㊺ 彩子の決断
正月の三が日が明けた4日から3年生は冬季補習が再開される。
彩子は家を出る時、母親に声をかけられた。
「法事は1時半からだから遅れないように帰ってくるのよ」
1時間目は、担任の南田の古典だった。
「新年最初の古典は『源氏物語』の冒頭をおさらいしよう。『いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが』、伊達、次の『すぐれて時めき給ふありけり』を訳してみろ」
「はい。とても胸がどきどきしている方がいらっしゃいました」
「思うつぼの間違いだな。『時めく』は寵愛、つまり尊い人の愛情を受けて栄えるという意味だ。寵愛という訳語をしっかり覚えてちょうあい。ちょっときついかな」
午前中の補習が終わり、彩子が帰り支度をしていると、修が廊下から手招きをした。
バッグを持って廊下へ出た彩子は、久しぶりに修の顔を見て古典の時間の誤訳のように胸がどきどきした。
こんなふうに修をまぶしく思うのは、今までにない感覚だった。
「放課後、久しぶりにJinJinはどう?」
「今日はムリ。これから早退しておばあちゃんの1周忌なんだ」
気持ちとは裏腹にそっけない返事をして、彩子はそそくさと下足室へ向かった。
彩子が帰宅すると既にお坊さんが来ていたので、彩子は制服姿のまま仏壇の前に座らされた。
お坊さんは暫くお経をあげると、後ろに座っている彩子の両親の前に焼香用の香炉を置いた。
両親に続いて彩子も焼香をしたが、お香の煙が目にしみて涙がにじんできた。
すると、その涙に触発されたかのように、修への断ち切りがたい想いが胸に迫ってきてポトリと涙が膝に落ちた。
仏壇に向かって手を合わせながら、彩子は胸の内でつぶやいた。
「ハタおばさんから聞いた『落ち込んでもくじけるな』っていうおばあちゃんの伝言は、受験勉強のことじゃなくて、このことだったんだネ」
夕食後、勉強を終えてベッドに入った彩子はなかなか寝つけなかった。
進学や就職を期に子供は親から離れ、そしてやがては親との永遠の別れも訪れる。
しかし、そんなことは普段は意識にのぼらない。
彩子と修との関係もそうだった。
将来のことなど考えず、現在の関係がずっと続くような感覚で彩子は毎日を過ごしていた。
しかし今、幼なじみの延長のように気楽で楽しかった修との関係が珠子の存在によって揺らいでいる。
目をつぶると、昼間見た修の顔が浮かんできてポロポロと涙がこぼれた。
彩子は、つぶやくように祖母に呼びかけてみた。
「おばあちゃん、胸が痛いヨ。どうすればいいの?」
すると、これまで祖母と交信できたことは1回もなかったのに、彩子の耳の奥に懐かしい祖母の声が届いた。
「彩子よ、人間はわがままな生き物じゃ。だから、迷った時は人を救う道に足を踏み出せ。その道がやがては自分を救う道にもなる」
命日の1周忌法要で降りてきた祖母の霊が身近にいるような気がして、彩子はベッドの上で上半身を起こして部屋の天井を見上げた。
「おばあちゃん、いるの?」
もう祖母の声が聞こえることはなかった。
祖母の言葉を心の中で繰り返しているうちに、彩子の脳裏に一つのイメージが浮かんできた。
珠子と並んで歩いていると、道の向こうに修が立っている。
無邪気に手を振って駈け出そうとする私を、珠子は立ち止まって寂しそうに見ている。
彩子は、珠子の切なさを思って胸がしめつけられた。
邪気さえ払うほどのオーラを持つ純真無垢な珠子が、セイラの前で涙を流すほどに思い詰めているのだ。
修を想っていちずに歩いている珠子を、道の途中で立ち止まらせるわけにはいかない。
彩子は心の内で祖母に決意を語った。
「おばあちゃん、決めたヨ。アタシはまだ引き返せる」




