8.本能
ロチルはママの腕へと思い切り噛みつくと、ついでにその手を引っ掻いた。
ママは悲鳴をあげて蹲っている。ママの腕からは真っ赤な血液がダラダラと、音がしそうな速さで流れていた。
ネーネが「救急車!」と叫んでいる。パパもママと同じように手から血を流していたが、スマホを片手に慌ただしく電話を掛けていた。
「ろっちゃん、どうしたの!」
ネーネが話しかけるがそれにさえロチルはイライラしたのだ。
何か良くないものに支配されたように、ロチルの気持ちは落ち着かず、イライラ、イライラとし続ける。とにかく、破裂寸前の風船のように落ち着かなかったのだ。
自分の気持ちが判らない。得体の知れない感情が足の先から頭のてっぺんまで支配していた。
ネーネがドアの近くで「やめて! ママが死んじゃう!」と叫んでいるがロチルのイライラは止まらず再びママを噛んだ。
少し前、ちょうど喋る霊長類の団体が人権は必要ないと発表した頃、ロチルは四歳になった。その頃からなんとなく落ち着かない気持ちになる日が増えて、ママやパパ、そしてネーネとぶつかることが増えてしまった。
そして今日、ついにパパと爆弾級の大きな喧嘩をしてしまったのだ。
パパが口うるさい。ママもまた口うるさくて、ロチルの邪魔をしようとする。
あれも駄目、これも駄目。ロチルのしたいこと全部に対して、ママたちは駄目の一言を突き付けるのだ。
これは支配だ、とロチルは感じた。
不当な支配、と言うのを新聞で読んだことがあった。きっとロチルの置かれた状況もそれだと感じていた。
「ろっちゃん!」
ネーネの悲鳴がより一層に大きくなったから、ロチルはようやくママの腕から口を離した。
ママの泣き声、パパの「もうすぐ救急車がくるから」と言う声、ネーネの「どうして」の声が頭にがんがんと響く。
ロチル自身にでさえ判らない。なぜこんなにイライラしているのか全然判らないのだ。
インターホンが鳴った。
パパが慌てて玄関へ駆けていくが、玄関が開く音のあと、何やら「違います」とか「大丈夫です」と繰り返していた。
「ですがとても大きな音と叫び声がしたという通報でしたので」
男の声が聞こえてきた。パパは困惑しているようだ。
「ペットが暴れただけです」と返事をしていたが、相手は譲らず「一応室内を見せて頂いてもいいですか?」と言う。
「やめてください、危険です! 本当にペットが暴れただけなんです!」
パパの怒鳴るような声がロチルの耳に聞こえた。現状を正しく示す言葉であるが、最早、パパの声そのものがロチルのイライラの引き金になりつつあった。
ロチルは口を大きく開けて歯を剥き出しにした。
ママとネーネがヒィッと息を呑む。
「ですが通報は『普通じゃない悲鳴が聞こえた』とのことでしたので、少しだけ室内を拝見させて頂けましたら……」
「大丈夫ですから! ペットが暴れただけなんです!」
パパは馬鹿になったみたいに同じ言葉を繰り返している。
「ペット」
ロチルは小さく呟いた。
またイライラを増幅させる一言だ。
ペット、ペット、ペット。
ロチルは家族ではなかったのだろうか。ママはロチルが可愛いとほんの数ヶ月前に言っていたが、今はロチルに怯えていて、可愛いなどとはまるで思っていないようだった。
ロチルは威嚇の顔のまま花瓶をドアに向けて投げつけた。
ママとネーネが悲鳴を上げる。
「失礼しますね!」
見知らぬ人間がバタバタと室内に入ってきた。体格のいい男が二人、何が黒いものを構えている。
そして室内の惨状を確認すると、唖然とした様子でロチルを見つめ、そして「猿……?」と呟いた。
テレビで見たことがある制服だ、とロチルは思った。
濃紺の服に帽子。
たぶん、警察官ってやつだろうとロチルは判断した。
彼らが手に持った黒いあれが、大きな音を立てると人が死ぬことをロチルは知っていた。
「それで僕を殺すの?」
警察官は唖然とした様子でロチルを見つめている。
遠くでサイレンが聞こえた。救急車のサイレンのようだった。
ロチルは咄嗟に警察官の横をすり抜けて玄関へと向かった。
「ロチル!」
名前を呼んだ声が、ママのものなのか、パパのものなか、あるいはネーネのものなのか、ロチルには判らなかった。
白い車がサイレンを鳴らしながら走っていく。赤いランプがピカピカとしていた。
ロチルはバナナの絵が描かれたお気に入りを脱ぎ捨てると「お家」を少しだけ振り返ってそれから走っていく。
ママに拾われた山を目指して。
今はどうしても、どうしてもあの家に居たくなかったし、家族の……、いや、飼い主の顔は少しも見たくなかった。
野生を殆ど知らないロチルは、山に行ってどうするべきなのかも判らない。
どれが食べられるご飯かも判らないし、山の中でのお風呂の入り方も眠り方も判らないが、とにかくロチルは生まれた山へと走っていく。
イライラは走っても治らない。なににイライラしているのかもよく判らない。
でも身体中が怒りに支配されたようになっている。自分でもコントロールができなかった。
ロチルは、ロチルと呼ばれるようになる前の、ただの猿に戻りたいような気持ちになっていた。
昔、人間のママに拾われる前。
本当のママがもう動くことはないと判ったとき、ロチルは幼いながらに自力で生きなければならないのだと自覚した。
群れ中、同い年の子猿を抱えた母猿に近づこうとすると、無視されるかひどく威嚇されたからだ。
気づくと群れから逸れてひとりぼっちになっていた。
そこで拾ってくれたのが人間のママだった。
動物病院にロチルを連れて行き、体を温めミルクをくれた。
大好きなママだった。
でも、今はそのママの顔を見るのも嫌だったのだ。
なぜかイライラして、些細なことで怒ってしまう。
それで、今日はパパに怒鳴られた。あれは猿でいうところの威嚇だ。攻撃されたとロチルは感じた。
だからロチルは思わずパパに噛みつき、パパを庇うママにも噛みついたのだ。
ママがロチルの味方をしない。ママがロチルのしたいことを許さない。
ロチルはカッとなって、唐突に人間ではない自身を自覚した。
獣の本能が飛び出たのか、一切の手加減ができないまま、パパに噛み付いたのだ。
ある朝、目が覚めると突然、ロチルの頭はすっきりとクリアになり喋れる猿になっていた。
だけどロチルは猿なのだ。
人間にはどうしてもなれない。ネーネとは違う。
それがなんだかすごく嫌なことのように感じられた。だけどこれはどうしようもないことなのだとロチルも判っている。
判っているが、このイライラを処理する方法が、ロチルにはどうしても判らなかったのである。
下界に赤い屋根の家が見えた。
あれがロチルの家の屋根だ。
それを瞳に焼き付けると、ロチルは山の中へと分入っていった。
ロチルはあの家にはもう帰れないのだろう。
ロチルは深呼吸をすると、お気に入りの赤いズボンを脱ぎ捨てた。