緊迫1
環は呉葉が職員室に入っていくのを確認して壁にもたれかかる。
放課後もという事もあり職員室前でも生徒が疎らに通り過ぎる。環はそれを一人で目で追いながら観察する様に眺める。
人間観察なんて大それた行為ではない。環は人と触れ合う事を好んでいる為人が通れば好奇心で無意識に目で追ってしまうのだ。キョロキョロと辺りを眺めていると、不意に環に数人の女子生徒が近づいてきた。
「珍しいね。惚条君一人なの?」
環に寄りついて来た女子生徒達は同じクラスメイト、環と面識のある生徒達だ。
「あ、えっと……うん。 呉葉がちょっと用事で職員室に居るから待ってるん、です」
環は囲まれるように集まった数人の女子生徒達にたじろぎながらもしっかりと返事を返す。声を掛けられるとは思っていなかった為鈍い反応を見せる環だがその心は歓喜していた。単純に声を掛けて貰えた事が嬉しいのだ。
「そうなんだ。あ、ごめんね急に話しかけて。怖がらせちゃったかな?」
「そ、そんな事ないです! クラスメイトの人と話するの、楽しい、です」
緊張のせいで環は言葉を上手く紡げない。が、柔らかな笑顔を崩さない事で女子生徒達に不快感を与えず会話に怪訝さを感じてはいない事を印象つける。
「何でカタコトなの? 別に緊張しなくてもいいのに!」「ヒャッ!!」
不意に横から顔を覗かれるように話しかけられ環の背筋が跳ねるように驚き女の子のような小さな悲鳴をあげてしまった。それを聞き女子生徒達は小さく笑い、環は顔を真っ赤にして恥ずかしがる。
「ごめんね、驚かすつもりはなかったんだけど。でも、ヒャッ!! て変な声出さなくても!」
恥ずかしがりたじろぐ環を見て女子生徒達は面白がる様に笑う。この女子生徒達は環と話をする機会がなかった為、こうして真直で環と話すのは初めてだった。その為、環のリアクションが新鮮で面白く仕草の一つ一つが可愛く思えてしまう。
「あ、そうだ! ちょっと惚条君……はい、これあげる。だからそんなにオドオドしないでよ」
女子生徒の一人が鞄から飴の入った小さな袋を取り出し、それを環に見せ注意をひくように小さく振る。
顔を真っ赤にして俯いていた環だがそれを見てパッと表情を明るくさせ目を輝かせる。まるで大好物を見つけた猫の様に分かり易いリアクションを見せる環に女子生徒達も和み頬が綻んでしまう。
「い、いいの?」
「うん! はい、どうぞ」
女子生徒が飴の袋を環に手渡そうと袋を環の目前に提示する。
自分より背の高い女子生徒を上目使いで見つめ、環はその誘いに素直に甘えようとその袋に手を伸ばす。
「惚条。ちょっといいか?」
それを受け取ろうとしたが、不意に低い声に名前を呼ばれ手が硬直した。
環、女子生徒達は揃って声の聞こえた方向に顔を向ける。そこに居たのは背の高い、整った顔立ちをした青年だった。
「あ、先生! どうしたんですか?」
女子生徒の一人が声を上げる。低い声の主、数学教師に向かって。
声を掛けられた数学教師はニコリと薄く笑い、何も言わずに環達の元に近づいてくる。その風貌は昂然としたいつもの数学教師の姿だ。
だが、声をかけた女子生徒の一人はその姿を見て首を傾げる。
数学教師は何も言わず真っ直ぐと進み、環の目の前でピタリと止まる。
その間環を囲むように群がっていた女子生徒達は無言で近づく数学教師に違和感を覚えその圧力にひるむ様に後ろに下がった。
環は一人数学教師の目前に立ち、ただ事態が理解できず臆す。目の前三十センチで薄い笑みを浮かべ自分よりも何十センチも背の低い環を見下ろす数学教師に、環はたじろぐ。先の女子生徒達に囲まれた時とは違い、怯えによりたじろぐ。
後退しようと一歩足を引くが後ろには壁、それは当然出来なかった。
「惚条、今時間あるか?」
まるで天井から声が聞こえた、思ってしまう程環は首を上に傾け数学教師の顔を仰ぐ。
環は直感である種の危惧をしていた。何か、良くない事が目の前に構えていると。
「ぇ………すみま、せん……今は、時間がないで、」
「そういうなよ。女の子と話をする時間はあるのに俺とは話せないのか? 冷たいなぁ惚条は」
数学教師は軽口で環の言葉を遮る。それは否応無しと言える程環の意見を潰す、軽口なのに重さがある異様さを持っていた。
「悪いな皆、ちょっと惚条借りるぞ」
そして、数学教師は環の手首を掴みあげた。
数学教師の力は強く、環の手首に痛みが走り表情が歪む。が、それは数学教師の大きな体に隠れ女子生徒達には見えない。
「せ、先生。何かあったんですか?」
事態がおかしい事に気付いた一人の女子生徒が教師に声をかける。
「あぁ気にしなくてもいいよちょっと惚条と話したい事があるだけだから。君達は何も気にしなくていい、気を付けて帰りなさい」
それにいつもの様に軽く答える。数学教師は生徒にフランクな対応で接する事で好感を得ている。今の受け答えもそれに近く数学教師がいつも通り生徒に接する話し方、声色だ。
が、その視線は話す女子生徒の目を見ない。じっと、環を見下ろして離さないのだ。
「じゃあ惚条ちょっと場所変えよう。ここじゃなんだ、二人で話が出来るところがいいなぁ」
数学教師は環の手を握ったまま突然歩き出した。手を握られている環はそれに引っ張られ否応無しに数学教師の後に続く。
「ぁ、あのせん、せい! ぃ、たい、」
「お前手首細いなまるで女みたいな腕じゃないかもっと肉食えマジで」
ハハハと大きな声で笑う。その低い声色の笑い声は環の小さな悲鳴を掻き消すには十分なボリュームがあり環の声が女子生徒達に届く事はなかった。
女子生徒達はその光景を唖然と見つめるだけだ。何が起こったのか分からない、と互いに目を合わせるだけ。カツカツと足音を鳴らす数学教師とそれにもつれる様についていく環をただ見つめるだけだった。
教師と環が歩いていき曲がり角に消えていく間際、不意に数学教師が角から顔を出し女子生徒達に声を掛けた。
「あぁそうだ! 今見た事は忘れた方がいい! ただの進路相談みたいなもんだから気にするなよ!」
そう大きな声で叫び、最後にニカリといつもの笑みを浮かべる。その笑顔のまま、数学教師は曲がり角に消えて行った。
残された女子生徒達は、今の事態を現実だと確認するように互いに見つめあい言葉を繋げる。
「ぇ、えっと……え、今の」
「うん、何か……」
「先生……怒ってた?」
怒っていた、一人の女子生徒の言葉に他の生徒達は賛同するように頷く。
数学教師はいつも通りの自分を演じていた。出で立ち、喋り方、表情、自分の感情を表す仕草を全て抑え込んでいたと思っていた。
が、それらは脆くも簡単に生徒達に気付かれていた。
理由は簡単。
いつもの自分を演じようとしている時点で既にいつもの自分ではない。それは演じている時点で既に欠陥があり、数学教師の感情はそんな欠陥品で覆い隠せるようなものではなかったのだ。
先の数学教師は怒りを露わにしているが平然を装っている、そんなチープな模型に成り下がっていた事にこの場の全員が気付いていた。
「ここならゆっくり話が出来るな。誰も来ないし、誰にも聞かれない」
数学教師と環は五分ほど歩き、職員室から距離も階も離れた視聴覚室に来ていた。
強引に環を視聴覚室に連れ込んだ教師はドアに鍵をかけ外部からの侵入を遮断する。視聴覚室は防音使用の窓もシャッターで締め切った完全に隔離された空間だ。鍵をかければ、そこで起きる事に気付くものはいない。
ゆっくりと話をするには適した場所ではある。
環は歩みの早い教師にもつれるように歩いたせいで息が切れ気味になっていた為息を整えている。
握られた手は解放されてはいるが、その手首は赤く痣がついている。
それをさすりながら、事態を確認するように教師を見つめる。
鍵をかけ一息ついた教師はニヤケた表情で環と目を合わせる。
互いの距離を三メートル程あけたまま、数学教師は口を開く。
「惚条、お前は今何で俺に連れ込まれたか理解しているか?」
ニヤニヤと、教師は楽しそうな笑みを浮かべている。その表情は困惑している環の様子を楽しんでいるかのようで、下品だ。
環はただ困惑するしかない。今まで見た事もない教師の姿、表情、態度に事態が異常だという事は理解している。が、その原因が分からない。故にこの教師が求める事柄を掴む事ができない。
「ぁ、ぁの……せん、せい」
だが、必死に言葉を探す。
何が原因なのかは分からないが自分が原因でこの人は怒りに染まっている。環はそう考え自分を責める様に心を問い詰めその罪を探す。そして、もつれる舌と口で言葉を繋げる。
「ごめんな、さい……あの……」
「ぅん? 聞こえないぞーもっと男ならはっきりと話せー」
腕を組み環を問い詰める姿はまるで尋問のようで圧迫感がある。
それに押し潰されない様に震える体を保とうと環はブレザーの端をぎゅっと握る。それは怯えている心を抑えている証拠であり、教師はそれを見てその事に気付く。
気付き、下品な笑みを深くする。
「僕が、その、先生の授業の邪魔を、して、いつも、」
「何だ邪魔をしている認識はあったんだな。なのに飯食うの止めないとかお前性格悪いなー」
「ご、ごめんな、さい、」
「んん? 聞こえないぞ。はっきり喋れって言ってるだろうが!」
突然、教師は叫ぶように語尾を跳ね上げた。
表情はニヤケたまま、だが、確信的に目が笑っていない。それを見て、環ははっきりと『危険』だと感じた。
何とかそれを収めさせようと、教師が求める言葉を形にする。
「すみませんでした……僕のせいで、先生の邪魔ばかりして」
腰を折り、深く頭を下げて謝罪する。誠意を込め、言葉に感情をしっかりと込めて。
これに関しては、環が常に思っていた事だ。
自分のせいで授業を中断させている事にずっと反省の意は持っていた。機会さえあれば、この教師にしっかりと謝罪をしたいと、そう思っていた。
だから今の状況でもしっかりと言葉にできた。ずっと言おうと練習していて、いつか先生に笑い掛けてもらおうと思っていたから。
環の中で一つ心の荷が下りた。形はどうあれ、すっと貯めていた言葉を渡す事が出来たのだから。
「………何で謝るんだ?」
が、教師から帰ってきた言葉は環が思っていた言葉ではなかった。
環は顔を上げる。
見上げると教師の顔には笑みは無く、つまらないものでも見るかのような無表情をしている。なのに目には憎悪が潜み、環を責めるかのように見つめている。
「……何で謝るんだって、聞いてるんだよぉ!!」
怒号と共に急に歩き出し距離を詰めだす教師。
大きな巨体が迫る様に壁が迫ってくる錯覚を覚え、環は後ろに下がろうとする。
が、腰を折っていた為バランスを崩してしまいその場に倒れる。
勢いよく倒れてしまった為環の顔がぐらりと揺れる。
瞬間、環の眼鏡が外れてしまった。
環のもとからはらりと離れ、音を立てずに床に落ちる。
「った……ぇ……あ!」
環は上半身を起こし床に打ち付けた背中を摩り、それに気づき小さく声を上げる。
それと同時に手の平で目を覆い素早く落ちた眼鏡を探す。眼鏡は直ぐに見つかりそれに手を伸ばすが……
「こっちを向けガキ! テメエは偉いさんに守ってもらってるから何してもいいんじゃねえのか?! じゃあなんで謝るんだよぉ!」
至近距離まで接近してきた教師によってそれは拒まれた。
教師は眼鏡を強く蹴り飛ばした。眼鏡は派手に飛び壁にぶつかり環の手が届かない所まで吹き飛んだ。
それを見て、環の心の動揺が激しく揺らぐ。心拍数が急上昇し思考が著しく混乱していまい頭の中が真っ白になる。環にとって眼鏡は絶対にかけてはいけないアイテムなのだ。
それがなければ、この瞳を隠す事ができない。
桃色に輝く異質の瞳が露わになってしまうのだ。
そればかりが思考を駆け巡り這いずる様に眼鏡のもとまで向かおうとする。
が、いつの間にか教師に足を掴まれた為に進むことは出来なかった。
「良い子ぶりやがって、テメエのそういうあざとい所が俺は気に入らねえんだ! 権力使ってんだからもっと踏ん反り返れよ! 偉そうにしろよ!」
「ぁぁぁぁぁ、あの、ああ、わたし………!!」
「わたしぃ?! ハッ! 何だそれ! 女々しい顔してると思ったが言葉まで雌になりやがった! 気持ち悪いなおい!」
教師は環の足を自分の足で抑え動きを封じ肩を床に押さえつけて強制的に向かい合わせる。
環は混乱した理性で目を合わせないように必死に瞳を隠す。手の平で瞳を覆い顔を横に向け教師からの鋭い眼差しに絶対に応じないようにする。
「ムカつくんだよ……権力もある人気もあるウザい付き人まで居るのになんでテメエはいばらねえんだよ! もっと愉悦に浸った顔を見せろよ! テメエの本性を見せやがれよぉぉ!!」
環は傍で怒りに我を忘れた教師の姿を見る事は出来ない。
が、見なくてもその異常さは十分に理解している。感情を爆発させ暴言を吐き出す教師は、確実に狂ってしまっていると。
何が彼を狂わせたのか理解できないが、原因は自分にあるのだとかろうじて考える。
が、それに対する策を思いつく事は出来ず、ただ謝る事しか出来ない。
「すみません! わたしが、わたし、がわ、悪いんです! だから、ぁぁぁあの、本当に、」
「謝るなって言ってるだろうが!! 意味も分からず謝ってんじゃねえよ!!」
が、それは教師の怒りを更に加速させるだけだった。
「なぁちゃんとテメエの面見せろ! テメエはどんな顔してやがるんだ!」
教師は瞳を覆う環の腕を掴み、強引に剥ぎ取ろうとする。
腕を掴まれた瞬間、環の動揺、混乱が更に膨らんだ。
「ぃぃぃいやです! 離して! 離して下さい!!」
今まで身構えるだけだった環が激しく抵抗する。それを見て、教師はにやりと笑った。
「何だ何だ何を動揺してるんだ! おい! 素顔を見られたくないのか?! お前本当に男か?!」
教師は環が顔を隠したがっている事に気づき腕を掴む力を強くする。環はその痛みに悲鳴をあげるが、抵抗を止めようとはしない。
環にとって瞳を見せる事が出来る相手は限られている。
惚条家の鉄則を破る事は絶対に出来ないと、決して勝てない相手に抵抗をする。
「さっさとテメエの本性を見せろよ! テメエの心の内を見せて俺と同じだって証明しろおぉおお!!」
「ななな、何を、言っているんですか?!……わたしは、貴方とは違い、」
「違わねえよ! テメエもチラホラされている愉悦に浸ってる筈だ俺と一緒で周りに褒められて快感を感じてるんだ俺の心が汚ねえんじゃねえお前が良い子ぶっているだけだ!」
数学教師の怒りの源は、そこにあった。
彼は自分の心にある種の醜さを感じていた。
それは惚条環という人物が現れてから感じたもので、彼が現れるまでそれを気に留めた事はなかった。
惚条環は、この学校において権力も人気も持つ自分に近い存在だった。が、その人物はいつも謙虚であり、周りを和ませる笑みを決して途切れさせない。
同じように周りに重宝されているのに、環は決して偉そうにもせず、そして数学教師に対しても謙虚であった。
それを見て、数学教師は嫉妬を覚えた。
どうしてあそこまで権力を持ちながら謙虚なのか?どうしてあそこまで人気を持ちながら人を見下そうとしないのか?
彼には理解出来ず、まるで自分のその考えが醜いのではないかと悟ってしまった。
それが、彼が怒りに狂った根本の正体だった。
だから環が謝れば怒りが増す。その謙虚な姿が余計に自分を醜く映すからだ。
「俺は悪くねえ悪いのは良い子ぶってるテメエの方だ!! わかったらさっさと顔を見せろ!!!」
絶叫のような言葉を上げ、渾身の力で環の腕を引き抜いた。
目を瞑った環の顔が露わになり、それを見て勢いよく環の頬を叩く。
環の顔がその衝撃でぐるりと横に向き、弾ける様な痛みに目を見開いてしまった。
「こっちを向けクソガキがぁあああ!!」
教師はすかさず環の頭を掴み、横に逸れたその顔を振り向かせる。
そして、桃色に輝く環の瞳は怒りに濁んだ教師の瞳を捉えてしまった………