7.未認識の権利侵害
『知的非人間種による家族形成と子育てについてのレポート』
『ただの喋る猿ではない彼ら。社会を選び、制度を理解し、その上で拒否する権利を述べる猿たち』
『彼らは市民? どうなる、『彼ら』の社会保障』
『人権は不要! 喋る非人類たちの、彼らのための自由と尊重』
「ゴリラが来るらしいよ」
床でゴロゴロと寝転んでいたパインは、サトウのその言葉にヨイショと掛け声をしながら向き直ってみせた。頭にはサトウがいたずら心で被せた作業帽が乗っている。
パインに手渡されたそれを被り直すと「二頭。夫婦だってさ」とサトウは付け加えた。
「ん? ゴリラ? もういるじゃん。たまに声が聞こえる」
パインの疑問は尤もだ。そう、光が丘ズーワールドには既に四頭のゴリラがおり、国内第四位となる頭数なのである。
「話すゴリラなんだって」
「ああ、パインと同じなんだね。でもなんで?」
「よく判らないけど、なんかゴリラ本人……ん、本猿? が選んだらしい」
「なんで?」
「さあ?」
本当に判らない。アフリカ大陸から遠路はるばる、なぜかこの光が丘ズーワールドにやってくると言うのだ。
園長曰く「なんか喋るゴリラがウチがいいって言ったらしい」とのことだ。
もう少し詳しい、小耳に挟んだ話によると、国連はいくつかの候補地をピックアップし、当該ゴリラにどこへ行きたいかと選択を促したようなのだ。
その間何があったのか、どんな説明が行われたのか、また逆にしなかった説明がなんなのかは判らないが、
とにかくそのゴリラは何が気に入ったのかは定かでないが、この光が丘ズーワールドを指名したようなのだ。
職員一同、サトウを含め誰一人として詳細の判らぬこの大プロジェクトは、急ピッチで進行しており、だがそれに対して心構えができている者もまた一人もいなかった。
園長でさえも「そういうことらしいから、まあヨロシク」などとどこか上の空。現実を受け止めきれない様子である。
国から補助金が出て檻が増設中——、いや、完全に新築だ。園のシンボルとも言える中央の噴水が撤去されていた——なのは確かなので、この動物園へと件のゴリラがやってくるのは間違いないようだった。
園内には普段聞こえないような、やや大きな音が響いており、動物たちにはあまりいい環境とは言えないが、それも仕方のないことなのだろう。
「そんなわけで園内はてんやわんや、暫くは彼ら夫婦の受け入れ準備のため休園ってわけ」
サトウはデッキブラシで床を擦りながらパインにそう話す。
本来動物が檻にいる状態での清掃は禁じられているが、知性を有したパインが、誰よりも信頼するサトウを襲うことはなく、こんな風景も日常と化していた。
「へぇ、じゃあパインは日本で唯一の観察できる喋る猿、ではなくなるんだね」
「そうそう。だからパインの負担も少しは減るかも」
「負担? 別に人間がたくさんパインを見ていてもストレスじゃない。これ、パインの仕事だし」
「ずっと見られているの、嫌じゃない?」
「全然。パイン、嫌だなあって思ったら言うよ。せっかく人間と喋れるんだよ。サトウさんだって自分の気持ち、ちゃんと伝えるでしょ?」
「うーん……まぁね」
人間社会はもっと複雑で時として口を噤むこともあるのだ、ということは伝えずにサトウは曖昧に笑んだ。
「でもパイン、車は運転してみたい」
「車あ? 前も言ってたね」
「車を運転して、サトウさんちに行ってみたいなあ」
「わたしの家?」
「駄目?」
サトウは少し考え「どうかなぁ」と答えた。
これはどこに許可を取ればいいのだろうか。
安全性や色々なことを考えたら園長だけの許可を得れば済む話ではないだろう。
と言うかそれ以前にパインはあれを有していないではないか、と思い出す。
そう、あれだ。
「車ってさ、免許取らないと車って運転できないんだよねえ」
「免許、知ってる。あれってどうやって貰うの? パインも貰える?」
「貰うって言うかね、教習所ってところに通って……資格を取るんだよね」
「パインも教習所に通えば運転ができる資格を取れるってこと?」
「テストに合格したらね」
あれ、これはもしかしてまずい事を言っているのだろうか、とサトウは考えつつも自身が免許取得時にこなしたスケジュールやそれに伴う経済的負担を伝えていく。
「サトウさん、つまり教習所に行くにはお金が必要で、勉強して、免許取らないとサトウさんち行けないってことなんだね」
車を運転しなければ自宅には来れる可能性はないわけではないが、ややこしくなりそうなのでサトウは黙っておくことにした。
「教習所かあ。パイン、車運転するの楽しみだなぁ。バナナみたいに黄色い車がいいな」
パインはすっかり教習所へと通うつもりでいる。
ブラシで床を磨く作業を再開させながらサトウは考えあぐねた末に思い切って現実を伝えることにした。
「うん……あのさ、パイン。すごい言いづらいんだけど……、もしかしたらパインは免許取れないかも……」
「えっ! なんで?」
パインの目の上が悲しげにハの字に垂れ下がる。
「あのね、免許って現行の法律では人間だけが取れるようになっているんだよね」
「パインが人間じゃないから免許取れないってこと?」
「たぶん……」
「人権があれば取れる?」
「人権を得ても、免許を取れるかどうかは話が別って言うか……」
「どうして?」
「どうして……」
パインの瞳の中にサトウ自身が映った。とんでもなく困った顔の人類がそこにいた。
「法律がパインのような知性ある動物に、すぐには追いつけないんだよね」
「法律」
「そう。今まで知性を有して会話をする生き物って人間だけだったからさ、知性ある動物のための法整備を整える必要が出てくる」
「そっかあ……」
パインは残念そうにしてそして檻の外を眺めた。
法律が整えばあるいは。パインはそう理解したのだろう。
だが、知性ある彼らが免許が取れる日——、もっと話題を発展させれば、例えばそう、職業選択の自由という権利などが与えられる日が来る可能性は極めて低いだろうとサトウは考えた。
というか、喋る霊長類の団体が人権を突っぱねたことであらゆる権利への入り口が閉ざされたとも言えるのだ。
人権を得たらひとまずは傷つけられない権利だけは即時得られるだろう。そしてパインが欲しい免許は追って話し合うことになるに違いない。
だが、彼らには人権がない。
ただの動物なのだ。
ただの動物には運転もできなければ学校に通うこともできない。
人権を得なければ、彼らの人間的自由については、話し合いのテーブルさえ用意されることがないのである。
「おーい、気をつけて運べよ!」
檻の向こうが何やら騒がしくなった。
サトウと同じ作業着を纏った男たち数人が『いらっしゃい! ドッヂくん、ローズちゃん』と書かれた大きな看板を背負って歩いていた。
例のゴリラは動物園で働きたいと志願しており、そしてこの光が丘ズーワールドにやってくるらしい。
だがその勤務形態は人のそれとは大きく異なり、彼らは展示されることで報酬を得るとのことだった。
報酬は金銭ではなくて林檎やバナナ。それが報酬というのなら、喋らない非人類と何が違うのかサトウには判らなかった。
彼らの扱いは依然、動物に対するそれと少しも変わらない。
国連の発表によると、喋る霊長類の彼らは人権は欲しておらず、それは彼ら全員の意見ということであったが、パインを見るとその限りではないように思えてならなかった。
——もしかして人権を得ることとその先に広がる未来が結びついていないのではないか。
サトウの腹になんとなくモヤモヤとしたものが芽生えた。
そう言えば、喋る猿にはスマホを支給されたようだが、パインも同じように国を通じて与えられたスマホがあったはずだ。あれはどうしたのだろう、とふとサトウは思った。
「ねえパイン、スマホどうした?」
「スマホ? その辺にあるよ」
「そのスマホで……なんだっけ。SNSの……」
「『喋る猿のためのソーシャルネットワーキングサービス』?」
「そうそれ。そこで人権が欲しいかどうかを話し合ったんでしょ?」
「うん。パインは人権欲しいって投票した」
「……ん? 投票?」
「うん。でも多数決で負けちゃった」
「多数決だったの?」
「そだよ」
何でもないことのようにパインが返答をする。
——人権不要の意見は彼らの相違ではなかった。
パインの他にも人権が欲しい猿はいたが、しかし彼らは少数派であったためその意見は黙殺されたことになる。
ゾッとする話だ。
「パイン、あのさ……それ、嫌じゃないの?」
「嫌っていうか、これはもうエライ個体が多数決で決めようって言ったから仕方ないんだよね」
パインはいとも容易く仕方がないの一言で片付けてしまった。
彼は事の重大さが判っていないようだ。
「なんてこった」
サトウは呟いた。
彼らの今後が、彼らの猿生が大きく変わってしまった。その自覚がパインには一切ない。
「……パインさ、この前わたしと人権について話した時には人権は要らないって言ってなかった?」
「言ってない」
「今のままでいいって……」
「今のままの生活でいいとは言った」
「人権は欲しいけど生活は今のままでいいって意味だったの!?」
「え、うん」
そうだけど、とパインは返事をした。
「でも多数決は決定事項だったしその結果パインの意見は少数派だったから負けちゃった。だから仕方ないよ」
「いやいやいや、仕方なくない! 仕方なくないんだよ、パイン! そもそもそういう大事なことは多数決で決めていいことじゃない」
「なんで?」
「パインみたいな人……、いや、猿が生まれちゃうから」
「どういうこと?」
「あのね、これは制服は赤がいい? それとも青? みたいな単純な話じゃないんだよ。わたしたち人間は、喋る非人類全体が人権を欲していませんって言ってると思ったわけ」
「うん」
「人権が欲しい猿は一人もいないと思ってたわけよ。でもパインは本当は人権が欲しかったんでしょ?」
「うん」
「なんで?」
「え、貰えるものなら貰った方がいいかなって……」
目眩がして崩れ落ちそうになるのを、サトウはデッキブラシを支えになんとか踏ん張った。
なるほど、人権とそれを得た先にある可能性がまるで結びついていないのだ。
パインは林檎が欲しいように、ただくれるなら人権も貰っておこうかな、というレベルで欲しがっただけ。
自分に何が起きているのか判っていないわけである。
「ごめん、パイン。あのね、はっきり言うと、たぶんパインは一生運転できない」
「え、一生? 話し合ってくれるんじゃないの? 法律が変わるんでしょ」
「パイン。パインは今のままだとただの喋るオランウータンです」
「そうだよ」
「だから法律は変わらない」
「なんで!?」
「動物のままでいいって、喋る霊長類の団体が喋る猿の総意のように発表したから。パインは人権のない普通の動物のままだから運転ができない」
「ん? んん? つまりパインたちは前と変わらず普通の動物で、人間と同等の権利がある生き物ではないから、免許が取れるかどうかを話し合う必要さえないってこと?」
「そう」
「人権があっても法律が追い付いていないから、どっちにしろ免許は取れないけど、でも人権があればいずれは話し合われていたかもしれないことが、パインがただのオランウータンだからずっと話し合われない?」
「そう!! パインは賢い! お行儀が良くてお利口! でもパインはこのままじゃただの喋るオランウータンなのです!」
「ひどい!!」
「だからただの動物なのか、それとも知性ある独立した生命体として尊重されるかどうかを決めなければならないことを多数決で決めるなんて駄目なのさ! 慎重に話し合いを重ねて答えを出さなきゃいけないんだよ! パインのように人間社会でしたいことがある少数派の未来が、単純な多数決で閉ざされることはあってはならないことなんだよ!」
この説明でパインが理解してくれるか不安であったが、サトウが思う以上に知性的な彼は、己の置かれた状況を理解したようだった。
まさか多数決でそんな大切なことが決められているとは思わなかったが、ではどのようにして方針を固めるかと言ったら多数決が合理的なのは確かではあるのだが。
悩ましい。彼らは人間社会めいた活動にあまりにも不慣れだ。
取り敢えず報告を上げねばならないだろう、とサトウはおろおろとしているパインを見つめた。
「あっ!」
「なに?」
パインが口を両手で覆ってサトウを見る。
「パイン駄目なことした!」
「駄目なこと?」
「喋る猿のためのソーシャルネットワーキングサービスでのことは一部決定事項を除いて喋っちゃ駄目なんだ!」
(おやおや、まあまあ……なんてこった)
サトウは被った帽子のツバをグイッと引っ張った。
何やら急にきな臭い話になったではないか。
「……パイン、それは誰が決めたの?」
「え、リーダー」
「……パイン、その話、もう少しだけわたしに教えてくれる?」
「駄目、言えない」
「大丈夫、パインを誰も怒ったりしない。ただパインの話を聞きたいんだ」
「……」
「パインの未来のための話だ。嫌じゃなかったらこれだけ教えて欲しい。なんで多数決になったの? 多数決があった事自体は、わたしはもう知ってる。じゃあもうこれは秘密ではないと思うんだけど、どう?」
「えっと……」
それなら話せる、とパインは事の経緯をサトウへとぽつぽつと話し始めたのだ。