九子の日常1
環と呉葉が登校してから二時間が経過した。
あれから呉葉が用意していた朝食を一人で食べ、昨日から体を洗っていなかった事を思い出し浴場にて朝からお風呂に浸かる事にした。今思うとこんな汗臭い体で環を抱き締めた事に少しながら反省する。勿論環がそんな事で避けたりするような子ではない事は承知しているが、良かれと思ってした事が失敗だったかもしれない事実に自分の詰めが甘を思い知らされる。
朝食を済ませるのに三十分、湯船に浸かり体を綺麗にするのに一時間、身なりを整え自室に戻るのに三十分を要し現在に至る。
タオルケットを脱ぎ適当に床に放り投げ、お気に入りのピンクのレディースジャージを身に纏う。マンション内から大抵の外出までこのジャージで通している為この格好がとても落ち着き肌に馴染む。
黒凪の洋館に住んでいた頃だと有り得ない格好ではあるが、洋館から離れた時の願望の一つでもあった為私自身とても気に入っている。因みに環にも色違いの同じジャージをプレゼントしているが、呉葉が環にジャージを着せるのを嫌がる為あまり着てくれない。だけど大事に保管はしてくれてるし、たまに着てくれているのは知っているので満足はしている。
出来る事ならお互いジャージを着てジャージデートなどもしてみたいのだが、保護者の目が厳しい為実現した事はない。
現在の時間は午前十時、環と呉葉は授業を受けている時間帯になる。
私はというと、現在十八歳で高等学校は既に卒業し特に大学にも専門学校にも属していない。就職に関しては選択肢にすら入れていなかった。
今は特に何処かの機関に属してはないので、まぁニートという扱いで結構です。ただ、黒凪の本家の者なので大企業黒凪グループの令嬢である事は揺るがないのだが……
環の年齢は今年で十六、現在十五歳。呉葉の年齢は今年で十八、現在十七歳。私は今年で十九、現在十八歳。つまり、環とは三歳違いであり呉葉とは一歳違いになる。
まずこの段階で分かる事は、呉葉はまだ車に乗れる齢ではありません。呉葉本人がとても自動車という物を気に入っている様で何度止めても内緒で乗ったりして止める気配が無い為、緊急時以外は乗らないという約束で乗る事を黙認している。その割には今日の朝も堂々と車に乗ると宣言していましたが、あまり派手な運転をしてなければいいのですが……
環と呉葉はこのマンションの近くにある私立の高等学校に通っている。
マンションに近い事、黒凪のコネが十二分に発揮できる高校である事、不祥事や問題が少ないという事など様々な理由であの高等学校を選んだのだが、一番の要因となったのはあの制服が環にとてもよく似合ったという事だろう。
ブレザータイプのデザインに長けた制服、ネクタイが慣れないようで未だに一人で結ぶのに苦労している様は個人的にとても萌える。
パンツもチェック柄で脚のラインを強調させる質感でよく似合っているなど、環の魅力を十分に活かしてくれている。それに関しては呉葉も同意見らしい。
環本人は学ランタイプの制服を着たかったらしいのだが、二人で断固反対し代わりに学ランを個人的に購入しプレゼントしたのだが環はどうにも学校で着るのが真意だったようで一度しか着てくれなかった。
適当にラジオをかけ、デスクトップのパソコンの電源を入れる。
それと同時に近くに置いてあった眼鏡をかけパソコンの前に適当に座る。
パソコンを起動させた目的は二つ。
一つは黒凪グループの傘下にある会社の株価に変動がないかの確認。こちらは特に重要ではなく暇つぶしに近い。
こちらが重要で、環と呉葉がちゃんと高等学校に着いているかの確認を行う。
環と呉葉には発信機がいくつか備えてある為、パソコンのあるソフトを使えば現在地が確認できる。
呉葉に備えた発信機は二つ、環に備えた発信機は三つ。二人には発信機の事を教えてあるが、環には『二つ』しか備えていないと教えている。三つ目を知っているのは私と呉葉だけだ。
その理由に悪意はない。ただ単純に見つけやすい発信機とそれに隠れた見つけにくい発信機を備える為、環に教えないのはその見つけにくい三つ目の効力を高める為だ。
発信機を付けている事にも悪意はない。むしろ環を高等学校に通わせるのには最低限の備えだと思っている。
環が高等学校に通いたいと言った時は嬉しい反面、頭を悩ませたものだ。
環を高校に通うわせるのは容易ではない。
惚条家に代々受け継がれてきた神秘は偉大であり、絶大であり、脅威だ。
正式名称『魅了の桃眼』。通称、桃色の瞳は世にも珍しい瞳孔と虹彩が桃色に輝く異色の瞳だ。
その瞳には目を合わせた者を魅了する魔性の力があると言われている。古くから異能の力を持つと言われている名家、惚条家が代々受け継き重宝して来たこの世に残る一握りの神秘であり時代を陰で動かしたとまで言われている。
現在に至ってその話を信じる者は少ない。むしろ惚条家の存在すら信じない者までいるぐらいだ。
だが、それは大きな間違いだ。
桃色の瞳は今の時代にも生きていて、その力は紛れもなく本物。
環の瞳は、まさにその桃色の瞳の噂を実現させたかのように異能の力を持っている。
裸眼で環の瞳と目を合わせた者はまず『心』を奪われてしまう。
一目惚れに近い感情を思わせるが、その本質は桃色の瞳に心を染められ魅了されてしまう強制的な洗脳に近いものだ。
まず最初の目合わせでそれを植え付けそれから時間が経つ度に洗脳から『征服』に変わっていく。大人で大体二分程度、未熟な子供だと一分未満目を合わせるだけで心を桃色の瞳の持ち主に奪われてしまう。
心を奪われた者は持ち主に恋愛感情から来る屈服をしていまい逆らえなくなる。何もかもを許してしまい、何もかもを授けてしまう。
俗にいう、骨抜きというものだ。恐ろしいのは、骨どころか脳と心まで抜かれてしまう所だが。
冗談にしても笑えない。
惚条家の者は目を合わせただけで相手を屈服させてしまう魔法の術を持っているのだ。時代を動かしたという伝説も不思議はない。
本来惚条家の者は特殊な修行を積みその力を高めるらしいけど、環は惚条家の血を色濃く受け継いでいるらしく生まれついて既に瞳が桃色に輝いていたと呉葉が教えてくれた。
生まれながらに人を征服する術を身につけた子供が、高等学校に通いたいと言ったのだ。
当時は頭を抱えて悩んだものだ……
実を言うと、環は自分の瞳にそんな能力がある事を知らない。
ただ桃色に輝く珍しい瞳程度にしか認識していなくその脅威性を全く理解していない。
惚条家ぐるみで徹底して環にその事を隠していたらしく、その理由は定かではない。呉葉も何か理由があるとは言っていたが確かな理由を聞いてはいなかったらしくただそれを忠実に守り桃色の瞳が害を出さないように徹していたらしい。
本来なら惚条家の者は修行の末その瞳を制御する事ができ発動と抑止をコントロールする事が可能なのだが、環はその修行どころか知識すら学んでいない為それは出来ない。
しかも魅了にかかった者は持ち主に従順になるとの事だが、環の瞳を見た者は従順どころか暴走に近い行為を取るようになる。それは環がその能力を制御出来ていない為、魅了は出来ても征服が出来ないのが原因だと聞いている。
実際過去に環の瞳と目を合わせた者は環に襲い掛かり、無理やり強姦という行為をとろうとした。その者はどれだけ月日を重ねても環の事を忘れる事はなく、牢獄に監禁されて発狂するかのように環の名を呼んでいた。
それ程に環の桃色の瞳の力は強大なのだ。本来は異性の者に対し効力を強く発揮する筈が、環に関しては異性同性関係なく効果を発揮する。そんな子を年頃の子が溢れる高等学校に通わせるなど、正直狂気の沙汰と言える。
常時桃色の瞳を発動させている為目が合った者全て魅了してしまうので、策として眼鏡をかける事でレンズを挟み裸眼でのコンタクトを避ける方法で桃色の瞳を御している。
桃色の瞳の魅了を避けるには透明の物質を挟んで目を合わせる以外無い。例外として惚条家の者と笠倉家、呉葉の一族の者は桃色の瞳の魅了を受けないらしいが他の者はまず回避不可能だそうだ。
環に眼鏡をかけさせると確かにレンズ越しに桃色の瞳の瞳孔と虹彩は黒になり、レンズ越しの間は全くその効果を発揮しないのだ。
なので環には眼鏡の着装を義務つけている。
それは如何なる時でも同様で呉葉を傍から離さない事で徹底させている。
私の前でも、それは同じだ。
だけど、私は過去に何度か裸眼で環と目を合わせている。それがどういう事なのか十分理解しているが、御しきれない程の感情の暴走をした事はない。ただ、確実に魅了の力は心に入り込んでいる。
「私の……感情は…………ッ!!」
首を横にブンブンと振り脳裏に浮かんだ思考を吹き飛ばす。
私はただ環の事が好きだ。それだけでいい……
ソフトを起動させると、環と呉葉の現在位置が鮮明に発覚した。
現在高等学校の敷地内で発信機の電波を確認。うん、問題なく学校に行けたようです。
環を学校に通わせる上でとった対策は、呉葉の完全同伴と発信機の装着、学校への完璧な根回しの三つだ。
私立であるあの高等学校に根回しをするのは簡単だった。今となってはあの学校は黒凪家の所有物と言える程手を回している。
呉葉の同伴に関しても抜かりはない。同じクラスに通わせ、必ず授業が外れないようにしてある。
環と呉葉は年齢が離れている為、本来なら呉葉は三年のクラスになるのだがそこは呉葉の了承も得て環と同じ一年のクラスに通ってもらっている。
環が今朝気にしていたのはそういう一面があるからかもしれない。年下ばかりのクラスで呉葉が息苦しくないか不安なのだろう。
だが呉葉は全く気にしていないようで、むしろ環と同じクラスで同じ景色を眺めている事を楽しく感じていると前に言っていた。
「うぅ、ちょっと羨ましいなぁ」
私も環と授業を受けてみたい。環と同じ事を学び環と同じ時間を過ごしたい。
もしも環が大学に行きたいと言えば、その時は一緒に大学に行こう。もしも私が大学に通うとすればその時は環が卒業し、大学に通いたいと言った時だけだろう。
高等学校で学業を終了はしているが、個人的に講師を雇い大学レベルの授業を受けてはいたし、読書が好きなのでそれなりに知識は満ち足りているので一人で大学に通う気にはなれない。
環が高等学校を卒業するまで、私はきっとニートだろう。そう考え一人で小さく笑い、傍に置いてあったいつ開いたのか分からないスナック菓子を口にした。
そのまま追跡ソフトを閉じてデスクトップの壁絵に設定してある環の写真を眺める。去年積もった雪で雪だるまを作って遊んでいた時の一枚だ。
……うん、いつ見ても滅茶苦茶に可愛い。
思わず下品な笑みを浮かべてしまう。もっと環の可愛い写真を見たくなり『企業秘密』という名のフォルダをクリックしようとした時、
「………うげぇ」
携帯が派手に鳴り出し、着信を私に知らせる。
しかもこの着信音は黒凪の関係者専用に設定した音だ。変な声も出る。
何処に携帯があるのか分からず適当に音のなる箇所を手探りすると、下着の下に隠れていた。
それを手に取り携帯のディスプレイを確認して、私は再び変な声が出そうになるほど怪訝な気分になった。
ディスプレイに映った名は『黒凪伊月』。私の姉の名前だった。
「…………」
その名前を見て少し思考を走らせ後、携帯のオフのボタンを押した。
思考を走らせた結果、この人の電話に出るのは聊か面倒な気がしたので出たくはないと意思表示したのだが………
『!!!!!!!!』
気のせいか先よりも激しく携帯が鳴り始めた。
どうやら回避は不可能のようでこの人と話をする事は絶対のようだ。私は溜め息を小さく吐き、オンのボタンを押す。
「……もしもし」
『ちょっと九ちゃん今一回切ったでしょ?! ねぇねぇ何で何でさぁ?!』
スピーカーから聞こえる声は何ともあか抜けて明るい、年不相応の姉の声だった。
「ごめんなさい伊月姉さん、携帯が勝手にオフのボタンを押しちゃって姉さんと話すなっていうもんだから」
『言い訳するならもっと私が傷つかない台詞を考えてよね! もぅ九ちゃん朝から意地悪だよぅ』
「そういう伊月姉さんも朝から電話をかけてくるなんて意地悪ですね」
『うわん! ただ電話かけただけで意地悪扱い! ちょいショックだよ!』
ちょいとだけかよ。
「で、要件は何ですか? 私これでも忙しいんですよ。それもとも伊月姉さんはニートの妹ならいつ電話してもどうせ暇だと思っているんですか? 酷いですね。だから伊月姉さんは嫌いなんです」
『ちょいちょい電話かけただけでそんなに自虐にならないでよぅ! あと私は九ちゃんの事大好きだから!』
うわ、ウザ。
環に言われたら胸がドキュンするほど嬉しいのに何で伊月姉さんに言われたら胸がゾワリとするんだろう。まぁ理由ははっきりしているんだけど。
適当にかけていたラジオを止めて一応要件があるであろう伊月姉さんの話を聞く。
「そろそろ本当に用件を言ってくれませんか? 電話代の無駄です」
『かけたのは私だから電話代は私持ちだょ! もぅ、すぐ九ちゃんは私をからかうんだから……えっとね、九ちゃん今家?』
「えぇ、ニートですから。嫌味ですか?」
『ほらまた出たよ! ニート禁止自虐禁止! 実は今九ちゃんのマンションの前に居るんだ!』
「……はぃ?」
直ぐに私はパソコンのあるアイコンをクリックする。すると玄関に備えてあるカメラの映像が鮮明に映りだされる。
その映像には玄関前の映像、今は金髪のショートヘアーにスーツを着た女性の姿をとらえている。その女性はカメラに向かって満面の笑みでピースを繰り返し自分の存在を私にアピールしている。
『見える? 見えるかな?! ほら、伊月お姉ちゃんだよー!!』
見える。見えている。ちゃんと見ているから、その年不相応の行動を止めてくれ。
そう心の中で叫び、私は携帯のオフのボタンを力強く押した。