16.革命前夜
想定してはいたものの、なかなか上手くいかないものだなぁ、とドッヂはため息をついた。
喋る猿のためのソーシャルネットワーキングサービスを利用し、人権を得るための活動を開始したのはひと月前のこと。
まずはスマホ——、人間が持っている大層便利な板だ——、を光が丘ズーワールドの手配で手に入れるところから始めなければならなかった。
喋る猿たちにスマホが配布された時期、まだドッヂの発話機能は未発現だったため、それを得るのは今回が初めてのこととなる。
檻の外を訪れる人間が撮っていた、写真なるものがどう言うものなのかを理解したときドッヂはひどく驚愕したが、まあ、それは今はどうでもいい話だろう。
ローズとは話し合いの上、子を設けるのは数年後にしよう、ということになった。これはローズがこの環境に完全に適応するのを待つ意味も含まれていたが、最大の懸念は子の人間的な発話機能の発現だ。
普通のゴリラならば問題はないだろう。だがそうでないのなら、子を学校に通わせてやりたいとドッヂもローズも考えていたのだ。
人間と同等に渡り合える機能があるのなら、檻や森で一生を過ごすのは勿体無い。
本人、いや本ゴリラがゴリラらしい生活を望めばいいが、その限りではない可能性もあるわけだ。
そんな時に「お前は人間と会話ができるが、しかし法的には動物なのだ。つまりゴリラとして生きるしかない」と諭すような残酷なことは、ドッヂにはとてもできそうになかった。
自分はいいのだ、とドッヂは考える。
それなりの年齢まで野生で生活をし、望んで環境を変化させてこうして動物園にいる。しかしそれから再び環境を変化させること——、つまり、今から人間的な社会進出をすることは大した意味をなさないだろうと、ドッヂは充分に心得ていた。
働くこと、それに伴う賃金の話を人間に相談した際には、かなり遠回しに「不可能」を突きつけられた。
それはそうだ。そもそも非ヒト霊長類を雇用する法が存在しないのだから。
子に満足な教育をさせるためには金が必要だ。ドッヂは金を稼ぎたいと考えたがそれはどうやら難しそうだと悟った瞬間、方向転換を決めた。
喋る非ヒト霊長類が人権を得て、人間社会へと進出する法整備を整えるにはおそらく最短でも十年は掛かる。順調にことが進んでも、その頃にはドッヂは二十歳。人生……、いや、ゴリラ生の折り返し地点である。
ならば自分が社会に出ようとするよりも子のためのレールを敷くほうが有意義な時間の使い方となるだろうと考えたのだ。
正直なところ、打算もあった。
学校に、非ヒト霊長類が世界で初めて通うこととなった際には、おそらく国や何かしらの団体から金銭的な援助が得られるのではないか——、そう考え、ドッヂは自分を有効利用することにしたのである。
すなわちドッヂの役目はその足がかりを作ること。その後、安全に子が学校に通える環境を用意すること。
そして行き先は教育水準の高い国でなければならないと考えた。
猿の人間社会への進出に抵抗があるのは、おそらくどの国も一緒だろう。
ならば条件は、安全な生活が保障される国、そして教育水準の高い国に絞られる。
海が見たい、なんていうのは建前だった。日本は安全で識字率が高いと聞いてドッヂは飛びついた。
それはつまり、国民を誰一人として基礎的な読み書きの段階でつまづかせまいと、国が教育を徹底し資源を投じてきた歴史の証左だ。
実際にその枠組みに入ったあと、どうにも考えていた環境とは異なるようだ、と感じる場面も多々あることであろう。しかしドッヂは、その環境を得られる小さな可能性に賭けたいと考えたのだ。
候補に光が丘ズーワールドがあるのは幸いだった。
しかし。しかし、である。
「Nous avons laissé filer une occasion en or(俺たちは黄金の機会を手放してしまった)」
喋る非ヒト霊長類の人権……、あれをスムーズに得られていれば、もう少し社会進出も早かったはずだが、と考える。考えても仕方がないことではあるが、本当に残念でならない。
人権取得のための活動状況は芳しくなかった。
発話可能な非ヒト霊長類の代表、あのボノボがドッヂの意見に非常に批判的なのである。
彼女が何をそんなに恐れているのかがドッヂには理解ができないが、人間が人権をくれるというのならば貰っておけばよかったのだ。
それが得られれば、少なくとも命を奪われることはないだろう。発話する猿を面白がって捕らえ、強制労働に無理やり従事させることも禁じられるだろう。これは大きな利点だ。人権を得るとはつまり尊厳と命が自動的に守られると言うことだ。
そしていずれは学校に通い希望する職業に就く……、そんな未来もきっとある。
なのに。
なんて愚かしいのだろう。
遠い地に暮らすボノボの姿を脳裏に浮かべ、ドッヂはため息をついた。
勿論、人権が得られたところでその道のりが平坦ではないことはドッヂはよく理解していた。
実際問題、多くの人間が発話可能な非ヒト霊長類の、人間社会への進出を望んでいないのであろうことを、ドッヂはその肌で感じていた。しかしそれに気付かぬ馬鹿のふりをして日本までやってきたのだ。
本当に中立であろうとする人間はそう多くはない。飼育員のサトウのような……、つまり、「猿が人権を得ることを肯定し、さらに猿らしく生きるもよし、人間社会へと進出するもよし」と考える人間だ。そういう人間はかなり少ないのだ。
そう、サトウ、サトウだ。
サトウ——、サトウは本当にただの飼育員なのだろうか?
サトウはドッヂとパインの会話を慎重に聞き、そして最適な解を示してくれる。誘導するのではなく、発話可能な非ヒト霊長類にとって本当にいい答えを導き出そうとしているようだった。
サトウ——、サトウは、発話可能な非ヒト霊長類を庇護すべき存在と考えているようではあったが、しかし劣った存在、人間より格下の存在として見ているような様子ない。そのような無意識の見下しを、ドッヂは一切感じ取ることができなかった。
なんとなく、そのまったく見事に中立な姿勢には、なにかただの飼育員らしからぬものを感じたのだが。
まあ、半分は根拠のない野生の勘のようなものなのだが。
「ドッヂ」
檻越しにサトウに呼ばれ、ドッヂは振り返った。
「最近かなり寒くなってきたけど気温は平気? ローズにも聞いてもらえるかな」
「大丈夫、快適。ローズも寒い言わない」
「そう? ならいいけど。担当飼育員が気にしてたからさ」
「……サトウ。聞きたいことがある」
「んー? なに?」
箒を持っていたサトウがドッヂと視線を合わせる。帽子のツバをキュッと引いて笑顔を作った。軍手の端が少し汚れている。
「サトウ、何してる人?」
「え? うーん……、みんなの健康、そして住環境の保全かな」
ざっくりと言うとだけどね、とサトウは付け足した。
「違う。俺が聞きたいこと、サトウ、普通の飼育員? なにか、違う気がする」
サトウがゆっくりと首を傾げつつ、しかし瞳に僅かな困惑の色を宿したのを、ドッヂは見逃さなかった。
なるほど、とドッヂは頷いた。
どうやらサトウは普通の飼育員、ではないようである。




