秘密のはなし
同席すると騒ぐ斗真をトモル君と五條さんに任せて、私達は受付から一旦ビルの外廊下へと出た。
無言のままガザ様は隣の部屋のカードキーを開けて中に入り、慣れたように入り口の脇にある部屋の照明スイッチを押す。
チカチカと何度か飾り気のない蛍光灯の明かりが明滅してから、ぱっと部屋が明るくなる。
「眩し……」
思わずそう呟きがら何度か目を瞬くと、ガザ様がぱっと私の前に立って光を遮った。
「目が痛むのか?」
心配そうな声音に、大袈裟な、と苦笑して首を振る。慣れた頃にガザ様の陰から出て、部屋の中を見回せば、前回と違い奥一面はきっちりとカーテンが引かれていた。
ぽつんと置かれたソファセットが目に入り、閉められたカーテンも相俟って、初めてここに来た時を思い出した。
あれからもう一ヶ月以上も経つんだなぁ、と時間の流れの早さに改めて感心する。
「――マリ」
後ろから呼び止められて慌てて振り返る。
あちこち見回している内に私の前に立っていたガザ様が、いつのまにか追い越していたらしい。
「あ、ガザ様すみません。えっと……お話ってなんですか?」
話か……話って、やっぱり『番』についてだよね?
……あまりにも私が抵抗するから、番宣言取り消しとか?
もしくは危機管理が甘いとか怒られるのだろうか。……うん、それはまぁ受けよう。確かに自分から鍵を開けて二度とも攫われるとか猛省すべきである。
ゆっくりと目の前にやってきたガザ様を見上げて、覚悟を決める。
反射的に俯いたけれど、――予想外にも落ちてきたのは怒鳴り声なんかじゃなかった。
「――ここに弟はいない」
落ち着いた、静かな声。ガザ様らしくないゆっくりとした声音だった。
「……え?」
そんなの見たら分かるけど。
そっと顔を上げてから、ガザ様の言葉の意図が掴めなくて首を傾げた私に、ガザ様はちっと舌打ちして頭を掻き毟った。
「だから……っ」
「わっ」
ぐい、と頭を引き寄せられて、つんのめる。そのまま倒れ込んだ身体ごとガザ様に抱え込まれてしまった。
「ちょ……っ」
戸惑うよりも先に、ぽんぽんと軽く頭を撫でられて身体が固まる。
引き寄せられた腕とは百八十度違って壊れ物を扱うように、どことなく辿々しい。いつかと同じだけど少し成長を見せていて、指が髪を引っ掛ける事もなくて、ただただ労るような動きだった。
「突然得体の知れん魔物に攫われたんだ。怖くない訳ねぇだろ。さっきから黙り込む度に手ぇ握りしめてる。ほら、開け」
ガザ様に促されるまま自分の手を見て、びっくりした。
だってガザ様の言う通りぎっちぎっちに握りしめていた左手は白くて感覚がなくなっていた。
「で、唇も噛むな」
ぐ、と込み上げた嗚咽を噛み殺す前に親指が唇に置かれて、強引に差し込まれた。
しょっぱいのは頬を伝った私の涙らしい。いつの間に、と驚いて顔を背けると、指は慌てたように引っ込んでいった。
だから不意に優しくすんの反則だってば……!
何しろしっかり者の私は甘やかされるのが苦手なのだ。――苦手? 違う、慣れないだけだ。いつだってお母さんの手は手の掛かる弟のものだったし、私だってそれでいいと思っていた。『弟の面倒を良く見て偉いわね』と、褒めて貰えるのは好きだし、そんなしっかりした自分も気に入っていた。
――だから本当はこんな甘やかされ方は不本意なのだ。
だけど。
「……もぅ、……、っ……っふ、……ぐ、んんっ」
獣か、と言われそうな喉を擦るような唸り声が自然と出ていた。
「こら、また力入ってる」
腕を取られてガザ様が自分の首に回す。反射的にしがみついたと同時に膝を掬い取られて横抱きにされる。
そのままソファに向かったガザ様は私を抱っこしたまま、そっと腰を下ろした。
泣き顔を見られたくなくて、座ってからも自ら首に齧りつき、胸に頬を押し付けた私のしたいようにさせてくれる。深い森の香りは、やっぱりどこか懐かしい。
「ほら、怖かったな。もう全部終わったから」
「……こ、……わ、……った……に決まってる……!」
噛みつくように吼えて後悔した。
ああ、なんて可愛げのない。
いや、分かってるよ! 分かってるけどさぁ!
今さら甘ったれた言葉なんて出せないんだよ。
しゃくり上げながら、掠れた小さな小さな声で本当の感情を吐き出す。
だけどさすがのドラゴンの聴覚。
口の中だけでモゴモゴ言ったような言葉すら、ガザ様はすぐに頷いて頬をこめかみに押し当てて「そうだな」と同意してくれた。
うそつき。
戦闘狂で怖いものなんてないくせに。
そもそも高いところも苦手だし、他人に本気の殺意を向けられことなんて初めてで、あんなに――簡単に自分の人生が終わるなんて考えた事もなかった。
ほんとはあの時。
ガザ様が来てくれて、顔を見た途端ほっとして、泣きそうになった。だけどすぐに斗真が来て、涙が引っ込んだ。
もうほぼ反射だ。
斗真に大泣きを見られるなんて、そんなみっともない事は出来ないから。
だけどそんな一瞬の場面を、ガザ様は気付いてくれたらしい。
その上でこうして気を遣って呼び出して、斗真から離れたとことで、泣いてもいいと言ってくれたのだ。
ガザ様の気遣いなのか優しさ?
違う。私が本当に望んだものがガザ様には分かったのだ。
「う、う、うう……〜っ」
ガザ様の事はもう嫌いじゃない。
真面目で優しい優等生タイプが好みなはずだったんだけど、そんなのが吹き飛ぶくらい、自分だけを見てくれていたガザ様に惹かれている。
そもそも普通にガザ様と出逢っていたとして、あれだけ毎日好きだと言われてちやほやされていたら、きっととっくに靡いていただろう。
私はそれほど強靭な精神の持ち主じゃない。向けられる信頼や好意には流されやすいし、なんだかんだと甘っちょろいのは一番自分がよく知っている。
それが分かっていたからわざと無視して殊更冷たく接した。仲良くなんてなりたくなかった。
でも怖い。ガザ様じゃなくて取り巻く環境の変化だとか予想できない未来とかが怖いんだよ。慎重でチキンだし、石橋は叩いて渡るタイプだし!
子供のように腕で涙を拭いた。
ずっと聞きたかったけど聞いてしまったら期待させてしまいそうで、聞けなかったドラゴンの事。
でも泣くのを我慢したあの一瞬すら見逃さず、私の斗真に対するつまんないプライドまで大事にしてくれたガザ様なら、――私の意見も受け入れてくれるんじゃないかと思った。
「ガザ様」
ひどいがっさがさの声。
あ、上手いこと言った訳じゃないからね。
「……一つ聞きたい事があるんですけど」
「なんだ」
抱き込んだままガザ様は少し緊張した声で応える。体勢が体勢だけに筋肉が強張ったのが分かる。
「ガザ様は二百歳なんですよね? ドラゴンの平均寿命って幾つくらいなんですか?」
「……大体六百くらいだな」
すん、と鼻を啜りながら呆れて笑ってしまう。相変わらず規格外だ。
「……ご存知かと思うんですけど、人間の寿命って、八十九十です。結婚しても一緒にいられる時間は少ないし、私はドラゴンみたいに変化は出来ないし、だんだん年老いてくると思うんですけど。それでもいいんですか?」
訝しげに私を見つめるガザ様。
なんだが答えを選ぶように何度か口を開いて閉じてを繰り返してから、彼らしくもなく慎重に言葉を続けた。
「……番になればオレの寿命を分ける事が出来るし、見た目もコントロール出来るようになるから心配はいらない。――が、オレ自身はマリが若くても年老いても気にならない」
後から付け足された言葉の返事は難しい。
卑怯だな、と思いつつも私は質問を重ねる。
「……じゃあ逆に人間世界で不自然じゃないように老けて見せる事も可能だって事ですよね」
「そうだが……ドラゴンの世界に来れば、誰もそんなこと気にしない」
不機嫌そうに眉を顰めたけれど、これは普通に疑問に思っている時だ。なんだかんだと私もガザ様のことをよく見てたんだな、と笑い出したくなってしまった。
「私、例えガザ様と番になっても、おばあちゃんやお母さんを看取るまではこっちの人間の世界にいたいって考えてます」
正直斗真はあてにならない。
あいつは、どこでだって生きていける気がする。
静かにそう言った私の言葉に、ガザ様は赤い目をまん丸にした。かなり驚いているようで、言葉も出ないらしい。
「……例えば、の話です。だけどそれが最低条件でもあります」
胸から顔を持ち上げる。
ガザ様の赤い瞳は僅かに瞠られて、ぱち、と一度ゆっくりと瞬かれた。
「そんな事でいいのか」
「え、でもガザ様王族なんですよね? こっちの世界で暮らすなんて許されますか?」
「用事がある時だけ向こうに戻れば良い話だ。……どうした?」
思ってもみなかったあっさりとした答えに、こちらが戸惑ってしまう。
「……いや、番になってもいいって私が言った時点で、てっきり攫うように無理矢理ドラゴン世界に連れていかれるのかと」
「マリが母親や勇者や家族を大事にしているのは分かっている。お前が大事にしているものはオレも大事にしたい」
うわ……。
なんか最近のガザ様調子狂うんだよ。あの最初に会ったDV丸出しの人外だったなら、ずっと拒否出来たのに。
だけど思い出したようにはっとした顔をして「勇者は除くが」と付け足された言葉に、今度こそ堪えきれなくて吹き出してしまった。
斗真とガザ様、明らかに気が合いそうにないもんなぁ……。
緩んだ口元を押さえていると、ガザ様が私の身体を持ち上げた。まるで小さい子を高い高いしている体勢だ。
私の髪の毛がガザ様の頬を擽って、顔が近付いてきた。
「やっぱりマリは笑っている方が良い」
額にこつんと同じものが重なる。
……キスされるかと思って、ほぼ反射的に目を閉じかけた自分にはっとして、顔が熱くなった。
不安定な体勢に不服な振りをして身体を捩れば、ガザ様が慌てたように元の位置に戻す。どうやら逃げられると思ったらしい。
だけど本当は真逆で、私はピタッとくっついた身体にほっとする。
だって真っ赤になった顔を見られずにすんだのだから。
……こういうの、なのかな。
「……ガザ様、目冷やしたいです」
魔法みたいなもので氷でも出してくれないかな、とお願いしてみる。我ながらなかなか図々しいと思ったけれど、ガザ様すぐに左手を持ち上げて、何か聞き取れない言葉で呟いた。
瞼に被せられたガザ様の手のひらが冷たくてびっくりする。だけど痛いと思うほど冷えすぎてもなくてちょうど良かった。
「……ガザ様にとって番ってなんですか」
目隠しされた黒い世界で目を瞑り、そう尋ねてみれば、ガザ様は悩んでしまったらしい。
結構な間を置いてから、言葉を紡いだ。
「……魂の片割れ、だ。出逢えるまで呼び合い続けて一つになる。それはとても自然な事だ」
「――……その感覚は私には理解出来ないんです」
私の言葉にガザ様が一瞬息を飲んだのが胸の動きで分かる。
……私酷いこと言ってるなぁ。
もしかしてガザ様は今、私が過呼吸を起こした時と同じ位、痛そうな顔をしているのかもしれない。
……本当はガザ様の匂いが好きだったり、身体がピッタリと吸いつくみたい、と思うのは、一子ちゃんが言っていた人間にも感じられる番に向けての感覚なのかもしれない。でも。
「頭でっかちな私は、そういう本能以外の所でも、ガザ様に恋をしたいと思ってます。だって番なんて私にとって曖昧なものを拠り所にしちゃったら、きっといつかガザ様の事を信じきれなくなる」
ガザ様にしてみたら、性格的にも本能的にも私を攫って、諦めるまでどこかに閉じ込めて脅して魔法みたいな便利なもので意思を奪えば楽な話で。
私はお母さんのお喋りの相手をしてくれた事や、取るものをとりあえず助けに来てくれた事。
トモル君達に利用されたのだと傷ついて自暴自棄になっていた時、私に合わせて一緒にいてくれた事。
そんな『番だから』だけでは説明出来ない部分を私は信じたい。だから。
「ガザ様。お互いを理解し合いましょう。仕事が休みの日に二人でお互いの好きな所に出掛けて、美味しいものを食べて。少しでも疲れた時は、ただお喋りするのもいいし」
「……分かった」
思い悩むように難しい顔をしたガザ様は、浮かない顔で長く大きな溜息をついた。
……番云々の感覚が分からないって言われた事がやっぱりショックだったんだろうか。
……ガザ様、最後の方は私なりの精一杯の告白なんだけど、伝わってないんだろうなぁ……と、さすがの私でも分かる。
「……」
うーん。照れくさいけど。
私はソファから立ち上がり、ガザ様の前に手を差し出した。反射的にガザ様が慌てて握る。そんな動きが妙にぎくしゃくしていて思わず吹き出した。
「人間世界ではそういうの恋人って言うんですよ」
茶目っ気たっぷりにそう言えば、ガザ様は一度面食らった顔をした。
けれど、『恋人』という名称は知っていたらしく次の瞬間には、子供のように破顔したのだった。
あと一話で終わります




