも設定されずに描かれたものである、という欠点を孕んでいる。それゆえ4人への考案時にいつ矛盾が生じてもおかしくないご都合的なシナリオである事を言い含めてあった。もちろん、今弐英瑠が向かっている先に敵性勢力が居る場合もあるし、最悪、連れ去られた後という可能性もある。殺されている可能性も考えたが、この件に置けるアリスの存在意義は"人質"であるから、殺害一択は考えづらい。

 アリスの自宅まで後角一つまで迫ると、あさ生の姿が見えて声をかける。

「あさ生」

 気づいたあさ生はやや速度を落とすが、並ぶ頃にはアリスの自宅マンション前に届いていた。

「……」

 二人揃って全力疾走だったため、マンション前で小休止を取る。

「あさ生…だいじょうぶ?」

「……」

 少し間を置いて、一つ頷く。

「じゃあ……」

 振りかぶって、一つ嘆息。整った。

「行こうか」

「……」

 こくり。

 あさ生の合図のような首肯を確認してから、二人はすっと背筋を伸ばして、エントランスに踏み入る。扉をくぐるとき、気圧差の所為か吹いた風が、運動による発汗を冷やして涼しく感じられた。

 アリスに指定されたマンションは、都内でも高価な部類に入る土地に建てられた分譲マンションだった。近未来的なデザインが施されたその建物は、エントランスの一枚の自動ドアをくぐると、その奥に進むにはセキュリティをクリアしなければならなかった。

 弐英瑠は、事前に伝え聞いていた部屋番号をコールする。

 すると、すぐに応答があった。

『はい』

「…はじめまして。アリスさん。三ヶ日日から依頼を受けて参りました」

『どうぞ』

 弐英瑠が、来訪の趣旨の後に名乗ろうと思った瞬間、返事があって、二枚目の扉が開く。再びのそよ風。よほどしっかりした作りの建物なのだろうと思わされた。おそらく蚊一匹通さないセキュリティなのだろう。誰もいないエレベーターホールの空調も行き届いているようだった。気温はさほど外と変わらなかったが。

 ここが悪質な方法で突破されていない様に見受けられるという事は、弐英瑠達の想定している何らかの敵性勢力の手は、まだアリスには及んでいないであろう事を示していた。

 エレベーターの上階行きのボタンを押して乗り込み、目的の4階を目指す。

 弐英瑠が先導する形で、その後ろをあさ生がついて歩くが、そのあさ生の目線は鋭い。弐英瑠の袖を掴む訳でもなく、ただじっとまっすぐ前を見つめている。

 4階に到着して、迷う事なく目的の部屋、407号室を目指す。位置は弐英瑠の端末が示している。近代的なマンションのきれいで少し弧を描く間接照明の高級ホテルのような廊下を、ゴシックファッションの弐英瑠が歩いている光景は滑稽で、どこか不気味さすら醸し出す。彼らはやはり現代社会では異質なのかもしれない。

「ここだ」

 弐英瑠が見つける。

 あさ生が一瞬周囲を警戒してから、一つの頷きを待って、弐英瑠がインターフォンを押す。

『……はい』

 ノイズ混じりの返事がインターフォンのスピーカから漏れてくる。先ほどエントランスでやり取りした声と同じだった。

「三ヶ日日の指示で参りました、蒼海と申します」

『今開けます』

 短いやり取りから一瞬の後で、簡素な電子音と解錠の金属音がする。少しためらいがちに扉が開く。

「どうぞ」

 中から顔を覗かせたのは茶髪の短い髪をした、どこかボーイッシュな印象を受ける女性だ。半袖のシャツにジーンズという極シンプルな格好をしている。身長もさほど高くはない。

「失礼します」

 一度、二人も中に入る。事情を説明した後にここから移動しなければならないが、その事情に、彼女が納得してくれなければその身柄の移送も出来ない。強制はできないのだ。

 全員部屋に入ったのを確認して、アリスは扉を閉める。オートロックが起動して、施錠された。

「わざわざすみません。三ヶ日日さんから聞きましたが、少し大事になってしまったようで」

 アリスは言いながら弐英瑠たちをリビングに通す。弐英瑠たちも無駄に焦りや警戒心を伝える事は避けようと、アリスに従う。

 通されたリビングは、整理整頓の行き届いた、女性らしい柔らかい印象を覚える部屋だった。リラックスして、くつろいで過ごすためのリビングとしては最適と言えた。

「そちらの方は問題ありません。ただ、その背後関係が、想像よりも面倒で」

 と、弐英瑠が返答をしたそのとき。

「きゃっ!」

 アリスが悲鳴を上げて、のけぞる。

「んー!」

 まるで口を塞がれているのに声を出そうとしているような声だが、弐英瑠とあさ生には一人でのけぞっているようにしか見えない。

「ど、どうしました!?」

 弐英瑠が緊張した声を飛ばすが、アリスは変わらずくぐもった声を繰り返すだけ。

 ちなみに両手を背中に回している。

 弐英瑠は、アリスが何かしらの持病を持っていて、その発作かなにかかという推測をするが

「ご苦労だったね、二人とも」

 そこには姿の見えない男の声がする。

「なっ…誰だ!」

 弐英瑠が索敵するが、姿は見えない。どこかで見ている?この場に居ないのか?

 すると、半ば中空でのけぞるアリスの背後にぼんやりと人影が現れ、ひと呼吸の間にくっきりと像を結んだ。

 藍色のコートをまとった、白髪長身の男性がそこに立っていた。片手でアリスの口を、もう一方の手でアリスの両手をつないでいる。

「わるいね。解いていなかったよ。ムーンギフトを」

 淡々と語る口調は、しかし内容に反して謝罪の色はまるでない。

「…発症者か」

「君もだろう。いや、正しくは君たちも、だろうか。蒼海弐英瑠に、御煌あさ生」

 縁興という隠された街に住んでいて、俗世間からは情報も存在も隔離された二人の実名がばれている事は意外ではあったが、それよりも意外なのは中空から男が現れた事であり、アリスを旧塩津しなければならないであろう立ち位置に立たされた二人は、とりあえずその疑問を一旦捨てる。

「その人を、どうするつもり?」

 弐英瑠は、名を呼ばれた事と、ムーンギフト感染者である事が知られている事への驚きを隠して、問いを投げる。

「この女には、丹羽を呼び出す餌になってもらう」

「その人の恋人だった丹羽は死んでる」

 その言葉を聞いて、アリスの抵抗が弱まる。

「そんな事は知っている。彼を葬ったのは我らだからな」

 ぴしゃり。身動きが取れず、満足に体を動かす事も出来ないアリスの中で何かが崩壊するような音が鳴った気がした。

 その様子をみていたあさ生はそのアリスの目に、黒い炎が灯った様な印象を覚えたが、男は続ける。

「だが、丹羽は来るぞ。間違いなくな」

「どういうこと。死者を、冒涜する気?」

 弐英瑠は聞いた事があった。一時的にではあるが、死者を蘇らせる事の出来る感染者が居ると。

「もう、とっくに知っておるのだろう。丹羽が双子である事は」

「…弟の方にこそ、その人を助ける動機はない」

「あるんだよ。丹羽は、兄の遺産を守ろうとしている。甘ったるい理由だ。自分が兄を殺したから、その罪滅ぼしなんだそうだ」

 アリスが、怒号した目つきのまま、その瞳をにじませ始める。呼応したのは、彼の不在か、弟の意思か。

「だとしても、私たちがそれを知った以上、彼には行かせない」

「できるかな。もう既に、約束の場所に向かってるって話だが」

 男がそれを言い終わるか否か、で、あさ生が飛び出した。

 男の足下を掬う軌道で、蹴りを繰り出す。正面からではなく、まずは振り上げて、振り戻す勢いで踵落としだ。

 もちろん、ただやられる訳ではない男も、多少体勢を崩しながらもその蹴りを最低限の跳躍で躱し、アリスを抱えたまま、軽い跳躍でベランダに続く窓際に迫る。

「どういうことですかっ」

 大きく動いてしまったためか、男のアリスを抑える力が弱まったのだろう。口元の拘束を解いたアリスが叫ぶ。

「三人で私を嵌めたのね!」

 アリスが状況を理解で来ているのか居ないのか、不明瞭な意図で叫ぶ。

「違います!私たちは元々二人で」

「三人で一緒に来たじゃない!」

 弐英瑠の表情が曇る。

「…私とあさ生にしか能力を使っていなかった?」

「というか、使えなかったというのが正しかろう。のんきにこのビルの前で休んでいるうちに力を使わせてもらった。後はお前達と同行すればここまでくるのは簡単だったよ。この女には、能力を影響させるタイミングがなかったな」

 弐英瑠はここまでの経路の記憶を反芻する。思い当たったのは、気圧差も温度差もさほどなかった、自動ドア開閉時の微風。

「まさか、最初から私たちと一緒に?」

「その通り。どうせ、もう通用せぬか、また同じようにこの力にかかるだけなのだから、告げておこうか。私は転流てんるーがくれと申す。能力は、今身を以て知ってもらった通り、身を隠すものだ」

「…転流?」

 弐英瑠は記憶の隅に引っかかるものを感じるが、追求して思考を深くしている余裕はなかった。

「力は使わせてもらったが故明かしたが、そこまで説明する義理はない。では、この女は貰っていく」

「…なっ…」

 ここは4階だ。生半可な鍛え方の体で飛び降りたのではダメージが少なくないだろう。見たところ、隠にはそこまで体が鍛えられている様子は見受けられない。しかもアリス一人を抱えて、だ。飛び降りたとしてもをこから逃げ切る事が出来るのか。それとも、何か算段があるのか。

 隠はアリスの腰を抱え直す。 相変わらずその腕から逃れようと暴れるが、隠の腕は一向に緩みそうにない。

「は、離してっ」

「残念ながら」

 言いながら隠が視線を窓から外に飛ばし、空いている方の手でベランダに通ずる窓を開ける。

「……!」

 あさ生が、動いた視線がそれた隙を狙う。今度は、おそらくベランダから空に飛び込むであろう隠の軌道を読み、上段を狙った右回し蹴り。

「それはできん」

 言った瞬間、アリスもろとも隠の姿が消える。能力を使ったのだ。

 もちろんそれとは別に、そこに居るはずという位置に放たれたあさ生の蹴りは、しかしそれでも空を切って、隠が立っていた場所に着地する。

 掻き消えていた。

「飛んだ、の?」

 弐英瑠が誰にともなく疑問符を飛ばす。

「……」

 あさ生が玄関に向かって走る。

 弐英瑠もそれに続き、二人がその部屋を離脱した後。

 ベランダの隅に、人影があった。

 脇にかかえられたアリスは、首裏に痣を作ってぐったりとしている。

「…隠だ。予定通り女性を確保。裏に車を回してくれ。2分で降りる」










 月光夜。

 げっこうや、と読むか、月光りよる、と読むか。

 感性から物事の解釈をするのは人格が現れるという。

 同時に、人の性格はそう簡単には変わらないとも言う。

 託先は、多面的な解釈が苦手な人間だった。弐英瑠が縁興に現れるまで、彼は主に一人で、その仕事ー主に諜報活動を続けていた。

 弐英瑠が現れてから、彼女が軸になって、今の四人が形成されていった。もちろんそれまでも、あさ生や珊柱と組む事はあった。荒事に展開する仕事も多かったし半ば拷問のような状態に陥った事や、監禁も、経験がない訳ではない。しかし、その多くはスタンドアロンで活動していた頃の事で、そんな事になれば三ヶ日日の差し金であさ生や珊柱に助けられるという展開が主立った。弐英瑠がきて、何となくチームとして組むようになってからは、そんな事はほとんど亡くなってから、他人としっかり組むようになってから物事の多面的解釈の有用性と、その欠点に気づくようになる。

 困難な人格形成を変化させるだけの影響が、弐英瑠が現れてから託先に齎された。

 実際、仕事にもそれ以外にも有用な事の方が多い。これには感謝しているものの、それ故に迷う事も多くなった。身の回りに人を置きたがり、しかし仕事には危険だからとその面では他人を遠ざけてきた託先は、弐英瑠から伝え聞く丹羽兄弟の、特に弟の気持ちがわからないでもなかった。

 彼が、他人を果たしてどの程度求めていたのかはわからないが、一人である事と、他人と接する事。その選択で、世界がどれだけ違って見えるのか。

 託先は、弐英瑠と別れてすぐに対象の自宅前に到着していた。そこは正確には対象の転がり込んだ女性の自宅マンション前だったが、彼がそこに住んでいる以上そう捉えて問題はない。感情論ではあるが、帰る場所が家であり、生まれた場所は故郷となる。丹羽兄弟の弟が、望んでそこに居るのか、何か目的があって、その手段としてここに居るのかは、わからないが。

 待つ事、5分程度か。相当な距離を駆けてきたはずの珊柱が到着した。

「ごめん。ちょっと遅くなった」

 少し肩が上下しているが、息があがっている様子は微塵も見受けられない。

「いや、問題ねーだろ」

 託先は、少し憎らしく、同時に頼もしく感じる。

 護身術程度には戦える自分だが、珊柱やあさ生には到底敵わない。

「部屋は弐英瑠から聞いてる。行こうぜ」

「うん。三ヶ日日さんから話入ってるんだよね」

「らしいけどな」

 目的のマンションは全部で20階建てで、目的の部屋はその最上階にある。エントランスに入って、部屋番号2001をコールする。

 託先はよくもこんな所に住めるものだと関心さえ覚えるがもはや文字通り、住む世界が違う人間であると思い込んで、考えを打ち切る。

「あいつらは先に着いてんのかな」

「どうだろうね。距離的には、あっちの方が近いしね」

『はい、丹羽です』

 どうやら完全に丹羽の弟の部屋となっているらしい。

「あ、三ヶ日日というものからお聞きでしょうか。丹羽さんを保護しに参りました」

 自然と、珊柱が引き継ぐ。

『……彼女は?』

「私たちとは別の者が保護に行っております」

『……入ってください』

 言うが早いか、エントランスが開いた。

 二人がその扉をくぐって、エレベータで20階に向かっている最中だった。

 託先の携帯端末が、着信を告げる。

『託先君?』

「おう。無事か?」

『やられた』

「は?マジかよ。おめーらの状況は?」

 託先は手振りで珊柱に別働隊の二人の作戦が失敗した事を告げる。

 それまで緊張感はあったものの穏やかだった珊柱の目つきが、一転して険しいものになる。

『こっちは無傷。戦闘にはならなかった。居場所を探索しつつ、とりあえずそっちに合流する』

「了解。現状報告はこっちでやっとく」

『ごめん』

「それは気にすんな」




 珊柱と託先の二人が2001号室につくと、丹羽はすぐに二人を部屋に通した。

 疑う事を知らないのか、それとも何かあっても平気だという何かしらの余裕か。

 マンション最上階に2室しか無い最高級の部屋は、調度も高級で広く、二人には人の住むところとは思えないほど整理されて磨かれていた。絵に描いた最高級、と言えば雰囲気は伝わるだろう。

 そのダイニングにある長いテーブルの最奥にある容赦なチェアに腰をかけて、丹羽が口を開いた。

「それで、彼女は」

「申し訳ございません。何者かによって、連れ去られてしまいました」

 託先が冷静に、謝意はあるもののしかし卑下する事無く堂々と告げる。

「なっ…」

「申し訳ございません」

 と、二人が慇懃に頭を下げたとき。

 丹羽の手元で端末が着信を告げるアラームを響かせる。

「失礼」

 丹羽が確認したところ、端末に登録されている番号ではないが、彼は眉一つ動かす事すら無く、その着信に応答する。

「はい」

『こちら、丹羽睦様の携帯でよろしかったでしょうか』

「そうですが」

 一瞬二人との間に出来た緊張状態を、丹羽は時折こうしてかかってくる業務上の見知らぬ人間からの電話に慣れているらしい。

『私は転流のくさびと申します。皆瀬様の身柄を預からせていただいております』

「…ではこの番号は」

『はい。皆瀬様の携帯端末から、丹羽睦様宛におかけしております』

「…何が目的だ」

 それまでは今回の件には無関係の電話だと聞き流していた珊柱と託先の表情が険しくなる。ただ事でない事は感知したらしい。

『もし、彼女を解放したいと考えていらっしゃるのであれば、貴方に今から指定する場所に来ていただきたいのですが』

「どこだ」

『あら、助けにいらっしゃる』

「もちろんだ」

『お兄さんの、忘れ形見だからでしょうかね。承知いたしました。では、本日新宿西公園においで下さい。人払いはしておきますので、ご安心無く。お時間は任せます』

「わかった」

『あ、ちなみに、丹羽さんをお手伝いしてくださる方々がいらっしゃると思いますが、そちらの方達も同行していただいてかまいません』

 丹羽がちらりと二人を一瞥する。

「…それで、目的はなんだ」

『いらっしゃっていただければわかります。あ、そうそう。そこに居る協力者の方に、蒼海も同行させてください、とお伝えくださいね』

「…おい」

 呼びかけるが、通話はそれっきりで切れてしまった。応答は、無機質な電子音の繰り返し。

「丹羽さん」

 珊柱が、事態を聞き出そうと声をかけると、丹羽は勝手に話し出した。

「お二人、アオミという人物を知っているか?」

 端末を丁重に懐へとしまい込みながら、丹羽が訊ねる。

「蒼海は我々のチームメンバーです。今は別働しておりますが、後ほど合流いたします」

 託先が、怪訝そうな表情を隠そうともしないで丹羽を見ている。

「では、合流を急いでくれるように連絡を。向こうが、その人物の同行を求めてきた」

「蒼海の、ですか」

 珊柱は視線だけで、託先に弐英瑠とあさ生への連絡をするようにと指示をする。汲み取った託先は端末を取り出しながら、会話の邪魔にならない様にと玄関の方に歩く。

 珊柱が正面から捉え、託先が聞き耳を立てている状況で、丹羽は顛末を話す。電話は転流の楔という人物からで、まるでカスタマーセンターの様に丁寧な口調のおそらく女だった事、アリスの身柄を確保している事。今夜新宿西公園に呼び出された事。時間指定は無し。金銭の要求も無し。協力者の同行も許可され、特に丹羽と蒼海がそこへ来る事が要求に当たる、と説明した。

「丹羽さんは、わかるのですが、何故蒼海……」

「そんな事はしらん。何かしたのか、お宅のお仲間さんは」

「何か……どうでしょう。心当たりが無くもないのですが」

「珊柱、連絡はついた。あと2、3分で着くようだ」

「了解」

「では降りよう。遅れるだけ、彼女の身の危険は増すばかりだ」

 三人は丹羽陸の部屋を出て、階下に降りる。

 何か察しているのか、と珊柱は思う。

 この男、不遇な人生を送ってきた割には擦れていない。いや、だから、だろうか。こういう事態には経験があるとでも言うのか。それにしてもこちらへの質問が少ない。何か知っているのだろうか。それとも、想定していた?

 弐英瑠の話だと、下部の借金取りやその辺りの荒事実行犯の存在は丹羽も知っているはずだ。これも、それと同列の人間達の仕業と見ているのであれば、見込み違いだろう。金目当ての短絡的な目的と、そうでない目的には、巻き込まれるターゲットの負担に雲泥の差がある。

 命なのか権利なのか、それとも脅して金づるするつもりか。

 丹羽と弐英瑠に対する目的は一緒なのか、異なるのか。

 珊柱は、疑問を覚えておく事を最後に思考を一旦止める。材料が足りない。転流と名乗る奴らの目的を知るには、奴らがなんなのか、どういう性質の徒党なのかがわからなければ、今回の件に限った部分的な敵情把握しか出来ない。それよりももっと根本的な相手の情報が欲しい。今回の件が、そこに繋がっていくような予感がした。それは、縁興を出るときに感じた普段の仕事との違和感と通じているようにも思えた。

 珊柱は託先を伺う。

 託先も、何か感じているようだったが、丹羽の居るところで不安を話しあう訳にもいかない。

 まずは、二人の顔を拝んでからだ。









 時刻は、20時にさしかかろうかという頃合い。

 5人は新宿のビル群の狭間を車で移動していた。

 乗るのは、丹羽の運転するワンボックスカーだ。5人乗ってもまだ余裕がある。そこまで高級車という訳ではなかったが、家庭用の車としては高級な部類だろう、と珊柱は察する。車を所有する欲求を持った事が無い所為か、こういう方面は疎い。

 代々木にある丹羽の自宅から、新宿西公演まではすぐに到着する距離だ。多少の渋滞を鑑みても、15分あれば問題なかった。

 アリスが捉えられてしまった責任は、自分にある。こればかりは、自分が早期に二手に分かれるという判断をせず保護のために駆けつける時間が遅くなってしまった所為だ。しかし、誰も彼女をせめる事は無い。それは、同時に彼女を責める事にもなってしまっているが、ほとんどは気づいていない。

 そんな弐英瑠の過敏な精神の触覚に気づいたのは、あさ生だった。今回、三ヶ日日から陣頭指揮を任されている弐英瑠は、それ故に自分からそれ以上頭を下げる事が出来ない。プライドではない。メンバーに気を使わせる事で、少しでも注意が内に向いてしまい、外部からの不慮のアクションに対する警戒を怠る事に繋がってはいけないと考えるからだ。しかしあさ生は、その時々置かれている状況よりも個人を優先させるべき生き方をしてきた所為で、どんな事態の中でも優先すべき個があると考える。もし彼女が、アリスが奪われてしまった事で全体に気後れしてしまい挽回すべく動くよりは、個人の興味や目的のために動く事を願う。マイナスをゼロにする圧迫感よりも、プラスを拡大させる動機の方が、事態の様々な局面で大きく違ってくると思うからだ。何よりも、そちらの方が事後、自分の行動の受け止め方が違う。

 その点、託先はこちら側の考え方をする。だから彼には、あさ生の考えている事が少しだけ透けて見える。彼女は明らかに今の弐英瑠が抱えようとしている責任めいた後悔の一部を無理矢理にでも背負い込もうとしている。それは間違いだ。その後悔を否定して塗り替えてやるべきなのだ。しかし、あさ生は自分にはそれが出来ないと思っている。言葉を伝える事が出来ない。自分の口から音を通して意思を伝える事を身体的な都合から最も困難とする彼女は、行動と結果で、それを示す。だから、細かいニュアンスはどうしても伝わりづらい。しかしそれでも、あさ生の心を汲むのに苦労しなかった弐英瑠であれば、あるいは。

 そんな託先の隣で、小さな強い決意は灯をともす。僕は彼女を守る。こんな事で負っていい傷も後悔もない。

「もうすぐ着くが、全員でいくのか」

「私と、丹羽さんと、あさ生は正面から行きましょう。転流のメンバーらしい人間に顔を見られているし。珊柱くんと託先くんは、まだ把握されていないだろうから、相手に補足されないように、別働隊として公園に入って」

「了解」

「あいよ」

「……」

 返事が相次ぐ。あさ生は前方、助手席に座る弐英瑠の右ひじにそっと手を添える事で返事とする。

「丹羽さん、後どれくらいですか」

「ものの、2、3分だが」

「では、一度珊柱君と託先君を降ろします。どこか近くに止めてください」

 全員で公園に同時に到着したのではわかりやすすぎる。この対処も付け焼き刃かも知れないが、それでも固まっているよりはいい。

 駐車量のの少ない路肩に丹羽が車を寄せて、二人が降りる。

「あとで」

 それだけ言い残して、二人は揃って駆け出す。

 弐英瑠は少し視線を送った後で、丹羽に発信の合図をする。

「しかしあんたらはなんなんだ?見たところ、そんなに歳も行ってなさそうだけど」

「あの二人は説明しませんでしたか?」

「危険だから一緒に来てくれとしか。そしたら電話が来たんでな。ここまではなし崩しだ」

「そうですか」

 ものの2、3分で説明できる程、自分たちは単純な事情のチームではないとも思えたが、それ以上の時間を要するほど事細かに説明すべきではないと判断して弐英瑠は口を開く。

「私たちは……世間一般に知られている、ムーンギフト感染者です」

 あえて感染者という言葉を使う事で、気持ちの上で相手を上に持っていく。

「そんな感じはしたよ」

「そのムーンギフト感染者同士で徒党を組んで出来る事をやっています。一人一人ではあまり大きな事は出来ませんが、能力の組み合わせで、事情のある人たちのお手伝いみたいな事をしています」

「……自警団みたいな物か?今回の話は、誰から?」

「依頼主の名前は、アリスとしか聞いていないのですが……今、転流と名乗っている何者かにさらわれている女性です」

「なるほど。依頼の内容は聞いてもいいのか?」

 運転しながら、視線は前を向いたまま、問う。

「それは、アリスの開示許可がなければ話せません」

「そうか」

 丹羽は、少し納得したようだった。そんな会話が前部座席で繰り広げられている間、あさ生は風景を眺めて二人の話を聞いていた。

 新宿はすべてが多い。人も、車も、建物も、情報も。

 そんな中にあって、私たちの事を知る人は、居ないのだろうな。

 別に生きた証が欲しいとか、自分たちの存在証明とか、そんなあおうくさい事を言うつもりは決してない。

 でも、それでも少し、そんなどうでもいい事が空しく感じられる。

「そう言えば、転流だったか。そいつらからの電話でな、相手は俺と、あんたの同行を求めてきた」

「私、ですか?」

 弐英瑠が少しだけ意外そうに答える。

「ああ。何が目的か知らんが気をつけた方がいい。っと、着いたぞ。新宿西公園」

 丹羽が路肩に車を止める。知覚の駐車場はどうせ満車という憶測のもと、路肩に設けられた駐車用スペースに滑り込ませた。

「あさ生、行こう」

 一つ頷いて、あさ生と弐英瑠は車を降りる。

 その公園のすぐ近くに、双頭の巨塔ー東京都庁がそびえ立っていた。








 秘密。

 まるで秘密。

 そんな空気の空間に、再び彼は居た。

 こんなに頻繁に、あの絵に呼び出される事もない。特に一日に二度など、今までに記憶がない。

 彼に想像できる原因。

 それは、おそらく、海の透明度だろう。

 昼間同様、彼は祭壇の前に跪いて、祈るような体勢を取る。祭壇にではなく、その上にある大きな絵画に向けて。

 すると彼の頭上、大きな絵画に変化が生じる。

 月のように見える、しずくを零しそうな白くて丸い物体を両手で包む神々しい美しい女性の描写の後ろ、太陽を遮るように四角形が浮いている大きな絵画。さらに女性の手の白い円の中に、四辺が弦となるように四角形がおさめられている。さらには神々しい女性の背中に羽に見立てたのであろう菱形に見える四角形が2つ。

 そして変化は、少しの祈りを喰らった後に、太陽の光を遮るように描かれた四角形に現れる。

 真っ黒だったそれが、ゆっくりと、弱々しい光量で虹色に光る。

「ごめんね、なぎ」

 とても広い洞窟の中で反響しているようなとても深いエコーをかけられたような声が話す。

「いえ。仰せのままに、姫」

「ありがとう、なぎ。あのね、あの子が、ひらきそうなの」

「開く、ですか?」

「ううん」

「では、拓く、と?」

「うん。そっちー。そっちだと、こんや?ちょっと、あそびにいくかも」

「……それはお待ちください、姫」

 跪く彼の声に若干の戸惑いがにじむ。

「えー。だってー、やっとだよー。1ねんもまったんだからー」

「ですが」

「なぎ、いいこだから」

「……しかし」

「うー。いいもん。べつになぎがいなくてもあそびにいけるもん」

「姫!」

「やだ。なぎこわい。」

 それまで飄々としていた声が、竦んだように小さくなる。

「も、申し訳ございません」

「やだ。ゆるしてあげない。なぎもゆるしてくれないから」

「そ、それとこれとは話が……」

「いっしょだもん。ばいばい」

「なっ。お、お待ちください!」

 絵画の中の四角形が色を失う。それは、声が届かない事を意味する。接続は切れた。

「……っ!」

 彼が歯嚙みする音だけが、闇に響く。








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