ある雨の日 -1-
ある雨の日
雨、か・・・・・・。
心の中でそうつぶやいた。
花散らしの雨だな。そうも思った。坂の途中にあるこのブックス&カフェ、「読むカフェ」からは満開の桜が見える。坂道に沿って寄り添うように植えられた桜の木はそのまま、卒業した大学へと続いている。新入生は桜に案内されるままに正門をくぐればよかった。
「そろそろ入学式だな。」
今度は声に出してつぶやいた。町角でよく耳にする「さくらさいたらいちねんせい」の通りだ。今年は開花は遅れたものの、気温が一気に上昇したせいで満開までが早かった。カフェから花見をしようと、先週は混んでいた。
このカフェの朝は遅い。十時の開店直後、店にまだ客はなかった。そろそろ山中が来る頃だ。あいつはいつも少し遅れてやってくる。事務スペースで前日の売り上げを確認しながら次の仕入れを思案していた。
「おはようございまーす。」
そこへ当人がいささか元気の良すぎる声で挨拶しながら出勤してきた。ちらとそちらを見やる。根元から毛先までウェーブのかかった黒髪を高い位置でふたつに束ねているのはいつものスタイルだ。緑色エプロンをしながらキッチンへやってきてリズミカルに準備を始める。正確に合わせたクオーツの腕時計を見た。
「遅いぞ、山中。」
低く響く声で事務スペースから言い放つ。目線はパソコンに落としたままだ。
「えー、そんなに遅れてますかぁ。」
カップを並べる手を止めることなく言葉を返す。
「三分遅刻だ。」
そこでやっと、遅刻常習者を視界に入れた。悪びれる様子もなく軽く肩をすくめていたので、言うつもりのなかった一言を付け足す。
「今日は岩永がいないんだから、気を抜くな。」
「はぁーい。」
裏切ってほしい期待通りの口調で返事をし、注文書をポケットに入れ、メニューを並べている。まったく、少し早く来て掃除や看板出しの作業をしようという気にはならないのか。こうしている間に来客があったら対応がスムーズに行えないだろう。心配通り、来客を告げる鈴が鳴った。
「いらっしゃいませー♪」
心配の種は焦りもせず愛想の良い声で迎える。ため息が出た。マネージャーである俺は事務机にかけたままで、大きな声であいさつなどしない。すぐに視界に入れたりもしない。自分の仕事は店の経営と管理であり、接客はフロアスタッフであるあいつの仕事。コーヒーの知識が豊富で淹れるのもプロ並みの岩永が事実上のバリスタで、キッチンを仕切る。ブックスの本の品ぞろえはオーナーである伯父の栗原とやりとりして自分が決定し、売り上げを出す。他のスタッフの意見など聞くに値しない。売れ行きのデータをみつめる視界にふと、ふわりとなびく髪が入ってくる。さきほどの客だ。カフェへ行かず、ブックスへとやってきていたらしい。あまりに静かだったので気がつかなかった。横目でその客をうかがう。平積みにした本を見つめていた。視線の動きから、何か特定の本を探しているような気配がうかがわれた。
「どのような本をおさがしで?」
本のことなら自分の守備範囲だ。売り上げを出すためにもたまには接客を通してマーケティングが必要だろう。見たところ大学生らしいし、この店の主要なターゲットだ。
「あぁ、えーっと・・・星の王子様・・・あっ、サン・デグジュペリの。原文で読みたいなぁって思って。」
穏やかな表情に意志の強い瞳。茶色がかったやわらかそうな髪がポニーテールになって揺れている。目が合うと彼女は微笑して、また本たちに注意を戻した。
「ああ、それならこちらですよ。これはオーナーも気に入っている本で。常に入荷しています。ちなみにこちらは英文。日本語ではもう読まれましたか。」
自分でも驚くほど滑らかに舌が動いた。
「はい、高校生の時に。で、原文でも読みたいなって。英語だと思ってたら、これ、フランス語なんですよね。だから、大学に入ったら絶対フランス語を取って、これを読もうって決めてたんです。」
少しはにかみながら、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに語る。そんな彼女の向こうに、山中が嫌味を言いたそうな様子でこちらをうかがっているのが見えた。「へー、かわいい女性には声をかけるんですねー」とかなんとか思っていることがすべて顔に出ている。やることがなくて暇なら掃除でもすればいい。だが今はそんなことにはもちろん関せず、続ける。
「そうですか。大学は、そこの?」
桜並木の先を指差した。
「はい、黎明。今年、入学して。」
長い睫毛に縁どられた瞳が微笑む。
「そうですか、おめでとうございます。では、こちらでよろしかったですか。」
白い装丁の【Le Petit Prince】を手に取る。
「あ、はい。」
そのまま入り口近くのレジに案内した。学生らしい鞄を抱え直し、彼女は後に続く。
「店頭分なので消費税分は抜きの価格です。」
レジを打ちながら流れるように説明した。この数年で染みついた台詞だ。意識しなくても口から出てくる。これはオーナーの考えたサービスだった。店頭に並んでいる分は誰かに読まれている可能性が高く、いわば中古なので割引するべきだという考えらしい。
「こちらでお読みになりますか。」
「え、えっと・・・ここで読んでいいんですか?」
彼女は当惑気味に問い返した。そうか、初めてのお客様なのだな。
「ええ。どれでも自由にお読みいただけますよ。お買い上げいただいた場合は一冊につき一つドリンクがどれでも無料でご利用いただけます。お持ち帰りでしたらレシートにスタンプを押しておきますが、どうなさいますか。」
初来店用の案内に切り替える。資産家のオーナーが自分の趣味を兼ねて開いたカフェだ。年齢とともに蔵書を処分することを考えたとき、ただ捨ててしまうのはもったいない、かと言って誰かに譲るにも限界がある。そこで本を自由に読んでもらえるような店を開いた。ゆっくりするためにはドリンクと軽食が必要だし、購入もできるように、ということでこういった店になったそうだ。最初は自分の蔵書だけだったらしいが、現在はこの【星の王子様】のように仕入れて置いている書籍もある。
「ええっと・・・」
彼女はしばらく思案して、
「じゃあ、今日は持って帰ります。」
「かしこまりました。」
いつもよりゆっくりとスタンプを押した。コーヒー豆の形が白いレシートの上に、赤くくっきりと浮かび上がった。
「ありがとうございました。」
黒いエプロンをただしながら見送る。レジから初めて視線をあげると、満開の桜もかすむ笑顔に出会った。
「また来ます。」
その声を認識した時にはもう、声の主は扉の向こうだった。ガラス越しに小さくなっていく後ろ姿。空へ帰る天使のようにはかなく消えていった。
まだ友だちと呼べる人もいない。でも、気持ちがよかった。過ごしやすい天気のせいもあるけど、新しい生活はいつだって気分を高揚させる。桜の続くキャンパスの石畳は両側からサークル勧誘の声がかかる。風のように受け流し、最初の教室へ歩を進めた。
だれもかれも異邦人めいた顔をして、ひしめき合う。初めての風景が脳を刺激する。教員と思われる年かさの男女が数人、これからの学生生活のガイダンスを始める。私にはあまり必要のないことだな。だって、もうどの道に進むかは決めているのだから。ただ、希望は成績の優秀な者から叶うとのことなので、気を抜かずに勉学に励むばかりだ。一年次はどの専攻の科目もまんべんなく履修し、文学部の全体を把握する。指定された科目の成績によって希望の専攻に行けるかどうかが決まる。そのほか、細かい説明があって、その時間は終わった。
真新しい学生証を使って、さっそく黎明ご自慢の図書館へ行ってみることにした。さきほどの店で購入した本も読んでみたい。赤レンガの象徴的な建物は新入生を迎え入れた。自動扉をくぐると駅の改札のようなゲートがあり、切符を入れるように学生証を通す。なるほど、この大学の学生のみを受け入れるシステムなのだ、と理解した。中はしんと静まり返り、一階は薄暗く、二階からは明るい日差しが差し込む。書架の込み合った一階へ進むと、専門書や学会誌がずらりと並んでいた。スペースを変えてもそれは同じで、一般的な小説や洋書の類は見つからない。人もまばらだ。どうやらここは専門書のみの階らしい。舞踏館のように優雅にカーブした階段を上がる。二階は三つのスペースに分かれていた。東側が理系、西側が文系、真ん中は一般図書でソファや低いテーブルがあり、くつろげるようになっている。理系フロアを一応ひとめぐりし、一番利用頻度が高くなりそうなスペースへとやってきた。お目当てのフランス文学のコーナーをのぞいても、知っている本などなかった。しかし、それらの本たちはこれから学ばれるのを待っている・・・。そんな気がした。大きく開口された窓のそばに席を取り、堕栗花はさきほどの本を開いた。するっと、レシートが落ちる。そういえば、どれでもドリンクが無料になるとのことだった。さっそく、行ってみよう。すこし小腹も空いたし、何か食べてもいい。図書館を出て、下り坂を歩いて行った。桜が優しく微笑んでいた。
☕️
桜の中に舞い降りた天使のような彼女が帰った後は、やはり山中の嫌味を聞かされる羽目になった。
「マネージャーってお客様を選んでますよね。」
「仮にそうだとして何がいけない?」
民法にも店は客を選ぶ権利があると書いてある。浅学のお前にそんなことを言われる筋合いはない。
「暇なら掃除でもしてろ。」
スタッフルームへ去っていく後姿に一瞥もくれず、事務スペースへ戻る。「何よ、えらそーにっ。」とのつぶやきは聞こえなかったふりだ。スタッフルームへ消えていく後姿に一瞥をくれる。ため息をついて手元に目線を返す。事務作業に集中しようとした視界の端で細長い白色がとろとろと動いている。
「何してる。」
「何って、マネージャーが掃除しろって言ったんじゃないですか。」
「ブックスペースには入るなっていつも言ってるだろう。」
例外が優先されることもわからないのか。なんという教養のなさだ。ブックスペースには入るなといつも言っているじゃないか。オーナーもこいつのどこがいいのか・・。
「岩永がいないんだ。何度も言わせるな。」
朝のうちにやっておくべきことは多々ある。豆や茶葉のチェック、グラス磨き、まだ時間に余裕があればサンドイッチを作っておくこともできる。まぁ、調理は岩永にやらせた方が味は良いが、段取りくらい考えても罰は当たらない。まだ掃除道具を片づけようとしないことに苛々して、さらに注意を重ねる。
「掃除はお前が来る前に、俺が、やっておいた。遅刻常習者にはわからないだろうが。」
「タイムカードもないのにどうして遅刻ってわかるんですか。」
開き直ったようにこちらを向き、モップに両手を乗せあごを突き出す。
「時計を見ればわかる。」
「スタッフルームに時計なんてないじゃないですか。」
「腕時計くらいしろ。」
まだ何か言いたそうな山中を睨んでいるとカランカラン、と鈴の鳴る音がした。岩永だった。
「真一郎!」
山中にとっては救世主あらわる、といったところか。
「どうした。まだ帰国の予定じゃないだろう。」
撮影旅行で一週間ほど休みを申請していたはずだが。時差ぼけのせいか少し眠そうな感じだ。
「早く終わったので、ちょっとのぞきにきたんですが。」
「助かった~!ちょうど準備するところだったのよ。」
「おい、岩永にばかり頼るな。それに出勤してきたわけじゃないんだぞ。」
岩永にまとわりつく山中を引き離す。まぁ、それで聞くようなやつではないが。
「いいですよ。準備だけ手伝ったら帰ります。」
「そうしてくれ。お前がいなくてもできるようになってもらわないと困る。」
そう言い捨ててデスクに戻った。
マネージャーがデスクに戻ると、さっそく話しかけてきた。
「ねーねー、今日も遅刻って言うんだよー。タイムカードも時計もないのに、って言ったらさー、腕時計くらいしろって。マネージャーの時計が遅れてない保証はあるんですかって話じゃない?」
どういう経緯か知らないが、おおかたシフトの時刻ぎりぎりに入って怒られたのだろう。
「ねぇ、真一郎。どう思う?」
仕方ないので言ってほしいであろう言葉を返してやる。
「まぁ、時計によって多少誤差はあるだろうな・・。」
「でしょうでしょう~。やっぱり真一郎ならわかってくれると思ってたんだー♪」
鼻歌交じりのウェイトレスを横目にため息をつく。確かにマネージャーが腹を立てるのもわからなくはない。おそらく開店前の準備もせず、サンドイッチの作り置きもしない。何もしていないと思われても仕方ないだろう。紅茶関係は整えているらしいが、あまり注文が入らないのでマネージャーには関心の外なのだろう。対して、あいつは自分の担当はきちんとやっているつもりになっている。
「ふぅ。」
訳もなくため息が出る。とにかく湯沸かしのケトルをセットし、コーヒーの準備をすることにした。ネルは手入れされているのか、それとも俺がいない間は使われていなかったのか、清潔を保ったまま所定の位置に眠っている。
「ネルは使ったのか。」
「え?さぁ。」
これだ。本人にやる気がないのに周囲から教えてやっても意味がないだろう。豆の入った袋が棚に整然と並んでいる。金色の分はブレンド、他の豆は緑色だ。オーナーが信頼する豆屋から仕入れている。青色はアイス用だ。開けると良い香りがして神経を落ち着かせた。少し暖かくなってきているし、作っておくか。小さく深呼吸してスプーンに豆をすくう。銀色のミキサーが出番を待ちわびている。プラグを差して電源を入れると電流とやる気がみなぎっているようだ。スイッチを押すとガリガリと騒がしい音を立てて仕事を始めた。
結局、接客も手伝わされた岩永の帰った昼前、混み出した店内は忙しい。山中にホールをさばかせ、俺は事務仕事を放り出してキッチンにいた。こう見えても案外、器用なので料理もコーヒーも岩永には劣るとしてもまずまずの腕前を披露している。鈴の音に反射してドアを見ると朝の天使がたたずんでいた。
「いらっしゃいませ。」
黒いエプロンをただして声をかけた。山中がいらっしゃいませの声に振り返る。
「こちらへどうぞー。」
入口に近い窓際の二人掛けの側で声を張り上げる。まったく、いくら両手がふさがっているからってそんな粗野な案内の仕方があるか。
「どうぞ、こちらへ。」
入口とキッチンに一番近い八番テーブルへ誘導する。反射的にメニューと水を用意した。いつでも案内ができるよう、キッチンの端、レジ側にいくつか用意しておいたのだ。これも本来ならあいつの仕事なのに。本当に気が利かない。
「すみませーん。」
「はーい、ただいま~。」
愛想の良さだけはぴかいちだな、そう毒づきながら水を乗せたトレイを右手に、左脇にメニューを挟んでキッチンを後にする。仕切り代わりに置かれている観葉植物の緑の隙間から、甘い茶色のポニーテールが見え隠れしていた。
「失礼します。」
コースターを敷き、グラスを置く。メニューは開いて客の正面にそっと差し出す。
「あの、このレシート使いたいんですけど。」
差し出されたレシートに浮かぶコーヒー豆は、まだ鮮やかな赤色だった。
「かしこまりました。お好きなドリンクを無料でおうかがいできます。」
「あの、・・・全部ですか?」
彼女は少し驚いた様に尋ねた。
「はい、すべてのドリンクが対象となります。」
それはオーナーの趣向だった。よく、★マークのついているものだけとか、○○円台の、とかいうのがあるが、あれは好きではないと言っていた。サービスとしてすっきりしないし、だいいち面倒くさいと。お得感が好きなお客様は一番値段の高いドリンクを頼めばいいし、好きなものを選びたいお客様はご自身で納得してそうするだろう。それが一番公平だ。みんなを同じに扱うのが平等ではない、というのが彼の信条らしかった。
「お決まりの頃うかがいます。」
キッチンへ戻ると、山中がマフィンに挟む卵を焦がさないようにフライパンを滑らせていた。ずらりと並んだ伝票を眺め、状況を把握する。
「おい。エッグマフィン出すのに何分かかってるんだ。」
「だって。」
「だってじゃないだろう。」
何なんだ、その子どものような言い草は。まったく、岩永が不在だっていうのに、ちょっとは手際良くやろうという気にならないのか。あいつは来月に撮影旅行が控えているっていうのに。この様子じゃ、オーナーの言う通り本当に新しくバイトを入れた方がいいかもしれないな。店の経営上、これ以上スタッフを雇うのは望ましくないが。まぁ、もともとオーナーの趣味の店だから利益を出すことが最優先ではないが。ああ、今はそれよりも。ずらりと並んだ五つの伝票。一番右から二番目のものを確かめる。アイスコーヒーだけだな。まったく、二つ同時に準備できないのか。処理能力を疑うな。まだエッグマフィンと格闘していた。ポットに入っていたコーヒーを氷の入ったグラスに注ぐ。これが作られているのは岩永の仕事だろう。次の伝票にホットミルクとクッキーとあるのを見て智秋は二つ同時処理を諦めた。うちのホットミルクは時間がかかるのだ。注文が入ってから小さな鍋で沸騰しないように温めてから、蜂蜜とジンジャーを加える。メニューには載せていないがジンジャーをシナモンに変えたり、きな粉を入れたりすることもできる。右から二つ目の伝票を引き抜き、トレイに載せ、三番テーブルへ急ぐ。
「大変お待たせ致しました。アイスコーヒーでございます。」
レース編みのコースターの上にそっと置き、伝票を留めた木製クリップを転がす。
「ごゆっくりどうぞ。」
足早にキッチンに戻りかけて八番テーブルが目に入った。伝票とペンを取り出して立ち寄る。
「お決まりでしたらお伺いします。」
後ろから声をかけられる形になった彼女は振り返りながら返事をする。艶やかなポニーテールがさらりと揺れた。
「あ、はい。えーっとカフェラテとクラブハウスサンドを。」
「かしこまりました。カフェラテはホットでよろしいでしょうか。」
「はい。お願いします。」
少しかすれたハスキーな声が答えた。伝票に注文を書き付けてメニューを下げ、キッチンへ戻る。カウンターの内側に張り付けられた数は5から3に減っていた。天使の注文を一番左に留め、一番右の、ホットミルクとクッキーに取り掛かる。クッキーはあらかじめセットされているのでそれをトレイに乗せ、ミルクを温める。次の注文がブレンドだったのでそれも同時に準備を始める。ミルクが温まるまでにコーヒーミルクと砂糖を用意する。手を動かしながらちらとホールを見やると一番テーブルのお客と目が合った。
「あのー、すみません。」
キッチンから最も離れた壁際の席から呼びかけられる。
「はい」
「コーヒー、まだなんですけど。」
女性客は控えめに主張した。
「申し訳ございません。」
そう言ってから、さりげなくテーブルを確認すると食べかけのエッグマフィンが相棒を待っているようだ。
「ご注文はエッグマフィンとブレンドでよろしいでしょうか。」
「はい。」
あいつだ。
「大変申し訳ございません。すぐにお持ちいたします。」
もう一度謝罪して足早にキッチンに戻る。
「おい、山中、どうなってるんだ。」
真ん中の注文をこなしていると思しき山中に声をかけた。
「今忙しいんですけど。」
「一番テーブルのお客様のブレンドが出てない。」
早口にまくしたてた。ホールに響かないよう細心の注意を払って。
「だって、マネージャーがやってくれてると思って。」
「俺は次の注文のアイスコーヒーを淹れてただろう。」
「あー、そうだったんですか。いつも二つ同時に処理しろって言ってるから、こっちのブレンドもやってくれてると思ってたんですよねー。アイスコーヒーって入れるだけだし。」
はあ。何を言っているのかわからない。俺がいつブレンドもやっておくと言った?
「とにかく、ブレンドを先に出せ。」
「えー、でも今紅茶淹れちゃいましたよ?」
「先にブレンドを出せと言っただろ。」
怒りに震える内心を抑えながら念のため二番目の伝票を確認する。ホットティーとアップルパイ。これだけなら先にブレンドを出しても追いつける。山中はまだティーポットの前でうろうろしていた。
「聞こえなかったのか。ブレンドだ。急げ。」
ここまで言わないとわからないか。歳だってさほど変わらないのに一から十まで指示しなければならないとは。
「マネージャー」
「なんだ」
まだいたのか。
「いえ、あの、ミルクが・・」
知らず知らずのうちに視野狭窄状態に陥っていたらしい。火にかけていたミルクが吹きこぼれていた。・・・っお前のせいでやり直しじゃないか。
「・・・っ早く行けっ。」
苛立ちが粒子になってピリピリと全身の血管を流れていく。鍋を片づけコンロを拭き、新しいミルクを用意した。クッキーは用意してあったので、そのトレイにカップを置き、シナモンを出す。横目でブレンドを出した山中が戻ってきたのを確認する。そのままの紅茶を出そうとするので、
「おい、淹れ直せ。」
「・・・はーい。」
なんだ、その間は。せっかく注意してやってるのに。だいたい、冷めた紅茶をお客様に出す気か。信じられない。ちょっと考えればわかるだろう。ミルクの火を切り、蜂蜜を溶かす。カップに注ぎ、シナモンを振りかける。六番テーブルへ急ぐ。
「お待たせいたしました。」
本当にだいぶ待たせているだろう。やや恐縮した態度を作る。客は読んでいた雑誌を閉じ、優雅に片手をあげた。
「ごゆっくりお召し上がりください。」
さっとホールを見渡しながらキッチンへ歩を進める。客の動きはない。今のうちにオーダーを片づけよう。あいつは当てにできない。まだ一つ残っていた伝票を気にしながら歩幅を大きくした。キッチンでは一応それなりの動きで注文をさばいているようだった。内容を確かめるとミックスサンドとアイスコーヒーだった。これならあいつにもできるだろう。先ほどの二の舞を演じないため、トレイにちゃんとその二つが載ってサーブされていくのを確かめる。
「ふぅ。」
ため息をつき、八番テーブルのオーダーに取り掛かる。
「カフェラテとクラブハウスサンドだったな。」
小さく独り言ちた。サンドイッチは作り置きされているし、エスプレッソもスチームミルクもほどんど機械がやってくれる。エスプレッソにスチームミルクをそっと注ぎ入れ、見栄え良くクラブハウスサンドの隣に置いた。トレイを左手に乗せるときにさっとホールを目で一周する。大丈夫だ、客の動きはない。少し余裕を持って八番テーブルへ向かった。観葉植物に隠れて顔はよく見えなかったが、きっと良い表情をしているのだろう。
「お待たせいたしました。」
トレイに載っている通りにサーブする。
「ありがとうございます。」
卓上にはすでに今朝購入されたフランス語の本が置かれていた。
「もうお読みになっているんですね。」
そう声をかけた。
「え?ええ。まだ全然読めないんですけど、なんだか楽しくて。」
「そうですか。」
紳士的な微笑を返した。一礼して顔を上げたとき、六番テーブルの客が雑誌を鞄に片づけたのが目に入った。キッチンには戻らずレジに入り、トレイを事務机に放り投げた。
「ありがとうございます。」
差し出された指先からクリップに挟まれた伝票を受け取る。ほとんど無意識にそれを開き、キーをたたく。
「ホットミルクの味、変わったんですね。」
「え?」
500と表示されたバーから目を上げる。ふんわりとした茶色のセミロングの髪に触れながらその客は続けた。
「いつもは生姜が入っていたと思うんですけど・・・。」
「ええ、そうですね。」
「やっぱり。」
財布から五〇〇円玉を取り出す。
「今日はシナモンだったような。」
しまった。あいつにかまっていたら勘違いしたらしい。確かに冷凍庫から生姜を取り出した覚えはない。
「申し訳ありません。間違えてしまったようで・・・」
レシートを渡す。細い指が受け取って、そのまま口元へ持って行った。
「いえ、いいんです。シナモンもおいしかったので。頼めばいつでもやってもらえるんですか?」
「ええ、もちろんです。」
即答した。いわゆる裏メニューというやつで、手間がかかるからあまり教えたくなかったが快く応じるふりをした。こちらのミスで端を発したこと、ここで心証を悪くするわけにはいかない。
「わぁ、嬉しい。では、次からお願いするかもしれません。」
「ありがとうございます。またお越しください。」
それからレジラッシュが続いた。
一番最後にやってきたのが八番テーブル、ポニーテールの天使だ。観葉植物の陰からレジが空くのをうかがっていたのは承知している。
「大変お待たせ致しました。」
第一声をそう発した。
「いえ。・・・忙しいんですね。」
鞄から財布を取り出しながら話してくれた。
「申し訳ありません。」
「いいんです。それに、忙しいのはお店にとって良いことですよね。」
気づかいに恐縮するふりをしながら伝票を受け取る。爪先は透明な桃色だった。
「いつもはこんなに混まないんですよ。今日はなぜか・・・」
聞かれてもいないことに言い訳した。そんな自分が可笑しかった。
「500円です。」
「あの」
彼女は財布を開けながら尋ねた。
「フリーペーパーとかって置いてないんですか。」
一〇〇〇円札を受け取りながら、釈然としない顔をしていたのだろう。彼女はさらに説明を加える。
「バイトとかの求人が載っている・・・。」
いわゆる仕事情報誌というやつだな、と思った。それは置いていないが・・・。先日のオーナーからの相談が頭に浮かんだ。今日のようなときのためにアルバイトを雇ったらどうかと言われていた。また岩永の撮影旅行があれば今回のようになりかねない。
「アルバイトをお探しですか。」
「え、あ、はい。」
「でしたら、うちで働きませんか。」
お釣りの五〇〇円玉が光った。
その日、店をたたんで裏口から外へ出ると真っ先に伯父に連絡した。彼は機嫌よく電話に出た。
『もしもし。』
「ああ、店長。俺です。」
なぜか店長と呼ばれることを好んでいて、スタッフみんなにそうさせている。店を持ったら店長と呼ばれるのが憧れだったそうだ。事実上、店長は俺で、彼はオーナーと呼ぶのがふさわしいと思うのだが。
『お疲れ様。今日は大繁盛だったみたいだね。エマに聞いたよ。』
「そうですね。ちょっと二人では手が回らない感じでした。」
『そう。それで?用件は何かな。』
何かな、と訊いてはいるがこちらの用件などすでに見当がついているだろう。そこには触れず、本題に入る。
「はい、以前にもお話していた、スタッフを増やす件なんですけど。」
赤い愛車へ歩み寄り、その艶やかなボディに体を預ける。
「うまくいきそうですよ。」
『へぇ。良い子がみつかったのかい?』
「ええ、まぁ。ですので、近く面接の日を設けたいのですが。」
『わかった。そちらの都合を調整して連絡をくれないか。』
「わかりました。」
電話を切り、乗り込む。夕暮れに染まった街へハンドルを切った。