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15.帰還

 ママが床に座り込み大声で泣いていた。

 わあわあと大声で泣き、顔は涙でぐしゃぐしゃだ。


「よかった……よかった……怪我がなくてよかった……痩せちゃって……」


 ママの背中をパパがさすっている。あんなにイライラしていた気持ちは嘘のようになくなっていた。


 ロチルが保護されたのは、三日前のことだ。


 山に帰ったはいいものの、そこでの生活は困難を極めていた。

 ロチルは野生に不慣れだ。野生の生活を知らない。

 どれが食べられて、どれが美味しいのかも判らなかった。試しに食べた謎の実はひどく渋くて食べられたものではなかった。


 たまたま出会ったニホンザルの集団も、当然、ロチルを受け入れてはくれなかった。

 なにせロチルは人間の匂いが染み付いているどころか、野生のニホンザルらしい「お作法」を知らない。


 警戒、威嚇、迫害。


 これらの全てを経験し、ロチルは一人で生きていくしかない、と覚悟を決めたのだった。


 ロチルには自信があった。

 今のロチルはママに拾われる前の、赤ん坊だった頃とは違う。ロチルはもう体も大きくなったしどうにかなるだろうと考えていたのだ。

 だが結果はこの通りだ。


 人里に降りようとしたのがよくなかった。畑に実った美味そうな実を取ろうとしたところを捕獲されてしまったのである。

 人間が怖くないロチルは、囲い罠に誘い込まれてしまった。どうやら、人間の世界では有害鳥獣の捕獲期間だったようだ。


 ああ、殺される。

 そう察した時に、二度と使うまいと考えていた人の言葉が飛び出てしまった。


 殺さないで、と。


 情けない。情けない。本当に情けない。

 もうお家には帰らないと決めていたのに、この体たらくだ。ママとパパはこうして情けないロチルを迎えに来て、なじることも怒ることもせず、ただひたすらによかった、よかったと繰り返している。


「いやあ、よかった。パパとママがお迎えに来てくれてよかったね、ロチルくん」


 市の職員はホッとした面持ちでそう言った。


「じゃあね、ワタシは外にいますので帰る時に声をかけてくださいね」


 よかったのかどうか、ロチルには判らなかった。


 ロチルは猿だ。本当の意味でママの家族にはなれないことを、身をもって知った。

 ママがロチルを好きでいてくれているのは知っている。知っているが、ネーネとロチルは違うのだ。


 腹を痛めていない我が子、なんてママは冗談めかしに言っていたけど、とロチルはこっそりとため息を吐く。


 所詮、ロチルは猿だ。血の繋がらない人間の子供なら家族になれても、ロチルは結局ペットなのだ。何故ならロチルとママたちは同じ生物ではないからだ。


 ——家に帰りたくないなぁ。


 それが率直な感想だ。

 ロチルは自分が人間でないことが悲しかった。

 それを日々実感する環境に身を置くのがつらかったのだ。

 人権をもしも得られても、この虚しさは変わらないだろう。


 目も合わせようとしないロチルに、ママは一生懸命に話しかけている。


 ごめんね、ママが悪かったね、ろっちゃんのことがもっと判るように頑張るから、ママを許し欲しい、ううん、許してもらえるようにママ頑張るよ、ネーネもろっちゃんを待ってるよ、パパもママも何度もお山に探しに行ったんだよ、怪我がなくて本当によかった、お家にたくさんご飯を用意してあるよ、ろっちゃんの大好きなおみかんもあるよ、お部屋はそのままだからね、お洋服も拾ったよ、ろっちゃん少し体が大きくなったから新しいお洋服が必要かも、ママも一緒にお洋服を選んでいいかな、そうだ、運動がもっとできるようにアスレチックも増やそうね、キャンプに行くものいいかもしれないね、ろっちゃん、ろっちゃん、ろっちゃん。


「ママ」


 ロチルはギュッと目を瞑った。

 ママが大好きだ。

 でもロチルはもうあの家にはいられないのだ。


「ママ、噛み付いてごめんなさい」


 ママの顔がクシャッと歪み、それから首を横に振るった。

 ううん、ううん、大丈夫、大丈夫だよ。そうママは何度も繰り返した。


「ううん、ママこそごめんね。あのね、」


「ママ、僕、家には帰らない」


「……ろっちゃん?」


「でも山にも帰れないみたい。どうしたらいい?」


「……なんで? お山に帰らなくて大丈夫だよ」


「ママ、僕は山に帰りたい」


「……どうして? ろっちゃん、ママが嫌いになっちゃった? ママ、ろっちゃんが嫌なところ治すよ。前みたいに一緒に暮らそうよ。お家だってろっちゃんが住みやすいようにリフォームするよ」


「ううん。僕ママが大好きだよ。パパは普通。でも嫌いじゃない。ネーネも好き。だから一緒にいたくない」


「どうして……? なんで?」


「僕は人間じゃない。ママの子供じゃない。それが悲しい」


「ろっちゃんはママの子だよ。ママは、ママは、」


「ママ。僕、ママたちが大好きだから一緒にいたくない。判って欲しい」


「どうして……?」


「ママは悪くないよ。僕の気持ちの問題」


「ろっちゃん……ろっちゃん、嫌だよ」


 ママの目から涙がポロポロと溢れていく。見る間に床へと水溜りができていく。

 このまま海になってしまいそうだ。

 パパはママの背中を撫でながら、ロチルの顔を見た。


「ママ……、ロチルの話を聞こう。ロチル、どうしてだい?」


「パパも、噛みついてごめんなさい。痛かったよね。ごめんなさい」


「大丈夫。あんなのへっちゃらだよ。パパは強いんだ」


 パパがにっこり笑った。人間のスマイルは相手に敵意を向けていない証拠。パパはロチルに近づいてロチルの手に触れた。


 ああ、この人はあんな風に噛まれたのに、それでも愛情を示してくれている、とロチルは考えた。

 敵ではない。ロチルはちゃんと愛されていた。


「……あのね、僕は人間じゃない。ママたちといるとそれが嫌ってほど判る。人間じゃない自分がとても悲しくなる。ネーネとは違う生き物だっていうのが悲しい」


「うん……」


「ママとパパが僕を大事にしてくれていたのは知っているけど、それでも僕は猿なんだ。猿なんだよ」


 やだ、やだとママが繰り返す。ロチルとママの立場が逆になったみたいだ、とロチルはぼんやりと考えた。


「ママ、ママは僕が大事?」


「当たり前じゃない! ろっちゃんのためなら、」


「僕の幸せを願うなら山に帰して欲しい」 


「……ろっちゃん……、」


 ママが言葉を詰まらせて、また泣き出した。


「……ロチル、パパたちといるのはつらかったかい? 嫌だった?」


「嫌じゃなかったよ。楽しいことがたくさんあった。幸せだった。拾ってくれてありがとう。可愛いって言ってくれてありがとう」


「うん。うん……」


 でももうロチルはみんなと一緒には居られないのだ。そうロチルの気持ちが告げていた。一人になりたい、そんな欲求がある。


「でもここまででいい。僕は一人で生きていきたい」 


 目を真っ赤にしたママはついに言葉をなくして、それでも頭を左右に振った。パパは少し考えて、それから「そうか」と言った。


「……ロチル、どうしても山に帰りたいのかい?」


「うん。帰りたい。普通の猿になりたい」


「ママ。……ロチルは独り立ちの時期を迎えているのだと思う。野生のニホンザルにの成長過程に見られる行動を、ロチルは取っている」


 パパ、やめてよとママは言うが、パパはそれを許さなかった。


「ロチルは大人になりつつあるんだよ。子供はいつか独り立ちをするものだ。親はそれを妨げちゃいけない。ロチルが山に帰れるように尽くすのが、親としての最後の務めだよ」


 ロチルの気持ちを受け入れよう、とパパは言った。


 そうだ、パパはジューイ、動物のお医者さんだったんだ、とロチルはぼんやりと思い出していた。


 こうしてロチルは、「飼育下に置かれた発話可能な非ヒト霊長類の野生帰還プログラム」に参加する日本初、いや、世界初の喋る非ヒト霊長類となったのだ。

 


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