第一話:一番安い奇跡
「……お願いです、救世主様。どうか、この国を」
少女の悲痛な叫び声が、轟音にかき消される。 足元が激しく揺れた。土埃と、鉄錆のような血の臭いが鼻腔を突き刺す。
俺の名前は相川陽人。昨晩まで、東京の品川にあるブラック企業で終電までサービス残業をしていたはずの、しがない社畜だ。 それが今、なぜか中世ファンタジー映画の撮影現場のような場所に立たされている。
いや、撮影なわけがない。 目の前で、俺を召喚したという白いローブの少女――この国の聖女らしい――が、涙と埃にまみれて跪いている。 そして、彼女の背後にある巨大な城門が、内側から何者かによって激しく叩きつけられ、悲鳴を上げているのだ。
「グゥオオオオオ!!」
城壁の向こう側から聞こえる、地響きのような咆哮。人間のものではない。 門の隙間から、緑色の巨大な腕がねじ込まれるのが見えた。丸太のような指が、強固な石造りの壁を紙細工のように引き剥がしていく。
「もう、ダメ……結界が、保ちません……!」
聖女が絶望に顔を歪める。周囲にいる騎士たちも、剣を握る手を震わせ、後ずさりしていた。彼らの目には、戦意ではなく、純粋な恐怖だけが浮かんでいる。
俺は、自分の右手を呆然と見下ろした。 そこには、俺がこの世界に唯一持ち込めた「現代の遺物」――残量20%を切った、ひび割れた画面のスマートフォンが握られている。
圏外のはずのスマホが、さっきから異常な熱を帯びて振動していた。 真っ黒な画面に、白い文字だけが浮かび上がっている。
【警告:敵性存在による高エネルギー反応を検知。防衛行動を推奨します。】
「なんなんだよ、これ……」
乾いた笑いが漏れる。異世界召喚? 救世主? 冗談じゃない。俺はただ、家に帰って泥のように眠りたかっただけだ。なんでこんな、死と隣り合わせの場所に呼び出されなきゃならない。
「救世主様、魔法を! あなた様の国に伝わるという、強大なる殲滅の魔法を!」
聖女が俺の足にすがりつく。 魔法。そう、彼らは俺にそれを求めている。 だが、俺はただのサラリーマンだ。火の玉一つ出せるわけがない。
――ドォォォン!!
ついに、城門が砕け散った。 粉塵の中から姿を現したのは、身長5メートルはあろうかという、醜悪なトロールだった。手には、血に濡れた巨大な棍棒が握られている。 トロールの背後には、無数のゴブリンたちが飢えた獣のように目を光らせていた。
「ひっ……!」 聖女が小さな悲鳴を上げて腰を抜かす。トロールの視線が、無防備な彼女に向けられた。棍棒が振り上げられる。
死ぬ。彼女が。そして数秒後には俺も。
「くそっ、どうすりゃいいんだよ!」
俺は半狂乱でスマホの画面を叩いた。なんでもいい、助かる方法があるなら!
その瞬間、スマホの画面が切り替わった。無機質なシステム音声が、俺の脳内に直接響き渡る。
『――状況確認。対象の殲滅には、クラスCの物理干渉が必要です。リソースをスキャンします……』
リソース? 何を言っている?
『スキャン完了。発動可能な術式候補を提示します。選択してください』
画面に、二つの選択肢が表示された。
案A:【術式『岩石の鉄槌』】
効果:トロール1体を圧死させる程度の岩塊を生成。 代償リソース:東京都港区・品川駅港南口にある「喫煙所」の存在、および関連する人々の記憶。
案B:【術式『暴風の刃』】
効果:前衛のゴブリン群を切り刻む真空の刃。 代償リソース:相川陽人の所有する「とあるソーシャルゲームのアカウントデータ(課金総額50万円相当)」の完全消去。
は……? 俺の思考が停止する。
なんだこのふざけた選択肢は。 品川駅の喫煙所? 俺のソシャゲ垢? それを「代償」にする? 意味がわからない。
だが、現実は待ってくれない。トロールの棍棒が、聖女の頭上へと振り下ろされる――そのコンマ数秒前。
俺の指は、本能的に動いていた。 自分のお気に入りのゲームデータを消すことへの躊躇いが、指先を「A」へと導いた。
『承認。リソース【品川駅港南口喫煙所】を徴収。概念変換を実行します』
その瞬間。
世界から音が消えた。 俺のスマホから、目に見えない莫大なエネルギーが奔流となって噴き出した。
それは魔力ではなかった。もっと異質で、歪な何か。 俺たちの頭上の空間がねじれ、陽炎のように揺らぐ。
次の瞬間、何もない虚空から、巨大な「塊」が落下した。
それは岩ではなかった。 コンクリートと、鉄パイプと、薄汚れた灰皿と、そして染み付いたタバコのヤニの臭いを凝縮したような、直径数メートルの灰色の塊。
ドォォォォォン!!
トロールの頭蓋骨が砕ける嫌な音が響き、その巨体が「現代のゴミの塊」の下敷きになって圧し潰された。 舞い上がったのは土煙だけではない。見覚えのある、吸い殻の山が周囲に撒き散らされた。
「え……?」
聖女が、顔に飛んできた何かのフィルターを呆然とつまみ上げる。 ゴブリンたちは、突然現れた未知の物体と、その圧倒的な破壊力に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
静寂が戻る。
「す、すごい……。これが、救世主様の魔法……!」 聖女が震える声で俺を称賛し、騎士たちが歓声を上げ始める。
だが、俺は動けなかった。 冷や汗が背中を伝う。スマホの画面には、冷酷な完了通知が表示されていた。
【術式執行完了。対象リソースの現世からの完全消去を確認しました。】
俺は知っている。あの喫煙所を。 会社に行く前、憂鬱な気分をごまかすために毎日通っていた、あの狭くて汚い場所を。常連の疲れた顔のサラリーマンたちを。
俺は今、それを「弾丸」にして撃ち出したのだ。
俺は震える手で、スマホのブラウザを開こうとした。繋がるはずのないネット。だが、キャッシュに残っていた地図アプリが、奇妙な表示を見せた。
品川駅の地図。 いつも見ていたその場所が、空白になっていた。 ただの更地として表示されている。
「……嘘だろ」
俺は、その喫煙所で交わした同僚との会話を思い出そうとした。 昨日の朝、確かにあそこで田中に愚痴をこぼしたはずだ。
『なあ田中、昨日の会議さ……』
……思い出せない。 田中の顔は浮かぶ。会議の内容も覚えている。だが、「喫煙所で話した」という事実だけが、霧がかかったように曖昧になり、やがて完全に消え失せた。
「あそこで……俺は、何をしていた?」
記憶の欠落。それが代償の意味か。 俺が魔法を使うたび、俺の世界から、何かが永遠に失われる。
「救世主様! ありがとうございます、これで城は守られました!」
涙を流して感謝する聖女の笑顔が、ひどく遠くに感じた。 足元に転がる、異世界のものではないコンクリートの塊を見つめながら、俺は自分がとんでもない契約をしてしまったことを理解し始めていた。




