2.パイン
二〇二五年夏。
その話題に世界は大きく動揺をした。その話題は日本にも伝わり、と同時に同様の現象が日本国内でも確認されたのだ。
猿が喋った。
それが人類史始まって以来、最大級の衝撃を与えた話題だった。
ただ、全ての霊長類が人語を介し始めたわけではないようだ。
なにが違うのか判らないが、とにかく世界の猿は人語を話せる者とそうでない者に二分されたのである。
日本で確認されたのはまず、頭数の多いニホンザルの一部。それから東京にいた動物園のオランウータンであった。
世界中ではもっと多くの事例が確認されており、また野生か飼育下か関わらずランダムで話せる猿が発生すると判ってきたのだ。
神の悪戯なのか、彼らはある日を境に急に人語を介するようになったのだ。
「人権……ってなに?」
東京の光が丘ズーワールドではオラウータンが首を傾げて飼育員を見つめていた。
オスのオランウータン、「パイン」は朝ごはんの林檎をモリモリ食べながら尋ねた。
パインが会話をし始めてから今日でひと月が経つ。
飼育方法はそう大きく変わらないが、彼が直接要望を伝えられるようになったため食事——人権に配慮した言い回しで、餌という表現は避けられるようになった——、は彼の望む食料となった。
「ええとね、君の権利のことだよ。なんだっけな……そうだ、そう、君が生まれながらに持っている権利で、尊厳や自由、社会権とかそういうものが君にもあるんじゃないかって国連で話し合ってるらしくて」
「ああ、要は人間と同じ権利があるんじゃないか、って話?」
「そうそう」
パインは林檎のひとかけらを咀嚼しながらウーンと考えるような顔をした。
人語を介するというだけでこの表情がやたらと生々しく、人間っぽく感じるから不思議だと飼育員は考えた。
「それってパインが話し始めたから?」
パインの一人称は名前である。
「そう。君の意思が確認できるわけで、そうなると人類のシステム的に君らを動物のまま動物として扱っていいのかなぁって感じている人が結構いるみたいなんだよねえ」
「はぁなるほどねえ。人間って複雑。パインはこのままでいいけどね」
「え、そうなの?」
「パインは森を知らないしこうして毎日餌もらえるしサトウさんのこと好きだしなんの不便もないもの」
「外に出たいとかないの?」
「出たくないわけではないけど……、外に出てどうするってのって思ったり。会社にでも通う?」
「会社かぁ……」
スーツを着て電車に揺られるパインを想像して飼育員は「なんか可哀想」などと考えた。
「いやサトウさん、今の笑うところだから」
「笑うところ?」
「笑うところじゃない? ああでも、車は運転してみたいかも」
「運転!? パインが運転! なにそれ!」
サトウは運転するパインを想像して今度は声を上げて笑った。他の動物たちが何事かと檻の中からサトウを振り返った。
「いや今のは笑うところじゃないっつーか」
「あ、違うの?」
「違うと思うよサトウさん。パインちょっとサトウさんが心配だよ」
オランウータンに心配されてしまった。
なんかフクザツだなぁ、と思いながら、サトウは今日の会話を報告書へとしたためなければならないことを思い出したのだった。