呉葉の日常1
現時刻は十時と二十分。
私こと笠倉呉葉は現在高等学校にて環様と共に二限目科目、数学の授業中です。
この高等学校の授業は、正直に申しますとあまり好きではありません。詳しく言うと既に自分の知識にある事を教わるばかりでつまらない、というのが心情です。
惚条家と共に仙間の山に住んでいた頃から学校という施設には通わず母上に勉強を見てもらっていた私には七歳の頃に義務教育で習う知識は習い終わっていた。母上の予定では十歳で終わらせる予定だった為、余った三年分の学修の刻をどうすか、その答えを託された私は『更に上の勉学をお願いします』と答えた。
何事も覚える事が得意だった私はそこに一つの娯楽を得ていた。そんな私が更なる知識を求めたのは当然だったと思う。
だが更に詳しく話すと、学修の刻は環様も母上による授業を受けていたのです。私と環様では学修内容が全く違いましたが横に並び授業を受けるあの時間を私はとても気に入っていました。年相応の授業を受けていた環様の横に付き添い勉強が行き詰まった際に手助けをするあの瞬間は、私にとって至福でした。
仙間の山を出た後も書物によって知識を集めこの街に来てからは九子様にも教授をしてもらっていたので、現在では既にこの高等学校で覚える事はすでに頭に入っているのだ。
九子様はアレでも上位レベルの女学院を主席で卒業した方で学力や知識面においてはとても頼りになる。書物で見て理解できない事などを質問すると当然の様に答える様を見て、流石は黒凪家の御令嬢だと思い知られた。
まぁ、私生活面においては全く頼りにならないのだが。
「で、この数式の答えを求めるには……」
そんな杞憂を思い浮かべていると教卓の教師の声が耳に入ってきた。
若く背の高いこの男教師は女子に人気があり生徒からの支持が高い。教え方にも評判があり普段なら机に屈服して寝ている生徒もこの教師の授業の間は顔を上にあげている。
ぎゅるるるるるるぅ
「この問題は代入方法さえしっかりと理解していれば簡単に解けるからな、難しく考えるな」
だが私は正直言って嫌いだ。教え方が悪い。
何度も同じ言葉を繰り返す癖にも苛立ちを覚え、強く推す要所を使い分けない為必要性のある箇所ない箇所同じように教えるので肝心な部分を上手く教えられていない。人気が高いという愉悦に浸っている部分もあり、未熟さが見て取れる。
生徒の扱いも差別を感じる事が多々あり、自分を支持しない生徒に対しては表立たない冷たさがある。未成年の上に立つ者としては不適格ではないかと私は真剣に思う。
ぎゅるるるるるるぅ
「この問題は間違えやすくてな、勘違いしてこの箇所にこの数字を代入してしまいやすくよく使われるひっかけ問題だ」
かく言う私もまだ未熟な身、偉そうな事は口に出せない。
傍で勉強に励む環様に見習い、勉強に勤しむ生徒を演じる。私がこの一年のクラスに居るのは環様の傍に付き、護役を全うする為だ。授業自体は勤しむ生徒を演じればいい、大事なのは環様の身の安全なのだから。
ぎゅるるるるるるぅ
「えぇ……あとな、以前のテストで正解が少ない問題がいくつかあった。そこを復習しようと……」
そう、私が最優先すべきは環様の安全。それを守らなければいけない私には今すぐやらなければいけない事がある。それを行う為、机にかけてある鞄を持ち出し机の上に乗せる。
ぎゅるるるるるるぅ
「復習しようと……思うんだが……」
ぎゅるるるるるるぅ
「………ッチ。笠倉、何とかしてくれ」
「はい」
教師の了承を得たので、私は鞄の中から朝に用意しておいた手の平大サイズのおにぎりを二つ取り出す。それを二つ持ち体を座った状態で傍に座っている環様に向ける。
環様は真剣な顔で授業に励んでいられる。顔を真っ赤にして、獣の様になり響く空腹の音色を抑える様に腹に手を添えながら。
「環様、これを召し上がって下さい」
小声で呟くように話しかける。
それを聞いた環様は項垂れるように顔を俯かせて手に持つペンを机に置く。余程恥ずかしいのでしょう、眼鏡越しの瞳には涙を薄く貯めている。
環様は項垂れたまま上半身だけこちらに向き合い私が差し出したおにぎりを二つ手に取る。
「……ごめんね、くれは」
私と同じように小さく呟き謝罪の言葉を口にする。しょんぼり、という表現が似合う程肩を狭まらせ小さくなってしまっている環様は涙を貯めた瞳で上目使いのまま私を見つめる。
「その様なお顔はお止め下さい、皆が見てますよ」
安心させるよう小さく笑いかけ優しく諭す。環様は小さく頷きかえしおにぎりを机に置いてこちらに捻らせた体を元に戻した。
「し、失礼します」
「出来るだけ早くしろよ。あと授業は進めるから黒板から目を離すな」
環様は教師に頭を下げて目を周りに配らせて同じ様に頭を下げる。教師は授業の妨害に苛立っているようで言葉に棘があり、表情も自然を装っているがその裏のある感情を隠しきれていない。
逆にクラスメイト達は笑って環様の目配りに答えている。特に何とも思っていない、という反応だ。
環様がこうして授業中に食事を取るのは、この高等学校では容認されている。
人の数倍の食欲を持つ環様は体が食物を欲するとこうしてすぐに腹の音が激しく鳴る困った癖がある。普段なら朝食で大量に腹に食物を入れて昼まで持たせるのだが、今朝は九子様の件があった為必要分の量を取れなかったのだろう。
もっとも、環様のこの食欲は理由があり仕方のない事なのだが……
こうして授業中に鳴る事は過去何度もあり、その度に私は非常用に用意してある食事を手渡すのだ。
環様にそういう非常事態がある事は既に予想出来ていた事なので、入学する時に先に九子様が話をつけてくれていた。
なのでこうして授業中に食事を取るのはかまわないのだが、問題は他のクラスメイトがどういう顔をするのか……それがこの件の唯一の問題だった。同じ様に授業を受けているのに横で食事を取られて良く思う者など居ない。
なのだが、それは私と九子様の杞憂だった……
環様はおにぎりのカバーを捲り、小さく手を合わせてから両手で持ちパクパクと口にする。音を立てないように気にしているのか小さく口を開き細かく食べるその姿は小動物のように可愛げがある。
こういう仕草は決して私には無理だろう。環様の様に凛々しく、且つ可憐なお姿の方がするからこんなに愛想があり目を惹かれてしまうのだ。クラスメイトの女子連中も環様がおにぎりを小さく頬張る姿を見て明らかにうっとりとした高揚の顔をしている。
微笑ましく見守るような目を向ける者も居れば鼻息を荒くして見つめる者も居る。男子の中にすら高揚したような目を向ける者も居るが、あれは危険だ。
私と九子様の心配とは裏腹に、クラスメイト達は環様の腹の音も食事も気にしていない。むしろ中にはパン菓子などを提供してくれる人が居るほどだ。
こうしてクラスメイト連中が環様の食事の様子を見守っているが、教師だけは気に入らない、と言ったような目をしている。
環様はクラスだけではなくこの学年通して大抵の生徒から快く思われている。
人に懐きやすく優しい性格、凛々しい顔立ちに可憐且つ清楚な容姿、周りを穏やかにさせる程魅力のある表情に仕草……もし私が傍についていなければ常に人だかりの中にいてもおかしくはないだろう。
この方は『惚条家の御長男』として十分な風格を持っているのだ。嫌われる要素の方が考えにくいぐらいだ。
だが中にはこの教師のように快く思っていない者も居る。
恐らくこの教師の場合は生徒に人気があるのが一つの快楽と感じている節があるので同じ様に生徒に人気の高い環様に嫉妬をしているのかもしれない。そういう愉悦を持っている者によくある話だ。
もし授業中の食事を良く思っていないなら完全に筋違いだ。それは環様の体調に関する事で何より許可を貰っている。正当な行為を取っているのだからそれを忌み嫌われているのなら筋違いだ。
授業の雰囲気を壊した事に苛立ちを感じているのならまだ納得できる部分はあるが、この教師の顔はそんな顔では無い。嫉妬……それが明らかに顔に出ている。
因みに他の教師達は食事に対してさほど問題視はしていない。環様の普段の行いが良いのと成績も上位にあるのもあり、それ程授業を乱さない限り渋い顔はしない。
そんな顔をするのはこの教師ぐらいだろう。現状、この高等学校内で環様に危害を加えそうな人間は………
そんな杞憂を考えていると、黒板の上のスピーカーからチャイム音が鳴り響き授業終了を教えてくれた。
環様は既に食べ終えていた様で満足そうにほっこりとした顔をしている。正直に申しますと、授業に集中している顔ではありません。
「授業はここで止めておこうか。みんな、今日教えた事はしっかりと復讐しておけよ。後、惚条はあまり授業を乱す行為は止める事!」
「ぇ、は、はい! すみませんでした!」
そんな際に急に名前を呼ばれたからかかなり慌てた声で返事を返された。別に許可されている事なのだから謝る必要はないのだが、環様は関係なく謝るのでしょう。
環様の言葉に睨むような目で返事を返した教師は教卓に置いてあった教科書と書類を脇に持ち、手を振りながら教室を後にした。
「ぅぅ……やっぱり怒られたょ」
「お気になさらないでください。お腹は落ち着きましたか?」
「うん、大丈夫。本当に……食い意地張ってて恥ずかしいな……」
少し顔を赤くして困ったような顔をする。
「それもお気になさらず。おにぎりを頬張る姿はリスのようで可愛かったですよ。九子様が見たら目を輝かせて写真を撮るかも知れない程です」
「く、くれは! あんまり茶化さないでよ! 本当にこのお腹の音恥ずかしいんだから!」
環様は顔を真っ赤にしてに反論してくる。それを見て失礼ながらフフッと小さな笑いが零れる。
本当に環様は表情が豊かで、とても眩しいお方です。