9.大物主の反逆
大物主(国津神の一柱。大国主と別神である)は祀られることに固執している。
大物主は、10代崇神天皇の世で民の半分が死ぬほど疫病が蔓延したところ、「この疫病は私の意志である。今、意富多多泥古を連れてきて私を祀らせたならば祟りは止み、国も安らかに平らかになるであろう」と崇神に託宣した。
(日本書紀の記述より、 https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/about-kojiki/outline/ https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/about-kojiki/outline/ 参照)
大物主の祀られたがりにはもう一つエピソードがある。スクナビコナの国造りにて、大物主と考えられている「海を光して依り来る神」が現れ、自分を祀ったら国造りが成功する、「倭の青垣の東の山の上に伊都岐(斎)奉れ」、祀らなかったら国造りが失敗する、と言った。
(古事記の記述より、 https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/kojiki/%E5%B0%91%E5%90%8D%E6%AF%97%E5%8F%A4%E9%82%A3%E7%A5%9E%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%9B%BD%E4%BD%9C%E3%82%8A/ 参照)
俺を祀れ、さもないと甚大な被害が出るぞ、と周囲を人質にして祀らせる神なのである。
天津神の立場から見ると、せっかく作ってきた国を壊し、「やめてほしかったら俺を祀れ」と主張する大物主は、テロリスト、国家反逆者でしかない。その後、天津神である天照を追放し、後に天照は仮の住まいからも追放されている。
10代崇神天皇が追放した天照は、崇神の娘である豊鍬入姫命に託され、笠縫邑(場所不明)の「磯堅城の神籬」に祭られた。その後、11代垂仁天皇(崇神の子)の25年に、天照は豊鍬入姫から離され、垂仁の娘である倭姫命とともに巡幸の旅に出ることになった。文字通り、床を同くし殿を共にして。
天照が最終的に伊勢に落ち着く際、天照が倭姫に「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ。」と言ったとされる。
天照が伊勢を選んだ理由が単に「景色がいいから」。ともに旅をした倭姫に、直接意思を伝えた。この地を支配しようとか、祭ってくれる人がいそうだとか、敵に攻め込まれにくいとか、そういった動機は一切みられない。自分の感情に素直に動く性格がみてとれる。
天照が祀られたがりなら、神勅の最後は、「吾を末代まで丁重に祀るように、ゆめゆめ忘れぬように」のような趣旨になるのが自然である。男と間違えるな、で締めるはずがない。それに、潔斎が不要(「沙織の部屋」の「女官について補足」)というのも、ありえない。
大物主としては、天照を追い出すだけではなく、とことん利用したい。天照の「祀られたがらない」性格は、ものすごく都合悪い。だから、「天照大神」の存在を捏造し、徹底的に祀って権威主義的な高い神格に仕立て上げ、その威を借りたいのである。
国譲りの結果を否定するような大物主の行動は、天津神と、天津神に降った国津神の思いを踏みにじっている。今上天皇は126代だが、10代天皇の時代からずっと、日本はテロリストに乗っ取られ続けている。
この状況下で、本来の神格の天照が神託を出したことは、日本の在り方自体に大きな影響を与えることになる。