環の日常1
本日の目覚めは、いつにも増して良い気分です。
視界は爽快で微睡み(などろみ)はなく頭の中もサッパリとしていて気持ちがいい。うん、良い夢を見れたお蔭だ。
ベッドから身体を起こし小さく欠伸をして、そのまま静かに立ち上がりベッドの乱れを直す。常に余裕も持って動く事が良い男の条件だとこの前に見た雑誌に書いていたので、僕は出来るだけ優雅に務めるようにしています。
こうしてベッドを綺麗にすれば気分も良くて……
「………」
ポンポンとベッドを触る。フカフカで肌触りも良くて押せば押すほど反発してくる。白いシーツが海のようで飛び込みたくなります。
「………」
そう、飛び込みたくなります。
「………うぅ」
飛び込みたく……
「………とう!!」
勢いよく飛び跳ねてベッドにダイブする。ボフンと大きな音を立ててベッドは僕を受け入れ子供をあやす様にバウンドさせた。それはとても心地良い抱擁で海に浮かんでいる気分になり、せっかく爽快に目覚められたのにまた眠気を呼び寄せる。
「えへへ……」
自然と頬が緩んでしまいニヤけてしまう。僕は時計を確認して時間にまだ猶予がある事を認識する。今の時間を考えると、あと十五分はこうしてゴロゴロ出来るので、僕はシーツに顔を埋めて微睡みます。
シーツは清潔感を漂わす洗剤の香りがしてとても心地良いです。この匂い、大好きです。
自分で綺麗に整えたシーツを乱し、転がる様にそれを身体に巻きつけて芋虫の真似をする。グネグネと。童心に帰った気分になりそのままゴロゴロとベッドの上を回って遊ぶ。とても楽しく、周りの事が気にならなくなる程僕はそれに熱中していた。
「………おはようございます。環様」
いつの間にか、くれはが部屋に入っていたのにも気付かない程僕はそれに熱中していた。
「朝からご機嫌のようで何よりです。えっと……芋虫の真似ですか?」
「………グネグネ」
良い男になるにはまだまだ時間がかかりそうです。
顔全体が真っ赤になるのを熱で感じながら巻きつけたシーツを静かに解く。そのまま床に整列された自分用のスリッパに足を入れ立ち上がる。すると少し欠伸が残っていたようで、脚の筋に心地良い痺れが走った。
気恥しさに縮まっているとくれはが乱れたベッドを直しはじめた。
「いいよくれは、それくらい私が、」
「環様、『私』は禁止ですよ」
「ぁ、ごめんなさい……」
咄嗟に出た『私』という人称を素早く訂正された。屋敷を出た時に言葉使いだけでも男らしくする為にくれはときゅうこ様に止めるよう言われ、それ以来自分の事は『僕』と言うように矯正している。だけど、咄嗟に喋ったり気が動転したりすると未だに『私』に戻ってしまう。
物心ついた時から使っていた言葉というのは簡単には直らないようで、よくこうしてくれはに厳しく訂正されます。
「環様、カーテンをお開け下さい。今日は太陽が一段と眩しく清々しいですよ」
僕よりも手際よくベッドを直しながら呉葉が呟く。
ベッドの奥に回り込み朝日に照らされ薄く輝いているカーテンを開く。ピシャリと澄んだ音を鳴らし左右にカーテンをずらすと、窓越しに眩い朝日が飛び込み、その向こう側の景色が露わになった。
模型の様に凝られたデザインの住宅が隙間無く建ち巡っていて、こうして上から眺めると現実感が遠くなるような不思議な気分になる。
今でもこうして高い場所から下を見下ろすのは慣れないし、この景色にも違和感を感じる。寝起きの意識が曖昧な時は特にそうで、まだ夢を見ているのではないかと錯覚したりもする。
黒凪家の屋敷から出て三年が流れた。
此処は仙間の山とも黒凪家の屋敷とも違う、くれは、きゅうこ様、僕の三人で暮らす新しい住居。
幼い頃から暮らしていた仙間の山は一面緑の草木が埋め尽くしていたし、黒凪家の屋敷では外を眺めるという事自体無かった。この景色は、今までに無かった新しい世界。
きゅうこ様に連れられこのマンションに来てからは、驚かされてばかりで自分がどれだけ現実のの流れから遠い場所にいたのかを思い知らされる。
逆に高級住宅街と呼ばれるこの地域には今まで僕が見てきた景色、自然に接する事が出来る物は微塵もなく、何気なく生えている雑草すらも植物の匂いがしない。
最初の頃は慣れないどころか、どう生活するのかすら難解だった。だけど暮らし始めて三年も経つと、体が適応してしまい違和感がなくなってしまう。くれはは初めから戸惑う事なくこの生活に馴染み、今では自動車に乗り外を出歩いている。免許というのが必要らしいけど、くれは持っているのかな……
勿論仙間の山での生活は大好きだった。僅かにあった文明の機器には頼りきらず自然に直接触れる暮らしはとても愉しった。だけど、此処での暮らしもとても楽しい。数えきれない程の人が居て、見た事も想像も出来ない様な機械があり、僕の知らない世界が拡がっている。
何よりくれはときゅうこ様が傍に居てくれる。それが僕にとっては一番嬉嬉しく、楽しい暮らしになる。
だけど、一つだけ。
一つだけ、我儘を言うなら……
「環様、そろそろ……」
不意に声をかけられ体を振り向かせる。
くれははベッドメイクを既に終わらせていて、少し不思議そうな目で僕を見つめている。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
「左様ですか。朝食の準備が整ってますので先に向かって下さい。私は九子様を起こしてきますので」
そう言って小さくお辞儀をし、静かに踵を返して部屋を出る。
僕も部屋を出る準備をしようと着替えを取りにクローゼットの前に立つ。その中から綺麗に畳んだ制服を取り出し、静かにクローゼットを閉める。制服をベッドに置き着替えの為に寝間着を脱ごうとしたところで、視界に入ったある物に意識が止まり手を止める。
シンプルな勉強の為の机の隅に置かれたフォトフレーム。その中に飾った一枚の写真に目が留まり、それを手に取る。
少し古くなり色が落ち、角が焼け欠けたその写真を見る。
この写真を見ると胸の中が静かにざわつき、その後心地良い風が撫でる様に心脈を落ち着かせてくれる。
古い、仲睦まじく寄り添う家族の写真。
御婆様が居て、母様が居て、姉様が居て、幼い僕が居る。
惚条家が揃った唯一の写真。あの混乱、山火事の中で無事だった唯一の惚条家の遺品。
僕にとって遺産なんかよりも大事で大切な、家族の思い出。
それを胸にそっと添えて、スタンドミラーの前に立つ。
大きな鏡には、ピンクのチェック柄の寝間着に身を包んだ僕の姿が映っている。線が細くて肩幅が狭く、背丈も百六十すらない。黒い髪は肩に乗らない程度に短く整っていて少し癖がある。
そして、瞳は桃の色に輝き独自の光を灯している。
写真に写る幼い子供は十六になる年を迎えこの様に成長しました。今は何処に居るか分からない……だからせめて、この写真に居る過去の家族に報告をする。いつも家族を守ってくれた母様に、厳しく怖いけど撫でる手が暖かった御婆様に、そしていつも傍に居てくれた大好きな姉様に。
「出来ればもっと逞しくなりたかったけど……」
長男がひ弱に育ってしまったのが申し訳なくて心の中で謝る。
それを終えて写真を机の上に戻し、着替えを再開する。
パタパタと寝間着を脱ぎ、バタバタとブレザータイプの制服に着替える。未だに慣れないが何とか一人でネクタイも締め前日に準備しておいた鞄と眼鏡ケースを手にする。
リビングに向かう前に洗面台で顔を綺麗にしようと部屋のドアを開ける。
最後にもう一度机の上の写真に目を向ける。
「……いってきます」
短く、だけど溌剌と挨拶をし部屋を出る。
いつもの朝、今日の一日が始まった。
此処での暮らしはとても楽しく、満足している。
だけど一つだけ我儘を言うなら、やっぱり家族の皆も一緒に居てほしかったです……