寒い日のベランダ
僕が手を叩くと、その音のある方へと来てくれる。
しかし、音が無くてもそのロボットは動くのだ。まるで魂が宿っているかのように。
* * * *
俺は河原家の玄関前に立っている。
インターホンを鳴らして待っているところだ。
今日は泊まるために来たのだ。時間はまだ午後五時四十五分だ。オッサンも帰ってきてない。
ドアが開くと、香奈さんと真波が暖かく迎えてくれた。
「どうもっす」
「はい、どうぞ入ってください」
親切に通してもらい、靴を脱ぐ。
そうしている間に香奈さんは話を続ける。
「私はしばらくご飯を作っているので、真波は坂野さんと一緒にいれば良いですよ」
「でも、私もお母さんのお手伝いしたいです」
「坂野さんが一人になってしまうでしょ?」
それは嬉しい申し出だが、俺は別に小さな子供じゃないぞ。
「いや、俺は別に一人でも良いっすけど……」
「……はい、分かりました。今日は坂野さんの相手になります」
あれ、まあいいか。
微笑みながら少し浮かれた様子で言ってくれた。
そんな真波の様子に、何か勘違いしてしまいそうになった。
「それで、何の相手だ?」
いや、既に勘違いしていた。
「あ、いえ、相手になると言うのは話の相手になると言うことでして……」
「わ、分かってるよ。困らせて悪かったな」
香奈さんは何故かご機嫌そうにキッチンの方へ入っていった。
淡々と廊下を歩き、居間に入り壁の角に荷物を置くと真波が話かけてきた。
「坂野さん。今日も来ていただいて本当に良かったんですか?」
「いや、全然良いよ。どうせ家に帰っても何もないからな……」
真波に聞こえたか分からない程の小さな声で、独り言のように言った。
真波は察したのか、それとも聞こえていたのか、どっちか分からないが「そうですか」と一言だけ言って、少し離れた所に座った。
しばらくぼーっとしている間に、今日の家のことを思い出していた──
俺は特に何も考えず自分の家に帰ってきた。
廊下を通って、いつも親父が酔って寝ているリビングに入る。
そこには何も変わらず、ただいつも通りの光景があった。
部屋中に酒の瓶やら缶やらが散乱していて、汚くなっており、その真ん中で親父が寝ているのだ。
それらを踏まないようにそーっと親父に近寄る。
「親父、帰ったぞ……なあ。寝るならベッドで寝てくれ」
親父を揺するとやっと起きた。
そしてぼーっとした顔で俺の顔を見る。
「ああ。また迷惑をかけてしまったかな……」
「ッ」
だめだ、ここで逃げたら何も変わらないんだ。しかし、親父に今日は泊まると言ったって、母親に伝わるとは思えない。まず、聞く耳を持たないだろうな……どうしたものか。
俺は素直に書き置きを残しておくことにした。
書き終えると泊まるためのちょとした荷物をまとめて家を出ようとしたが、そこで後ろから声をかけられた。
「藤也くん。どこかに行くのかい?」
親父だ。
フラフラした体で壁を伝って玄関まで来ていた。
「……ああ、ちょとな」
「そうか………」
「用がないなら行くぞ」
俺は家を静かに出た。
こんなので良かったのだろうか。
もっと会話をしてから出るべきだったんじゃないだろうか。
でも、俺にはその時何も思いとかなかった。
「どうかしましたか?」
藤也がぼーっとしている事に気づいた真波が、藤也の顔を覗き込むように見ていた。
そんな普段の俺なら最高に気分が上がる状況に、藤也はやっと気づいた
「いやっ、なんでもない」
てか近いな! こういう態度をされると男は勘違いするんだよ。まったく。
とても驚いたが、あくまで平然を装った。
そんな時玄関の扉が開く音がした。それと同時にオッサンの声がする。
「香奈、真波。帰ったぞ」
香奈さんがオッサンの元に行った。
真波も香奈さんについて行くようで、ついでに俺もついて行った。
「お帰りなさい、亮さん」
「お父さん。おかえりですっ」
二人が笑顔で言っているのを見て、俺も見習ってなるべく笑顔で挨拶する事にした。
「おぉ、帰ったか。オッサン」
「ああ、ただいま。ってなんで今日もテメェがいるんだよ! 違和感がなくて普通に挨拶しちまったじゃねぇか!」
「オッサンやっぱり歳だろ。昨日のこともう忘れたのか?」
呆れた顔で言うと、すぐにオッサンは反応した。
「いや、覚えてるぞ?」
「紛らわしいわ!」
「いや、俺様はただなんで今日も玄関にまで小僧が来てるんだ? て言うことを言いたかったんだ」
少し捻くれた声で答えた。
「別に良いだろ。玄関に挨拶に行くぐらい」
「何だと! お前、香奈との時間がお前のせいで少なくなるから少しでも一緒にいようとだな……」
「亮さん…」
香奈さんはの表情は真剣だった。
「そうだ、河原さん。オッサンにガツンと言ってやれ」
俺は思わずガッツポーズをした。
「一緒にいる時間は、作ろうと思えばたくさん作れますよっ」
バタン! と音を立てて俺は床に転んだ。
くそっ、やはりこの家族はみんなこんなんなのか。
藤也が立ち上がっている最中に他の皆んなは居間向かっていった。
「なにしてんだ? オメェ。行くぞ」
俺はオッサンに手を引っ張られて居間に来た。
「さて、皆さん揃いましたしご飯にしましょう」
ちゃぶ台の上にはすでにご飯がのっていた。
どうやら俺たちがオッサンの所に行っている間に真波が運んでくれたらしい。
俺も手伝っておけばよかった。
俺たちは一斉にいただきますを言い、食べ始める。
今日はヒレカツだ。千切りキャベツもたくさんのっている。
しばらく食べていると、オッサンから話しかけてきた。
「で、お前ら部活はどうなった?」
「はい、坂野さんのおかげで、入りたい部活が見つかりました」
「そうか。意外と早かったな。で、何部だ?」
「演劇部ですっ」
「ほう、それはまた大変な部活を選んだな〜」
「じゃあ俺の役目はこれで終わりだな」
「おいおい、何言ってんだ? 小僧、貴様は俺様たちに関わってしまった以上、もう逃げられないからな」
オッサンがキメ顔で言う。
「なんで逃げられないんだよ!」
俺は思わず突っ込んでしまったが、普通言うよな?
「お二人とも、落ち着いてください」
「おお、すまないな。香奈」
ここでの話し合いは終わった。俺はまだ言いたい事がたくさんあると言うのに……。
やはり関わるべきではなかった。
ご飯を食べ終わると、今日はこの家で泊まることを思い出した。
「坂野さん、お風呂お先に入りますか?」
「いえ、先にどうぞ」
「じゃあ真波、先入りますか?」
「良いんですか? ではお先に失礼します」
そう言ってお風呂場に向かった。
しばらくして、香奈さんが居間から出ていったタイミングでオッサンが近寄ってきた。
「おい小僧。ちょっと付き合え」
そう言うと、オッサンはベランダに出た。
俺も黙ってついて行った。
外は寒かったので反射的に手に息をかけた。
オッサンがタバコを取り出すと、火をつけ、吸い始めた。
すると、オッサンが話し合い始めた。
「実はな、俺様たちはこの春に引っ越してきたんだよ」
「それは河原から聞いた」
「……娘が何故、部活をやりたいのかは知っているか?」
それは聞いた事がない。あの時はまるで聞かないでくれとでも言っている感じだったから聞こうとも思わなかった。
「いや、知らない」
「そうか、実は娘はな、身体があまり強くないんだよ。それこそ何ヶ月も休んでしまうくらいにな」
「ちょっと待てよ。今あんなに毎日元気に暮らしてるってのにか?」
「ああ。だから高校の入学式の数日後に長期的に休んでしまったってのも相あって、部活どころじゃなかったんだ。まぁ、それ以前に前の学校の部活は強制じゃなかったんだけどな」
「……そ、そうなのか…」
俺はなんて答えれば良いのか分からなかった。
ただ、返事をすることしか出来なかった。
しばらく無言でいると、オッサンが再び話し始める。
「別に無理に何かを答えようとしなくていい。俺様はな、別にお前に何かをして欲しくてこの話をしたわけじゃないからな。
ただ、知っておいて欲しかっただけだ」
と、大事な話をし終えたタイミングで家の中から香奈さんに呼ばれる。
「お二人さん、いつまで外にいるのですか? 真波はお風呂から出てきたので坂野さんはお風呂に入ってくださいねー」
「じゃあオッサン。俺は風呂に入ってきますんで」
「おお、早く行け」
すぐに身体を洗い終えると、湯船に浸かりながらさっきのことを考えていた。
オッサンの目は真剣だった。しかし、何故俺にそんなことを話したのかよく分からない。
しかし、身体が弱くてよく休むというらことは、中学生の時もよく休んでいたのだろうか。
俺なんかが関わっていていいのか?
そんな事を考えていると、思わずため息が出た。
しかし、よく考えてみると自分の家以外でお風呂に入るのは初めてかもしれないな。
風呂から出るともうやることは無くなった。
今日は泊まりで河原家に来ているのだ。
そう考えると、なんだか緊張してきた。
この後一体何があると言うのだろうか?