眼前のアカ
何だか身体中を締め付けられているような不快さに顔を歪めて、私は嫌に重たい瞼をこじ開けた。
ぼんやりとした視界は灰色で、どこかの建物の中っぽい。だけど内装が立派な割に荒廃が進んでいてところどころ崩れており、まさに廃墟という感じだった。
「……?」
なんだか足元がすぅすぅする……と、ぼんやりしたまま自然に視線を落として、ひゅっと喉が鳴った。
一瞬にして、覚醒する。
緋色の絨毯が敷かれている地面が赤い海のよう。何の色、と思って一番に思い浮かんだ不吉な想像に鳥肌が立った。
下以外の状況はこれまた意味不明。ヤバイ。頭が動かない。絨毯の上に根を張るような大木が生えていて、複雑に絡まった葉のない枝や蔦に私の身体が固定されているのだ。
「は……」
息を吸うのを忘れていたようで、心を落ち着かせるべく、というよりは現実逃避の為に一旦目を閉じる。
夢? 幻?
そうだったらいい。
だけど腕に食い込む枝のきつさとか、胃を抑えられている苦しさは、そんな希望なんてせせら笑う程にリアルだった。
しかも現実離れした現実を、私はここ最近痛いほど受け入れて来た訳で。
……――すぐ落ちる、って事はなさそう。
お尻を支えている枝が根元になっているので、きつくぶら下がっている感じはない。
目は閉じたまま、それだけ確認して自分に言い聞かせる。
大丈夫、落ち着け落ち着け。
落ちたりなんかしない。
そっと薄目を開けて今度は注意深く周囲を見渡す。やっぱり廃墟、しかも元はそれなりに豪華な感じだ。
映画で見たことあるようなお城や貴族のお屋敷の大広間みたいな造りで、真ん中に大木があっても空間自体は広かった。
うんと頭を上げれば崩れた天井から、黒い空が覗いていた。
もう夜……? と気を失っていた時間の長さにゾッとしてしまう。そしてやっぱり攫われたのが二回目だからだろうか。辿る必要も無く、すぐに気を失う直前のお客様とのやりとり……色を無くしたガウリィさんの顔が頭に甦った。
最後に覚えてるのは鮮やかな新緑の瞳と――『お嬢さん、すまない』の言葉。
……いや、もうそれだけで分かったよ。子供の頃、有名過ぎるゲームをしながらヒロインのお姫様に「毎回攫われるなんて危機管理能力に欠けている!」なんて生意気な事言っていた罰でも当たったんだろうか。
猛省します。抗えない時は抗えないという事をこの年齢になって痛感しました……。
私が攫われた理由と言って思い浮かぶのは、やっぱり『勇者トーマの姉』だから。むしろそれ以外思いつかない。
……そもそも自分の気持ちを整理する事ばかりに目が向いていたけれど、私が『勇者トーマ』の姉である事知っている関係者は、どのくらいいるのだろう。
ドラゴン世界では有名な話……ではないと思う。ゲートを利用するドラゴンさん達はわりと気さくで、お喋り好きな人も多かった。名前を覚えてくれた人もいるし、もしドラゴンゲートの受付の一人が勇者トーマの姉である事を知っていたら、絶対話題にしたと思う。それに正義感の強いテオさんやリタさんが敢えてそれに触れない理由も見当たらない。
そして王族であるガザ様が知らなかった事を考えれば、私が勇者の姉だと言うことは、ドラゴン側でもごく一部にしか知られていないのだろう。
……じゃあ五條さんやトモル君が、私を人質にして斗真に言うことを聞かせる為に、こんな所にわざわざ連れてきた? ってなるけれど、それも可能性は低いんじゃないだろうか。
あの二人ならわざわざ常連のお客様なんて巻き込まなくても、いくらでも脅したり、閉じ込めたり出来たはずなのだから。
……どうしよう。どうするべきか。
身体が動かせない分、何か考えていないとパニックになりそう。
もう一度覚悟を決めて下を見る。……五階くらいの高さだろうか、と思ったのは前住んでいた賃貸マンションと距離感が似ていたからだ。
ぞっとした気持ちを抑えて、注意深く観察していくと奥の方に一カ所だけ。瓦礫が落ちていないスペースが見えた。
周囲より高い場所は、一際豪華なカーテンで彩られている。もしかしてそこは王座かな、と思いついた所でそこに伸びてきた影にぎくりと心臓が跳ねた。
「ようやく目が覚めたか」
影の先には黒い外套を翻しこちらを見た長身の男性がいた。
足を動かすこともなくそのまま滑るように移動し、その奇妙さと絶妙な気持ち悪さに、悲鳴が喉に張り付く。
男の足元には蔦が絡んでおり、おそらく異常な繁殖スピードで伸び、男を移動させたのだろう。
蔦の色や形状は私の手足を拘束しているものと同じだと言う事に気付き、私は身を固くした。冷たい汗がさっきから止まらなくて、背中にシャツが張り付いている。
――コイツが誘拐犯……?
すぐ目の前にやって来た男は、見た目だけで言えば四十代くらい。整った顔立ちなのに異様な白さと細い眉。調えられた髭が神経質そうに見える。極めつけに手足は私を縛る木と一体化していて、指先はもう枝にしか見えず、佇まいの異様さから人間じゃないことだけは嫌と言う程分かった。多分、と言うか、絶対ドラゴンじゃない。
雰囲気の毒々しさから言えば魔族とか魔物、だったりするんじゃないだろうか。もしくは魔人とか……まさか魔王なんて事はないよね? それは斗真が倒したはず……。
でもコイツが木を操るのは間違いない。もしかして私が捕まってるこの木もコイツの一部だったりする……?
目が合って、男の目が不機嫌に細まる。嫌われていることが一秒で分かるきつい眼差しだった。
「ようこそ。勇者の姉よ。私の名前はラグナ、次代の魔王である」
芝居がかった口調で名乗りを上げる。顔に似合わない高い声は意外だったけれど、それより言われた内容を吟味するのが先だった。
……勇者の姉、か。予想通りだけど嬉しくない。そして次期魔王だとかなんとか、ロクでもない事言ってなかった?
攫われた相手としては、結構最悪な部類に入るんじゃないだろうか。何しろ弟が魔族達の親玉を倒しちゃった訳だし、敵討ち……人質……。その辺りだろう。
「ああ、やはり似ておるな。その憎き間抜け面が」
じっと私の顔を覗き込んでいた男――ラグナはそう吐き捨てた。なおも不快そうに眉を顰める。
間抜け面で悪かったな、と心の中だけでも言い返せた事に、大丈夫、落ち着いてる、と自分に少しほっとした。
そっぽを向こうとしたら、伸びてきた蔦に顔を固定された。乾いた枝が皮膚を擦って鈍い痛みに思わず顔を顰めてしまう。
ラグナが一旦私から離れて腰を落とす。その動きに合わせて、一瞬で蔦が編まれて椅子のようなものが出来上がる。
その上で長い足を組んだことで、とりあえずすぐに命の危険はないだろう事を察した。それでも汗は止まらないけど、緊張で乾いた唇を舐めてから、私は口を開いた。
「どうして私を攫ったんですか」
応えてくれないことも覚悟していたけれど、ラグナは面倒そうな顔をしながらも答えをくれた。
「見た目通りの阿呆だな。お前が勇者トーマの血縁者であるからだろう」
いちいち嫌味を挟まなければ人と会話できない可哀想な生物なのだろう。そう思わなきゃやってられない。私はワンクッション置いてから、気になっていた事を尋ねた。
「私を受付の外に誘い出したドラゴンさんはお仲間ですか?」
「いいや。子供を人質にお前を攫ってくるように命じたのだ。私とて鬼ではない。今頃地下牢で二人感動の再会をしているだろうさ」
「……二人とも無事ですよね?」
どっちとも取れる言葉に、注意深く尋ねれば、ラグナははっと笑って口の端を吊り上げた。
「人の心配をする余裕があるのか? ……まぁいい。あの男には私が亡き魔王様の意思を継ぎ、この世界を征服するにあたってドラゴン世界のスパイとして働いて貰わねばならないからな。今のところは殺す予定はない」
……とりあえずは良かった。
ゲートに絡んだ関係者でもなく一般のお客さんだっただろうに、私のせいで利用されて殺されているようなことがあったら申し訳ない。
きっと男の子も独りで待っている間怖い思いをしただろう。だって私が今滅茶苦茶怖い。子供なら尚更だ。トラウマにならなきゃいいんだけど。
「あの、なんで私がトウマ……勇者の姉って分かったんですか?」
「質問が多いな。……まぁ、いい。勇者と私の配下が繋がっておる。そこからお前の顔写真を入手したのだ」
「繋がってる……?」
おかしい。今斗真は人間関係を強制的にリセットしてお勤め中である。おじさんには借金云々、全ての事情を説明して余計な人物とコンタクトを取っているようなら逐一報告して貰う約束をしているのだ。
全面的に更生に協力してくれると言っていたので、そんな人物がいたら報告が来ているはずなのだ。
……なら、その前?
弟の友人にそれらしい人なんていたっけ? 人外さん達って文字通り並外れた美形だから、目立つはずだけど。
それらしき人物がいなかったか考えるけれど、あいつ友達だけは多いんだよなぁ……。
「まぁいい。すぐに勇者に助けを求めろ」
命令めいた言葉に戸惑う。ちょっと間抜けな静寂が私たちの間に流れて、そっと首を傾げた。
「……あの、どうやってですか?」
「通信機器を持っているだろう」
通信機器……?
普段使うような名称じゃなくて、すぐに思い浮かばなかったけれど、暫くしてスマホの事だと気付いた。
「……スマホ……携帯電話の事ですよね? ロッカーの中なので今持ってません」
「なんと、使えぬ女だな!」
私の返事は思いも寄らなかったらしい。飛んできた唾と怒鳴り声にぴしっとこめかみに青筋が立ちそうになったけど、改めてラグナを観察する。
結構……お間抜けキャラなのだろうか。誘拐なんて大それたことをした割に明らかに準備不足だし無計画すぎる。
「あの……もしかしたらゲートに連絡して貰えば、五條さん経由で斗真に連絡取れるかもしれないです」
五條さんに迷惑を掛けたくない、とは微塵も思わない。むしろ私がここにいるのもそもそもドラゴン側の事情だと思うし、……そして五條さんなら逆探知とかしてくれそうだ。
だけど私の意見に、ラグナは怪訝そうに目を眇めた。
「あそこにはドラゴンの王もいるだろう。さすがの私と言えども勇者トーマとドラゴンの王を同時に相手する事は難しい。何とかして勇者だけに連絡を取るのだ」
「王……?」
ってそんなのいたっけ? あ、ガザ様王族って言ってたっけ?
「ロッカーからスマホ持って来てくれたら何とかなるかもしれませんけど、そもそも私昨日から既読スルー……いや無視されているので連絡取れるかどうかも微妙です」
ラグナはぱちぱちと瞼を忙しなく上下させてから、呆れたように溜息をついた。
「もしかしてお前、ドラゴンの連中に義理を感じているのか? あ奴らはお前をドラゴンの番として国に置いておき、勇者トウマの絶大な魔力を利用する為に自らの土地に留めたいと思っているのだぞ」
はぁ、知ってます、と返事をしかけたけれど、その途中で違和感を覚えた。
というか。
「あの、なんで私がドラゴンの世界に行くことで弟までこっちに住もうと思うんですかね……?」
私を人質にして無理矢理言う事きかせようって言うならともかく、今の言い方だとなんだか、斗真が自主的に私の後を追いかけてくるみたいな言い方じゃない?
「知らぬのか? 勇者は魔王様を倒した後、永の滞在を懇願したドラゴン連中に『姉の側にいたいから』とあっさり断ったのだ。一刻も早く帰りたいと言わんばかりにその足で次元の歪みを駆けたそうだ。そこまで大事にしているのならお前がドラゴンの国に住めば良いと思ったのだろう」
「……」
あんぐり。もはや開いた口が塞がらない。
側にいたいってなんだそれ!
っていうか、本当に斗真がそんな事言ったとか信じられないんだけど!
そもそも昔ならともかく私達はそれほど仲が良い姉弟っていう訳じゃない。むしろ顔を合わせる度にダラダラしているので、挨拶より先に説教に入るので、斗真は私の事苦手なんじゃいかと思っていうくらいなのに。
「ほら、早くテレパシーでも思念でも飛ばすなりなんなりして連絡を取れ!」
焦れたように立ち上がったラグナに急かされて、は? と、眉を顰める。斗真への怒りで若干我を忘れていた。あと勢い。
「テレパシーなんて使える訳ないじゃないですか!」
「何を言っている。お前は腐ってもあの勇者の姉だろうが」
そもそも、たとえ連絡手段があったとして状況を説明する事はあっても多分、私は斗真に助けなんて求めないだろう。そんなの私のなけなしのプライドが許さない。例え斗真のせいだったとしても、だ。
睨みつけた私の態度が気に入らなかったのか、ラグナは私に歩み寄り胸倉を摑んで持ち上げた。
力任せに引っ張られたベストのボタンが飛んでいった。けれど、シュルシュルと身体から引いていく枝や蔦の方が気になった。
不安定過ぎる体勢。……もしかして私の命綱って胸倉を掴んでいる腕なのだろうか。
ぶらぶらと浮いている足が異様に寒い。無理。怖い怖い怖い。下から吹き上げる風にさっきまでの勢いが引っ込んで歯が鳴った。耳障りだったらしくラグナがいっそう腕を高く上げる。
「離し、て……っ」
苦しい。首の後ろ、服が擦れて痛いよりも熱い。
――怖い、怖い、怖い。
ぐ、って喉が詰まって、一瞬ふわっと意識が遠のいた。
あ、死ぬ。お腹の奥がゾクゾクっとして身体中の毛穴が開く。
だけど遠のいた意識を呼び戻したのは、建物が壊される派手な音。次いで、がしゃあああんっと天井近くのガラスが割れてキラキラとしたガラスの欠片と共に落ちてきたのは――。
夕陽がそのまま地上に落ちてきたような茜色のドラゴンだった。
灰色――違う銀の眼が私を捉えて縦に瞳孔が狭くなる。水に浮かんだ月のように濡れている瞳に既視感を覚えて、浮かんだ名前を呼んだ。




