3話 それはまるで『アリス』のように (挿絵アリ)
空を飛んでいる気分だった――。空と雲が目の前に広がっている。どこの空なのか、どうして飛んでいるのかわからない。図書館で本を開いて光に包まれて、それからどうしたのか。
分からない――……。
私の意志に関係なく、視界は上空から地上へ向かって降り立っていく。
厚い雲の層を抜けていき、地上が見え始めるとそこは新緑の大地。
美しい大地とは裏腹に大勢の兵士たちが激突し合う様を見ていた。ぼやけていた視界が段々と鮮明になり、そこが戦場だと気づく。
怒号と鉄の打ち合う音。剣や槍で斬られ突かれる生々しい音、大砲の轟音が響き煙に火薬の匂いが混じっている。
その中で、走り抜ける一人の青年男性。白馬に跨り、大勢の兵士に単騎で果敢に突き抜けていく。まるでパパのような綺麗な黒の髪。長い髪を束ね、端麗な顔立ち。
その表情は勇ましい、っていうのかな。戦場を駆ける姿は戦士、いや騎士と呼ぶのがふさわしく勇ましかった。
騎士の男性は多くの兵士に囲まれる。銃や槍、剣といった武器を向けられても物怖じ一つなく、真っすぐと見据えていた。
絶体絶命の中で彼は徐に跪いて、訴えかけた。
「アズランド軍所属の『天龍紫苑』。ドラストニア王家との停戦を求め馳せ参じました。何卒、お取りつぎをお願いしたい」
話し合いのためにやってきたと彼は言った。戦争なんて誰だって嫌だ。彼もそんな気持ちだったのかなと思いながら、理解も追いつかずに考えていると、陣の中から小さな影が彼の元へと歩いてくる。
兵士達と比べて異様な背の低さ。頭巾を被っていて、どんな容姿をしているのかはわからなかった。でもどこか寂しさを持った錆声を発していたことから、年配の人だと想像してしまう。
「天龍将軍、お待ちしておりました。このままでは内戦が続けば被害は拡大する一方です。すぐに全軍停止の呼びかけに協力していただけませんか?」
「そのつもりで参りました。ですが王家からも呼び掛けて頂けなければ、アズランドも聞き入れてはくれないでしょう。無礼を承知で申し上げます、どうか陛下への謁見を」
『紫苑』と名乗る騎士の将軍が頭巾の男性に対して跪いて懇願をする。彼はなぜか渋るように唸っていた。
どうして王様と会うことが出来ないのか。何か事情でもあるのだろうかと考えていると、戦場の声が一際大きくなった。
紫苑将軍が敵陣を突破してきたこと。彼の軍がそれに呼応していた。軍勢が勢いを増している声。それと同時に陣の奥から仰々しくやって来る一団の姿。栗色の美しい髪に鋭い目つきが印象的だった。その輝きは私と同じ碧を宿している。
「アズランドの捕虜として囚えよ」
兵を引き連れて紫苑将軍を拘束するように命じる美しい女性。そんな彼女の命を制止し、諫めようとする頭巾の男性。
「お待ちください、シャーナル皇女殿下! ! 停戦を求めてきた将軍の行動を彼らは勘違いをしただけのこと。将軍に敵対意志はないと、お分かりのはず」
頭巾の男性の訴えを制止し、『シャーナル皇女』と呼ばれた女性は彼に鋭い視線を向けて言い放つ。
「この男は王家に刃を向けた家紋の人間。王家に刃を向けるということはすなわち、王国と国民に刃を向けることと同義。その意味が分かっていて尚もアズランド家に仕えていたのでしょう、天龍将軍」
「それはアズランド家を説得するためでは…!?」
疑いの目を向ける皇女。それに対してフードの男性は紫苑将軍がアズランド家の説得に動いていたためだと訴える。彼女の説得を試みるが、先に動いたのは紫苑将軍だった。
「いえ……申し開きの言葉もございません。事実は事実です。たとえこの場で首をはねられようとも、それでも停戦の意志を示したく赴きました。覚悟の上です」
彼の目は真っ直ぐで強く、そして静かな意志の強さを感じさせるもの。
とても『裏切り者』と呼ばれるような人には見えなかった。私の心まで動かされてしまうような、誠実さが伝わってきた。
それは彼を取り巻く周囲にも伝わり、一瞬にして静まり返る。
静まり返ったその場に、目立つ足音。ゆっくりと近づいてくる足音の先にみんなが振り返る。
シャーナル皇女とは対照的に、褐色の肌、火が燃えるような赤色の髪を持つ容姿の男性。男子高校生より大人びた雰囲気の男性。
「陛下は崩御なさった。今は我々の指揮下にある」
その男性が一言、紫苑将軍は唖然としていた。
「今なんと……? 陛下が……?」
紫苑将軍は驚嘆混じりに訊ねる。褐色の男性が自分だと答えるが、続けて更なる波乱を巻き起こす言葉を残した。
「いつまでも陛下不在、という訳にはいかない。今は俺を含めた四人の内から王位継承が協議されているところだ。いや……最後の一人『五人目』が集まってからだがな」
王位継承。そして『五人目』の存在。
まるで何かの物語が今にも始まる。そんな予感をさせる場面で意識が無くなる。
あの本と鏡のせいなのだろうか。まだ長い夢を見ているような感覚だった。
本当に夢なのかな。
また眠気が襲ってくる。今はそんなことを考えることも出来なかった。
ただ、少しだけ眠りたい。
◇
眩い日の光が差し込んでいるのに気づき目を覚ます。目をこすってぼやけた視界、覚醒しきっていない頭のまま身体を起き上がらせる。徐々に頭がハッキリしてくる。自分がどこで眠っていたのか。寝ぼけたままに周囲を見渡す。
「……っ!!」
見慣れない木造の部屋、草木の香り、そしてベッドの軋む音。全く見覚えのない場所。どういうことなのか意味が分からない。
「え……どこ……!? ここ。というか図書館で本を見つけて……」
慌ててベッドから離れ、外を目指して出口を探し回る。周囲の家具、戸棚、収納スペース、テーブルに椅子、何から何まで使い古された物ばかり。随分と古い時代にあるような、どこか趣きのある風景にも見える。
外へ出ると、周囲には草木と緑が生い茂り、川のせせらぎ、鳥の囀りが響き渡る。どこかへ飛ばされてしまったのか。
自分のいた世界とは全く違う。
「ほ、本当にここはどこ……!?」
森と水辺と草木が生い茂る。美しい風景を前にしていても、感じたものは焦りと恐怖。
不安が強くなり、心臓の音が増えていく。
風景だけなら故郷のことを思い出すが、僅か数分前までは現代日本の図書館にいたはずだった。それとはまるで、かけ離れた風景がいきなり目の前で広がっている。怖くてたまらなかった。
自分さえも全く違うのではないだろうかと、不安になり、髪の毛を手に取る。いつものように銀色の髪だった。
念のために近くの水辺で、姿を確認する。いつもの自分の姿があった。それに服も、鏡でみたものではない。家から出てきた時の薄着の私服。
自分の姿を確認できても、不安は消えない。落ち着かない。
「……家に帰りたい」
涙も出てきて、帰りたい欲求が強くなる。へたり込んで、地面の雑草を握りしめていたら、背後に気配を感じ取る。
何か動いてる。振り返ると見たこともない動物がいた。小さな白い物体。
兎のように耳は長いけど、身体はイタチやフェレットのように長い。私に興味を持っているのか口元を機敏に小さく動かして、じっと見ている。
「うさ……ぎ? じゃないよね」
ウサギとは言えない。毛並みも柔らかそうだった。も恐る恐るウサギに似た生き物に触れようとすると、驚いて森の中へと走り去っていく。気になってしまい、気づけば身体が森の方へと動いていた。
あの小さな生き物を探しながら周囲を見渡す。やっぱりどう見ても見たことのない場所。というよりも森の場所なんて、そもそも覚えもなかった。
遠吠えのような動物の鳴き声が響く。好奇心が途端に恐怖変わる。やっぱりさっきの小屋へと戻った方が良さそう。周りを警戒しながら振り返ると、そこには黒い大きな影。
さっきの生き物と違い、明らかに危ない雰囲気を纏っている。黒い影は大きな狼のようにも見えた。
怖さを通り越して、目の前にいる存在に対して何も出来ない。身体を動かすことも出来なかった。だって本当に『黒い影』としか言えない。モヤモヤと湯気みたいに立ち込める、黒くて、狼のような形をしている。
私の様子をただ伺っているだけなのか、襲ってこようとはしない。首を傾げるように傾ける仕草をしながら、その場から動こうとしない。
私の服装が見たことないから興味を持ったのかな。
それとも、食べるためにいつ襲い掛かろうか様子を観てるのかな。
そんなことを考えていたら、体が動くことにようやく気付く。今まで動かないとばかり思いこんでいた。まるで金縛りにあったように。けど上手く動けず、その場で尻もちをついてしまった。
驚いた『黒い狼』が姿勢を高くする。「終わった」と食べられてしまうと思い込み、目を強く閉じてしまう。
諦めかけた、その時だった。
花火のような音が響き渡った。それが何度も鳴り、黒い狼がその音の鳴った方へと顔を向ける。
音のする方向には三人の男性。音の正体は『銃』。狩人なのか、狩猟銃として使っている銃で狼へ向けて銃弾が飛び交う。突然のことに混乱しながらも、頭を守るように抱えて地面に倒れ込む。
怖くて目も明けられなかった。銃声が止んだ頃、薄眼を開くと黒い狼は、もういなかった。
狼を逃がしたことが悔しいのか、男性の小さな舌打ちが聞こえてくる。恐る恐る顔を上げると、男性の一人が手を差し伸べてくれる。助けてくれたのかな、そんな風に思いながらお礼と会釈をした。
「あ、ありがとうございます」
彼らの姿は、明らかに現代人のものじゃない。古い、毛皮や少しボロくなったシャツのような物を着ている。
「なんでこんなところに子供が?」
そう聞かれたけれど、答えることが出来ない。むしろここがどこなのか、こっちが聞きたいくらいだよ。
「あの、ここってどこなんですか?」
「アザレストの森林地域だぞ。この先に村があるが、ここからだと歩いても一刻は掛かるぞ」
『一刻』は確か大体二時間くらいだったかな。算数の教科書で見たのをなんとなく覚えていた。歩いて二時間も掛かるような場所、それに『アザレスト森林』なんて聞いたこともない。
今が何月の何日、今年が何年なのかもわからない。何処に行けば良いのかも、今がいつなのかも何も分からない。
「なんなら町まで連れてってやるぞ」
私の様子を察した男性の一人が一緒に来るように言ってくれた。今会ったばかりの知らない人。普段なら付いて行っちゃダメとママに言われてるから断るけれど。こんな場所に一人でいるのは怖いし、不安。他に頼れそうな人もいないし、さっきの『黒い狼』と遭遇しちゃうかもしれない。
頷いて答えると私を囲むようにして、彼らの馬車に案内される。
「しかし、一人でなんでこんなとこにいたんだ?」
「というか見たこともない服着てんな」
「どのあたりに住んでたんだ?」
あれやこれやと質問なのか会話なのか、わからなくなる。正直答えようがない。
だって明らかに私のいた場所と違うし、現代の事を話しても多分わからないと思う。私も馬車と言われて、「車じゃないの?」と聞き返してしまいそうだった。
森を抜けると、少し広間に出る。整っていない、道路のような道なりがずっと続いてる。そこで馬車が待っており、何やら檻に入れた生き物を運び出そうとしていた。
私たちに気づいた馬車の主と思われる太ったおじさん、男性がやって来た。
「遅かったじゃねぇか。しかも手ぶらかよ」
声色も良いとは言えないし、なんだかちょっと意地悪そうで嫌な感じ。
「駄目だ逃げられた」と三人の狩人の内一人が答える。
「何やってんだよ」という怒気の混ざった声色が感じの悪さをより強くする。馬車の主が小言を言うと、狩人の一人に手を引っ張られた。
「え、何? 何?」
訳も分からず、されるがままに感じの悪い太ったおじさんの前に突き出される。
「こいつを売れば足しくらいにはなるだろう」
どう言う事なのか訳が分からない。売る? 私を? 考えが過るけれども、その意味がわからない。振り返って狩人の顔を見上げると狩人の一人が「悪く思うな」と呟いた。
「え、ちょっと……どういうこと」
私が問いかける前に太ったおじさんに今度は腕を引っ張られる。
痛くて解こうと抵抗するけど敵いっこない。彼も溜め息をつきながら、私を品定めするように見回す。間近に顔を寄せられて嫌悪感しかなかった。
「辺境でこんな上物よく見つけたと言いたいが――まだガキじゃねぇか。仕込むのと金になるのに時間掛けろってか」
「けど、どう見たって傷物じゃないし、イカれた没落貴族連中なら買ってくれるだろう?」
聞き間違いじゃなければ、私を売ると言っている。意味も分からないし、勝手な話を進められどうしていいか分からない。状況が掴めずオドオドしている間に、男に手を掴まれて馬車へと連れていかれそうになる。ここで連れていかれたら危険なのは明らかだった。
「イヤァッ…!! 放して!!」
こんな訳のわからない状況。助けてもらったと思っていたら、今度は売り飛ばされそうになる。とにかく抵抗しなきゃ。流されまいと、必死にもがいたけれど、頬に強い衝撃を受ける。
「一々喚き散らすんじゃねぇクソガキが!! 金にならねぇなら、てめぇから今すぐバラして豚の餌にすんぞ!!」
熱くじんじんとする頬を擦る。熱が痛みに変わる。頬を涙が伝い、怖さと痛みで声も出せなかった。
呆然と肥えた男を見ていることしか出来ない。
パパにだって殴られたことも無かった。大人の男の人に乱暴な扱いを受け、暴言をぶつけられたこと自体初めてだった。再び腕を強くつかまれて引っ張られていく。
小さく抵抗すると今度は髪の毛を掴まれる。痛みで上手く藻掻けず、馬車まで無理矢理引き摺られる。先ほどの狩人達の方に視線を合わせると、お金を受け取って喜んでいる様子が映る。
悔しさと悲しさで胸がいっぱいになって、また涙が溢れる。彼らの歓喜の声――……それが突然変わる。
「おい、やばいぞ!!」
怒鳴り声に変わる。馬の足音と、馬車の音が聞こえてくる。それがやがて大きくなり、段々と近づいてくるのがわかる。
「おい、さっさと馬車出せ!! 王都軍に見つかったぞ!!」
狩人の一人が逃走の準備を促す。馬車の主も顔色を変え、私を馬車の中に放り投げる。慌てて馬車を出す準備に移っていた。
「王都……軍?」
馬車の隙間から僅かに外の光が差している。そこから覗いてみると、確かに馬車が勢いよくこちらに向かって居ていた。
焦った様子の狩人と馬車の主。ついにはさっきの花火の音、銃声が響いた。
火薬の匂いがまた立ち込める。
それをスタートの合図と言わんばかりに馬車も走り出す。勢いよく動き出して、私も体勢が崩れて壁にぶつかる。
「嘘だろ!? もう追いついてきやがったのかよ!!」
狩人達の声をかき消すほどに激しい音で走る馬車。王都軍の馬車の方からも銃声が聞こえてくる。狩人の一人が短い悲鳴を上げた後、地面に叩きつけられるような音が聞こえた気がする。
乱暴に揺れる馬車の中で縄で縛られた手で、何かに捕まっているのがやっとの事だった。軋む音につられて揺れる度に私の身体も痛んだ。隙間から見える外の様子に少し変化があった。
こちらに向かってる一つの影。とてつもない速度であっという間に追いつき、馬車の天井に降り立つ。その衝撃と音がしっかりと伝わり、天井を駆け抜けているのがわかった。
狩人の悲鳴と馬主の叫び声。続いて銃声がいくつか聞こえたけれど、馬主の叫び声のような悲鳴が響き渡って止んだ。続いて馬車の速度が落ち始める。
大きな揺れが何度か起こり、馬の甲高い鳴き声の後、速度が落ち着き完全に停車したようだった。
外で一体何があったのかは分からない。ただ、音だけで助かったのかな、と思っていた。
そう思うしかなかった。
安心しているところに、馬車の後部の布が捲られる。眩しい光が入り込み目が眩んだ。それと同時に優しい声を掛けられる。
「お怪我はございませんか?」
声の主の方を見る。逆光で黒い影しか見えない。這うように近寄って目を凝らし、段々と輪郭が露わになる。
見たことのある、容姿。パパのような黒い髪。凛々しい顔立ちだけれど、向けられた笑みは優しく温かいものだった。その姿は戦士、いや騎士だった。
それに私は、見たことがある。
この人を――……けれども。
「紫苑……将軍……?」
彼は驚いたような表情を見せる。
私も、本当は知るはずがないのに。あの時に見た『夢』であなたを見ていた。
これが、私とあなたの『出会い』だったよね。