「女に港は任せられない」と灯台を追われました――王女殿下の船が、偽の灯へ向かっています
灯台の灯には、言葉がある。
長くひとつ、短くふたつ。それがこの港の灯の拍子で、沖から帰ってくる船は、その拍子を数えて自分の港を知る。この港へ入る船は、まず港の拍子を刻む灯を船首に置き、港の口が近づけば、二つの導灯へ針路を移す。父は私に、字を書くより先に、それを教えた。
だから、気づいたのは私が最初だった。
王女殿下をお迎えする前の夜、港は昼のように明るかった。
桟橋には隣国の旗とこの国の旗が交互に吊られ、倉庫の壁には松明が並び、広場では大工たちがまだ式典の壇を組んでいた。金槌の音が、波の音より大きかった。
殿下の婚礼船は、夜のうちに外港へ入って錨を下ろし、朝日とともに港へ入ってくる手はずだった。市民は朝、白い帆が港の口をくぐるところを見る。港務所から届いた通達には、そう書いてあった。
私は漁師組合の帳場で、明日の水揚げ台帳を締めていた。
父が死んで、灯台を追われて、そのあとに残った仕事がそれだった。漁師たちの帳簿と、船荷の記録。数字は正直で、女が書いても男が書いても同じ答えを出す。私はそれが、嫌いではなかった。
最後の一行を書き終えて、私は帳場の戸を開けた。潮を見るのは、父に仕込まれた癖だ。
港の端に、巡視艇の灯が見えた。アルカ号。あの船の操舵室には、まだ私の書いた潮見表が貼ってあるのだと、先週も船長のエリク・ブラントが言っていた。わざわざ言うことでもないのに、あの人は桟橋で会うたび、そういうことを言う。
霧が出ていた。
沖のほうに、低く、白い霧が寝ている。港の灯台はまだ霧の手前にあって、いつもの拍子で瞬いていた。長くひとつ。短くふたつ。
私は、西を見た。
西岬の上に、灯があった。
長く、ひとつ。
短く、ふたつ。
間を置いて、また、長くひとつ。短くふたつ。
同じ言葉を話す灯が、ふたつある。
息が止まった。
西岬の灯台は、五年前に火を落とした。あそこに灯がともることは、もうない。ましてや、港の拍子で瞬くことなど。焚き火は瞬かない。回る覆いを持った灯台の火だけが、ああいう拍子で瞬く。
私は駆け出した。
「西岬の灯を消して。あれは船を港ではなく、岩礁へ呼んでいます」
桟橋で旗を吊っていた男たちが、いっせいに振り向いた。
「……ハルデンの娘さんか」
「西岬の灯です。今すぐ消させてください。誰か、馬を出せる人は」
「西岬? あそこはもう閉まってるだろう」
「閉まっています。だからこそです。誰かがともしているんです」
男たちは西を見て、それから顔を見合わせた。
「港の拍子じゃないか。港務長が歓迎で出させたんだろう」
「港の拍子だからです。港のふりをする灯は、港ではない場所へ船を呼びます。あの高さは灯室の高さで、宿の明かりではありません。今夜の霧では、沖から低い港の灯は見えない。高い岬の灯だけが見える。殿下の船は、あれを港だと思って向かいます。あの先は、黒瀬です」
「なあ、お嬢さん」
年かさの一人が、困った顔で言った。
「あんたが灯に詳しいのは、みんな知ってる。だがな、灯台は港務長の仕事だ。おれたちに言われても、どうにもならん」
港務長。
私は唇を噛んで、港務所へ向かって走った。
◇
港務所は、桟橋の付け根にある石造りの二階屋だ。
父が三十年、毎朝の潮と風を書きつけていた部屋で、今は従兄のオスカーが座っている。王都の港務局で書記をしていた人で、父の葬儀の翌週に評議会が港務長に選んだ。半日の会議だったと聞いている。
扉を開けると、従兄は机の向こうで顔を上げた。式典用の、金の飾緒のついた上着。胸には港務長の徽章。
「リーゼ。ここには入るなと言ったはずだ」
「西岬の灯を消してください」
私は挨拶を省いた。
「あの灯は港の拍子で瞬いています。今夜の霧では、沖から見えるのはあれだけです。あれを港だと思って進む船は、黒瀬に乗ります。今すぐ、消させてください」
「消す?」
従兄は笑った。
「霧が出ると聞いたから、高い岬からも港の拍子を出させたんだ。殿下の船がどこからでも港を見つけられるように、だ。気が利いているだろう」
「岬は港ではありません。岬の灯を目印に進めば、船は港ではなく黒瀬に着きます」
「リーゼ」
従兄は立ち上がった。
「港務長は私だ。評議会が選んだ。おまえは叔父上の手伝いをしていた娘で、今は漁師の帳簿をつけている。そうだろう」
「父の最後の二年、潮見も入港指示も、私が書いていました。この港の船乗りなら、誰でも知っています」
「知っていても、誰も口にはしない。それが答えだ」
従兄は机を回って、扉を指した。
「女に港は任せられない。おまえを灯台から出したとき、そう言った。今も同じだ。出ていけ。今夜は忙しい」
私は動かなかった。
動けなかったのは、従兄の机の上に、一枚の図面が広げられていたからだ。
古い海図だった。西岬と、港の口と、黒瀬。防波堤が、今の半分の長さしかない。
父の字で、線が引かれている。
――西岬の灯を目印に進む船を、この点にて救難艇が迎え、水路へ先導す。
救難訓練図。防波堤が延びるより前に、父が港の救難艇のために作った訓練の計画だ。
隅に、『旧図・使用禁止』の判がある。父が五年前、この図を旧図庫へ移したときに押したものだ。
その判の横に、鉛筆の新しい書き込みがあった。
『王女殿下の御前にて』
『西岬、港の拍子にて点灯』
『救難艇出港、三の鐘』
全部、わかった。
「……従兄さん」
声が震えないように、腹に力を入れた。
「王女殿下の船をわざと西岬へ向かわせて、黒瀬の手前であなたの救難艇が助ける。そういう筋書きですね」
「人聞きの悪い言い方をするな」
従兄は、隠しもしなかった。
「叔父上の訓練図だ。西岬の灯へ進む船を、救難艇が迎えて水路へ導く。何度もやった訓練で、船は一度も傷ついていない。入港指示はもう出してある。港の拍子の灯を目印に進め、と書いてな。殿下の船は霧の中でそのとおりに進み、岬の手前で救難艇に救われる。殿下は、港務所の腕前をその目でご覧になる。それだけの話だ」
「その図は、使用禁止です。判が押してあります」
「古い判だ。叔父上の図が間違っていると言うのか。おまえの父親だぞ」
「父が自分で、使えないと決めたんです」
私は図面の、半分しかない防波堤を指した。
「従兄さんが王都にいた五年のあいだに、防波堤は延びました。それで潮の筋が変わったんです。五年前まで、満ち潮は港の口へまっすぐ入っていた。今は防波堤に当たって、西へ曲がります。西岬へ向かう船はその潮に乗せられて、この図の合流点よりずっと手前で黒瀬に着きます。救難艇の道も変わっています。防波堤を回るぶん、遠回りです。三の鐘に出ても、間に合いません」
「……」
「父の訂正は、その引き出しの潮見台帳にあります。従兄さんは、開けてもいない」
「……」
「船は、救難艇が着く前に、黒瀬に乗ります」
従兄の顔から、笑いが消えた。
一瞬だった。私はその一瞬で、この人が本当に知らなかったのだと理解した。防波堤の延長が、潮筋と救難艇の所要時間を変えたことを。船を沈めるつもりはなかった。ただ、自分の無知を疑いもせず、見栄のために王女殿下の船を岩へ向けていた。
そして、その一瞬が過ぎると、従兄はまた港務長の顔に戻った。
「……救難艇は、三の鐘に出す。それで足りる」
「足りません。今からでも、岬の灯を落として――」
「今さら、港務長が自分で点けさせた灯を、自分で消せと言えると思うか。王太子殿下と評議会の全員が、この港を見ている夜に?」
従兄は、もう一度扉を指した。
「叔父上の訓練図どおりにやる。一度も失敗していない。出ていけ、リーゼ。二度は言わない」
従兄は図面を畳み、式典用の上着の内側へ入れた。
私は出た。
言い争っている時間が、もうなかったからだ。
港務所の階段を駆け下りながら、私は数えていた。
西岬まで、尾根を越えて馬で半刻。今すぐ馬を飛ばしても、火を落とすころには船が黒瀬へ着く。
間に合わない。陸からでは、絶対に。
この港に腹を立てていないと言えば、嘘になる。
父の三十年を、評議会は半日の会議で従兄に渡した。灯台は港務長の住まいでもあるから、私は父の死の翌月に、生まれた家を出た。私を灯台から出して、二度と塔に上がるなと言ったのは従兄で、それを黙って見ていたのは、この港だ。
けれど、あの船に乗っている人たちは、私を追い出していない。
黒瀬の岩は、誰が港務長かなど知らない。
沖を見た。霧の上に、西岬の灯が瞬いている。港の言葉で、嘘をついている。
そして霧の向こうに、船の灯が、見えはじめていた。
◇
巡視艇の桟橋は、港のいちばん端にある。
アルカ号。港の巡視艇で、父の代からの船だ。舷側の灯がともり、甲板では水夫たちが綱を整えていた。式典の夜は、巡視艇も待機だ。ただし、出港には港務長の命令がいる。
「ハルデン嬢」
舵輪のそばに立っていた男が、私の足音で振り向いた。
エリク・ブラント。この港で生まれて、十五の年から父の船に乗った。父の下で働いた者の中ではいちばん若く、それでも今では、アルカ号を任される船長だった。
父が寝付いた冬、私が灯台から出した入港指示を最初に受け取ったのは、この人の船だった。父の名で出した指示の字が誰の字か、この人は最初から知っていた。
灯台を出た日、この人は桟橋で言った。アルカ号に乗らないか、潮見のできる者が一人いれば助かる、と。私は断った。彼は理由を訊かなかった。ただそれからも、桟橋で会うたびに潮のことを訊いた。
「西岬の灯を見ましたか」
「見た。港の拍子だ。……あんなところで」
「港務長がともさせました。殿下の船をあの灯へ向かわせて、救難艇で助けるつもりです。父の古い訓練図を使って。潮が変わっていることを、知らずに」
エリクは、私の顔を見た。
それから、従兄のことも評議会のことも、何ひとつ訊かなかった。
「船を出せば、救えるのか」
訊いたのは、それだけだった。
「救えます。今、出れば」
「命令はない」
「ありません」
「……よし」
彼は舵輪から手を放して、甲板へ声を張った。
「全員、聞け。命令なしで出る。港務長に逆らうことになる。降りたい者は今、降りろ。恨まない」
誰も、動かなかった。
甲板長のヤコブが、綱を巻く手を止めずに言った。
「二年前の嵐の夜、灯台から信号を出してたのは誰だと思ってる。……お嬢さん、行き先を言ってくれ」
エリクが、私を見た。
「舵は、私が持ちます。どこへ向けるかは、あなたが決めてください」
私は、舳先へ立った。灯台を出てから、この船の甲板を踏むのは初めてだった。
「黒瀬の外側へ。婚礼船と黒瀬のあいだに入ります。防波堤を回ったら、信号灯を全部出して」
「出港」
◇
防波堤の先を回ると、霧が船を包んだ。
港の灯が背中で小さくなり、やがて霧に溶けた。前は白い壁だ。波の音だけが、左右から聞こえる。右手から、低く重い音。防波堤に当たる波だ。左手の遠くから、もっと荒い音。黒瀬だ。
満ち潮の夜、黒瀬は水に沈む。見えるのは、岩に当たって砕ける白い波だけだ。近づけば近づくほど白く、遠ければ闇に紛れる。
私は舳先で、その音を聞いていた。
「左へ。少しずつ」
「左へ、少しずつ」
エリクが復唱する。船がゆっくり向きを変え、砕け波の音が、左から正面へ回った。
「そのまま。黒瀬の外へ回り込みます」
アルカ号が礁端を回るにつれ、砕け波の音は正面から右手へ移った。
振り返ると、港の灯台はもう霧に呑まれて見えなかった。
霧の上に頭を出しているのは、西岬の灯だけだ。長くひとつ、短くふたつ。港の言葉で。船から見れば、あれは港の灯にしか見えない。
そして正面の霧が、ほのかに金色に染まりはじめた。
最初に見えたのは、色だった。
白い霧の奥が、蜂蜜を溶かしたように光っている。それが少しずつ形になって、舷側の灯の列になり、帆の影になり、やがて、霧を割って船が出てきた。
婚礼船スヴァーネ号。
隣国の言葉で、白鳥という意味だ。三本の帆柱。舷側には灯がずらりと並び、船首には金の飾りが輝いている。アルカ号を三隻つないでも、あの船の長さには届かない。
帆は、減らしてあった。あの船の船長は、霧を警戒している。それでも満ち潮は船を押す。帆を畳んだところで、船は止まらない。霧の中では、どちらへ逃げれば安全かもわからない。だから船は、唯一見える灯へ向かう。港の拍子で瞬く、あの灯へ。
私たちの右手で、黒瀬の白い波が、闇の中に一本の線を引いている。船は、その線へまっすぐ向かっている。アルカ号は今、その線と船のあいだにいた。
「信号を」
私は言った。
「赤、白、赤。縦に。焔筒も」
ヤコブが綱を引き、三つの灯が帆柱を上がっていく。赤、白、赤。港の信号書のいちばん最後にある、めったに使われない合図だ。
――陸の灯を信ずるな。我に続け。
父はこれを、『陸を疑え』と呼んでいた。
焔筒に火が入って、赤い炎が霧を照らした。
婚礼船は、進み続けた。
私たちの信号は、向こうから見えているはずだ。それでも、舳先は西岬を向いたままだった。
「もう一度」
二本目の焔筒。
船の帆柱の上で、白い灯が動いた。
――汝、何者か。
「アルカ号の識別灯を上げて。緑と白」
緑と白が上がる。港の巡視艇の色だ。
それから、間があった。
婚礼船の帆柱の灯は、それきり動かない。舳先も、動かない。
わかっている。
あの船の船長は今、港務長の書状を手にしている。港の拍子の灯を目印に進め、と書かれた正規の入港指示だ。港務長の署名がある。目の前には、その拍子で瞬く灯がある。
そこへ、命令のない巡視艇が、正反対の信号を出している。
操船を決めるのは船長だ。だが、王女殿下を乗せた船で港務長の正式な指示に背く、その責任まで船長一人に負わせることはできない。あの船でそれを引き受けられる人は、一人しかいない。
黒瀬の波音が、大きくなった。
婚礼船の舷側の灯が、白い砕け波を照らしはじめている。あと少しで、船首の見張りが岩に気づく。気づいてから舵を切っても、あの大きさの船はすぐには曲がらない。
「ハルデン嬢」
エリクの声は、低かった。
「これ以上、岩に寄せるのは」
「寄せます。船が私たちを見失ったら、終わりです」
「……了解」
私は、舳先の綱をつかんだ。濡れた綱が、手のひらに食い込む。
三本目の焔筒に火が入った。
そのとき、婚礼船の船首に、小さな灯がひとつ現れた。
帆柱の信号灯ではない。誰かが、手に提げた角灯だ。
その灯が、高く掲げられた。一度、二度。
そして帆柱の白い灯が、三つ、ゆっくり瞬いた。
――続く。
息が、戻った。
「左へ、回れるだけ。婚礼船が私たちの船尾を追える速さで、黒瀬の外を回ります」
「左へ、回れるだけ」
アルカ号が左へ回り、船尾の灯を婚礼船に向けた。その旋回につれ、右手にあった黒瀬の白い線は船尾を過ぎ、左手へ移った。
婚礼船の舳先が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、西岬から離れはじめる。あの大きさの船が向きを変えるのは、山が向きを変えるようなものだ。私は舳先から振り返って、その舳先が砕け波の白い線から離れていくのを、瞬きもせずに見ていた。
離れた。
潮は、船を押していた。押される先には黒瀬がある。だから私は、婚礼船が潮に流されるぶんだけ外へ膨らむように、アルカ号の道を取った。頼ったのは、潮見表の数字だけではない。砕け波の音と、白の濃さと、船尾の灯が婚礼船の舳先とどう重なって見えるか。それで、道を取った。父が私に、字より先に教えたやり方だった。
黒瀬の白い線が、左手に流れて、後ろへ消えた。
霧が薄くなり、その先に、港の灯台の灯が見えた。長く、ひとつ。短く、ふたつ。今度は、本物だ。
「見えました。港の拍子です」
振り向くと、エリクが舵輪を握ったまま、少しだけ笑っていた。
「……久しぶりに、あなたの声で聞いた」
港の口の二つの導灯が縦に重なれば、そこが水路だ。水路に入れば、あとは導灯が船を連れていく。
アルカ号は水路の脇へ退いて、婚礼船を先へ通した。
追い越されるとき、あの船の船首に、まだ角灯を持った人が立っているのが見えた。外套の頭巾を後ろへはねのけた、女の人だった。銀の髪が、灯に光った。
その人が、角灯を私に向けて、一度、高く掲げた。
私も、舳先の綱を放して、手を上げた。
婚礼船が外港の錨地に錨を下ろしたころ、防波堤の向こうで、赤い信号弾がいくつも上がった。
救難艇だった。
伝声筒の声が、霧の中から聞こえてくる。
「こちら港務長オスカー・ハルデン! 救難艇である! 殿下の船はどこか!」
ヤコブが、綱を巻きながら鼻を鳴らした。
「……三の鐘に出たんだろうよ。図面どおりに」
その夜、殿下はアルカ号を舷側へ呼び寄せ、私に事情をお尋ねになった。
高い甲板の上から、霧の中の小さな船へ向かって、殿下は一つずつお確かめになった。西岬の灯のこと。訓練図のこと。潮のこと。私は一つずつ答え、従兄が図面を上着の内側へ入れたことも伝えた。
殿下は救難艇を舷側へ呼びつけ、救難の手順を確かめるためとして、従兄に図面を提出させた。そのうえで、朝まで婚礼船の舷側で待機するよう命じた。従兄は、殿下の船を守る役目を与えられたと思ったのだろう。喜んで従った。
殿下の従者が先に小舟で陸へ渡り、王太子殿下へ報告が届いた。従兄が帰港するより前に、港務所は王家の衛兵によって封じられた。潮見台帳も、命令の控えも、誰の手も触れないままに。
◇
翌朝、霧は晴れていた。
婚礼船スヴァーネ号は、朝日の中で白い帆を張って、港の口をくぐってきた。
桟橋という桟橋に人が出ていた。旗が振られ、楽隊が鳴り、子どもたちが肩車で首を伸ばしている。この港が、こんなに人を持っていたのかと思うくらいだった。
式典の壇には、王太子殿下と、港湾評議会の面々と、港務長の制服を着た従兄が立っていた。
立ったのではない。王太子殿下の命で、弁明のために立たされていたのだ。
「昨夜、殿下の船は霧の中で航路を誤り、黒瀬に迫りました。しかし港務所の指揮のもと、巡視艇アルカ号が殿下の船を――」
「違います」
私は、桟橋の端から声を上げた。
漁師組合の帳簿係が、壇の上の港務長に向かって。桟橋に並んだ人々が、いっせいにこちらを向いた。
「アルカ号に、港務長の命令はありませんでした。昨夜、アルカ号が防いだ危難は、偶然の事故ではありません。港務長が仕組んだものです」
「……リーゼ。おまえは――」
「そのとおりです。わたくしが証言します」
婚礼船の舷梯を降りてきた王女殿下が、桟橋の上で言った。
アストリッド王女。銀の髪を結い上げ、白い外套を着た、背筋のまっすぐな人だった。後ろに、白髪の船長が航海日誌を抱えて続いている。
殿下は王太子殿下の前で膝を折り、王太子殿下がその手を取った。それから殿下は、壇の上の従兄を見た。
「港務長。昨夜、わたくしの船が目印にしたのは、港の拍子で瞬く灯でした。港の灯台は霧の中で見えず、高い西岬の灯だけが見えた。船長はあなたの入港指示のとおり、港の拍子を目印に進みました。その先にあったのは港ではなく、黒瀬でした」
「殿下、あれは霧の夜のための臨時灯で、殿下の船がどこからでも港を――」
「同じ拍子の灯を二つともせば、沖の船にはどちらが港か判別できません。昨夜、わたくしの船から見えたのは、高い西岬の灯だけでした」
殿下の声は、大きくなかった。ただ、よく通った。
「黒瀬の波のすぐ前で、小さな巡視艇が一隻、赤・白・赤の信号を掲げていました。陸の灯を信じるな、我に続け、と。船長は、危険を避けるため巡視艇に従うと決めました。ですが、港務長の正式な書状に背く責任を、船長一人に負わせることはできません。わたくしが、その責任を引き受けました」
殿下は、そこで一度、言葉を切った。
「わたくしは、海へ出てきたほうを選びました」
「書状は、安全を約束していました。ですが、書状は海には出てきません。霧の中へ出てきたのは、あの小さな船だけでした。港務長の救難艇が現れたのは、わたくしの船が錨を下ろしたあとでした」
従兄の顔が、白くなった。
「……殿下は霧の中でお疲れで、時刻の前後を――」
「では、記録で確かめましょう。港務所は昨夜、封じてあります」
衛兵が、昨夜、救難艇から押収した図面を壇に広げた。『旧図・使用禁止』の判と、その横の鉛筆。『王女殿下の御前にて』『西岬、港の拍子にて点灯』『救難艇出港、三の鐘』。
人垣が割れて、老人が一人、進み出た。西岬の管理人、マティアス老だった。膝まで泥だった。老人が震える手で差し出した書状には、こうあった。
――西岬灯台、本日日没より、港の拍子にて点灯すべし。港務長オスカー・ハルデン。
「沖で赤い信号弾が上がるのを見て、わしはすぐに火を落としました。それから、この書状を持って尾根を越えてきたのです。五年前に落とした火を、港の拍子で点けろと言われて、気味が悪かった。だから、書状は捨てずにおりました」
「説明を」
殿下が、私を見た。私は図面の、半分しかない防波堤を指した。
「防波堤が延びてから、満ち潮は西へ曲がります。西岬へ向かう船は、この図の合流点よりずっと手前で黒瀬に着く。父の訂正は、港務所の潮見台帳にあります」
「時刻を」
船長が航海日誌を読んだ。二の鐘、霧の上に港の拍子の灯を認め、これを目印に針路を取る。二の鐘半、前方に巡視艇の警告信号。ほどなく砕け波を確認。識別灯確認後、殿下の了承を得て直ちに変針。三の鐘、水路。三の鐘半、外港に投錨。四の鐘、救難艇、接近。
港の番小屋の男が、帳面を読んだ。巡視艇アルカ号、出港、二の鐘、港務長命令なし。救難艇、出港、三の鐘、港務長命令。
殿下は、うなずかれた。
「巡視艇は命令なく出て、間に合った。救難艇は命令どおりに出て、間に合わなかった。……港務長。あなたの計画は、あなたの計画どおりに進んで、わたくしの船を岩に乗せるところでした」
従兄が、口を開いた。
「殿下。私は、殿下を害するつもりなど、毛頭――」
「わかっています」
殿下は、静かに遮った。
「あなたは、わたくしを殺そうとしたのではない。わたくしの前で、手柄が欲しかった。それだけでしょう。……そして、危ないと言われて、止めなかった」
殿下は、私を見た。
「昨夜、この方があなたに、それを言ったはずです。違いますか」
従兄は、答えなかった。答えなかったことが、桟橋中に聞こえた。
王太子殿下が、はじめて口を開かれた。
「港務長オスカー・ハルデンを、罷免する。査問は王家が行う」
それから、評議会の席を見た。
「港務長を選んだのは評議会だ。何を見て選んだのか、評議会にも答えてもらう。この港の口は、婚礼のためにあるのではない。この港に帰ってくる、すべての船のためにある」
評議会の面々は、誰も顔を上げなかった。
「アルカ号の出港について、責任は問わない。救命のための正当な判断だったと、王家が認める」
甲板の水夫たちが、帽子を投げた。
◇
「港務長の席が、空きました」
殿下は、桟橋の端まで歩いてこられた。私の前で立ち止まる。昨夜、霧の中で角灯を掲げていた人の顔を、私は朝の光の中ではじめて見た。
「王太子殿下。この港に入った瞬間から、わたくしはこの国の者です。最初の願いを申し上げて、よろしいでしょうか」
「許す」
「港務長代理を、この方に。そして、先代の最後の二年、誰がこの港の潮見と入港指示を書いていたのか、記録で確かめてください。正式な任命は、そのあとで」
桟橋が、ざわめいた。先代の娘だ、という声が聞こえた。殿下はその声のほうを向いて、言った。
「わたくしは、先代港務長の娘だから、この方を選ぶのではありません。わたくしは昨夜、この方の灯を選びました。この方は、潮と岩と霧の中でわたくしたちの船を通せると判断し、命令のない船で海へ出た。わたくしは、その判断と、その腕を選ぶのです。だから、記録で確かめます。……改めて、皆にお名前を聞かせてください」
「リーゼ・ハルデンです」
王太子殿下が、うなずかれた。
「認める。調査が終わるまで、リーゼ・ハルデンを港務長代理に任ずる」
私は殿下を見た。それから、桟橋の人々を見た。昨夜、旗を吊っていた男たちが、口を開けて立っていた。
「お受けします」
声は、震えなかった。
「まず西岬の火を封じます。入港指示を改めます。それから、アルカ号の乗員全員の名を、救難の記録に残してください。昨夜、海へ出たのは私一人ではありません」
殿下は、少しだけ笑われた。
「その答えで、選んで正しかったとわかりました」
それから、私にだけ聞こえる声で言われた。
「昨夜、水路であなたが手を上げたのを見ました。灯を追うだけで精一杯の夜に、それでも返してくれた。……あれで、この国に来てよかったと思ったのです」
◇
調べは、長くかからなかった。
父が病に伏してからの二年、潮見台帳にも入港指示の控えにも、残っていたのは私の字だった。記録の中に埋もれていた仕事が、ようやく私の名で確かめられた。
女だから就けるのでも、女だから退けられてよいのでもない。この仕事ができる者が、就くべきだ。この二年、それが私だったというだけのことだ。
婚礼から半月ののち、私は正式に港務長に任じられた。
その夕方、私は灯台の鍵を受け取った。
父の鍵だ。鉄が冷たくて、重くて、手に馴染んだ。
塔の下に、エリクが立っていた。
夜の巡視に出る前の、いつもの上着だった。
「港務長」
「……まだ、慣れません」
「では、慣れるまで何度でも呼びます」
彼は少し笑ってから、笑うのをやめた。
「ひとつ、伺いたい」
「はい」
「これからも、あなたの灯を目印に帰ってきてもよいですか」
風が、旗の綱を鳴らした。
巡視艇の船長が港務長に言うなら、それは職務の言葉だ。灯台の灯は、誰の船にも同じにともる。そう答えれば、それで済む。
灯台を出た日、私はこの人の船を断った。誰かの船に置いてもらうのではなく、自分の仕事を取り戻したかったからだ。あの日言わなかった理由を、この人はたぶん、訊かずに知っていた。
取り戻した。だから今度は、私の番だ。
「灯台の灯は、どの船にも同じにともします」
私は言った。
「それが、港務長の仕事です。……でも」
鍵を、握った。
「あなたの船が見えたら、私は塔を下りて、桟橋まで迎えに行きます。それは、港務長の仕事ではありません」
エリクは、しばらく黙っていた。
それから、帽子を取った。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
私は、塔の階段を上った。
百二十段。子どものころは数えながら上って、父の背中に追いつけなかった階段だ。今は数えなくても、足が覚えている。
灯室の窓を開けると、夕暮れの港が見渡せた。桟橋の旗はもう片づけられて、港はいつもの港に戻っている。西岬は、暗い。あそこの灯は、もう二度とともらない。
防波堤の先を、アルカ号が回っていく。船尾の小さな灯が、沖の闇へ向かって遠ざかる。
私は、灯に火を入れた。
覆いを回す。
長く、ひとつ。
短く、ふたつ。
灯台の灯には、言葉がある。
帰る場所は、ここだと。




