才色兼備パーフェクトお姉さん一家の過去
―これはとある一家の過去の話である。
「んーーーっ……。よく寝たわぁ…」
朝日が差し込み始めている窓際に立って、大きく仰け反り、佐藤藍子は一日の始まりを肌で感じていた。
まだ時間は早朝の4時30分。早起きにしては早起きすぎるこの時間になぜ藍子が起きたのか。それにはこの家庭の事情が絡んでくる。
「(母さまも父さまも居ないし、弁当と朝ごはんと風呂掃除しなくちゃね)」
佐藤家には両親が常に不在なのだ。
藍子の親の呼び方から察せられる通り、この家庭は、昔この地域一体を統べていた一族である、「相園家」の分家の血筋。この地域では由緒正しき家庭なために、質の良い教育を受けた両親はともに頭のキレが良く、母はロサンゼルス、父はベルリンと、現在海外出張中なのだ。
そのため佐藤家は、大学2年の藍子と、中学一年生の幸田。そして幸田より二学年である小学五年生の奈都。その3人だけで現在は構成されている。
藍子は一番年上なため、両親が帰ってくるまでの間は幸田と奈都の母として家庭を支えなければならない。
普通ならかなりの疲労とストレスが溜まるだろうが、ここは由緒正しき相園家の末裔。両親からの巨額の仕送りでなんとかバイトなどでお金を稼ぐ必要はなく、なんとか世話だけで済んでいる。
「まずは……風呂掃除からでいいわね」
ズボンの裾を膝上まで上げて、手に取ったブラシと洗剤を使って浴槽を綺麗に磨いていく。
その手際は完璧と言っていいほどで、藍子が磨いた浴槽には、チリも埃も何一つ残さず綺麗に仕上げてしまうほどに完璧であった。
「ふう、これなら奈都と幸田ちゃんがお風呂に入るときも快適に過ごせてもらえるわね」
藍子が我ながらの出来に惚れ惚れとしていると、浴室の外から軽い足音がコチラへと向かってくるなを感じた。
「お姉さま……おはようございます」
「あら奈都。おはよう。今日は早いのね」
「はい……。お姉さまの作業する音で起きてしまいまして」
「それは悪かったわね、まだ時間もあるし、もう一回寝ててもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です」
佐藤家の次女、佐藤奈都。このときはまだ小学校5年生であるが(現在は中学2年生)、すでに佐藤家の者としての風格を備えている。
口調も然り、その小学生とは思えない、幼さが一切ない整った顔立ちも然り、その容姿行動全てにおいて名家のご令嬢のような立ち振る舞いである。
―ちなみにこれは現在の話であるが、奈都はその立ち振る舞いに似合った頭脳を備えている。まさに藍子をも超える幼き完璧超人であり、その圧倒的才能は、佐藤家という括りを取って相園家全体で見ても、他の分家の者の口から最高傑作だと言われるほど。
そのため現在は、その才能を最大限活かすためにロンドンへ海外留学に行っている。
このときはまだ幸田と藍子と一緒に生活こそしている。だがこう3人並ぶと、奈都が如何に整いすぎた顔立ちなのが分かるぐらいに、同じ血縁だとは思えない。まあ、藍子も十分の範疇を超えたスペックなのだが。
「そういえば奈都。この前テストあったでしょ」
「あぁ…はい、ありましたね」
「結果、どうだったのよ」
「100点ですね。言うまでもなく」
「ふふん、流石私たちの希望の花ね。朝ごはんは少し豪華にしちゃおうかしら」
「お姉さま、このぐらいで褒められても私は嬉しくはありません……」
「いいの。私は褒めて伸ばさせる教育派なんだから」
「お姉さまが良いと言うのならば良いのですが…」
そのような雑談をしていながらも、藍子の両手には洗剤とスポンジが握られており、ノールックで風呂掃除が進められていた。
これは、昔から両親がいなかったがためにいつの間にか身についていた特技のようなものである。
「お姉さま。やはりお姉さまだけに家事を一任するのは酷すぎます。私も手伝って―」
「良いのよ別に。それに風呂掃除なら今終わったし」
「でも…」
「さーて何食べたい奈都。今日はお姉ちゃん、張り切っちゃうわよ」
「………お姉さまの卵焼きが食べたいです」
「おっけー」
たとえ奈都が優秀で華麗な女の子であっても、この歳で母の代わりをしている藍子にしては、まだまだお子様だ。
ご機嫌良さげな藍子がリビングへと向かい、縦型のフライパンをコンロの上へと出す。スムーズに卵を片手で割ると、気がつけばふわっふわの卵焼きが出来上がっていた。同時並行で温めていた味噌汁をお椀によそい、ちょこんと椅子に座っている奈都に卵焼きと味噌汁と白飯を差し出す。
顔では眉ひとつ動かさない奈都だが、瞳はキラキラと、それこそ子供のような無邪気なものをしている。やはり好物を前にしては、いつも大人びている奈都でも子供らしいところが出てしまうのだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます、お姉さま」
「温かいうちに食べなさいよ」
「はい。………ですが―」
「ん、何か味噌汁に気に入らないのが入ってた?」
「いえ、そんな。お姉さまの作る料理にケチをつける方などおりませんので。ただ一つ、料理とは別に気になることがあるのです」
「気になること?」
「はい……」
シュンとなにやら落ち込むような悲しげな表情を浮かべる奈都。
藍子はその様子をとある条件下で常に見ている。
それは―
「お兄さまとまだ私はっ、本日顔を合わせておりません!」
奈都がまだ兄である幸田と顔を合わせていない早朝。そして、兄と会話をしているときに限って、奈都は華麗な美少女から、重度なブラコン少女へと変貌を遂げるのだ。
バカと天才は紙一重ならぬ、ブラコンと天才は紙一重だ。
「でも……幸田ちゃんはこの時間には起きないっていつも言ってるじゃない」
「ふぬぬぬぬ……ですが私っ! このままではお兄さま不足で死んでしまいますぅぅ!」
「分かったわよぉ。あなたはいつも幸田ちゃんの話になると可愛くなっちゃうんだから……」
「うっさいですお姉さま! お兄さまが大好きなのはお姉さまも同じでしょう!?」
それは藍子も全くもって同じだ。だからこそ当たり前の指摘であるが、これ以上何か言うことはできない。
それに忘れがちだが、今はまだ朝だ。騒がしくしてご近所の方々に迷惑をかけたくはない。
「私はまだ忙しいから、せめて奈都が起こしに行ってくれないかしr―」
ばたんっ! と叩き付けるような扉を閉める音に、今度は目玉焼きを作ろうとしていた藍子はそちらに視線を移す。
そこには、あまりに奈都が高速移動したのか、土煙のようなものと、床を蹴って幸田の自室へと向かう奈都の足音があった。
ブラコンマスター佐藤奈都は、すでにそこにはいなかった。
「まったく……あの子の将来はどうなることやら。………心配はしてないけど」
――――――――――――――
微かな鳥の囀りと、謎の地鳴りを聞いて、僕は目を覚ました。
意識も視界もボヤける中でで、近くにある時計を見てみる。
時刻は5時12分。いつも6時半きっかりに起きる僕にとっては到底起きる時間ではない。
「………眠いし、気持ち悪い…」
だけど最近、とても目覚めが悪い。今日ばかりは早く起きてしまったからだろうけど、昨日も一昨日も起きるときは毎回悪夢にうなされた気持ち悪さで目覚めている気がする。
それもこれも、この前の相園家の叔父様に会ったときにあったことが原因だろうけど…。正直言って思い出したくもない悪魔のようなものだ、本当に記憶から消したい。
だけどそう考えているうちに記憶がぶり返し、勝手にあのときの鮮明で絶望的な出来事を再生し始める。
『―幸田。貴様はこの相園という一大一族の大恥だ』
あのときの事は今でもよく覚えている。
『叔父様、なんで……? 僕は何も悪いことはしていないのですよ!?』
『だが貴様は何も良い結果を私にもたらさなかったのではないか』
『それはっ……! まだ挽回する予定でっ……』
『藍子は貴様の歳で、学力テストで毎回一位で内心も平均5。貴様はどうだ、幸田。平均4.3などバカバカしい』
『4.3の何がダメなのですかっ!? 十分でしょう!?』
『私の一族は皆5だ。それ未満は過去に誰一人としていない。5を下回った者は、幸田、貴様が最初で、そして最後だ』
自分がこの才能ある一族に生まれながらに、何も才能がなく、そしてなにか貢献するどころか足を引っ張るばかりで。
『それに。奈都はあの歳で貴様の学んだ勉学の内容を全て理解し、出された問題も楽々と答えてみせた。もちろん運動神経、性格を取ってみても、全て一流だ。貴様のような凡人はこの一族の誇りではなんでもない、むしろ埃なのだ』
『でも―』
『貴様に何ができる。勉学も運動も中途半端、人を引っ張るリーダーシップも、この一族に見合う才能すら何もない凡人で退屈な貴様に』
『……っっ』
今までしたこと全てが無に帰して。自分が何をしても、姉にも妹にも母にも父にもそして叔父様にも、他の分家の人たちにも手が届かない。むしろ他人の足を引っ張るお荷物な存在。
そんな自分が嫌で仕方がなかった。
『―辛いだろう、正直』
その叔父様の言葉を聞いたとき、そのときだけは少しだけ僕の荒んだ心が和らいだ気がした。首がもげそうなぐらいに何度も首を振って叔父様の言葉を肯定していたのも覚えてる。まだこんな非凡な僕にでも手を差し伸べてくれる人がいるんだって思った。
『……はい』
『そうだろう? だから私はとある決議を先程、息子と娘たちと話し合ってした』
だけど、すぐに思い知った。
この世はそんな甘くなく、非情なこと。
『佐藤幸田。無能で非凡な貴様は、以後、この相園家の血筋である事実を抹消する』
『……え…?』
『そして、他の分家、もちろん本家と関わることを禁じ、今後一切その面を私に見せないこと』
そして僕なんかに手を差し伸べる人なんて、誰もいないこと。
「うっ……ううぇっ……」
あのときのことを思い出すたびに、毎回視界がぼやけて吐き気がしてしまう。
―最悪だ。最近はもう、何を考えても自分を卑下することしか頭にない。姉さんも奈都もそんなことないって言ってくれるけども、結局はこの幸田という人間のことは僕が一番知っている。
―僕は本当にこの一族の恥だ。叔父様は僕を見捨てたようなものなのに。僕はまだ、叔父様に何か縋るような気持ちを持っているなんて。
僕は本当に―
「おっっっにぃぃっっっっさまぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
「ふぐおぉっ!?」
突然の腹ダイブに、自分で自分を責め立てていた僕は一気に目が覚めた。そしてソレと同時にそもそも何故僕がこの時間に起きたのかが理解できた。
「お兄さまお兄さまお兄さまっ! 奈都ですよおはようございますお兄さま!」
我が愛妹である奈都。彼女が豪快に足音を立てて僕の自室に急接近した音で僕は起きたのだ。
それも多分、腹ダイブに危機感を感じて。
普段はその艶のある黒髪を靡かせて多くの人々を虜にしている奈都だが、僕の前だけでは、こうして本来の年齢らしい子供らしさを見せつけてくる。
なんで僕だけなのかはあまり自覚はないのだが、奈都曰く。「お兄さまが私を悪魔の手から守ってくださったのですっ!」とのこと。おそらく僕が奈都に何か助け舟を出して、そのことから奈都が僕を慕うようになったのだろうか。正直記憶が曖昧だ。
まあそんな疑問は頭の片隅にでも置いておいて。
僕の腹の中で頭をグリグリと押し付ける奈都を無理矢理押し返しながら、僕は奈都に尋ねた。
「奈都………朝ごはんなのか、もう」
「はいっ、そうですね。今日の朝ごはんは奈都の大好きな卵焼きです!!」
「分かった……あと少ししたら行く」
「はい!」
………………むにゃ。さて、もう一眠り―
「……なぁ」
「? どうしたのですかお兄さま」
「俺、今から二度寝するんだけど」
「はい、それがどうされたのですか?」
「腹に頭グリグリしたままじゃあ、俺寝られないんだけど」
「でも奈都、お兄さまと1秒たりとも身体をくっつけていたいのです!」
「むう……」
とても可愛らしくて、でもウザったらしいからそのちっこい身体を押し退けて今すぐさっき見てた、グラマラスなお姉さんとデートする夢の続きが見たいのだが。それを実行する元気が強烈な眠気に負けているためにできない。
「(まあいいか。奈都がいつまで佐藤家にいるのかも分からないし、本家絡みで何か起こるかもしれないし………この子が甘えたがるのも仕方ない、か)」
頭脳も容姿も優秀すぎるが故に、まだ小学五年生の奈都には既に多くの中学校の校長、芸能事務所などから視察が来ている。
奈都にとって、この佐藤家でのんびりしたり、僕に存分に甘えたりできる時間は少ないのだ。
それに―
「にへへぇー……私の大好きでかっこいいお兄さまぁ……」
「(母さんも父さんもいないし。二人しかいない家族は大切にしないとな)」
両親不在な今、奈都は数少ない家族の一人。それは奈都も同じことだ。
「……あ、そういえばお兄さま。私少し聞きたいことがあるのです」
突如、手をポンと叩いて何かを思い出しかのような仕草をする奈都。
「お兄さま、最近何かお疲れなのですか?」
「な、なにいきなり…。俺は別に疲れてなんか」
「そうやって否定する人はだいたい嘘つき、ですよ?」
「うぐっ…」
いつの間にか、奈都の僕を見つめるその瞳には真剣味を纏っていた。
「お兄さま。奈都はお兄さまを傷つけるようなことは言いませんし、それを誰かに公言したりはしません」
「それは…わかってるよ」
そんなこと分かってる。いつも周りには常に冷たいような雰囲気を漂わせている奈都だけど、心の中では他人を気遣っているってこと。彼女は見た目の冷たさと反してとても優しい子だ。
「(……ダメだ、さっきのことが頭から抜けない)」
でも、今回はむしろダメだ。その気遣いが僕を壊すんだ。
たとえ奈都が愛する妹だとしても。その自分より何十倍も優れた奈都だからこそ。優秀な者が劣った者を慰めるなんて行為は、時に心を痛めている人にとっては傷に塩水を塗る行為なんだ。
「だけどこれはダメなんだ、奈都。僕より秀でてる奈都に気を遣われると、僕はいよいよ誰も信じたくなくなってしまう」
「お兄さま……?」
「叔父様に追放されたのも、僕の才能不足のせいなんだ。この一族に生まれておいて、何もまだ果たせていない僕なんかに価値なんかないんだよ」
奈都との楽しくてやんわりとするこの空間だけは絶対に壊したくない。だから、僕の不始末で生まれたこの一件だけは、僕だけの話にしたい。
もし奈都が万が一関わってしまったら……そして知ってしまいでもしたら、ブラコンな奈都はきっと僕のために奔走するだろう。その行動が本家の信頼を裏切っても、まだ幼い自身の時間を多く食ってしまったとしてもだ。絶対にこの子はしでかす。
それに、勉強も運動もできない、リーダーシップもない。こんな叔父様に嫌われる要素しかない僕に価値だってないし、そんな僕のために頑張って欲しくない。
―才能が羨ましい。なんでもいいから才能がほしい。姉さんとか奈都のような完璧にはなれなくとも、何か一芸を磨けるような、そんな男に僕はなりたくて、僕は死力を尽くして努力をしてきた。
でも無理だ。何をしても、どれだけ頑張ろうとも無駄だった。
努力は才能には敵わなかったんだ。
「僕なんかに価値を見出す人なんて……いないんだよ―」
「お兄さまッッ!!」
ベチンっと僕を右頰を奈都がビンタした音だった。あまりの唐突な痛みに何事かと思い、奈都の顔を伺うと、そこにはうっすらと涙を浮かべながら怒り顔の奈都がいた。
「お兄さまはそんな貧弱な人ではなかったはずです! 私の敬愛するお兄さまはっ、いじめられてた私をたった一人で救い出すほどの勇気と優しさを持った、そんな方だったはずです!」
「そんな……昔のことを言われても」
「覚えないんですか……? あのときのお兄さまは誰よりも輝いていたのですよ!?」
僕が……輝いて? それは奈都の方だろう。少なくとも僕は、彼女が慕うほどのものを持っている人ではないでしょうに。
尊敬していた人に裏切られて、それもいつまで経っても引き立ってる僕なんかが。昔は輝いていたわけがないし、今も到底輝いていない。
「輝いてるのは奈都の方でしょ」
「そんなことは……」
「いつも謙虚でひたむきで人を誰よりも大切にする。そんな奈都の方が、僕よりも何倍も輝いてるよ」
「お兄さま一体何が…」
「知らなくていいんだ。何もない僕なんかにはもう……」
頑なに胸の内を明かそうとしない僕を、奈都は今にも泣きそうなグジャグジャの顔をして僕を肩を揺さぶる。
「なんでっ……なんでそんなっ……! 自分を貶すことしか言わないのですかっ!! お兄さまは私なんかより優しくてかっこよくて素晴らしい人なんです!!」
「……嘘つきも大概にしてくれよ。今みたいに妹ですら信じられない僕なんかが優しいわけないだろっ!!!」
「お兄さまの………大嘘つきッッ!!!」
怒りも含まれた泣き顔で、奈都は今度は、バチンっ! バチンっ!! と二回僕の頬にビンタをお見舞いした。
思いの外の痛みに、つい頬をさする僕をよそに、奈都は必死の形相で僕に語り続けた。
「自分に嘘ついて、それが何になるのですかっ!? あのときのこと、奈都は忘れたとは言わせません!」
「あのとき……」
「まだ一年生で周りからいじめられていた私を救ってくれたのは、お兄さま、あなたでしょう!?」
「………!」
……そのとき。
寝起きで冴えきってない僕の頭でもハッキリするぐらいの衝撃が襲った。
―思い出した。……僕が輝いてたときの頃の話を。
『ハハッ、コイツぁ良い! この奈都の醜いサマを見るなんてなぁ! そうだろお前ら!』
『そうだな、面だけ女に生きる価値なんてねぇんだよ』
『俺らが遊んでやってあげるだけ感謝しろよなぁぁ!』
『………っ』
奈都が奥歯を噛み締めるような苦しい表情。
『……ちっ、これでも声をあげねぇのか、あげられねぇのか知らねぇが』
小学生のくせして、やってることはそこらのイジメっ子な高校生となんら変わらないガキ。
『コレなら声をあげるよなぁァァ!?』
振り上げられるバール、そして―
『こんのっっ……クソ野郎がぁぁぁぁぁぁ!!!!』
気づいたらソイツを全身タックルで突き飛ばしていた僕。
……そうだ。僕が奈都を救ったんだ。
まだあのときの奈都は、自分の意思をうまく出すことができなかった。だから周りの子たちは、何しても薄い反応しかしない奈都を煙たがったし、それがやがてあの過激なイジメに繋がった。
両親は必死にサポートしていたけど、あのときは海外にいる今よりも多忙で、全力で奈都の精神サポートをするにも限界があった。
姉さんは当時すでに高一だったし、小学校でのイジメについて直接何かできた訳じゃない。
だから同じ学校にいた僕しかいなかった。いや、僕しかできなかった。
「そうか、僕が……」
「お兄さまを私をあの地獄から救ってくれた人なんです! 優しい人なんです! だから……だからぁっ!!」
…そうだ。僕にはあったじゃないか。
奈都にも、姉さんにも、母さん父さんそして叔父様にも上回るもの、誇れるものが。
「価値がないとかっ、何もないとかっ……そんなこと言わないでっっ!!」
誰よりも家族が大切で大好きで。家族のために体を張れる、そんな人。それが僕なんだ、「家族愛」……それが僕の誇りなんだ。
「……そうだな、お兄ちゃんが悪かったよ。奈都の気持ちなれなかったな。辛い気持ちにさせたな」
「……うん」
「僕は姉さんにも奈都にも敵わないって思ってた。それが自然と無意識的な敵意を持つきっかけになってたんだ。……焦ってたんだ、多分。叔父様に見捨てられて、ソレで何か偉大なことしなきゃ、何か誇りとなるものを見つけなきゃって」
自然と口が動いてしまう僕の話を、奈都は僕の胸に体を預けながらもコクコクと頷きながら聞いてくれていた。
「だけどそんな誇り、すでにあったんだ」
「うぇ?」
「『家族愛』。それが僕の唯一で一番誰にも負けない誇りなんだ」
「お兄さまっ………!」
やっと気づけた。これが佐藤幸田なんだ。
―もう大丈夫だ。絶対に崩れたりなんてしない。
「ありがとう、奈都。いつも慕ってくれること、そういうこと、お兄ちゃんは好きだからな」
「………ふふん、それでこそ、私の大好きなお兄さまですっ!」
叔父様は完璧主義者な人間だ。自分に厳しく他人にも厳しい。だからこそ、あの人は成功したけど、こうして幾つもの人々を何も思わずに傷つけてきたはずだ。
そんな人間には僕はならない。僕はこの「佐藤家」を守れる人になる。いずれくるかもしれない、奈都に対する相園家からの魔の手から守ってみせる。それが「家族愛」を誇りとする僕の使命なんだ。
「なんか、疲れたな」
「あ、なら寝てもいいのですよ? まだ時間はありますし。なんなら添い寝、しましょうか? いえさせてくださいお兄さま、抱き枕にでもなりますので」
「台無しだよこの雰囲気」
「そうね。第一、幸田ちゃんは他の誰かを頼ればよかったのよ」
「姉さん!? いつからそこに……」
「幸田ちゃんが、自分には価値がないとか言い始めた辺りからね」
音もなくドアに半身を預けるような形で、姉さんは僕に問いかけた。
「幸田ちゃんが叔父様に何か吹っかけられたのはなんとなくは知ってたわ」
「は……し、知ってた? なんで……」
「雰囲気よ。相園家に行った後から、幸田ちゃん、明らかに様子が変わってたし」
そうなのか? いや、あの姉さんが言うのならきっとそうなのだろう。思っている以上に、僕は感情や悩みを表情に出していたらしい。
「あの叔父様が筋金入りの完璧主義なのは、相園の血が流れる者なら誰でも知っていたことよ。幸田ちゃんもそれは予測できなかったわけじゃないでしょう?」
「………」
「お姉さまっ! お兄さまを責めるのはお門違いです! お兄さまはっ―」
「別に責めるつもりはないわ。それに、私が言うのもアレだけど。才能のある人ない人とじゃあ分かり合えないところもある。だからそこの事情に私たちは踏み入れないし、理解するのも大変なの」
……たしかに。おそらく、平凡な僕と、天才肌な姉さんと奈都とでは、仲は良くても何かしらの隔たりはあるのだろう。
勉強に対する価値観、才能ある者ゆえの気持ちの余裕。目の前の困難に対する解答だって違うに決まっている。
「そして、だからこそ。私はこの一件に足を踏み入れることができなかった。私が慰めたところで、幸田ちゃんにとっては怒りを増幅させるだけのことだもん」
それはそうだ。だから僕も正直、誰も関わってほしくはなかったって思っていた。放っておいてくればそれでいいと行動で示していた。
「……でも、幸田ちゃんはそれを自分で乗り越えられた。もう大丈夫でしょう? 叔父様がどんなことをしたとしても、それを跳ね除けられる意志を持つことができた」
「……まあ」
「だけど。それでこの問題は終わらない。まだ幸田ちゃんのケアができてないもの」
「姉さん?」
ゆっくりとベッドにいる僕に近づき、すぐそばに腰掛けた姉さんは、両手をこれでもかと左右に広げて僕の頭を自身の胸と腕で包み込んだ。
「むごっ…!?」
「今まで一人でよく耐えたわね。頑張ったわね」
「おっ……お姉さまっ! ずるいです私もそれしたいですっ!!」
「いやよ。奈都は散々幸田ちゃんとイチャイチャしてたじゃない」
「いい歳した女性がなに子供みたいなこと言っているのですかっ!? あーっ!! そうやってまた強く抱きしめて独占欲を全面的に押し出さないでくださいっ!」
「んーっ! んーっ!!!」
「ていうかお兄さまが窒息しかけてますからぁっ! ただでさえ寝起きで血が通ってないのにどんどん顔から血の気が引いてますからぁっーー!!」
姉さんが離さんとばかりに僕を強く抱きしめるたびに、どんどんと空気が薄れて気が遠くなりそうだ。
でも、そんな状況でも、僕は不思議と幸せを感じていた。
――――――――――――――
「…………ん」
そこまで夢見て、僕は目が覚めた。
どうやら一昔前の出来事が夢に出ていた……らしい。なにせ目元は少し潤んでいるし。いや別に泣くつもりはなかったけども。
―これは後日談だけど。
あれから今に至るまで、奈都はロンドンへ留学に行っている。彼女曰く、「かっこいいお兄さまの隣に立てる子になれるように頑張ってきます!!」らしい。……すでに充分だと思うけど。
姉貴は地元で広く根付いた企業で僕を養うために今も働いている。まあそこは感謝はしている。普段が極度のブラコンだから相殺みたいなものだけども。
僕は……今は何もできない。ただ目の前の壁を打ち壊して前に進むだけ。それを万が一叔父様が見たとしたら、きっと僕を蔑むだろう。
―だけど、「何もできない」は悪いことじゃない。そしてもう僕は叔父様に認めるために生きるのではない。
その壁を打ち砕いていく中で、自分の歩んでいきたい道を切り開いていく。それが僕の人生だと思う。完璧な人生を送る姉貴や奈都と同じように、それと同じ軌道の人生を送る必要なんてないんだ。
ただ奥底にある「家族愛」という信念を持って、凡人なりの人生を送っていくんだ。
まあ最近はその家族愛に不信感があるけども。特に姉貴に対しては。
「んーーあぁー……もう6時か、起きないと。じゃないと姉貴が起こしにくる名目で僕に抱きついてくるし。あれ苦しいしね」
先読みするように、僕は寝起きで重い両足を動かして階段を降り、リビングへと向かう。
「(……そういえば。奈都は今頃どうしてるんだろうな…)」
夢で見たまだ幼かった奈都の姿から、なんとなくの今の姿を想像してみる。
流暢に英語を話し、それはもう、完璧な容姿で数多の英国紳士の心をキャッチ。もしかしたらのもしかしたらで、彼氏がいるかもしれない。それにおいて勉学もハイレベルな成績を残し、教師からも絶対の信頼をおかれている……そんな感じだろう。
「(今頃どんな容姿で、どんな生活してるのかねー)」
最後の一段を降りたところで、僕は普段とは違ったリビングの雰囲気を感じ取った。
暗い廊下から溢れるリビングの明かり。姉貴が朝食や弁当を使っているのはわかってはいるのだが、それにしても妙に騒がしい。ドア越しでもはっきりも分かるぐらいに姉貴の声が聞こえてくる。まるで誰かと話しているような……。
「おはよう、ございます……?」
おそるおそるゆっくりとドアを開けてみると、案の定、姉貴は誰かと朝っぱらから電話をしていた。
朝から電話なんぞ、相手としたらそれこそ海外にいない限りは迷惑だろうに。
「あっ……! ―ごめん、ちょっと待ってね」
僕を視界にとらえた姉貴は、まるで僕が来るのを待っていたかのように、即座に電話越しの相手に待つよう言ってから僕の元へ駆け寄った。
「朝っぱらからこんな騒がしくしてどうしたの」
「いやっ……それは、あの……仕方ないのよっ!!」
「うるさっ、もうちょいボリューム下げて…」
いつもは僕の少しの体調の変化まで気遣える姉貴がこんなにも取り乱すなんて、余程天地を翻す出来事があったのだろうか。
「幸田ちゃん、落ち着いて聞いてね……?」
「あ、うん」
「すっっごく単純明快に言うから、びっくりしないでよ?」
「うん」
「ご近所さんのご迷惑にならないように、最低限の驚き方をしてよね?」
「うん早くして」
「あっ……う、うん! ……でね―」
その間もチラチラと電話を見ながらもその口元は常にゆるっゆるだった姉貴は、やがて何か決心が着いたのか満面の笑みでこう言った―
「―帰ってくるのよっ!!!! 奈都が!!!」
「なっ…………!?」
……うん。まあ…………その、なんだ。姉貴が事前に言ってた手前、やってしまうのも凄く気が引けるし、僕自身もうるさいとか言ったけど。これだけはやらないと済まない。というか是非ともやらせてほしい。
「……………はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっっっっっっっっ!?!?!?」
流石に常識が頭の中にあったとしても、その常識という壁をゆうに破壊するレベルの今年最大最強レベルの珍事が。この5時半という朝も朝、主婦が弁当を作り、ご老人が散歩に出掛け始めたであろうこの時間帯に発生したのだった。