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一時間

 問い、明日世界が滅ぶとしたらどうしますか?

 答え、どうもしない。


 習慣の力というのは恐ろしい。これまで自身の欲を抑え、文明人らしく振舞うことを強要されてきた人間が、明日世界が滅びるからといってそれまで抑え込んでいた欲望を爆発させることなどない。……いや、あるかな? 少なくとも俺はない。そんな行動力あるんならこの年で童貞やってない。

 貯めていた貯金を使い果たそうかとも思ったが、欲しいものがあるわけでもない。風俗行こっかなー、と思ったが、俺まだ十七歳なのよね……。

 はあ、とため息が漏れた。ベッドの上で寝返りを打つ。

 あれから、品陀とは話していない。

 別に悲しいとか寂しいとかそういうわけじゃない。ていうか別に俺あいつのこと好きでもなんでもなかったしちょっと遊びで付き合ってただけだしいや付き合ってはないんだけど。

 何より、何度も経験したことだ。昨日まで仲がよかった相手と、たった一言の言葉が原因で、気まずくなって、なんとなく避けるようになって、なんとなく二度と会わない。

 だから、別に悔やんでなんかいない。

 そう、悔しくなんかない。あそこでオーケーしてれば童貞卒業できたんじゃね? とかおっぱい触り放題なんじゃねーのとかそもそもなんで断っちゃったんだとか、別に考えてない。あと俺ってほんと性欲しか頭にねーのな。むしろそっちにショックだわ。

 はあ、と何度目とも知れないため息。

 日曜日。明日から学校か。いや、明日なんて来ないのか。ていうかセックスしたい。ヤりたい。おっぱい揉みたい。

 品陀さん品陀さん品陀さん品陀さん、と恨み言のように呟いていると、母親の声。

「祐樹―! お友達―!」

 ……。

 ……ん? 待って、待て待て、どうした、何を言ってるんだ? 俺に友達なんていないぞ?

 なんというファンタジー……。友達の定義すらわからない俺にある日突然、友達ができていた。事実は小説より奇なりってやつかな。

 無視するわけにもいかないっていうか誰が来たのかだいたい想像がつくのでのっそのっそと階段を降りて玄関を開ける。

「よっ」

「……なんでいるんすか」

 大方の予想通り、そこには巨乳の品陀さんが立っていた。今日もおっきいなぁ……。

「ていうか、マジでなんで俺ん家知ってんすか? ストーカー? 死ぬ?」

「なんでって、……何回か一緒に帰ったじゃん」

「はあ、そういやそんなこともありましたね。で、なんか用っすか?」

「ちょっと出かけよう」

「はぁ……」

 俺の返事を待たず、品陀さんは「早く早く」と俺の腕を掴んで外に引っ張りだす。こら、引きこもりにそんなことしちゃダメでしょうが。びっくりして死んじゃう!

 うわー、光がー、と日光にもだえるドラキュラごっこをしていると、品田さんは勝手に家のドアを閉めていた。そして、とめていた自転車に乗り、荷台をぽんぽんと叩く。

「乗って」

「……いや、無理でしょ」

「大丈夫! 祐樹くん、軽いから!」

「それ褒め言葉だと思ってるなら大間違いですよ?」

 が、そもそも俺に拒否権など認められていない。嫌なことを嫌と言えず、好きなことも極めて苦く味わう。恥の多い人生すぎる、太宰かよ。

 俺はここに来ても断れず、言われるがまま荷台に乗って品陀さんの腰に腕を回した。とっても柔らかいし温かいので世界は平和だなと思いました。どさくさに紛れて胸揉んだろか。

「しゅっぱーつ」

 俺が邪心を抱いている横で、品陀さんは軽快な掛け声一つ、自転車をこぎ始める。

「……あの、そもそもどこ行くんすか?」

「山!」

「なんでまた……」

「だって、この前海行ったじゃん。山も行っとかなきゃ」

「なんすかその塩分摂りすぎたから糖分摂ってトントンみたいなスピリチュアル健康法……」

「うん、やっぱり健康が一番だよね!」

「人の話聞いて」

 苦言を呈したところで、品田さんはひるまない。……あの告白はなかったことになったのだろうか。

 尋ねてみたいが、そんな度胸はない。世の中には言っていいことと言わなくていいことがある。そして、これは言わなくていいことで、気にしなくていいことで、気にせずにいるべきことなんだろう。

 小さな疑念を無視できる能力。それさえあれば、こんな面倒な性格になっていないというのに。


 自転車を漕ぐこと一時間。

 品陀さんがばてた。

 そりゃばてるだろ。

「ちょ、ちょっとタイム……」

 ちょうど自販機が目に入ったので、自転車を止めて休息をとる。品陀さんはぜーぜー言いながらスポーツドリンクを買った。

「はー! 生き返ったぁ!」

 元気よく言い放ち、ほい、と俺にペットボトルを寄こしてくる。またそういうあざとい真似を……。

「……喉、乾いてないんで」

「えー、飲みなよー。こんな美人なお姉さんと間接キスするチャンス、そうないよー?」

「フられた身でよく言いますね」

「はは、痛いことをおっしゃる」

 苦笑一つ、品陀さんは自販機にもたれかかる。

「ねー、祐樹くん」

「なんすかー」

「んー……。別にー」

 品陀さんは残りを一気に飲み干し、ぐっと身体を伸ばす。

「じゃー、休憩したし、行こうかー!」

「すげぇ体力っすね……」

「私陸上部だから!」

 ふむ。やはり有酸素運動は発育をよくするのですね……。

「ちなみに種目は?」

「短距離」

「長距離じゃないんすね……」

「まあ、短距離だって何本も走ってれば体力つくし」

 いや、俺が言いたかったのは胸が大きいと不利なんじゃないかってまあいいか。

 ……品陀さんが短距離、か。

 揺れるだろうな……。


 この辺りで山といえば金剛山だろう。近いしそれなりに標高もあって冬は雪遊びもできる。それか二上山か、八尾のほうにも高貴山があって公園もある。昔、修験者に憧れていたころリュック一つで山籠もりとかしてたので多少山には詳しい。ちなみに冬場、凍死しかけてやめた。

 そんな思いトラウマを回想しつつ、荷台で揺られていると目的地が見えてきた。まったく知らない山だった。どこだよここ。

「金剛山とか、メジャーどころじゃないんですね」

「休みだと人多いからねー」

 なるほど。

 麓に自転車を止め、そこからは歩く。やがて未舗装路に入り、草をかきわけ山を登った。

「着いたー!」

 いちいち叫ばなくていいよ。

 品陀さんの雄叫びでもわかる通り、頂上である。わずか数平方メートルの平地。草が膝の高さまで生え、周囲には木々。下望すれば三丁目の夕日っぽい景色が見渡せる。俺、あの映画見たことないけど。なんか、タイトル的にそんな感じ。

「綺麗だねー」

「そうですね」

 どちらからということなく、草むらに腰を下ろし、並んで座った。

 ……で、どうすればいいんだろう。

 ドラマとかだとキスシーンかな……。けど、そんな予定調和に乗っかるのは気に入らない。途中で演技臭くなって自分で笑い飛ばしてしまうだろう。笑って軽口言ってごまかして、結局いつまで経っても本気にならない。どこかで、白紙一枚噛ませている。顔が、表情が、笑って、楽しそうにしていても、胸のうちはいつも冷たい。

 そんな冷たさを、気づかぬふりをして、愛だの恋だの定義不明の感情に身を委ねて雰囲気に酔うことができたら、『恥の多い生涯』を送らずに済んだのだろう。些細なことでも気になって、和気あいあいとした雰囲気をぶち壊してしまう。だから、黙っているのが良い。存在を消して、気配に溶け込んで、誰にも気づかれないように……。

 思考は堂々巡りしてとまらない。ひとたび足を取られたら抜け出せない沼地のように、ずるずると暗い場所に引き込まれていく。

 だから、こんな自分、こんな世界は、焼き尽くされて消えてしまったほうがいい。

 俺がひとり思考に身を沈めていると、ふと、柔らかい感触。

 見れば、俺の手に華奢な白い手のひらが添えられていた。

「君はさ、なんていうか、わかんないよね」

 そりゃそうだろう。俺ですら、自分のことなどよくわかっていない。

「けど、それでも、好きだよ」

 そうして、抱きしめられた。そっと、俺の頭に手を添えて、胸に引き寄せる。抵抗などできるはずもなく、品陀さんの腕に身をゆだねた。

 ――これでいいんじゃないか。

 俺は、この人のことが好きで、この人も、俺のことを好きだと言ってくれている。

 なら、この快楽に、甘やかな空気に、疑念も何もかも捨て去って、幸せを享受してもいいんじゃないだろうか。

 けれど、それでも、やはり心のどこかで訴えかけてくる。これがお前の望んだことなのかと。今見ている光景、今感じている幸せは、本物なのかと。

 ぞくり、と背筋に青いものが走った。

 永かった抱擁は終わり、品陀さんは身を放して、俺の顔を覗き込んでくる。

 ――まあ、どっちでもいいか。

 嘘でも真でも、演技でも本物でも、どうせ、もうすぐ全部、終わるんだから。

 ――世界が滅びるまで、あと一時間。


 光があった。

 世界のすべてを焼き尽くすような、鮮烈な光。

 人が作ったものも、自然のものも、生物も無生物も、何もかもを消し去る光は、視界を白く染め上げた。

 色もなく、音もなく、言葉も思考も匂いも感覚も、何もかもが白く染め上げられた世界。あの人の姿さえ掻き消えて、微笑も声も、もう聞こえない。

 ただ、手のひらを伝う温もりだけが、たった一つ確かなもので。いつまでも、消えることなく、そこにあった。

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