1.二千年以上ぶりの神託とその文体、時代考証
2024年(令和6年)9月25日18時14分。noteの「沙織の部屋」に以下の投稿(以後、「令和神勅」もしくは単に「神託」と表記)がなされた。これは不特定多数の人に対する神託としては、三大神勅(初代天皇の前の話である)以降、初めてではないだろうか。
==引用はじめ==
吾は天照大神と呼ばれる者である
次代の天皇には愛し子の愛子を指名する
吾が意に背くものは吾が子に在らず
吾が妻の豊受との子に善き世を見せよ
下卑な願いに穢されぬよう子の名は伏せる
吾を担ぐ者はいといまいまし
自ら去ぬか、吾が去ならしむか
吾を慰む女官は吾が選ぶ
何も知らぬ者は何も言わぬように
吾は女神であり男神ではない
ゆめゆめ間違わぬように
==引用終わり==
https://note.com/saori_no_heya/n/naff2c7a7872a
投稿者が(正確には、投稿を依頼した者が)本当に天照かは、現時点では議論しない。
神託の文面を理解するのは、そう難しくない。
自分の主張を明確に伝える意図がある文章といえる。
神託は日本語で書かれていて、漢字とひらがなが混じっている。カタカナ語は含まれない。
一部の漢字にふりがながあり、読み方を指定している。
現代の単語と、今でいう「古語」(いと、去ぬ、いまいまし、等)が混ざっている。
天照が人の世を2000年以上見ていたのであれば、古語が現役で使われていた時代と現代の語句を両方知っているであろうから、自分の主張を表現するために最も適切な語句を使用するのは、当然のことであろう。
神託を万葉仮名、漢字カタカナ混じり、漢文、外国語、一般的に使われていない文字、絵、音楽などで発することも可能だが、天照はそうしなかった。漢字、ひらがな、ふりがな混じりが自分の最も心地よい表現法だったか、それとも表現の柔軟性を重視したのか。
ふりがなはとても効果的に利用されている。
「吾」を「あ」と読むのは上古(7世紀の大化の改新の時代以前)で、中古(平安時代ごろ、9~12世紀)ではほぼ絶滅している。ちなみに万葉集は8世紀後半ごろに成立したとされている。
「女官」を「にょかん」と読ませるのも明確な意図があろう。明治以後の読みは「じょかん」である。平安時代は「にょかん、にょうかん」だと言われている。このため、天照が求めている「女官」の役割は、明らかに明治以後の女官のものではない。
神託の天照を絵にするのであれば、弥生人のような描写は誤りである。明治以降の宮廷人でもない。国風時代の貴族が着ていた十二単姿はいかがだろうか。ひらがなの成立は平安時代中期の国風時代(10~11世紀ごろ)である。