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年下の先輩は最強女子でした

 次の日。

 自分のベッドで目を覚まし、何度も夢じゃないよね、と、貰ったカードキーやら、机の上のタクシーの領収書を確認して溜息をつく。


 その後は重たい身体に鞭打ち、渡されたプリントにあった年金手帳、通帳、判子を鞄に入れて、電車で昨日面接した場所に向かっていた。……心身に刻まれた社畜精神が恐い。


 雑居ビルの五階……じゃなかった。改めて求人票を見たけど、DRジャパンツーリスト株式会社が正式名称らしい。


 飾り気のない鉄の扉の横に控え目に印字されたプレートを見つめて現実逃避する事一分。



 いやもう散々悩んで覚悟決めたじゃん!

 ドラゴンがお客様って事以外に問題は無い。あの暴力ドラゴン同僚が来たとしても強化されたガラスと腕輪とトモル君?が私を守ってくれる。


 あの暴力男が目の前でチョロチョロすることがあっても、恐らくガラス越し。

 それさえ我慢すれば好待遇、好収入! 残業ナシの定時は五時に賞与付き! そんな素敵な職場!


 ここに来るまでに何十回と呟いた呪文を唱えて、鞄のポケットからカードを取り出す。

 恐る恐るカードキーを扉の取っ手に当てると、昨日と同じように電子音がして、ロックが解除された。


 「おはようございまーす……」


 しーん、と静まり返った廊下に人の気配は無い。

 まだ誰も来ていないのかな。

 渡さなきゃいけない書類やら色々あるし、五條さんが詰めているという隣のオフィスを覗くべきか、少し迷ってとりあえず更衣室に入ることにした。

 制服に着替えている途中で、同じ受付の人が来てくれるかもしれないし。……決して一人で行くのが怖いとか学生の女子トイレみたいな事を思ったんじゃない。


 昨日帰り際に五條さんから貰った鍵をポーチから取り出す。更衣室自体に施錠は無いし、形状と大きさからしてロッカーの鍵だろう。

 一応ノックをしてしばらくしてから中に入る。

 予想通りまだ同僚だという源さんは来ていなかった。

 更衣室の広さはロッカー設置部分を含めて大体四、五畳くらいで、受付の部屋に比べたらものすごく普通。

 壁際に並べて二つ置かれているのはパイプ椅子だし、端に置いてある姿見は、家にあるのと同じ二○リの2980ミラーである。ものすごい落ち着く。

 ここだけ見れば、本当に普通の会社の更衣室だ。

 鍵にくっついているタグは、ナンバー四。……縁起が悪すぎる。普通は避けるよねこの数字! どうやらドラゴンにその手の配慮を求めてはいけないらしい。


 ロッカーの扉をそっと開けて中を覗けば、クリーニングのビニールに包まれた制服が掛かっていた。

 鞄を置いて広げてみて思わず、おお、と感心する。

 中々可愛い。形はスタンダードな制服ではあるけれど、細かい控え目なチェックのベストと黒一色のタイトスカートの組み合わせが上品だ。シャツは薄い黄色とピンク、水色と三色もあって洗い替えにも困らなさそう。

 少し迷って、無難に水色のシャツを手に取る。

 スカーフをリボン結びして、一緒に置かれていた名札も首に掛けて、その中にカードキーも入れておく。


『03ルート受付Tachibana Mari』

……なんだか最終勧告を受けた気分で名札を見下ろした。

 軍人さんが身に着けるドックタグ的な、ね。


 時計を見てもまだ30分前。新入社員らしく掃除でもするべきかと思って早く来たけども、掃除用具は廊下にもここにも無さそうだ。それに何より綺麗である。


 冷蔵庫があるか分からなかったから、今日はお弁当は無し。

 常温で置いておけるパンとペットボトルのコーヒーを買ってきた。

 受付があるあの部屋に持ち込むべきか手に持ったまま迷っていると、ノックの音が狭い更衣室に響いた。


 びくっと震えてた身体を叱咤して返事をすると、勢いよく扉が開く。


「おはようございます! 新人さんですよね……!」


 朝にしては高めのテンションでそう言いながら入ってきたのは、小柄な女の子だった。

 カーキのMA-1に、チェックのロングスカートを履いている今時の女の子で、短めの前髪とそばかすが可愛い。

 目が合うとぱっと顔を輝かせる。もしかしなくてもこの人が昨日五條さんが言っていた同僚の源さんなのだろう。


「初めまして。橘万里子です。今日からよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、源さんは、ひゃっと可愛い声を出して同じように頭を下げた。


「こちらこそ! ずっと一人だったから新しい人来るの楽しみにしていたんです」

 人懐っこい笑顔でそう答えてくれる。

 可愛い……。

 その親しみを感じる笑顔に緊張して固くなっていた身体が緩む。

 化粧っ気が無いせいか幼く見えるけど、正社員で働いている以上、十八歳は過ぎているだろう。

 私の一つ空いた扉側のロッカーの扉の取っ手に手を掛ける。どうやら鍵は掛けていないらしい。

 まぁ従業員少ないし、ドラゴンが働いているような会社で泥棒なんかする人いないか。


「今月いっぱいで辞めちゃうんで短い間なんですが、よろしくお願いしますね」

 明るくハキハキしていて、性格も良さそう……ここは一人で働くみたいだし、引継ぎの人との相性が、最悪だったら目も当てられない。短い間だけどうまくやっていけそうだ、とほっと胸を撫で下ろしかけて、まてよ、と押しとどまった。


 ……もしかして、この子もドラゴンだったりするんだろうか。

 ぱっと見は普通の人間っぽい。むしろ小柄な分、私より力も弱そう。


「あの、一ついいですか」

「はい。どうぞ」


 いきなり怒り出したりしないよね……と、びくびくしながら一つ向こうのロッカーを開けている橘さんに聞いてみる。


「あの、源さんは、……ドラゴンなんですか」

 私の問いかけに源さんは一瞬目を丸くしてから、噴き出した。


「違う違う、違いますよ~! 普通の人間ですって」


 そう言われて今度こそ心からほっとする。

 良かった。さすがに人外だらけとかアウェイすぎて勝てる気がしない。いや、勝負する気は無いけれど。


「あー……失礼かもしれないけど、ほっとしました」

 思わず漏れてしまった言葉だったけど、源さんは頷いてくれた。


「そうですよね。私も最初、夢なのか現実なのか訳が分からないまま仕事してましたもん!」


 あ、ほぼほぼ私と同じ状況だったんだな。そう思ってかなり安心する。


 でも分かる。私も未だに就活で疲れた脳が見せてる白昼夢説はまだ頭の隅っこにあるから。


「私も未だに夢の中にいるみたいです……源さんはいつから勤めてたんですか?」

「あ、先輩ぶってるんですけど、実は二年も働いてないんですよ。橘さん、今はまだ戸惑ってると思いますけど、蓋を開ければほんっとにいい職場ですよここ。寮完備だし、九時始まり五時終りの一年目で大体手取り三十万くらいとか凄くないですか? 私が前勤めてたトコロなんて休みないくせに十五万切ってましたよ」

 そう、私も求人広告に記載されていた給与は多いな、とは思っていた。でも、こういうのって記載してるけれど実はそんなに貰えないとか残業込みとか(本当は駄目だけど)よくある話だ。 


 それからは制服に着替えながら、思いついたままに聞いてみる。

 ちなみに持ち込んだお昼は、受付の後ろにあったキッチンに備え付けの冷蔵庫にいれておいていいらしい。でもあの豪華絢爛なキッチンでカップラーメンはアリかナシか悩ましい。

 電子レンジを始めとして、調理器具簡単な調味料も揃っていて調理も可能との事だけど、受付からいい匂いがするとかアリなんだろうか……。


 着換えた源さんと二人で更衣室を二人で出て、隣の部屋をノックする。

 すぐに中から扉が開いて、顔を出したのは五條さんだった。


「おはようございます。まりもさんも今日から頑張って下さいね」

「……ハイ」

 五條さんから労わりの言葉を掛けられても素直に受け取れない。やっぱりまりも呼びなのか。

 源さんが「まりも……?」と不思議そうに呟いた事に気付いたけれど、突っ込まれるまでは聞こえなかった振りをすることにする。

「まりも」呼びを完全に認めた訳じゃ無いですからね!


 棒みたいな返事をした私に、五條さんは静かに目を眇めた。


「あの、何か――」

「いえ、ちゃんと出社して頂けて良かったです。遅刻でもされたら、渉外部に頼んで社用車でお迎えに上がろうと思っていたのですよ」


 目が笑ってない微笑みに、この人なら本気でやるのだろうと思い知る。しかもガソリン代とか運転手代とか請求されそう。


「……というか社用車って」


 ちゃんと車だよね? 頭にドがつく生ものじゃないよね!?

 ゾッとして見上げれば,五條さんは私の問いに微かに口角を上げただけで応えた。コワイ、どっち!?

 でも散々逃げようとしたけれど、ちゃんと来て良かった。社畜精神万歳……!

 ぐっと心の中で拳を握り締めて、気を取り直して五條さんと源さんが話している間に、なんとなく部屋の中を見回す。


 ……こっちで働けたりしないかなぁ……。源さんがいる間ならともかく、あの広すぎる受付部屋は、落ち着かないんだよね。昨日暴力竜が来るまで十分くらいだったのに、すごい肩凝った……。


 朝礼もラジオ体操も無く、五條さんに朝急いで書いた書類と昨日の領収書とお釣りを渡して別れた。……一応朝来たら顔を出して挨拶しなきゃいけない、って事だ。


 源さんと「今日はいい天気でしたねー」なんて話をしながら、受付の部屋に入る。何だか昨日の騒ぎが噓みたいに思えるほど、平和である。


 そして部屋の中を見渡して驚いた。

 昨日の大惨事が嘘のように、部屋の中は元通り綺麗になっていた。

 ただ真っ二つに割れたソファは撤去されて、一般家庭に置いていそうな普通の布張りのソファになっている。部屋が豪華だから違和感はあるし、小さめだから結構なスペースが空いているけれど、あそこならお昼ご飯が食べれそうで、逆にほっとしてしまった。


「あ、ソファ代わってる……って、そういえば昨日ガザ様が暴れたって聞きました! うわーあのたっかいソファセット壊しちゃったんだぁ……橘さん怪我とかありませんでしたか」

「……あーまぁなんとか」

 そう言って言葉を濁す。

 怪我は確かになかったけれど……なんとなく暴力ドラゴンに番認定された事は言い辛い。

 でも、あの暴力ドラゴンまた来る、って五條さん言ってたしなぁ……、それよりは先に説明しておかないと、源さんに迷惑を掛ける事になるかもしれない。

 

 源さんは歯切れの悪い私の返事に引っ掛かる事なく、「災難でしたね……」と、素直に労ってくれた。

 超イイコ! 弟じゃなくてこんな妹が欲しかったな!


 そして、お昼を入れておくと言うので、昨日は立ち入らなかったキッチン部分へついていく。

 ……いや、うん。金魚の糞みたいになっているのは自覚しているけど、カジュアルダウンしたリビングはともかく、ダイニングからキッチンにかけては高級感しかないなら下手に歩けない。


 屋内用のパンプスに履き替えてはいるけれど、それでもぴかぴかの大理石の床に傷をつけてしまいそうで申し訳なくなる。


「あ、私妊娠中なんで、ちょこちょこご迷惑かけちゃうと思うんですけど、宜しくお願いしますねぇ」

「え……!?」


 ガラガラの冷蔵庫にお弁当を入れて扉を閉めた源さんが、さらっと爆弾を落とした。

 十代でも通りそうな源さんの幼顔とのギャップに驚いて思わず声を上げた私に、源さんは少し頬を染める。

 結婚してたんですか、と聞きかけて今時は色んな事情があるしな、と口を閉じる。女社会、何が地雷になるのか分からないのは前の会社で痛いほど経験済みだ。

 ああでも納得した。だから昨日病院だったんだ。……怪我とかじゃなくて良かった。

 

「えへへー赤ちゃん出来ちゃって」


 照れたように笑う源さんに空気が和む。ほんわかしていて、ダンナさんは幸せだろうなぁとうらやましくなる。


 でもなるほど。だからこの会社辞めるのかな。さっきいい会社だって言ってたから、それならどうして辞めるのかな、ってちらっと思ったんだけど、納得した。

 仕事でも先輩だけど、人生での先輩でもあるらしい。

 出産育児とこれから色々大変なんだろうけど、目の前の源さんからは幸せオーラが出ていて、純粋にいいなぁ、と思う。


 多分、この感じだと旦那さんと上手いこといっていそう。

 いや、ね。そりゃ私もイイ歳だし結婚とかいつかはとは思ってるけど、現在それどころじゃない上に彼氏もいない。作る元気もない。--そういや、番設定されたな、と嫌なことを思い出して慌てて首を振った。


 でも妊婦さんが働ける位、平和な職場って事なんだよね。源さんが辞めるまで一ヶ月……。そのあとは一人でこの落ち着かない受付で勤務しなくてはならない。 

 それまでに私もこのファンタジーな世界に慣れるだろうか。……慣れたくないなぁ……源さん、退社じゃなくて産休と育休にしてくれないかな。

 やっぱり定員は一名って決まっているんだろうか。あ、じゃあ私は辞めても良くない? 五條さんと約束したのはとりあえず一年間だからちょうどいい。


「……」

 そう思いついたものの、またそれを初対面の人に頼めるかと言うと話は別だ。むしろ他人の都合で一度決めた退職を覆すなんて有り得ないだろう。

 ……現実を見ようか私。

 むなしくなって頭を切り換え、笑顔を作った。


「おめでとうございます。何か月ですか?」

「えっと……まだ三か月なんで、全然自覚ないんですけど。あ、よかったら一子って呼んで――あ、しまった。旦那さんに駄目って言われてたんだ。寂しんですけど、源って呼んでくださいねぇ」

「……分かりました」


 同性なのに名前呼びも駄目だなんて、束縛の厳しい旦那だな。

 結婚に憧れなくもないけど、そういうタイプなら遠慮したい。


 二人で並んで受付スペースに入る。

 腰を落ち着けて暫くすると、どこからかチャイム音が鳴った。

 そして同時に目の前のガラス壁の向こう側のシャッターが自動で上へと上がっていった。


『ゲートが開きました』


 受付に響いたアナウンスに背筋を伸ばす。小さな足音と共にやってきたのは、人間年齢でいう所の四十代くらいの男の人と四、五歳……まだ小学校に上がる前くらいの小さな男の子だった。


 なるほど、予約票に小さい子が混じってるなぁと思っていたけど、親子連れだったらしい。

 書類を一番上にしてちらりと目的欄を覗く。仕事と観光。お父さんの出張のついでに親子旅行みたいな感じかな? ……なかなか平和である。


『あ、おねぇさん増えてる』

 ぴしっと指を差した子供をお父さんらしき男の人が注意する。

 そんなやりとりも微笑ましくて癒される。世界が違ってもこういう親子の関係って変わらないんだなぁ、ここに来て初めて共通点を発見してしまった。

 こほん、と咳払いして、通話ボタンを操作し、マイクに口を近付ける。


「大丈夫ですよ。こんにちは」


 子供受けする笑顔ってどんなんだっけ? と思いながら適当な愛想笑いをする。うん、めっちゃ不審な顔されてる……!


「ヤナ君。久し振り。大きくなったねー」


 書類をバインダーにはさんでいた源さんがにこっと可愛い笑顔で後を引き取ってくれた。男の子の名前はヤナ君というらしい。怒られて尖っていた唇がちょっと引っ込んだ。


 やるな、源さん。

 女の子みたいに可愛らしい顔立ちをしているけど、格好から察するに男の子だろう。そんなヤナ君の服装はお父さんのスーツに合わせたのか、よそいきっぽい紺色のズボンにシャツとニットベストだ。


『……大きくなった』


 さっきとは違ってもじもじしながら、お父さんの後ろに隠れる。あ、なんか憧れのお姉さんを前にしたみたいな感じ。いやぁ分かる。源さんほんわかしていて可愛いもん。

 可愛いやりとりに頬が弛む。この子のおかげでいい感じに緊張がほぐれた。


 ……えっと、『お姉さんが増えた』って言ってたから、少なくとも初めての利用ではないのだろう。


「今日からこちらの担当になりました橘と申します。宜しくお願い致します」

『こちらこそ宜しくね』


 そう挨拶して会釈すると、お父さんの方が穏やかな微笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。物腰は柔らかい。多分ガラスがなかったら手を差し出して握手してくれそうな上品な雰囲気だ。


 やぁ……この人ホントにドラゴンなのな。ヨーロッパ系の顔をしているし英国紳士と言われた方が説得力がある。

 そんな彼はこちらが言う前に慣れたように腕輪を取り、先に子供につけようとする。


『えーこれやだ。何もできなくなっちゃうもん』

 マイクを通して小さく聞こえた声に、なるほど、と心の中で頷く。

 力を押さえる為の腕輪って言ってたもんね。普段の感覚からすると言った通り何もできなくなるのだろう。子供なら尚更不安に思うのかもしれない。


 私には聞こえない声でお父さんが男の子を宥めている。けれど、ついさっき怒られた事も響いているのか男の子は狭い廊下を逃げ回りはじめた。お父さんは追いかけるものの困り顔だ。私と目が合うと『すみません』と言ったのが口の動きで分かった。……ドラゴンなのに謙虚である。


 男の子は素早くお父さんの腕をすり抜け――ちょうど窓口の下の縁に潜ろうとした所で、源さんが話しかけた。 


「ねぇねぇ」

『……!』

 ちょうどスピーカーの真下だったのだろう。びくっと身体を起こした男の子は振り向いて声を掛けた源さんを見る。


「日本のどこに行くの?」

『……いろいろ行く……』


 ちょっと警戒しながらもヤナ君はそう答えた。

 源さんは敢えて尋ねずに、どこだろうなぁ、と考えるように間を伸ばして呟く。

 すると、おずおずと顔を出したヤナ君は超有名なテーマパークの名前を口にした。

 ……夢と魔法の国出身のドラゴンが行って楽しめるのだろうか……。子供だましとか言ってキレて、ドラゴンブレスとか吐いたりしないのかな。


 一抹の不安を覚えるものの、そんな私の心中なんて気付く訳もなく、源さんは男の子の顔を覗き込むようにガラスに近づくと「危ないから触れないでね」と伝えた。


「お姉さんも行った事ないから、次会った時楽しかったか教えて貰いたいな。お願いできる?」


 お願い――子供はこの言葉に確かに弱い。

 ちなみに愚弟にもこの言葉の効果は覿面だ。ただ最後まで覚えているかどうかまた別の話で――いや、もう愚弟の話はやめておこう。


 源さんはとどめとばかりに、にっこり笑って男の子を見る。文句なしのエンジェルスマイル。


『……いいよ』

 ちょっとの間を空けて、男の子は源さんを見上げて頷いた。


「じゃあ、自分で腕輪つけられるかな? 早く行った方がいっぱい楽しめるもんね?」

『うん!』


 おお、お見事……!

 保育士さんにもなれそうな子供のあしらい方に、ただただ感動する。


『助かりました。有難うございます』

 駆け寄ってきたお父さんに、源さんはにっこり笑う。


 男の子がつけようとしているのをお父さんが手伝おうとしたけれど、男の子はそれを拒否して自分でつけると、源さんの方に腕を上げて見せてくれた。早かったね! と源さんが重ねて褒めると、得意気に笑ってまだ着けていないお父さんを急かし始めた。


 現金だなぁ。

 ちなみに私は子供は嫌い……じゃないけど、どちらかというと苦手である。 

 違うな……苦手というよりはどう接したらいいか分からないっていう感じ。親戚に小さい子供はいないし、友人も類友ばかりでほぼお一人様だ。実家はともかく、これまでは単身者用のワンルームのアパートに住んでいたし、これまで子供と関わる機会があまり無かった。

 ……下手なこと言ったらすぐ泣かれそうで怖いのである。


 だからこそ熟練の保母さんみたいな源さんの神対応に、私は心から感心してしまった。

 お父さんの方は苦笑いして、腕輪をつける。


「機械に腕輪を向けて貰えますか」

『はーい!』


 どうやら身長が届かなかったらしい、お父さんが背中から抱っこして認証させる。お父さんも子供も同じ青色の鱗が一瞬浮かんで消えた。

 ほのぼのしたやりとりの後、モニターを見るとはもちろん「可」。


 源さんが言っていたのを真似をして「良い旅を」と呟くと、「有難う」と紳士は返してくれて、ヤナ君は小さな手を振って扉の向こうに消えていった。


「可愛いなぁ……」

 見る分には、そう思う。

 ……あれくらいだったら、ドラゴンになったらどのくらいの大きさになるのだろうか。

 そう結局ドラゴン姿を見ていないから、いまいち異世界だとか、ドラゴンだとか言われてもピンと来ないんだよね。

 でも見たいかと言うと……うーん、微妙だな。怖いけど、もしもの時の為に一度くらいはドラゴン姿を見て慣れとかなきゃいけない気もする。

 一回くらい五條さんに頼んで見せて貰ってもいいかもしれない。


 源さんからヤナ君達の情報が記載されたバインダーを受け取る。その写真を見て改めて溜息をついた。

「源さん凄いですね……」

「え?」

「私一人だったら、あの子まだへそ曲げたままですよ。普段全く接点が無いせいか、お子さんへの対応が分からないんですよね」


 前の会社は子供が来るなんて無かったけど、ここは頻繁に来るのかな? だとしたら、源さんが辞める前になんとか対応を学ばなければ。


「いいお母さんになりそうですよね」

 こんなお母さんならきっとお腹の子供は幸せだろうなぁ、と思う。

「え、あははっ。大袈裟ですよぅ」

 照れながら両手を振る源さんに、私の頬は弛みっぱなしだ。子供以上に源さんに癒されているかもしれない。


 そしてデータの入力を横について教えて貰う。これは昨日五條さんを見ていたので特に問題はない。


「凄い。入力するの早いですね」

「前の会社の日報とか全部パソコン入力だったんですよ。今時はタブレットだしこれからはあんまり役に立たなさそうですけど」

「私パソコン苦手なんですよね」


「あー前の会社の後輩も言ってましたよ。今なんでもスマホとかタブレットですもんね」

「そうなんですよねー。あんまりパソコン触る機会が無かったかも。あ、フリック操作の早さだけは自信があります」

 

 そっちの方が器用ですよ、なんて言いながらお客さんを捌いていく。  

 今日は全部で十五人、大体いつもこれくらいで、春になると少し増えるらしい。

 最初の親子連れ以外は、お年寄りや壮年の男の人で爽やかに挨拶してきたり、無口だったりとしたけれど、特に問題はなく暴れるような人はいなくて、ほっとした。


 二人なので、自然と源さんがお客さん対応、私がその間にデータ入力と分業制になるので、仕事はさくさく進む。

 常連さんらしき人には、源さんはちゃんと私を紹介してくれた。

 みんな源さんが辞めるのを残念がっていて、いい人オーラはドラゴンにも通じるらしい。


 ……前の会社で私が辞めるっつっても『あ、そうなんですか。まぁ年齢的にキツいもんね受付』とか言いやがった取引先の営業マンがいたな。

 隣にいた私と同年代っぽい同僚(女の人)に殺人光線送られていたけど、ヤツは無事に会社に戻れただろうか。


 あっという間に十二時を過ぎ、源さんは机の上に休憩中のプレートを立てた。パソコンも離席中モードにする。


 交代でお昼休憩を取ると思っていたけど、受付業務も無いし、そもそも普段一人でやるんだから、一緒にとっても問題はないのだろう。


 なかなか仕事中には聞けないドラゴン世界の事を聞く良い機会だ。


 源さんのお弁当は彩り豊かで身体にも良さそう。一口サイズのおにぎりは全部種類が違って手が込んでいる。


 思わず美味しそう……と呟けば、その小さなおにぎりと、綺麗な焼き色の卵焼きを分けてくれた。

 卵焼きを口に含むとふわんと上品な出汁の香りが広がる。

 感動してしばらくそのまま噛まずに味わってしまったくらいの美味しさだった。


「ほんっと美味しい……これ源さんの手作りですか?」


 さっき寮がどうとか言っていたから一人暮らしなのだろう。それでこのクオリティは凄い。え、私? 仕事一筋だったアラサーの料理スキルなんてほぼほぼゼロである。聞いてはいけない。


「これうちの旦那さんが作ってくれてるんです」

「え! すごい!」


 何その高スペックな旦那! 

 心の狭さも、チャラになりそうな素敵スキルだ。


「いやむしろ何もさせてもらえないんですよねぇ。料理はおろか洗濯掃除まで全部旦那さん任せです」

 うわ、なんだそのスパダリ……!

 心の底から羨ましい。どこにいるんだそんな高スペック男子。


 ……あれ?

 しかし源さんの表情は、言葉ほど弾んでいない。

 ……もしかして自分のことは自分でしたいタイプなのかな。

 妊娠中ってちょっと情緒不安定になるって言うし……。

 実はあんまりうまくいってない? 

 そんな事を思っていたら、途中で源さんは少し言い辛そうに箸を置き口を開いた。


「朝言った一ヶ月で一応予定をしているんですけど、もしかしたらもうちょっと早まるかもしれないです。旦那さんからもっと早く辞めろって急かされるんですよね。ほんっとに心配性なんだから。……お前はもう部屋から一歩も出るな。食事もお風呂も全部俺が面倒見てやるなんて言うんですよ」


「……」

 ……返事に困る。

 それってナチュラルに監禁じゃないの……?

 束縛、監禁、ヤンデレ……そこまで考えて、もしや、と思いつく。


「もしかして源さんの旦那さんってドラゴンですか……?」

「あれ? 言ってませんでしたっけ」


 聞いてない! ……いや? もしかして間接的に聞いたかもしれない。


 昨日五條さんに番について説明して貰った時に、ここで受付業務にあたれるのは、魔力がほぼゼロの人間だって言っていた。そしてそんな女の子は強大な力を持つドラゴンの番になる事が多く、--源さんだってそんな条件に当てはまるのだ。


 ここで二年働いていた源さんが、ドラゴンに番認定されてもおかしくない。

 え、つまりは結局カップル成立は免れないってこと?


「あの……っその番って逃げられないんですか?」

「え?」


 源さんの目が驚きに見開かれる。

 それに気付いて私は慌てて首を振った。


「あ、違います……っ源さんの事じゃなくて」


 そう言って言葉を重ねようとしたその瞬間、ガラスの向こうから刺すような視線を感じた。

 反射的に顔を向けるとガラスの向こう――狭い廊下の端にある観葉植物の植木鉢の影から、こちらを睨み付ける男と目が合った。


「っひ!」


 身体全体から醸し出ているおどろおどろしさに、思わず悲鳴を上げると、源さんがばっと後ろを振り向き「アル!」と声を上げた。

 アル……、って呼んだよね。え、知り合い? でもなんかヤバいオーラ出てるよ!? 

 源さんが立ち上がってガラスに触れると、男の表情が劇的に変わった。別人としか思えないほど、甘ったるい表情を浮かべて、いそいそとこちらに寄ってくる。


『朝元気がなかったから迎えに来た』


 マイクを通して放たれた声は、低くも高くもなく――だけど胸やけしそうな程、甘い。


「そうなの。有難う。でもまだお仕事中なの」


 しかしまぁそれに答える源さんは、平常通り。ああ多分、こちらの方が源さんの旦那さんなんだろう。


 しかし、ドラゴンの顔面偏差値高い。


 五條さんやトモル君とはまた違う趣の美青年だ。真っ白な肌に銀髪。薄氷の瞳がよりいっそう神がかった雰囲気を際立たせている。

 しかし源さんの言葉一つ一つに大事に頷くその姿は、『好き』オーラがダダ漏れだった。


『そうだろうと思って、お前がすぐ帰れるように俺が『まにゅある』とやらを作ってきた』


 えー……と……マニュアルってなんだ。旦那さんはここの関係者なの?


 男の話す内容に首を傾げたのも束の間。


「……私そんなの頼んだかなー?」

 男の言葉に少しの間を置いてから、源さんがこてりと首を傾げた。可愛らしい仕草なのに、声が恐ろしく低い。


 そんな源さんに驚いた私以上に、男――アルさんと呼ぼう、彼は一歩後ずさり唇を戦慄かせた。


『俺はお前の為を思って…!』

「ふふふ。有難うーでもこれは私のお仕事なのよー? 余計な事したら家出するよ」

 ことさら可愛く一気に言い切った源さんの言葉はかなり物騒である。 そんな源さんを凝視したまま、アルさんは固まり、そして、

『ぅ……冗談でも言うな……』


 顔を手で覆う素振りすら見せず、ぼろぼろ泣き出した。


「……」

 うわぁ……ないわー鼻水出てるじゃん、イケメンでもコレは引くわー……。


「あ、橘さん引かないで下さいね。大きなお腹抱えて、そんな演歌みたいな逃亡生活しませんって! この人隙あらば私の仕事取り上げようとするんですよ。しかも普段やってる私より完璧だから腹が立つんですよね。……ちょっと注意しただけですから」


 気にしないでください、と可愛らしく笑う源さん。

 監禁が標準装備の劇薬系ヤンデレかと思ったけど、どうやら力関係は源さんが上らしい。


 かなりほっとして改めて挨拶するかとアルさんを見れば鋭い眼光と同時に--青い閃光が放たれた。ばしっと目の前のガラスに何かぶつかって弾ける。私の目と鼻の先で白い煙が余韻のごとく細く上がっていた。


「っひっ……」

「早急に引継ぎを完了しろ……」


 ちょっと顔のギャップがおかしいんですけどこの人! 涙でべたべたな癖に殺人犯ヅラしてんだけど! 

 私見ただけじゃん! ガラス直しててくれて良かった。無かったら普通に顔に穴が空いてたからね!


「アル!? あんた初対面の人になんて事するの!?」

「わ、悪かった! っだから怒らないでくれ!」


 アルさんは慌ててそう言って土下座する勢いでガラスに手をやった。ばちっと電流みたいな光が向こう側で弾ける。


 うわ、もしかして向こう側って電流が流れてる? 昨日あの暴力ドラゴンか触れた時は何も起きなかったような気がするから、より強力になった部分はこの電流なのかもしれない。


「ああもう離しなさい! 橘さんすみません。これ以上揉めると色々長くなって面倒なので、今日はここで早退しますね。五條さんにも連絡しときますんで。きっちり調きょ――いえ、話し合ってきますので、明日からよろしくお願いします」

「調……ハーイ。お疲れサマでした」


 ここで留守番、なんか怖い気がするけど、明らかに調教って言おうとした源さんに逆らうほど私は命知らずじゃない。


 腕時計の針は五時まであと十分も無いし、お客さんももう来ない、って言っていた。ここに座っているだけなら出来るだろう。

 結局心配していた暴力男は来る気配は無いし、身を持って体験したこのガラスの頑丈さを信じよう。


「お客さんが来たら、少し待って貰って扉に戻って、五條さんを呼べばいいですよね。パソコンのシャットアウトとか戸締りとかどうすればいいですか?」

「そうですねっ。それでお願いします! パソコンは普通に終わらせて……えと、あとこれ更衣室の鍵です! 戸締り関係は五條さんにお任せで大丈夫です。時間になったら朝と同じ感じで自動でシャッターが下りますから。――っほら! アル、さっさと手を離しなさい! 実家に帰るよ!」

「嫌だ! かえ、けっ……ない……っ」


 もう駄々っ子化しすぎて、嗚咽で何を言っているのか分からない。……源さん、どうしてこんなんと結婚しようと思ったんだろう。謎だ。イイ子っぽいし、今からでも止めとけば、って言いたいけど、それバレたら、私この世から抹殺されそうな気がするな……。

 しかし、ヤンデレとかロクでもない嗜好である。調教……いやいや矯正して治るものならば治した方がいいだろうから、源さんの手腕に未来を託そう。


 いや……私だって息抜きにちょこちょこやってるスマホの乙女ゲームで、ヤンデレを攻略した事もあった。ヒロインが好きすぎて嫉妬とか独占欲にかられて思わず……みたいなの、羨ましいなんて思っていたけど、現実では夢破れるくらい他人迷惑な自己中なんだな。


「じゃあ、すみませんけど、宜しくお願いします。お疲れサマでした!」

「お疲れさまです」


 源さんはイイ子だったけれど、出来れば旦那には関わりたくない。

 それにしても源さん強い。さっきまでの印象が百八十度替わった。

 また明日よろしくお願いします! と、お日様笑顔で手を振る源さんと、氷点下のアルさんの視線を体半分ずつという温度差激しい苦行を受けながら、私は例の非常用出口から制服のまま出ていく源さん達を見送った。……鍵は掛かっていないらしい。 え、開かずの間じゃないの!?


 それから何も起こらず無事に定時となりほっとしたところに、どこからかチャイムが鳴り響いた。


「……っ」


 多分、普通に定時のチャイム、よね?   

 過剰に驚いてしまい、跳ね上がった心臓を押さえる。

 そしてしばらくしてから、ゆっくりとシャッターが下りて来て、完全に向こう側がみえなくなった。

 手持無沙汰に机の上に置いてあった書類を脇にまとめていると、源さんが連絡してくれたのか五條さんがやってきた。どうやら迎えに来てくれたらしい。


「上がって下さい」と言われて、コンマ一秒で立ち上がる。


 --とりあえず、一日目は無事業務終了。







『ねぇねぇ、職場に可愛い子いるー(*´д`*)?』

「いるよ。もうすぐ結婚するけど」

『マジで((((゜д゜;))))! 人妻とか滾る! サイコーじゃんID教えて!』

『分かった。明日聞いてくる』


 旦那のな!

 もうお前もこんがりヤンデレビームで焼かれてしまえ!





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