零れ落ちた全て
全てを、失う。俺はそれを経験した。何か悪い事をしたのだろうか。目覚めてから始めにそう思った。体が重い。気分も悪い。その時に目から雫が溢れていることに俺は後から気付いた。
「少年、起きるのでス」
聞き慣れない感情豊かな声が耳を刺して、僕は目を覚ました。霞む視界に派手な色の物体が映る。やがて視界は普段通り鮮明になり、その物体が人に似たものだということに気付いた。青紫色の人とは思えない肌、右側は鮮血のごとき赤色、左側は危険な薬品を想起させる濃い緑色の変わった装いをしていて、端的に言ってしまえば「ピエロ」といったところだ。
「質問でス。少年は全てを失った事がありますカ?」
何を言っているのだろう。十四歳の自分には何を言いたいのかわからなかった。何も言えず声すら出せない自分を目尻を上げながらピエロは舐め回すように見る。
「無言ですカ…まあいいでしょウ。『鎖』は掛けましたかラ」
意味深な事を言っている。それにただ恐怖を感じベッドの奥へ後ずさる。
「ヌフッ、フフ…少年も全てを失ってみましょウ!新たなミチを開くのでス!!」
ぐにゃりと視界が曲がり、赤黒い色の物体がドシャリと倒れた。
「え………?」
いつの間にピエロ男は消え、赤黒い物体だけが残る。よく見ると、それは生き物の死体であり、赤黒く見えたのは血であり、血というのは人の分泌液であり、顔は毎日見ていた物だった。つまり、
自身の母の凄惨な死体だった。
脳が拒否する。そんなわけない、と。いつも笑っていたあの母が死ぬわけない、と。だが残酷な現実は母の死体という形で襲ってくる。突然、視界がぐらりと曲がった。何が起こっているのかもわからず、僕の視界は黒く染まった。
目覚めて、全てを失ったのを何故か理解した。母親が死んでしまったのを見ただけなのに、父親も、友達も昨日まで話していたあの女の子も皆が皆、僕の周りから居なくなってしまったということを理解していた。ところで、自分は今どこで寝ていたのだろうか。天井、壁は白く、ベッドまで真っ白。少し狭いが、居心地の良い清潔感を感じる部屋だ。病院の一部屋だろうか。そんなことを考えていると、ドアを二度叩く音が響いた。
ガチャリとドアが開き、高身長の男と目が合った。
「あれ、起きてる」
男は驚いた表情をした。僕が目を覚ましていることにだろうか。
「こ、こんにちは」
そういうと、男は僕の目の前まで来て、深く頭を下げた。そしてこう言った。
「本当に申し訳なかった…!もしかしたら君の家族や友達を助けられたかもしれない……!」
今、この男の発言で全て失ったことを改めて思い知らされた。わかってはいたが、心に深く突き刺さる。しかしここで泣いていても家族が返ってくるわけではない。ふと浮かんだ疑問を、男に訊く。
「大丈夫です。それより、…あのピエロは、一体なんなんですか」
そう男に問うと、男は一秒ほど硬直し、なにかに気付いたように目を見開いた。そして、ぽつりと呟く。
「…道化師」
「どうけし………?」
男は頷き話し始めた。
「ああ、神出鬼没の邪者だよ。ピエロ見たいな見た目をしてたんだよね?あと肌は何色だった?」
邪者。人を殺して食べる恐ろしい化け物の名前だ。だが自分の街は邪者達の領域からは遠い位置にあったはずだ。その為、祖父からはこの街は怖い化け物が寄り付かないから安全だ、とよく言われたものだ。しかし、そんなことはなかった。現に今、家族も友達も奪われているのだから。
「肌は…濃い青色でした」
そう言うと、男は残念そうな失望したような顔をして言った。
「うん、そいつは道化師だね。奴に恨みを持って邪者狩になる人も多数いる残虐非道な人殺し」
道化師。そいつが自分の全てを奪った。憎い。あの嗤うような眼が怒りを増幅させる。後悔させてやりたい。奴がしたように全てを奪ってやりたい。
「その目…。怒りに満ちてるね」
―――どうやら、この男には見透かされてしまっているようだ。
「道化師が、いや、邪者が憎いかい?」
考える必要もなく、
「はい」
と即答。男はほくそ笑んだような表情で自分に提案を持ち掛けた。
「君も邪者狩りの一員にならない?」