序
†
今君が見ている世界がある。
熱を感じたり、痛みを感じたり、奇麗な物に心を動かされたり、可愛い物に気管を締め付けられたり。
風を感じたり、気分が変わったり、身の回りの出来事に一喜一憂したり。
願ったり、叶ったり、叶わなかったり、思ったり、想ったり、届いたり、届かなかったり。
これは、そんな君の世界から、一歩だけずれたところにある、非常に似通った隣の世界の物語である。
†
無限に広がる大宇宙。
その中に存在している銀河系。
位置座標はまだ判明していない。
その銀河系の中に、非常に明るい恒星を中心とした惑星の公転集合宙域がある。
そこに住む知的生命体が、太陽系と名付けたその宙域の中にある、青い惑星。
地球。
岩肌を露出させて内部を守る、わずかな重力を持った衛星を従えたその惑星は、地球と呼ばれていた。
奇跡的に水を潤沢に維持し続ける事のできたその惑星には様々な生命が息吹いている。
その中でも、知的生命体として最も大きな社会を組み上げて運行している種族が、人間である。
人間は、土と水しかなかった地球の表面に、何かに取り付かれたかのように必死に境界線を引いた。
言語が使い分けられ、文化も分岐点を作り、元々白も黒も黄色も関係のなかった人々は、明らかに別れていった。
そうして、人間の様々な思惑と希望と絶望が渦巻く今の世界を作り出した。
そんな世界に、縄張りを示す境界線が曖昧にしかない国がいくつか存在する。
その一つ、日本国。
この国は、陸に国境という境界線を持たずに、違う意識がひしめき合う世界の中で、比較的平和に生きて来た国だ。
そしてその国の、もはや病とも言える「平和」(平和病か?)の中で、彼ら人間の持つ闘争本能は
明らかに他の国の物とは別の次元に達していた。
その中にあって、彼らの多くが抱える個人的闘争は、その者の生き様によって全く違う。
そんな、個人的闘争。
日本の中の個人的闘争。
地球の中の。
太陽系の中の。
銀河系の中の。
そして、宇宙の中の、個人的闘争。
人間にとっての塵屑よりも、宇宙にとっては些末なもの。
しかし、彼らはその結果如何で、世界を左右する事が出来る。
文字通り、全ての源であり、全ての終着点である神上に君臨するソレは、
自らが与り知る全てを記録した記憶の中に、人間についてたった一文だけこう刻んでいる。
「人間は、あらゆる可能性である」
その可能性の一つが、この物語である。
†
日本国、東京。
まだ覚醒前の星には、もちろんその街があった。
一国の首都として形成され、震災や戦争を生き抜いた街。
半世紀と少し前、その街は戦争のただ中で破壊に蹂躙されたが、変化を手に入れて今も当然のように首都として君臨している。
夢と希望の清算される街。
そしてそれらの多くが叶えられ、多くが捨て去られる街。
首都として一国の心臓を名乗る以上、その街は管理されていた。
自らを御せぬモノが国を御するなどと言うのは、世迷い言である。
そんな当然でありながら極端に困難な自己管理を無意識的に強いられる街は、しかしその国民の視線の矢面に立たされていながら
事実、それを達成する事は出来ない。
それはとある街の特殊な性質によって半永久的に阻害され続けるが、しかしその一点に置いてのみ、外側の人間は達成されずとも
なされたと感じるであろう。
その原因たる街は異人街、縁興という。
地図で言うところの新宿区と渋谷区の境目に当たる土地の一区画に、両区を跨いで存在する街である。
しかし縁興は、その街に住む者しか、その存在を認識する事は出来ない。
代々木駅にほど近い、山手線の外側の街。
そこは、とある不思議によって仕組まれた街。
政治の中心から少し離れており首都として成立した後もなお開発の余地を残したために近代的なビルの建ち並ぶ新都心を要する新宿、
そして昔から若者文化の中心であり続けた結果、古い建物も多く大部分が再建築を余儀なくされているがそれ故斑に近代的な渋谷。
この二者の文化がひしめき合う中にあって、この縁興は異彩を放っている。
その街はまるで一から全て計画されていたかのようにデザインの趣が統一された西洋風建築でなのである。
特にヴェルサイユ宮殿やサンピエトロ大聖堂のようなゴシック様式がほとんどで、その方向性は一糸乱れがない。
色調はエメラルドグリーンやターコイズブルーを基調として整っている。
街のほぼ中心に高い建物を据えて、その周りに住人用の住宅がある。その他にも病院や、街を管理する役所の役割を果たす首長の住む屋敷
食料調達のための小さな市場、違法電波による海賊放送局、自警団の詰め所、銀行など、一般的な街として機能させるための使命を負った
施設が複数存在する。
それらを抱えても四方、わずかに1キロに満たない小さな街であるが、それでも人々の記憶から欠落するには大きすぎる誤差だ。
しかしこの街はそれを可能として、それぞれに強烈な記憶を抱える者たちを好んで招き入れている。
視点をかえそう。
日本国首都、東京。その最も栄し新宿と渋谷の間の区画に人知れず存在する陽炎の街、縁興。
そこはとある不思議に抱擁されながら存在している。
「弐英瑠?」
縁興に数多くある二人暮らしを想定した一戸建ての、玄関の扉を叩く声が産まれた。
「鍵、開いてる」
玄関とは言え、そこは事務所の入り口の様で、開けてすぐがリビングやキッチンに続く廊下、という訳ではなく
途端に開けた広間に繋がっている。
弐英瑠と呼ばれた人物はその広間から、ノックに返答した。
それに答えるように、ゆっくりと装飾豊かな扉が開く。
「あ、起きてたのか。もしかして寝ていない?」
覗いたのは、男だった。
年の頃は、十代半ばだろうか。まだ学生のようなあどけなさが抜けていない印象を与える。加えて、白と黒を基調とする
まるで制服のような出で立ちが、彼を大人にしていない。自らそれを選択したであろう事を考えると、自意識から
そう望んでいるのかもしれないと伺えた。
「うん」
「そっか。かも知れないと思って、少し食べ物を調達して来たよ。食べるだろ?」
「…また余計な」
「そう言われるとも思ってたよ。適当においておくから、気が向いたら口にするといいさ」
答える少女は、机に向かっていた。使用者をぐるりと囲むように設計された円形の机。使用者の行動に支障がない様
一方向だけ欠けた円。三日月のような形のその机の上には、72型程度の大きさのモニタが一台。
その背後にはコンピューターが冷まされながらも熱気を吐いている。こちらは3台ある。
その他にも、部屋の中にはサーバータワーや独立型のコンピュータが配置されているが、研究室の一般的なイメージに
あるような雑然とした状況はない。全てがきちんと整理され、整頓されている。管理が行き届いている様だった。
そこでの弐英瑠は、時折思い出したように、一般的なパソコンのキーボードを拡張したような少し形の違う
特殊なキーボード連打している。
部屋のほぼ中央に、6人は座れるであろう大きなテーブルと椅子。弐英瑠のいる作業机の奥に階段が覗いており、
その手前にはトイレらしき扉も見える。作業机とは反対側に、簡易のキッチンがあった。
「…そんなことをしに来たの。まだ7時よ」
「あ、いや、まあ、それもあるんだけど、実はもう一つ大切な用件もあるんだよ。昨日、今日が山だっていってたから、
またカロリー切らしているんだろうなと思ってこの」
と言いつつ、少年は大きなテーブルに置いた食料をパンパンと小突いて
「食料調達に市場に行ったら凪さんに会ってさ。伝言頼まれたんだ」
「…まったく、たった今一つ片付いたばかりなのに」
弐英瑠はすでに伝言の用件は察しがついた、とでも言いたげにあきれた口調で言い捨てる。
それに答える男も、やはりどこかしら感づいていたのだろう、食材を袋から出して調理するために整理しながら
「やっぱり気づいた?」
などと返して、苦笑する。
「大方、立て続けで気が引けた、なんて言い訳するんでしょうね」
「言い訳なんてしても良い事ないのにね。で、今日は昼から聖堂にいるから、都合のいいときに来てくれって」
「肝心の内容は?」
弐英瑠の問いかけは、伝言の内容ではなく、本来伝えられるべきであると考えていた仕事内容の方を指している。
「なんか急いでいたみたいで、さっきはそれだけだったよ」
「そう」
で、あれば問いつめても意味はない。どこから飛び込んでくるとも知れない仕事内容を推測するほど無駄な事もなかったので
会話はそこから世間話に移行し、一仕事終えたモニタは今日の天気の検索結果を表示する。
不気味なくらいの晴れ。7月の初旬に、夏の到来を予告する太陽の照射は容赦なかった。
(2012.0821 pixiv up)
†
相変わらず美味かった。
朝っぱらから両手にいっぱいの食材を従えてやって来て、4分の1は朝食に使い、もう4分の1は弐英瑠の冷蔵庫へのこり半分は自分用と持ち帰っていった男の料理の腕は、プロとまでは行かないものの、明らかに鍛えられたそれだった。
……珊柱君は、恋人とかいるのだろうか。
ともすれば、その恋人に指導されているであろう事は想像に容易いし、でなければ趣味か。
剣術に長けている男—珊柱だが、見た目はかなり優しく温厚そうな青年だ。趣味であっても、意外ではあるが苦手ではない。
弐英瑠は、珊柱の手料理を食した後に決まって巡らせるそんな思考に、いつも通りの日々である事を確認しながら外出するための身支度を終え、自宅から太陽の下に踏み出る。もちろん、日傘は忘れない。
そして、聖堂への道も忘れない。
これも、週に最低2回は繰り返している日課だ。
弐英瑠の家から歩いて、5分。今日こそ日差しにさらされっぱなしのアスファルトが暑くてその道のりに辟易するが、普段は聖堂に向かう道で歩を進める度に、ますます穏やかになっていく自分を感じる。
そこは彼女にとって胎内とも言える場所であり、墓標とも言える場所だった。
この街、縁興ではじめに目にしたのは、聖堂に掲げられる一枚の大きな絵。
一見月に見える、しずくを零しそうな丸い物体を両手で包む、神々しい美しい女性。その後ろで、太陽を遮るように四角形が浮いている。白い円の中に、紙片が弦となるように四角形がおさめられている。そして女性の背中に菱形に見える四角形が2つ接している。これはまるで羽を模したようだった。
彼女はその絵を目にした瞬間、自らの何もかもがわからないのに、自分の生と死を覚悟した。
この事は、彼女の脳の中だけにある感覚となっている。弐英瑠には、彼女と同じように仕事をこなす仲間がいる。珊柱もその一人だし特によく連携をとる仲間ももう二人いる。しかし彼女は誰にも話していないし、今のところは誰かに話す気もない。
そんな天井の高い、一瞬十字教の教会を思わせる聖堂はその絵に限らずとも、彼女にとってはとても特別な場所だった。
だから、なのだろう。今日の聖堂への道が普段はたどらない道に思えるのは。
普段は仕事の最終報告のため、毎週決められた時間に通っているだけでそれ以外には滅多に聖堂には行かない。そんなに気軽な存在ではなかったし、離れて思う事も必要だと思っているからだ。その間、弐英瑠の中でまるで焦がれる恋人と離ればなれになり、それぞれの想いが実物を離れて相手を美化していくように想いは膨れ上がるが、しかしその想像をあの聖堂が超えた事は一度もなかった。彼女の聖堂に対する虚構は、現実を超えられないでいる。
そしてそんなにも彼女を虜にして止まない聖堂への道は、これもまた弐英瑠にとって好物の一つだった。
町並みや人を眺めるのが元々嫌いではない弐英瑠だったが、縁興の外に比べて、この街はどこか夢見がちに感じられて好きだった。
ゴシック風に纏められた景観だが、それていでも一軒一軒個性のある建築物に、聖堂の子供の様な感覚を持つからだろうと、
弐英瑠は思っている。
日傘の影から全く飽きずに背後に流れていく街を眺めながら歩いていると、それだけであっという間に聖堂に到着する。
体感時間は5分もない。
「……。…失礼します」
いつか思い切って、ここでただいまと言ってみたいとよく思う。その度に、今回こそはという衝動を少なからず感じているが、しかしお利口な事に理性が勝ってしまうのが、蒼海弐英瑠という人間の性格だった。
聖堂と呼ばれる、縁興の中心を成す建物は本来の名称を「リユニオンプリズン」、再結集の牢獄と言った。そのネーミングの不気味な雰囲気と、味を解釈するのが困難である事から、人は建物の外観からイメージを膨らませて聖堂と呼ぶ。
実際は何の宗教でもないし、役目など言ってしまえば町役場のようなものであるにも関わらずだ。唯一例外があるとしたらそれは毎週水曜に開かれる十字教のミサに使われる事も由来していると言えなくもないだろうが、縁興に十字教徒は少ない。
聖堂の構造は、至ってシンプルだ。
中心に約100人ほど収容可能な講堂があり、その周りを、正面から見て奥に位置する執務室をはじめとする各設備に繋がる廊下が敷かれている。
その廊下の途中に客間や、家のない物に貸し出される寝室やトイレットが配置されている。別段変わった事はない一般的な施設ではあるが、変わっている事と言えば、執務室脇の階段だろうか。
講堂の壇上に上がる階段の他、隣には分厚いセラミックの扉がある。弐英瑠は入った事はないが、その扉はチカにある空間に通じていて、隔離された地下では、市場でも売られている食物の一部がしっかりした管理のもとで有機栽培されているとされている。
もっとも、講堂以外に強く興味は惹かれない弐英瑠にとっては、些事な興味でしかなかったが。
正面の大扉を片方だけゆっくりと開けて中に踏み入った弐英瑠は、少しだけあきらめられない様な視線で講堂へ繋がる扉を一瞥し大扉を片手で閉めてから左手に折れる。
特に神聖な加護があるような宗教の施設でもないのに、こういう建物の中はなぜか特別な気分になる。
普段はコンピュータとモニタをキーボードで駆使して情報戦ばかりしていると、真逆とも思える物に惹かれるのだろうか。
歩を進めると野宿者の駆け込みに対応するために用意されている寝室の扉が開いている事に気づいた。
閉め忘れた感ではなく、明らかに誰かが開け放しにしている様子だ。ここで働いている人と言えば、大方一人しか思い当たらなかった。
「三ヶ日日さん」
弐英瑠はどこかためらいがちに、部屋の奥でベッドを整えているワイシャツ姿の長身に声をかける。
「ん?あ、蒼海くん。来てくれたか」
三ヶ日日と呼ばれた人物ベッドメイキングの手をいったん止めてはゆっくりと弐英瑠の方に振り向いた。
「はい。珊柱君から伝言を受け取りまして」
「うん。そうか。ちゃんと伝えてくれたんだね」
「はい。ただ、肝心の仕事の話がなかったので、早めに来ました」
それは、一から直接聞くとなると時間がかかるだろうという意味だ。いつも弐英瑠は概要を聞いて、自分で調べてから三ヶ日日のところへ出向くようにしていた。
「ああ、済まない。ちょっと今朝は急いでいたものでね。電話も入れられなかった」
「いえ、問題ありません」
弐英瑠の返答を聞くと三ヶ日日は安心して納得したようにうなずいて続ける。
「じゃあ、先に執務室で待っていてもらえるかな。私はあと少しで個々の整理が終わるから、終わらせてから行くよ」
「了解しました」
承知の返答とともに一礼した弐英瑠に、三ヶ日日は笑顔で一つ頷いて、冷蔵庫に飲み物が冷えてるから、とだけ告げて作業に戻った。
弐英瑠は再び歩を進める。執務室まではほんの数歩。入ろうとすると、きちんと閉じた扉はしかし施錠されておらずすんなりと弐英瑠を室内に通す。
「……」
無言で涼を感じる。どうやらクーラーが効いているようだった。それを認識して、後ろ手に扉を閉じた。
執務室の中は、洋風に統一された家具群で質素ながらも美しく整えられていた。基調が取れ、訴える景観は一糸も乱れがないその様子に彼女はまるで弐英瑠は先ほどの客用寝室での三ヶ日日の様子を思い出す。もう少しで作業は終わりそうだった。
そう考えた彼女は自分と三ヶ日日の分の飲み物をグラスに注いだ。三ヶ日日の方は氷を添える。
そうしてソファに落ち着いたとたんに、執務室の扉が開かれた。
「お待たせしたね。すまない」
ほとんど待っていないし、そんなに待たせるほど時間が経過していないのは三ヶ日日もわかっている事だったが、しかし彼は心底すまなそうに言う。そういうやつだった。
「とんでもありません」
弐英瑠は、それがわかっていながら謝罪を謝罪と受け止めた。ここで卑下た言葉を並べるのは彼の遠慮を深まらせるだけである事もこれまでの付き合いの中で身に染みていた。
「ははは。ありがとう」
三ヶ日日の返答を受けて、弐英瑠は無言。見つめる視線で、用件を促した。
この後に特段火急の用件が控えている訳ではなかったが、それでも、世間話は用件の後だ。
そんな意思を汲み取ったのか、三ヶ日日は自分の作業机に戻るとグラスに一口つけて、手近な引き出しから何か取り出した。
書類だ。
「今日一つ片付いたばかりですまないけど、よろしくお願いしたい」
三ヶ日日の切り出しに弐英瑠は首肯する。
「依頼主はアリスという匿名の女性だ。身元は後々突き止めるとして、依頼内容を鑑みて匿名にしたらしいよ」
それだけ言って、手元の書類を弐英瑠に手渡す。
彼女が受け取って、それに視線を落としたのを確認してから、三ヶ日日が続ける。
「依頼内容は、自分の恋人を過労死とおぼしき原因で死に追いやった会社への復讐。その会社は裏で適当な事やってるらしくて罰としてそれを一般大衆の目に晒して欲しいとのことだよ」
「…なるほど。確かに、私向きの依頼ですね」
この様な少々事情のある、表立っては言えない黒い目的を達するための仕事が、弐英瑠を含む縁興に住む数人のチームが担う依頼優先の仕事である。誤解を恐れずにわかりやすく言えば、無法の仕事人だ。もちろん、この表現ではディティールが現状とは異なるが。
「そうでしょう。という事で、あなたにお願いする事にしたのです」
「…情報戦なら」
「報酬はどうしましょうかねぇ。いつもの額でいいですか?」
「…うん。それで」
「わかりました。毎度の事ですが必要なものや経費があれば言ってください。それはこちらで負担しますから」
と言いながら、おそらく各種の段取りは全て請求書に変換されて依頼主のところに回っているに決まっている。
「一度ここでその資料に目を通してもらって、不明な事があればお答えしますよ」
三ヶ日日はいつもこうだ。今回だけ特別という訳ではない。どちらかというと、不意に予定が入るのが好きではない部類。電話もあまり出ないし、街で見かけても会釈だけで通り過ぎるのがほとんどだ。そのかわり、彼の予定に入っていれば、こちらの予定にはやや強引なくらいに割り込んでくる。
「…今日から取りかかるけど、他に動けるメンバーはいる?」
弐英瑠は資料と一緒に閉じられていた薄型の情報記録カードを、どこについているのかわからないスカートのポケットにしまい込みゆっくりと口を開いた。
「いつも通り、珊柱君とあさ生君なら動ける様です。託先君は明日までブランクですねぇ」
「…了解。多分ないと思うけど、託先のブッキングをお願いします」
「総力戦?」
三ヶ日日の質問は非常に意外そうな声音に載せられて届いた。
彼の認識では、おそらく1日2日で終わる程度の仕事に見えていたのだろう。
会社のサーバーによからぬ手段でアクセスし、情報を抜き出して、ターゲットと関係が薄い、もしくはライバル関係にあるとされる情報発信会社に情報をリークする。
飛びついたらそれでオーケー、出なければ、弐英瑠が仕事柄構築している情報流通網に流すだけ。
これで、2日もすれば、大手マスコミはもちろん、当の会社自体も無視を決め込んでいられなくなる。
「…この会社、アルファシステムズって、良い噂を聞かないから」
「ええ?そうなんですか?」
「…ネットでちょっと潜ると、馬鹿みたいな話がまことしやかに。もちろん、そんなに信憑性はないのですけど。大きい企業でもないからそこまで組織力もないと思うし」
「とは言え、煙のないところに何とやら、ですよね。そうなんですか」
「…従業員を過労死させて、その知り合いに恨みを抱かせるような会社は、やっぱりなにかしらそう言う事に慣れているってことです。その上、復讐まで考えさせてしまうような乱暴な事後処理しかしないようでは…」
「確かにそれは一理ありますね。なるほど。という事は…わかりました。珊柱君と、あさ生君、託先君には私から事情を通達しておきます」
弐英瑠はその返答を受け取って、執務室を出る。
おそらく、この依頼は今日で大方の方向が見える。少なくとも情報戦に関しては、夕方からの一瞬が勝負だろう。
弐英瑠は、自宅で熱気を吐き続けるパソコンのファンに超過労働を強いてしまう事を心の中で詫びながら、同時に眠りが少なくて済むその相棒たちと自分の脳みそを得意に思った。
†
四道託先は一人だった。
だから最初携帯が鳴ったときには出なかった。
一人、を過ごせる時間は嫌いだが、それでも少ない。一人の時間を過ごすことは、誰かと過ごす事の価値を高めてくれる。
託先似とってはどちらかというと、誰かと過ごす時間の方が重かった。
もし今誰かが一緒だったら?
それでも、彼は電話に出なかったろう。
いや、一緒にいる相手によったかもしれない。
しかし、彼は緩いジャージにTシャツ一枚のラフな格好で、長い金髪を軽く編んだまま放置して、一人で自室のベランダに寝そべっていていた。物理的にも、そして精神的にも一人だった。
そんな暮らしを、3日続けていた。
だから、二度目のコールで立ち上がり、ダイニングテーブルの上で寂しそうにコールを続ける携帯端末の着信に応対した。
その感覚は、彼の判断基準に、同一人物からの二回目である事を知らせていたことも、その行動の引き金だろう。
「はいはい。こちら四道。ただいま電話に出る事が出来ません。御用の方は……」
『あ、出ましたね。弐英瑠くんから伝言です。明日から待機してほしいと。今、とある件を弐英瑠君にお願いしているのですが相手の性質的に、もしかすると出てもらう事にあるかもしれないという事なので』
ふざけた応答だが、託先はしかし電話の相手が誰かという、着信通知情報を得ていない。彼が大雑把で、万が一、その電話の用件が死刑執行の通知だろうと間違い電話だろうと、同じように対応しただろう。
彼はぶれる事を恐れる。
「……乗れよつまんねーな」
文字通りに唇を尖らせる託先に、いつもの事、取り合うだけ時間の無駄でしょう、とでも言いたげに、電話の主は話を続ける。
『乗っても降りても用件は変わらないので』
「どうでも良い与太話は散々するくせに仕事の話は効率重視なのな」
『似たような皮肉を聞くのは何度目でしょうか』
「もう打ち止めだ。そんな事言われたら鉄板の価値がねぇ。弐英瑠が?」
余白的なコミュニケーションは切り上げて、話題を戻す。重要なのは、その内容よりも、誰か、だ。
『ええ。スケジュールのブランクは明日までホールドされているのですが』
「いや、問題ない。弐英瑠に預けていいよ」
『…本当にあま』
ピッ。
託先の親指が終話ボタンを押した。
自分の処世術を茶化されるのは好きではない。それをおちょくっていいのは、この発言の意味を推し量れる者だけだ。託先の伊方を借りれば、内側にいる事をよしとされた者。
そして、そこに三ヶ日日は入れていない。
悪いやつでないのはわかる。
しかし、こんな街を一人で管理して、あまつさえ変な人払いまでかけて国家の行政が及ばない領域としてしまった。そこに自分の様な孤児をかき集めて、行政の及ばない事でよしとした仕事を請け負っている。
自分たちは社会からはじき出された人間だろう。それはわかる。しかし、だからこそこんな暮らしが出来ている事が、託先にはとても大切であり、同時に恐ろしくもあった。こんな事をやってのけた三ヶ日日凪という男は、いったい何をしているのか。何をして来たのか。
なぜこんなしょうもない自分をかくまって養うような真似までしているのか。
何か目的があるのか?そしてそれは、あるとしたらいったいなんなのか。
もし、自分や弐英瑠、あさ生や珊柱たちを使って何か達成すべき目的があるのであれば、そしてそこに自分が必要なのであれば、その目的に繋がる使い方をしない限り、おそらく取って喰われるような事はないだろう。疑問はまだ疑問で、疑念に発展するには三ヶ日日の行動は正直そのもので、とみに仕事をしていて怪しい点がある訳でもなかった。故に最低限信用して、身は預けている。
しかし、その疑問に回答が示されない限り信頼して心を預ける気にはならない。
託先の内側にはそう言う真贋がはっきりしている者だけが入る事を許される。
三ヶ日日からの不意の電話は、そんな事を考えてしまう託先の心をざわつかせた。
そんな思考を、終話した携帯電話のディスプレイがバックライトを消灯するまで続けて、ダイニングテーブルの上に端末を放置、ベッドに身を投げる。
すると途端、携帯電話が別の着信を告げる。
今度のは、短い。情報の着信を告げる通知音だった。
「っだよ。メールとか、嫌みか?」
せっかく寝そべった体勢だったが、託先は起き上がってテーブルの上に放置した携帯を取りに起き上がる。
もし三ヶ日日からの厄介だったら、徹底抗戦する気だ。
「……」
託先は、少し頭に血が上っている事を自覚した。それは、届いていたメールに心底冷静になれと告げられた気がしたからだ。
「このガキが」
自分の事だった。
†
電話に、しようかとも思った。
でも、結局それでは自分の意図は伝わらない。
いや、きちんと伝えられない。汲んではくれるだろうがそれは結果的に伝わっただけで、伝えた事にはならないのだ。
自分の出来る事と出来ない事。それは彼女ー御煌あさ生がいつも癖のように考え込んでしまうよくも悪くも自問自答の儚げな螺旋の
正体でもあった。
携帯電話端末の画面を見る。
全てのメールの件名と宛先が一覧表示されており、いつ、誰に、どんな内容を送ったのかのサムネイルが表示されている。
送信トレイの4件のメールが表示されるその画面を、ボタン一回分一つ下にスクロールすると、さらに4件。
そのすべてが、同じ人物だった。
「……………………」
無言で、しかし思考は走らせる。
日の当たる部屋。裏通りに面した、一軒家の二階。ベランダがあり、大きなサッシがあり、フローリングの床。
自分の寝床であるソファベッドの横たわる部屋。
その床にぺたりと座って、晒された脚は陽光に照らされて白く、頭からかぶるように着た部屋着のワンピースは、立ち上がれば本来膝下までを
カバーする丈があるものだったが、今は下半身の下着をかろうじて隠す程度まで、脚をさらけ出している。まあるい猫背。まだ、梳かされていない髪。どこか寂しさが感じられる風体だ。
だらりと下げられた手に、握られたというよりはちょこんと乗っかっている携帯端末。
そんな彼女が、寝床のソファーベッドから這い出してきて最初にした行為が、端末からのメール送信だった。
いつも返事をくれる人物。だから、真っ先に考えてしまう。特別と言えば、特別。でもそれは、自分自身に取ってとても都合のいい特別。
彼は、わかってくれるだろうか。
そんな事を思った瞬間、ヴヴ、と短く端末が震える。
「………」
正解だった。
彼女の予想は違わず当たり。今日は朝からついている。
ゆっくりと立ち上がる。動く事を拒否するように重い体を、関節の錆を払うように動かして、彼女は洗面所に向かう。
髪は梳かさないと。
彼に対するアピールではなく、それはあさ生に取っては礼儀でしかない。
立ち上がった彼女の手から、その動作の最中に離れた携帯端末は、彼女が部屋を出た途端にまた新たに短く着信を告げる。
件名:業務連絡。
いつもの仕事の合図だった。
†
蒼海弐英瑠の家を出て、天樹珊柱は一度自宅に戻って残りの食材を冷蔵庫に仕舞い込み、長物の袋を一つ持って、庭に出た。
とは言ってもそんなに広い庭ではなく、車一台がようやく余裕を持っておける程度の庭で、特に植物などを丁寧に育てている訳でもなかった。
彼は弐英瑠の自宅を訪れたときと同様に制服のような出で立ちのままで庭に出て、袋から木刀を取り出した。
一見して、長年使い込まれている物だとわかる。柄の部分も色あせ方がひどいし、刀身に見立てられた大半は、傷だらけで表面はかなり
ささくれ立っている。柄のそこに、小さく天樹の文字。
自分の持ち物に名前を書くという行為は、小学生の時分には習慣づけられる事だが珊柱のように高校生程度になってまで貫かれる事は稀だろう。事実、彼はそれが習慣である訳ではない。
「……」
無言。
庭のほぼ中央に立ち、木刀を中段に構える。
「……」
動作はない。
呼吸を整えているようだが、呼吸音もない。
外の道に音はない。
車の走行音も、人の話し声も、鳥のさえずりも。
静寂。
作られた物ではなく、自然の無音。
風の休暇。
「……っ」
そこでやっと、動きが生まれた。
中段から一気に振りかぶり、同じ位置にまでまたこれも一気に振り下ろす。
やや前方にある少し背丈ののびた雑草が揺れた。
木刀が生んだ風に切り裂かれるように。その風に道を造るように。
「……ふっ」
最初の一撃が重たかったのか。
それから珊柱はその動作を繰り返す。
何度も何度も。
正眼の構えから、振りかぶって、前へ、前へ。
まるで、誰もいないその空間に標的を見ているかのように。
前へ。
繰り返して繰り返して、何度振って来ただろう。
呼吸の乱れよりも先に、汗が一滴、足下の土を濡らす。
最初から1センチとずれていないつま先のやや先の土が明るい茶色を濃くしたのを、構えを解いて視線を落とした珊柱の視界が確認した矢先。
「ん?」
小さな振動音が、珊柱の耳元に届いた。
「携帯か?」
ひとりごとは、集中力の向かう先を切り替えてくれる。特に自主稽古を終えた後に、別の作業に思考を移すときは、意識せずとも出てしまう習慣的な癖だ。
木刀を片手持ちにして、端に置いておいた携帯端末を拾い上げる。
「凪さんか」
告げられた着信の正体はメール。
†
始まりは、いつも雨だった。
弐英瑠は、仕事のスタートするタイミングを記憶している。
それは、そのときに始まる仕事の中身が果たしていかに簡単でも、単純でも、くだらないと感じても、それは特別な瞬間だと感じられるからだ。新たな事を成す。何かを作らなくても、自分が誰かに対して何かしらの事を成すというのは、それは自分の成した事だ。正義なら成果が、悪行なら罪が課せられる。その結果に向かってスタートを切る瞬間。
彼女は、その緊張感を、好きだとも嫌いだとも言えずに毎回迎え、毎回粗の瞬間とともに記憶する。
今日は、すごく良く晴れている。不気味なくらい、晴れ上がった、あおいうみのようなそら。
72型モニタに表示された電子の海は、青い。彼女の名前は、この海を指している。
「……でも」
ひとりごとは長く続かない。
すぐにキーボードの上を尋常ではない速度で指が跳ね回り始める。
早速標的となっている「アルファシステムズ」の企業ウェブサイトが表示された。
そこにはこれまでの業績がこれ見よがしに羅列されている。
新エネルギーの開発と実用化に向けた試験の最新情報。
現在のエネルギーの効率向上のレボートと、その実験結果を使った新商品。
事実すべてが本当であれば、この会社はエネルギー業界に現れた救世主だ。そして、未来の担い手となる事を期待されているベンチャーだった。
しかし、その実態は。
うさんくさいウェブサイトを瞬間で確認した彼女は次に手製のバックランディングプログラムを走らせる。これは、裏側に走るプログラムで、表側には使えない。
まるで自分の触覚のように、情報の海の隙間に広がっていく見えない感覚器はするすると高速で裏側に入り込んでいく。
そうして、ウェブサイトデータを格納し公開している社内ネットワークに接続されたサーバのアドレスを把握する。
見えた。
裏側に道も造った。こうなれば、もう手に取るように構造がわかる。
今回の目的はデータの秘密裏な獲得と、媒体への公開だ。
それは、相手に侵入を知らせて騒ぎを起こしたり、攻性プログラムを走らせて壊すことは必要ないと告げている。
慎重に、且つ丁寧に。
狩人は獲物に近づいていく。
目的のファイルは二点。
アリスという依頼人の指定してきた「偽装された研究結果」の証拠と、元恋人の真実を示すデータだった。
三ヶ日日のもとから戻った弐英瑠は、真っ先に小型の記憶媒体をパソコンのリーダーに差し込んで中身を閲覧する。それと同時に紙で添付された資料にも目を落とす。
アリスというのはほぼ間違いなく偽名だろう。
恋人の不可解な死を、非合法な手段を使ってまで解明したいなどという純粋な心持ちの女が堂々と本名を晒してこんな危ない仕事に所行に手を出すはずがない。
そんな事を考えながらパソコンに差した記憶媒体のデータを開く。
そこには、依頼に関する詳細なデータが書き込まれていた。
依頼主:アリス
依頼内容:株式会社アルファシステムズ(エネルギー産業)に置ける不正雇用、及び商品性能偽装の告発
不正雇用の実態を示す証拠として情報開示が望ましいのは、丹羽睦。
対象者は、同社の強要する労働基準に従事した事によって、過労死、もしくはそれ準ずる身体的負担を被った。
本件はこれに対する正当な抗議行動である。
簡潔な要約文だ。
文面がそれだけで、それ以上でも以下でもないと訴えている。
報復、と書かないだけまだ理性を保っているが、感情にひもづく情報に関してはどこをとっても怒りしか導いてきてくれない。依頼主は、なんであれば刺し違えてでも、この会社に一泡吹かせてやろうという意気らしい。
恋、というのは、それほどまでに人を変えるのだろうか。
いやこの場合、それまで通っていた気持ちが突然途切れ、行く先を失った感情の矛先なのだろうけれども。
恋、恋人。恋する人。
弐英瑠は、機械的にファイルの在処を探している。72インチのモニタには次々にリザルトが表示され、弐英瑠は一瞬でそれに必要不要の判断をしていく。
手慣れた物だった。
サーバーに潜るときの簡単さ加減から、このサーバ管理者はハッカーの存在などまるで気にしていないようだ。機密事項であろう情報がろくな暗号化もされずに置かれている。さすがに権限がないと知らされないパスワードによってプロテクトされているが、それを電子文書で共有し次点でアウトだし、そもそもこの程度のプロテクトは、弐英瑠に取って障子同然だ。
そんな単純作業を繰り返しながら、とある一つの罠を思いつき、そうしたら先ほどの思考を連想した。
恋、か。
今日も何かそんな事を考えた。
あれは、珊柱に対してだ。こんなに料理のうまい男というのは、たいてい嫁か恋人がいる物である。人生の9割記憶のない彼女にとってはそれらもネットで得た流行の情報であるから、実際は違うのかもしれないが、それでもネットでも多くの人間がその可能性を肯定しているところから、弐英瑠はその可能性を否定できない。
珊柱の恋人はいったいどうしてそうなのだろう。
どんな人か、ではなく、どうして珊柱の恋人足り得たのか。弐英瑠の思考は迷いなくそちらに振られた。
珊柱が認めたから。珊柱に認められたから。珊柱を認めたから。珊柱を認めてしまったから。
いやそもそも認める事で良いのだろうか。
なら、託先やあさ生はどうなんだろう。
よく仕事を共にする4人の中でも特段仲のいい二人ならば、何か知っているかもしれない。というか、あの二人こそもうその手の契約はしたのだろうか。
そんなことを考えていても、指はキーボードの上をはね続ける。
人間なら基本的に恋は出来るという。
なら、私は?
と、そこで視線がぴくりと動いた。
目的のファイルをほぼ同時に2つ見つけた。
これは、もしや。過労死などではなく、丹羽睦自体が改ざんに関わっていたから?
激しい正義感を持ってこの依頼を弐英瑠に持ちかけた少女の恋人たる男は、もしやその正義感でこれを公表しようとして封印された。
可能性はゼロではないが、限りなくそれに近い。
しかし。
考える事は合ったが、弐英瑠はファイル検索と当時に構築していた先ほど思いついた簡単なトラップを設置して、社内サーバからログアウトする。
まずは回収したエネルギー効率開発部の実験データ並びに公表データを比較する。
これは見当違いなくらい、公表データが都合良く作られている。よくこんなにあっけらかんと出来る物だと感心せざるを得ない。もう何かあってもうちは大丈夫だとタカをくくっているのか、捨て身なのか。
これは当たり。
次に丹羽睦のデータだ。
これもひどい物だった。全て定時出社、定時退社を記録しているが、電子入館管理システムは早朝からの入館と深夜までの退出を記録している。どうせ上司に言われておとなしくタイムカードを切ったのだろうが、労働管理局が入退館データを求めないはずはない。
馬鹿な会社だ、と思ったが、先に三ヶ日日にも伝えたネットでの評判とやらは、どうやら真実味を帯びて来たようだ。
どうやら荒事専門のチームがいるやも知れないという予感は事実に近づいて来たが、それはあのトラップが発動してからだろう。
「……三ヶ日日さん」
ファイルを確認して一息ついてから、弐英瑠は三ヶ日日に電話した。既に時間は3時をすぎて聖堂に歩いたときは厳しかった日差しもっや落ち着いて来ているようだった。そんな時間の経過は感じなかったが、しかしそれでも予定よりも早く一仕事終えた事になる。
『あら、弐英瑠君。どうしたんだい?なにか、困った事でも?』
「いいえ。……おわりました。とりあえずリークはせずにファイルを保持していますが、広めていいなら」
『……早いですねぇ。了解しました。では依頼主に一度確認を取るので電話を切って少々お待ちいただけますか?』
「…了解しました」
弐英瑠は言われて終話ボタンを押す。
ふう。電話は得意ではない。テレビ電話ならまだしも、電話はなんか苦手だ。記憶をなくす前の自分もきっとそうだったのだろうと思う。
「ちーっす!」
「………」
「弐英瑠?」
元気のいい声と、こんこん、というドアノックと、遠慮がちなうがいの声音がほぼ同時に弐英瑠の耳に届いた。
玄関の、ドアの向こうからだ。
「…入って良いよ」
声で応答するとドアが開いて、三人が入ってくる。
音の順から、託先、あさ生、珊柱だ。
「………」
弐英瑠の姿を、大型モニタの前に確認したあさ生が小走りで寄ってくる。
「あ、あさ」
全ては言えなかった。
勢いのまま、弐英瑠は顔面をあさ生にホールドされた。
「弐英瑠、麦茶貰うね」
「あ、珊柱俺にもちょーだい」
「わかってるよ。4人分だ」
「さすが」
「えと……あの……あ……むぐ」
珊柱は冷蔵庫の前に直行、託先はダイニングテーブルの椅子についた。
珊柱の方は返事を待たずにグラスを4つテーブルの上に準備して麦茶を注ぐ。
弐英瑠はあさ生にホールドされたまま抵抗するようにもがいていたが、チーム内での荒事担当のあさ生の筋力は弐英瑠に抗いきれるものではない。
観念してあさ生を抱きしめ返す。
「………」
「あさ生、元気だ」
こくこくと頷き、サムズアップ。二段構えのときは、本当に大丈夫。
「座ったら」
弐英瑠の提案に、あさ生は一つ頷いて、ダイニングテーブルの席につく。
「今日三ヶ日日から連絡きたんだけど」
「ごめん、託先君。せっかくの休みに」
「いやー、全然いいんだけど、内容がはっきりしなくてなーんか気持ち悪くてな」
託先がそこで一口麦茶に口を付ける。
「もし、ある程度自体が見えているんなら聞きたいな、と思って」
先を引き継いだ珊柱が続けると
「……」
あさ生がまたしてもこくりと頷く。
「うん。もうちょっと待ってもらえると」
そこで、弐英瑠の携帯が鳴る。着信は三ヶ日日だ。
「…はい」
『あ、弐英瑠君かい。クライアントのオーケーが出たよ。出来る限り多くの手段で公表を、だそうだ』
「…わかりました」
これで、一個人の怒りが、新エネルギー産業の成立に向けて動いている現在の社会の根幹を揺るがす事件を引き起こす。
弐英瑠は通話を終えると、訪ねて来た三人に告げた。
「ごめん。もう少し待ってて。多分、今夜中に方向が見える」
†
それから弐英瑠は三人を若干放置したまま、各メディアへの情報のリークを一斉に開始した。
三人は今度、弐英瑠の背後の空いているスペースに椅子を持ち込んで、弐英瑠の作業を覗いている。
弐英瑠はまず、情報の送信先をそろえ、タイムラグが起こらないように一斉に送信する。
送信時間を一致させる事で、情報が入ったという事の情報共有をさせずに、送信先の探知も回避する。送信が終わったときには、その情報の出所は不明になる。
これでは、おそらく信憑性がないと大手のマスコミはスルーするだろう。しかし写真週刊誌などは火のないところに煙は立たないとばかりにおもしろがってこぞって取り上げるはずだ。その他にも即時掲載の可能なインターネット上の媒体は何かしらの形で情報を公開し始めるだろう。
そうすれば、今度はアルファシステムズが動く。
そこで、先ほどアルファシステムズのサーバに侵入した際に仕掛けたトラップの出番だ。
アルファの管理者が、当該のファイルに何かしら細工を使用とした場合、保存日時と変更内容が、消去しようとした場合はその旨が記載された状態で、弐英瑠がリークしたマスコミにアルファシステムの代表取締役名義で一斉送信される事になっている。
これで今度こそ、文句は言えなくなる。
少なくとも、会社が否定してもマスコミはほぼすべてが報じ始めるだろう。
弐英瑠の読みでは、おそらく弐英瑠の最初のリークから大手マスコミが報じ始めるまでの所要時間は2時間。
その隙に、弐英瑠は次の情報収集に取りかかる。
丹羽睦。
ややちぐはぐな印象のあるこの人物の正体を探す。また、キーの上で指先のバレエが始まった。
三人は特に会話もなく静かにしていたが、気配からモニタに見入っている物だと思われた。おそらく誰もこの作業を正確には理解していないだろうがそれでもこの事件の顛末を位置から説明する手間が省かれるので、自分に集中する視線は気になるがよしとした。
まずは、この名前で反応を示すデータベースを探す。
結果は、アルファシステムズの他に、証券会社と、総合病院、そして、正体不明の小規模サーバが、2つ。
アルファは理由が明確だから置いておく。過労死、という依頼主の情報からどこかしらの病院にはかかっているだろうと結論付けて、病院も後回し。気になるのは証券会社だ。
該当したのは大手の証券会社。アルファシステムよりは頑丈だった防壁をすり抜けて丹羽をたどると、相当量の株取引の履歴が出て来た。
しかし、およそ三ヶ月前からその取引が途絶えている。
詳細を追うと、かなり頻繁な株取引の状況が伺える。一日一件などではない大量の取引だ。多いときには一週間で70件を超えている。これは、株式市場の情報にかなり敏感で、微妙な差異に気づける人間でなければ、負けが込んで資金が破綻してしまい、長期間取引を続ける事など不可能な量である。しかし、丹羽睦はその取引をこなし、アベレージでそれなりに利益を得ている。しかし、アルファシステムの超過労働勤務実態は、タイムカードなど当てにならない管理システムが裏付けている。会社でこなしていた?とすればアルファシステムの本来の業務などはこなせるはずもない。株式市場がひらいている取引時間プラス相当数の時間が必要なはずだ。銘柄的に見ても、その取引は海外市場からも影響を受けるものも少なくない。となれば、24時間がずれるためにさらに注視しなければならない時間は増える。これは到底まともに会社で働いてからこなせるものではない。
何かが、ここを探れと示しているような気がする。
念のため、と思い、弐英瑠は全取引履歴をダウンロードする。アルファで法外な時間を働いている間にこなされた取引の全履歴。
データロードの最中に一瞬、見知った単語が過ったような感覚があって、弐英瑠は送るページをもどす。
「……」
くんくん、と服の裾を二度引っ張る感覚が腰の左側に生まれた。あさ生だ。
「大丈夫。ちょっと、気になって」
弐英瑠はあさ生の表情を見る事もせずに返答した。
何かあったのか?と聞きたいのだ。それは、もう大分、彼女の自分に対するアクションの微妙なニュアンスで理解できる。
先ほどの熱い抱擁もそうだ。
お疲れさま。またがんばったね。次は力になるからね。
弐英瑠よりもこの街が長い彼女なりの観念だろう。この街で事をこなしながら金銭を得て生きていくのは、女の子にとってはつらく苦しい事だ、というあさ生の価値判断。押し付ける事はしなくても、彼女はその基準で判断して他人を評価する。そしてその評価のハードルはとても低いように弐英瑠は感じている。
「さっき……」
ぎゅっと、あさ生が先ほど引っ張った服の裾を握る気配があった。あさ生は、自分の声が出ない所為か、他人の声色に敏感だった。
そんな事を知覚しながら、弐英瑠は何とも言えない違和感の源を探す。
視界の端に映ったディスプレイ端のデジタル時計が、16時を表示するところだったが、それは情報としてだけ認識する。想定される情報の初出時間まであと1時間。
「……あった」
それは、想像よりも早くに見つかった。
「…ミカドエネライズ?」
今度は珊柱だ。
そう。ミカドエネライズ。
この会社は、太陽光のエネルギー効率の向上と、新規化石燃料の発見、エネルギーインフラの構築を行う大手企業だ。そして。
弐英瑠は、OS内に起動させた別のOSから、また別のネットワークを使って検索をかけた。
そして、関連企業の欄に、予想通りの名前を見つけた。
アルファシステム。
「……そっか」
弐英瑠は、何かを悟ったようにつぶやく。
そのとき。
彼女の左目が、普段の紅色から虹色に変化する。
彼女は、ある一定の事象に対し、特別に分析するという特殊能力を持っている。
物事の構造を正確に把握するという能力。真実にたどり着くための情報が弐英瑠に完全に揃っていなくとも、どこからか収集して来て組み上げる。
しかしこれは、ある程度材料が揃わなければ発動しない。例えば主要な登場人物。物語が役者をそろえなければ進まないように、事態の大枠が見えてこなければ弐英瑠のこの能力は無力だ。
それが発動した。発動自体は任意で出来る。使役者の意思によっていつでも可能だ。
しかし、弐英瑠は、殊仕事に関してはこの能力の使い方を滅多に誤らない。一発で全貌が、もしくは限りなく全体像に近いところまで解析が出来ると判断しなければ、よほど行き詰まりでもしなければ使わない。
「お?出たぞ。積み木遊び」
託先のその一言に、あさ生がむっとした怒り表情を向け、珊柱がやれやれと言った表情で
「チャイルドプレイね」
と、取りなした。
あさ生は、もういい、とでも言いたげに、ふいっとモニタに向き直る。その目は、モニタの正面にいる人物を気遣ってやまない。
積み木遊び。チャイルドプレイ。弐英瑠の能力は、まるで子供が積み木やブロックを崩しては作るという遊びをしているような能力だと三ヶ日日が評して、つけられたアビリティネームだ。
「………」
瞬間の無言と、制止。
恐ろしい勢いでキーボードの上を飛び跳ねていた指も、今はぴくりともしない。
「…わかった」
すんでの後、弐英瑠が口にする。
「…これは、私の」
私の、罪かもしれない。
‡
冷たい部屋に、一人。
同じ時間。
ひざまずく男がいた。
外は明るく、真夏の半歩手前の騒々しさだというのに、部屋の中は冷たく、静まっていた。
男は祈っている様な姿勢のままぴくりともしない。
すると、不意に音が生まれた。
男の頭上、大きな絵画に変化が生じる。
月のように見えるしずくを零しそうな白くて丸い物体を両手で包む神々しい美しい女性が描かれ、その後ろに、太陽を遮るように四角形が浮いている大きな絵画。さらに女性の手の中の白い円の中に、紙片が弦となるように四角形がおさめられている。さらには神々しい女性の背中に羽に見立てたのであろう菱形に見える四角形が2つ。これは、縁興の中央に位置する聖堂に掲げられた絵だった。
変化は、太陽の光を遮るように描かれた四角形に現れた。
真っ黒だったそれが、ゆっくりと、弱々しい光量で虹色に光る。
「……なぎ?」
声が、とても広い洞窟の中で反響しているようなとても深いエコーをかけられたような声がした。
「……姫。いかがなされましたか」
男は顔を上げずに言葉だけで返事をする。
「また、月のにおいがするの」
「…この街で、ムーンギフトが」
「うん。つかわれてる」
「悪しき事でしょうか。排除をご要望とあらば」
「ちがうの。ただ、あの子のまよいをうんでしまうかも。たすけてあげてね、なぎ」
「仰せのままに。ユア、マジェスティ」
「ああでも」
「はっ」
「もうすこしで、鍵穴がみえそうよ」
「それは何よりです」
「でもまだ。まだ足りない。1つはひらきそうだけど、残りの3つがまだ」
「承知しております、姫。実験段階は終了しておりますので、本件より実行段階に突入いたしましております」
「……むつかしい」
「申し訳ありません。歌は終わりまして、このままお話に入ります」
「…うん。わかった。ごめんね。ありがとう、なぎ」
「私ごときに、もったいなきお言葉」
「それじゃあ、またつなぐね。あのこたちと次はいつお話しできるかなぁ」
「今しばらくお待ちください」
「えー。でも、なぎが言うなら、うん。待ってあげる。それじゃあ、またね、なぎ」
「イエス、ユア、マジェスティ」
†
強く、儚い者たち。
弐英瑠やあさ生や、珊柱に託先。この四人を評して、かつて誰かが言った言葉だ。
誰かは知らない。この街に強く関わっていると聞かされたが、それ以上、三ヶ日日は説明しなかった。
強く、儚い者。
確かに、身よりもなく、自分たちの力を一本柱に仕事をこなして生きている彼らは、その視点からだけ見れば強いのかもしれない。
しかしその言葉は、儚い、という言葉の持つ表現の方があっていると思わされた。
弐英瑠が自らの能力"チャイルドプレイ"で把握した事実は、彼女の思考を引っ掻き回した。
一点の事実に、彼女は自分の存在を否定せざるを得なくなり、思考は自然と塞ぎ込もうとする。しかしそれでも弐英瑠はそれを自分に許さない。無理矢理に奮い立たせる。無理矢理に進もうとする。戻れない。塞げない。自分には閉じこもる過去も、戻る昔もない。一昨年を彼女は失っている。閉じても、それはきっと生きながら死ぬだけだ。
そんな風に自分に対して恐怖をぶつけて、逃げる対象を今発覚した事実から反らす。
それでも、かろうじて閉じてしまうのを紙一重で免れた程度だったが。
「……」
ぎゅっ。
っと、確かに音がした。
仕事机に備えられたプレジデントチェアの上で、背もたれに寄りかかりもせず震え、指先は硬直し、左目は虹色の明滅を繰り返す弐英瑠を、あさ生が背後から強く、強く抱きしめる。
「だ、大丈夫かい?」
珊柱が目一杯不安そうな声色で問いかけるも返事はない。
「……ごめん」
弐英瑠が声を絞り出して謝罪する。
それを聞いたあさ生は抱きしめたまま首をぶんぶんと横に振り、彼女の謝罪の理由をなんであろうと否定する。抱きしめた腕が、手が二の腕に添えられた状態でそこをさする。震えを納めようとする。
しかし、効果は微細にしか現れない。
「今回の、仕事。いろいろ、おかしいと思って、調べてみた」
弐英瑠が話し出す。こういう前置きは、滅多に多くを語らない弐英瑠が話し出すきっかけだった。彼女の体調や精神状態がどうであろうと、これを遮ると彼女自身が情報の消化不良を起こして塞ぎ込んでしまうので、誰も止めない。
「対象は、丹羽睦って人で、そんなに、大金持ちでもなかった。でも、検索したら大量の取引履歴と、戸籍の売却履歴が見えて来た」
弐英瑠の"チャイルドプレイ"によって構成された事の顛末はこうだ。
まず丹羽睦は、父親から多額の借金を背負わされた。両親が命を売っても、死亡生命保険でも支払いきれなかった。
おそらくそれを知っていて告げずに死んでいった父は、子供に多額の借金を残す形となった。
そして、債権回収の矛先は当然息子達に狙いを定める。
既にアルファに就職していた息子はそのまま馬車馬の様に働かされた。
そうしてもう一人、一卵性双生児である双子の弟は、違法な手段に用いるため、戸籍を売却させられた。
結果、丹羽家の子息は一人となる。これでは、弟はまともな社会で仕事する事は出来ない。
そこで、二人は考え出した。
本来の丹羽睦はそのままアルファに勤務。そしてもう一人の戸籍を売却させられた社会的に名前のない弟は、在宅で株取引をすることにした。
兄が本来の丹羽睦名義で口座を作り、実際の取引作業は弟が行う。何か証券会社などに出向かなければならないときは、兄が出張る。
こうすれば、なんとかうまくやれるはず。
そうして、毎月の借金返済ノルマもなんとかこなして、最低限の暮らしが出来るようになって来た頃、兄に恋人が出来た。
これが依頼主のアリスである。
弟は、兄のこの変化を少しだけ人並みの人生に近づけた証と考えて、二人に何かをプレゼントしようと考えた。
そこで、兄には秘密で一つの勝負に出る。
値動きの激しい、一攫千金を狙える銘柄での大口取引を狙ったのだ。
それが、ミカドエネライズだった。
「で、そのミカドの取引を丹羽兄弟が始めたタイミングが」
「弐英瑠が仕事で標的にしたタイミングだった、と」
弐英瑠がつっかえつっかえ、なんとかそこまで説明し切って、一度言葉を止めると珊柱と託先が引き継いだ。
その後、一つ深呼吸。少しだけ落ち着いて来たようだ。
モニタから目を離して、背後に並んでいた三人と向き合う形になっていた弐英瑠はあさ生に手を握られながら続ける。
「……当時の依頼は、似たような事だった。理不尽な理由で会社をつぶされた人からの報復以来。私も、株取引で設けてる人にはあまりいい印象なかったから、引き受けた。でも、こんな理由でしている人がいるなんて」
「弐英瑠、それはもう、不幸な事故だよ」
「俺もそう思う。ノエルのせいじゃねーよ」
二人が、フォローの言葉を投げる。
あさ生は、握った手から伝わる弐英瑠の自責の念による震えのせいで、心配する心が勝ってしまい、リアクションはない。
「……あさ生?どう思う?」
珊柱に促されて、はっと我に帰ったあさ生が、こくこくこくと素早く確実に、そんなの当たり前、とばかりに強く首肯する。
「当たり前だ、だってよ」
託先が解釈した。
「でも、私がした事で、被害を被ってしまった人がいる。別に何か悪い事をした訳でもないのに。この人たちは、罰せられるべき人たちじゃない。なのに…」
「ノエルは、こんな仕事してる割に真面目過ぎだぜ?もうちょっと、なんかこう、なんつーの?」
「肩の力抜くとか?」
「そうそう!そう言う事、覚えた方が良いって。いつも言ってっけどね」
「………」
託先の、少しきつめの慰めの台詞に、珊柱が注釈を加える。
あさ生もその意見には納得のようで弐英瑠の手を握っていた両手のうち片方を離して、ゆっくりと頭を撫でる。
「でも、でも。覚悟はしてたよ、もちろん。でも、まさかこんな人たちがいるなんて」
弐英瑠は頑に自責の姿勢を崩そうとしてくれない。
「…じゃあ、弐英瑠、続きは?もっと、『視得』ているんだろう?その先に、答えがあるかもしれない」
「そこから先は……うん。そうだね。えと、借金取りに元本失って返済が滞る事がばれて、暴行されそうになったの。だけど、兄の方が弟をかばって暴行されて。で、これが過労による階段からの転落、打ち所が悪かったって言う診断になって、今回の依頼に繋がるの」
一時、頭を切り替えるのは早い弐英瑠。これまでも荒事の現場で、この切り替えの早さには助けられた事のある面々だ。これにも別段驚いた様子はない。後々反省の海になる事は承知しているが。
「弟は?」
珊柱が問いを投げる。
「弟は、その後、兄の振りをしてアルファに出勤しようとするんだけど、当然出来る分けない。戸籍もないし、戸籍のあった兄は死んじゃった。そこで、今度はミカドの幹部の娘と偶然出会って、交際を始めるの。弟がミカドの株で大損失をした事でその女の人が引け目を感じたのことがきっかけなんだけど」
「やっべ玉の輿きた」
「そこ。茶化さない」
「へーい失礼」
「弐英瑠、続けて良いよ」
「それで、なんとか借金は全て返せた。完済したんだけど…今多分、ここがリアルタイムなんだけど」
そこで、弐英瑠はちらりと時計を見やる。
「アルファシステムの不正が表に出れば、最近まで協力体制にあったミカドにダメージが及ぶ」
時間は。
「だから、何かしらの力が、告発したと思われる人間に及ぶ可能性があるの」
17時。
「情報なんて、どこでどう拾われるかわかんない。ミカドとアルファに加えて債権回収組織もある。そうなれば、丹羽睦と、その交際相手と、依頼主のアリスが危ない」
定時のニュース。インターネットブラウザのニュースウインドウに大手マスコミから流れ込んで来る自動配信の見出し。
「お願い、みんな。せめて私に、私の所為で傷ついてしまった人に、一瞬でもいいから謝るチャンスを」
『【速報】アルファシステムズに不正疑惑 労基法の重大違反も?』
「それに、彼と彼女は、きっとまだ終われないから」
†
正義の味方は、当てにならない。
この時代の正義は金で買えるようになってしまったし、元々正義の味方は、ろくに市場調査もしないで自分の理論を披露しているだけのナルシストだ。紙幣価値だけが正義、とも言えるかもしれないが、それにしては世界中で価値が違いすぎる。レートでもっとも強い国が正義などというパワーバランスは軍事の前にはただのもえっかすの灰だ。かといって、軍事を正義と判断するのは、ならば侵略も認める話になりかねない。つまり、この世界の正義は当てにならない。
そんな評論をした人間もいるくらい正義の味方なんて現実は諦め切られてしまっている。
だから、彼らはそうである事を考えもしなかった。
正しさなんて曖昧な価値基準は最初から持ち合わせない。考えるだけ、障害になるだけで、ただの邪魔者。
なら、自分たちの総意として、許せるか許せないかで判断した方がまだ存在理由としての矜持があると考える。
それが、蒼海弐英瑠、天樹珊柱、四道託先、御煌あさ生達4人が自分たちとして存在しうる定義であり、非合法な活動に納得するための砦でもあった。
そして、彼らは攻性のユニオンでいることを決めたのだ。
だから今回も、弐英瑠のチャイルドプレイが示した事実を、真実かどうか見極めるため、彼らは動く。
「しっかし、面倒だよなぁ」
時刻は午後六時。弐英瑠の哀願から1時間経過していた。
その間に弐英瑠は丹羽睦の居場所を突き止めて、三ヶ日日を通して依頼人に指定の時間に指定の場所まで来てもらう約束を取り付けた。
珊柱は一度自宅に戻って荒事の対応準備に取りかかる。それでも制服のような印象を免れない仕事着に着替えて、普段使う無刃の不殺刀と慣れ親しんだ本命の獲物「鳳礼」の準備。
託先は荒事になったときに自身の能力が最大限有効に働くように、弐英瑠と情報共有して彼女が舞台として想定する場所の構造を頭に叩き込む。その作業をしながら、彼女と二人で先行して移動を開始。
あさ生は、珊柱同様に荒事担当だ。総力戦を期待している訳ではないが、念のための準備で一度自宅に戻っている。あさ生自身の身体能力は、珊柱の剣術ほど図抜けている訳ではないが、その特徴的な能力をフォローして足る事、ある意味四人の中で揺るがぬ最強を誇る能力者であることから、荒事担当の任についている。
「…なにが?」
弐英瑠が聞き返す。疑問の元は、後ろをついて歩く託先のものである。
二人は、縁興から外界に通じる通路を歩いていた。街に在住する物しかその存在を認識できない縁興という街の性質上、うかつに街から地続きの徒歩で出ようものなら、その地点にいた人間には何もない空間から突如として現れた人間と認識されてしまう。実際は縁興の人払いのなされた空間から脱したために一般人が認識できるようになっただけなのだが、そんな事はこちらの都合で、向こうの認識は超常現象以外の何者でもない。
そのため縁興には、縁興居住者以外の誰にも認識されないように出入りするための専用地下通路が、何本か存在している。
弐英瑠と託先は、複数あるその地下通路のうち、代々木方面に出る通路を歩いていた。
地下通路は電気がしっかり引かれていて、懐中電灯も不要で、地下水路のように汚くもない。きちんと管理されているようだった。
「この地下通路だよ。事情はわかるけど、なんかこれだけで悪い事しちゃってる気にならねーか?」
「…それと面倒とは違うと思うけど。でも、それは同感できなくもない」
「だろ?日陰でこそこそしちまってさ」
この国で言う法律や憲法の範疇からすれば確かに違法行為、悪い事を働いているのだが、それでも今回、向こうがれっきとした不正者だ。託先の言う事も理解できなくもないが、端から見れば目には目を、歯には歯を、無法者には無法者を、である。
「堂々と出入りしにくいのはわかってるけどよ、もう少しマシな方法ないもんかね」
「…無骨だけど安全」
「ま、そりゃそうだけどさ」
話しているうちに出口が見えて来た。出口には、三ヶ日日が所有する倉庫兼縁興通用口の一軒家がある。その納戸の床に通じているはずの出入り口だ。
「なあ、珊柱たち、出番どれくらいあると思う」
「……わからない。けど、私の予測では、7、8割方、お願いしないといけない事態になると思う」
「やっぱそうか……出来れば、珊柱一人で終わると良いんだが」
これには弐英瑠も同意だった。
あの二人を作戦の主役に据えるとなれば、それはもちろん荒事ーなにかしら戦闘状態に突入するという事になる。それ自体が、まずは回避可能であれば極力回避すべき事だ。そして万が一、戦闘状態に陥ったとき、珊柱一人で済む規模である事を願う。あさ生まで出さなければならない状況というのは、多勢に無勢か、かなり不利な状況か、だ。
託先の先の台詞は、あさ生も珊柱も、そしてそんな事になれば大変痛い目を見るであろう相手に向けられた心配の意が乗った台詞だ。
「相手は、不正をしてでも市場競争に勝とうという企業と、それを一度はよしとした企業で、そんな事がばれたらまずい以上、対策はしているはずだし。何かしらの実行部隊はいるでしょうね。それに、借金取りの方も」
話しながらも、二人は
「だな。なーんか久々に真っ黒じゃね?」
「主役が、無力すぎたのよ」
「……きっつ。ノエルさんそれきっついっすわ」
「…あ、そう言う意味じゃなくて…」
「わかってるって。こっちもきっとそういう意味じゃねぇ。今回の相手のこと、本当に嫌いなんだなって思って」
「……」
無骨な外見。基調は黒に纏めているものの、所々に金髪に合わせた黄色を入れている、ラフなファッション。ほんの少しだけ、腰を下回るほどまでに伸ばして三つ編みにした金髪。その他は短髪。情報戦担当の癖に使えそうな筋肉。その他は不良。
そんな、ゴシックセンスのドレスに身を包んだ弐英瑠とはまるで対極に位置するような、託先の気の回り様には、本当に目を見張る。
「…嫌いというか、不思議すぎて受け付けない。どうしてそこまで、我欲だけで人を傷つけてその上であぐらがかけるのか」
「絶対きったねぇオヤジだな、そいつ」
「…想像したくない」
「やめとけ」
出口から這い出して納戸を出る。窓からカーテン越しに少し確認できる明かりはおそらく街灯が照らす人工のもので、既に日は落ちているようだった。
「目的地は」
「ここから、歩いても10分」
「19時まで、あと40分ってとこか」
「行こう、託先君。予定通り、先に、丹羽睦に会う。アリスに手が伸びるまではもう少し余裕があると思う。先に狙われるのは、主役の方だと思うから」
「おう」
闇に向けて開く扉。
縁興の外の街の風は、弐英瑠に少しだけ違和感を、託先に少しだけ切なさを齎して、彼らを飲み込む。
†
物語に返答をするのは、登場人物ではなく、作者でもない。それを現実や妄想、虚構やただの絵空事としてではなく、物語として認識する需要(受容)者がその役目を担うのである。そして、その需要者は、時に同時に登場人物の様相を呈する。
珊柱はとあさ生、そして先行している託先は、今回、物語の中心にいるであろう弐英瑠の発見したこの事件に関して、まさにその立場の中間に位置していた。傍観に徹する事も出来れば、干渉も妨げられない。需要者が返答を可能にするのは、そこに対する明確な目的が曖昧だからだ。その曖昧さは、目的を持ってしまうが故に目が曇ってしまう当事者達とは違う客観視を可能にする。
「………」
待ち合わせは、小さな公園だった。
そこが、珊柱とあさ生の家と、代々木方面に抜ける地下道の入り口、それぞれの中間地点だった。
そこで珊柱は小さく息を吐く。ため息、と呼ぶにはより自然で、呼吸と呼ぶには強かった。
「…どうするべき、だったのかな」
珊柱の思考は、先ほど自分たちに懇願して来た弐英瑠の事を思い出していた。
『彼と彼女は、きっとまだ終われないから』
弐英瑠のチャイルドプレイに、未来を予想したりする力はない。現在ある状況をある程度細かく解析できるだけだ。もちろんそこから、今後どのようにその事態や現象が変化していくのかを想像する事は出来るだろう。事態を把握する能力の高い人間は、ほぼ予知に近いほどの予測をたてる事が出来るかもしれない。
そして弐英瑠は、その予測能力が、4人の中でも高い方だった。
珊柱は、俯いていた首を持ち上げて、夜空に輝く星と月と、まだ藍色の空に悠然と浮かぶ白い雲を眺めた。
人は、忘れるという記憶の整理がつけられなければ、精神的に行きていく事は出来ない。
縁興にやってくるまでの記憶がすっぽりとなく、それまで出会って来た人間達と作ってきたであろう人間関係の経験値も消失している弐英瑠が、何故そこまで人の行動や意思の動きに敏感なのかは、天性の才能かもしれないし、何かしらで学んだのかもしれない。特に珊柱にとって、人間の様々な願望や欲望が入り交じって情報の渦を成すインターネットの世界はまったく未知のものだ。そこに入り浸って生活している弐英瑠の、ここ一年の経験は珊柱にとっては到底想像しうるものではなかった。
そう言う、珊柱の想像からも経験からも知識からも外の域にあるであろう彼女の思考を探ろうと、彼は想いを巡らすが、当然、達成など出来ない。
そう。そんな事は、わかっていた。こういうとき、自分は彼女と同じ「前」を見る事は出来ない。そんないつも当たり前だった事が、今日は少し頼りなくて、不安だった。
もう何回も思い至たったであろうそんな事を確認した直後。
「……」
くんくん、とサマーコートの右袖を引く感触がして視線を向けると、あさ生がいた。
「来たか。準備は大丈夫?」
こくり。
あさ生は頷く。
「よし…それじゃ、行こう」
珊柱は、右袖をあさ生に確保されたまま、それをよしとして歩き出す。あさ生も、袖を話さずに済む程度の距離を保って、珊柱ついて歩き出す。
縁興は、もともとそれほど人口のある街ではない。その街の建築物は聖堂を覗けばほとんど一軒家で集合住宅が存在しない事もその理由だろう。そんな縁興の街頭はほとんど混雑を知らない。現在もご多分に漏れず、行き交う人は数名だ。夕焼けは、既に家の影で火の光を浴びる事はない。
そんな道を歩行で向かう代々木方面に通ずる地下通路は、二人の待ち合わせた公園からさほど遠くなかった。徒歩で、5分もないだろう。
歩き出して珊柱は、先ほどまで自分を捉えていた思考の根源たる疑問をあさ生にぶつけてみた。
「そう言えば、あさ生は、どうして今回参加する気になったの?」
答えなど聞かずとも、わかる気もした。それでも、本人からの確証が欲しかったから、その問いを音にしてみた。
「………」
返事は動作によって生み出される。
あさ生は、珊柱の右袖を掴んだまま、左手で空中にアルファベットのエックスを描いて、それを握る仕草を作る。
「弐英瑠が、大事だから?」
珊柱は、その意図を読み取ろうとする。あさ生とのこうしたコミュニケーションは、最初煩わしかったが、もう一種の楽しみになっていた。あさ生の強さと、同時に面白い人格をしている事がわかるからだ。
珊柱のその返答に、あさ生は一瞬、う〜ん、と首を傾げて、もう一度繰り返した後、握った手を胸に当てる。
「大好きだから、か?」
何の恥ずかし気もなく珊柱はそう答える。すると、あさ生は今度こそこくこくと二回、力強く頷いた。
「あさ生は、弐英瑠と仲いいもんな」
珊柱の、どこか少し自重気味の発言は、あさ生の目尻をつり上げさせる。左手で、びしっと指されてしまった。
「え、僕もだろうって?」
そうかなぁ、と珊柱が思うと、見透かしたようにあさ生が動く。
「……!」
珊柱を指した指でまたエックスを描き、その空間にごめんなさい、とでも言いたげに頭を下げて謝罪のアクションをとる。
「弐英瑠に謝れって?」
こくこく。
「……」
少し思案する。
それは、珊柱を信用している弐英瑠に失礼だ、ということだろうか。
「ごめん。僕が浅はかだった」
珊柱が神妙そうにそう言って軽く頭を下げると、あさ生の表情はそれまでの怒り顔から柔らかい笑顔に切り替わる。
「なあ、あさ生」
別段ケンカという訳でもないため、和解という表現は大げさかもしれないが、改めて打ち解けた事で珊柱は少し饒舌だった。
「今回の件、何となくいつもとはちょっと違う気がするんだ」
あさ生は珊柱の一歩後を、袖は掴んだまま同じペースで歩きながら、珊柱の言葉を黙って聞いている。
「それは単純に、今まで僕らの過去の仕事が、他の仕事に影響した事があまりないからだと思うんだけど」
どこか不安そうな、自信のなさそうな珊柱の言葉達に、あさ生はそこで一つ頷く。珊柱にも、それが伝わったのだろう。珊柱は続けると目的の地下通路の入り口が見えて来た。これは全く隠される事なく、まるで地下鉄駅の入り口のようにぽっかりと口を開けている。もちろんこれも他の建築物同様にゴシック調だ。
「だから特別視してしまっているのかもしれないけど。いざ作戦になったら、あさ生とはコンビだし、こういう事は話しておいた方が良いと思って。君は察しがいいから、もう僕が、今回のこの仕事について本当はどう思っているのか、僕よりわかってしまっているのかもしれないけど」
「……」
あさ生は首を横に振る。
そんな事はない、という意思表示。
「ありがとう。でも、覚えておいてくれ」
あさ生が、こくりと頷く。逆説の意味は、推して知る。
「さあ、じゃあ二人と合流しようか」
二人並んで、地下道の入り口に足を踏み入れる。
もし傍観者がいたのなら、闇が二人を飲み込んだ様に見えたかもしれない。
時は宵闇をすぎてさらに針を進める。
人は、どこに向かって想いを進める。